闇夜に紛れ、ビルの屋上から屋上へと飛び移りながら移動する三つの人影があった。
周囲に気を配りながら人目を避けて移動する一行は、金曜日の夜と言うことで仕事帰りのサラリーマンで賑わう繁華街の一角で足を止める。そして、人間離れした身体能力で五階建てのビルの屋上から飛び降りると、隣に立つ建設中のビルへと侵入した。
「リィン、あったよ」
一行の一人――赤い髪の少女、シャーリィ・オルランドの声が建設中のビルに響く。
手を振るシャーリィの近くには、異様な気配を放つ扉のようなものが赤い光を放っていた。
異界の迷宮へと続く入り口――ゲート≠ニ呼ばれているものだ。
「これで今日だけで三つか。こんなに多いものなのか?」
「……いいえ、はっきり言って異常だわ」
リィンの質問に険しい表情で首を横に振りながらレイラは答える。
ゲートは特異点≠ノよって現実世界と異界が交わることで発生する異界化現象の一つだ。ちなみに特異点と言うのは、人間の持つ感情や物に込められた強い想念に怪異が反応することで生まれる。特異点となる人間は何かしらの問題や悩みを抱えている者が多く、そうした弱味を怪異につけ込まれることで迷宮に取り込まれるのだとレイラは話す。
「人間の感情を糧にする化け物ね。だが、そんな理由なら別に不思議でもなんでもないんじゃないか?」
ストレス社会と言われる現代だ。悩みを抱えている人間は大勢いるだろう。
そもそも何一つ問題を抱えていない人間を探す方が困難と言える。
何がおかしいんだと、レイラの説明にリィンが疑問を挟むのは当然であった。
「誰でも良いと言う訳ではないのよ。怪異を呼び寄せるほどの強い想念となると……」
「なるほど、ギリギリまで追い詰められた人間の負≠フ感情が必要ってことか。例えば、特定の誰かを殺したいほど恨んでいる人間とか?」
何も答えないレイラを見て、リィンは肯定と受け取る。
確かにそれほどの強い負の想念が必要と言うのであれば、レイラの説明にもある程度は納得が行く。
偶々そういう人間がこの付近に偏っていたと言うだけの可能性もあるが、その可能性は低いだろうとリィンは考えていた。
今日だけの話であれば、ただの偶然と考えることも出来るが、少なくとも二日前にシャーリィが幾つもの迷宮を攻略している。
二回も同じことが続けば、それは必然だ。それに――
「なるほどな。アスカがどうして迷宮にいたのか疑問だったが、以前からこんなことが続いていたんだな」
「……察しが良いわね」
同じことが以前から続いていたのであれば、アスカの無茶な行動の理由にも説明が付く。
レイラはネメシスの執行者だ。ということは、迷宮の攻略も当然任されているのだろうと想像が付く。
異界化現象に対処するため、毎日街を駆けずり回っている母親の助けに少しでもなりたいと子供ながらに考えたのだろう。
「いま言ったのは一般論だろ? 他に何か条件はないのか?」
「余り想像はしたくないけど……もっと強力な怪異が潜んでいて、そいつに引き寄せられて怪異が街に集まってきていると言う可能性はあるわね」
そういう可能性もあるのかとレイラの話を聞きながら、ふと気になったことをリィンは尋ねる。
「放って置いたら、どうなる?」
「街自体が異界に取り込まれる可能性があるわ。そうなったら、どれほどの被害が街にでるか……」
レイラは余り腹芸が得意なタイプではない。その深刻な表情からも恐らく嘘ではないのだろう。
ヤマオカから許可を得て、事前に目を通しておいた怪異に関する情報がリィンの頭に過ぎる。
怪異にも強さのランクが存在すると言う話だが、そのなかでも特に強く警戒されているのが〈グリムグリード〉と呼ばれる怪異だった。
現実世界へ干渉するのに、起点となる門すら必要としない強力な怪異。厄介なのになると街だけでなく国をも滅ぼすことが可能な〈神話級グリムグリード〉と呼ばれる災厄も存在するという話だ。今回のがどちらのケースに当て嵌まるのかは分からないが、最低でも街一つが無くなる危険が潜んでいると言うことなのだろう。
(ああ、それでか……)
セイジュウロウとヤマオカが何を疑い、何を自分たちに期待しているのかをリィンは察する。
