神社の境内に食欲を刺激する香りが漂っていた。
市販のカレー粉を使うのではなく、スパイスの調合から行なったリィン特製カレーの香りだ。
ゼムリア大陸の食材は地球と似た物が多いが、生憎とカレー粉のような便利なものはなく――
西風時代に試行錯誤の末、完成させた自慢の一品だった。
「……美味い。こんなに美味いカレーを食べたのは初めてだ」
プロ顔負け。それどころか、味わったことのないような本格派カレーに思わず唸るエイジ。
スパイスはともかく、材料は商店街から集めてきた極ありきたりな食材ばかりだ。
その限られた材料でこれだけの一品を作ってしまうリィンの料理の腕に、感心するやら呆れるやら複雑な感情を抱くのは当然であった。
「戦場によっては食材の調達から調理まで自分たちでやるんだぞ? 料理くらい嫌でも覚える」
「そういうもんか」
さすがにエイジと言えど、本物の戦場を経験したことはない。そのため、リィンにそういうものだと言われれば納得するしかない。とはいえ、嘘を吐いている訳ではなくリィンからすると必要に駆られてのことだった。
基本的に猟兵というのは食事に関しては大雑把な人間が多く、自分たちで作るものと言ったら焼くか煮るかの単純な料理しか作れない者が大半だ。味付けも塩味だけの大