恐らくゲートが大量に発生している原因が、リィンたちにあるのではないかと疑っていたのだろう。
人間そっくりの怪異がいるのかは分からないが、そうした可能性も疑われていた可能性が高い。
だが、こうして協力的なところを見るに、少なくとも怪異ではないと疑いは晴れたのだろう。
だとすると、そうした疑いが晴れた今、彼等が次に何を企んでいるかの想像は付く。
(最悪の事態に備えて、俺たちを利用≠キるつもりか)
ゲートを大量に発生させている元凶に、リィンたちをぶつけるつもりなのだろう。
自分たちの手に負えない怪物が街に潜んでいるかもしれない以上、打てる手を打っておくのは組織の長として当然の判断だ。
仮にリィンたちが危険な存在であっても、怪物同士潰し合ってくれれば幸いという考え方も出来る。
監視付きとはいえ迷宮の攻略を許可したのも、実際には手が足りていないからだろう。
シャーリィの所為でもあるが、レイラは体調が万全とは言えない。一人で迷宮の対処をさせるには不安が残るため、リィンたちの監視役を命じたというのは十分に納得できる話だった。
(俺等に関係のない話だし、巻き込まれる前にさっさとこの世界を去ってもいいんだが……)
レイラの話を聞いて既にやる気になっている様子のシャーリィを見て、リィンの口から溜め息が溢れる。シャーリィが何を期待しているのかは想像が付くからだ。
赤い顎の修理をヤマオカに依頼したのは、なんとなくこうなる予感があったからだろう。
戦いに関するシャーリィの嗅覚はリィン以上と言っていい。さすがはオルランド一族と言ったところだろう。
無理矢理連れて帰ると言う手もあるにはあるが、シャーリィの機嫌を損ねることは確実だ。
それはそれで、面倒な予感しかしなかった。
(仕方ないか……)
巻き込まれることになったとしても、依頼料はきっちりとセイジュウロウに請求してやるとリィンは心に決める。
それにヤマオカに言ったように一週間経てば、この世界を去る予定をリィンは立てていた。
「捜して簡単に見つかるようなものじゃないと思うが、余計なことはするなよ?」
「ええ……」
だから、シャーリィに釘を刺すことを忘れない。
既にフラグが立っている気はするが、無理に自分から関わろうとまでは思わない。
リィンが余り乗り気じゃないことを察してか、レイラもそれ以上は特に何も言わない。執行者としてのプライドもあるのだろう。
自分たちの世界の問題をリィンたちに丸投げして、よしとする性格をしていないことは分かっていた。
◆
片手でブレードライフルを振り回し、立ち塞がる怪異を斬り捨てながらリィンは呟く。
「これが怪異か。思っていたよりも歯応え≠ェないな」
怪異の話を聞いて幻獣のようなものを想像していただけに、想像よりも遥かに弱いとリィンは感想を漏らす。
少なくともこの迷宮に徘徊する怪異は、街道で見かけるような低ランクの魔獣と大差がないレベルだった。
基本的に幻獣というのは、魔獣よりも強力な個体が多い。勿論、魔獣の中にも強い個体は存在するがその強さはピンキリで、子供でも相手に出来る小さな魔獣から軍隊でも敵わないような大型の強力な魔獣まで様々だ。一方で幻獣は、単純な強さだけで推し量れない厄介さを持ち合わせていた。
幻・空・時の高位属性が働いているところでしか滅多に出現しないという特性上、非常に稀有で特殊な能力を持った個体が多いからだ。
だが、この世界の怪異からは幻獣ほどの厄介さを感じない。
普通の人間からすれば十分脅威かもしれないが、新米の遊撃士でも難なく倒せるレベルだとリィンは感じていた。
「ここにいる怪異って、どのくらいのランクの奴なんだ?」
ひょっとしたら低位の怪異しか出現しない迷宮なのかもしれないと考え、リィンはそうレイラに尋ねる。
「グリムグリードには遠く及ばないけど、CからBランクの下位程度の強さはあるわ。普通ならエルダーグリードとなっていても不思議ではないレベルね」
「エルダーグリードって言うと確か、迷宮の主だったか?」
「ええ、このレベルの怪異がいるってことは、迷宮の奥にはグリムグリードが待ち構えている可能性が高いわ」
レイラは驚いている様子だが、リィンはそこまでの脅威は感じていなかった。
(……妙だな)
正直なところ、この世界が技術的に自分たちの世界に劣っているとリィンは考えていない。
むしろ全体的に見れば、こちらの世界の方が発展しているくらいだ。
なのに、この程度の相手に手をこまねいているというのが、いま一つ理解できない。
そんなリィンの疑問を察してか、レイラが呆れた様子でツッコミを入れる。
「怪異には霊力の宿っていない通常兵器は効果がないのよ?」
だから、霊力の宿った武器を使って生身で戦うしかない。しかし、この世界の人間はリィンやシャーリィのように化け物染みた身体能力を備えている訳では無い。その上、魔術師としての適性を持つ人間は少なく、ソウルデヴァイスの適格者ともなると更に数は少なくなる。怪異とまともに戦える人間がほとんどいないのだ。
実際この街に配属されているネメシスの構成員で怪異と戦えるだけの戦闘力を持つのは、レイラを含めて数人と言うのが現状であった。
そんな話をレイラから聞かされ、そういうことかとリィンは違和感の正体に気付く。
(この世界には、まだ戦術オーブメント≠ェないんだったか)
この世界にはまだ〈戦術オーブメント〉に相当するものがない。執行者であるレイラが知らないことからも、まだ開発されていないと考えて間違いないだろう。身体能力の強化を先天的な才能に左右される魔術や、更に使い手の少ないソウルデヴァイスに頼っているのであれば頷ける話だった。
恐らくクォーツの材料となる七耀石が、この世界では普通に採取できないことが理由の一つにあるのだろう。異界の素材に同じような鉱石があることは分かっているが、迷宮を攻略できる人間が限られている以上、稀少なものであることが窺える。
それに、いまリィンが使っている形見の武器や〈赤い顎〉の代わりにとシャーリィに貸している特注のブレードライフルには、ゼムリアストーンが使われている。このゼムリアストーンと言うのは、何百年という歳月を掛けて地脈から溢れ出たマナが結晶化したものだ。七耀石と同様、結晶自体に強い霊力が宿っている。恐らくはそれが、通常兵器では効果のないはずの怪異に絶大な効果を発揮しているのだと考えられた。
「まあ、あの人が作ってるアプリが完成すれば、多少はマシになるとは思うのだけど……」
「アプリ?」
「あっ……」
口が滑ったと言う顔を見せるレイラ。
なんとか誤魔化そうと白々しい態度を取るレイラだが、先日の実験に関係しているものだとリィンはその反応から察する。
とはいえ、別に詳しくレイラを問い質すつもりなどなかった。
リィンは猟兵であって技術者ではない。研究の内容には、それほど興味もないからだ。
仮にこの世界の技術を手に入れたところで、いまの自分では手に余るだけだという考えもあった。
「まあ、いいさ。それより、さっさと攻略して帰るか。シャーリィも先に行っちまったみたいだしな」
「ちょっと、さっきの話をちゃんと聞いてたの!? この先には強力な怪異がいる可能性が――」
もっと慎重にと言いたいのだろうが、そんなレイラの声を無視してリィンは近くのコンビニへ出掛けるような足取りで迷宮の奥へと向かう。この三十分後、シャーリィに弄ばれながら断末魔を上げるグリムグリードの姿を見て、レイラが改めてリィンたちの非常識さを再確認させられることになったのは言うまでもなかった。
◆
「そうか、グリムグリードまで……」
深刻な表情で、レイラの報告を聞くナオフミ。
出来ることならリィンたちが倒したというグリムグリードが、ここ最近の異常現象の元凶であって欲しいと思うところだが――
「明日以降も探索を続けてみないとなんとも言えないけど、たぶん違うわね」
確かに強力な怪異ではあったが、恐らく元凶ではないとレイラは答える。
街に張り詰めた瘴気というか嫌な気配が、まだ色濃く残ったままなのをレイラは感じていた。
リィンたちが強いのは認めるが、これだけの規模の現象を引き起こす怪異が、あんなにもあっさりと倒されるとは思えない。
恐らく、この現象の裏にいる怪異は――
「神話級グリムグリードが関わっている可能性が濃厚か……」
ランクSに相当する災厄。神話級グリムグリードの存在が、ナオフミの脳裏に過ぎる。
出来ることなら余り当たって欲しくない推測ではあったが、その可能性が最も高いと状況が物語っていた。
「日に日に気配が濃くなっているわ。もう余り時間は残されていないわね。どうする? あの子だけでも、アメリカに帰すって手もあるけど」
「素直に言うことを聞いてくれる子なら、苦労はしないんだけどね……」
「フフッ、私とあなたの子ですもの」
小さく苦笑しながらそう話すレイラに、肩をすくめながら「違いない」とナオフミは答える。
ネメシスの人間として脅威が迫っているというのに、その脅威から逃げ出すことは出来ない。
仮に命を落とすことになったとしても、最後まで戦い抜く覚悟を二人は決めていた。
ただ親として、せめて娘だけでも逃がしたいと考えていたのだ。
「いま、あの子は?」
「エマさんの部屋で一緒に寝てるわ。今日は一日、魔術の勉強に付き合ってもらっていたみたいよ」
すっかりと打ち解けた様子でエマに懐いていると聞いて、ナオフミは安堵する。
少なくとも、いまこの街で最も安全なのはリィンたちの傍にいることだ。
彼等と一緒であれば最悪の場合でもアスカだけは――と、そんな打算もあった。
「せめて娘だけでも、と考えるのはネメシスの研究者として失格なのだろうけどね」
「それを言ったら、私も執行者失格ね。でも、この街のことも、あなたは諦めていないのでしょ?」
レイラの言葉に無言で頷くナオフミ。
このまま何もしなければ、杜宮市だけでなく東亰は――いや、この国は災厄によって甚大な被害を受けることになる。途方もない数の犠牲者がでるはずだ。なのに自分たちの娘を優先するのは、異界の研究に携わる者としてどうかという葛藤がナオフミにはあった。
しかし、自分の気持ちに嘘はつけない。仮にアスカが命を落とすようなことになったら、死んでも死にきれない後悔を残すことになるだろう。
だから備えとして、アスカをエマに預け――リィンたちの傍におくことを決めたのだ。
だが、諦めた訳ではない。この街が滅ぼされるのを黙って見ているつもりはなかった。
「まあ、たぶん彼≠ノは気付かれているでしょうけどね」
「だろうね。正直、彼は底が知れない。あの若さでどれほどの地獄を見てきたら、あんな風に育つのか……」
明らかに年下だと言うのに自分よりも遥か年上の人間と話しているかのような錯覚を、ナオフミはリィンに感じていた。
異世界人。それも傭兵という話だが、実戦を経験していると言う意味ではレイラも同じだ。そのレイラと比べても、明らかにリィンは年齢不相応な落ち着きと貫禄を兼ね備えている。ただ強いと言うことよりも、その異質さにナオフミは興味を覚えていた。
とはいえ、彼等が悪人でないと言うことは分かっている。少なくとも無益に人を殺めるような人間には見えない。だからアスカのことを任せる気になったのだ。
相応の対価は要求されるだろうが、この危機を無事に乗り越えることが出来れば、どんな対価でも支払う覚悟をナオフミは決めていた。
「それで? それが、この前の実験で得た研究成果≠ネの?」
「ああ」
研究室のパソコンの前には、市販されているどのメーカーのものとも違う一台のサイフォンが置かれていた。
ナオフミから手渡されたサイフォンを手に取り、早速ソウルデヴァイスの起動アプリを起動するレイラ。
「これは……」
召喚されたソウルデヴァイスが実体化した直後、身体の奥底から力が溢れてくるような感覚をレイラは覚える。
魔術による身体強化とは異なる力。肉体だけでなく、まるで霊力そのものが強化されているような――
これまでとは比較にならない力がソウルデヴァイスから流れてきていることに気付き、レイラは説明を求めるようにナオフミへと視線を向ける。
「それが、新しいアプリの力。サイフォン用にカスタマイズされたソウルデヴァイスの強化機能によって調整した――」
本来のエクセリオンハーツの力だ、とナオフミは自信に満ちた表情で答えるのであった。
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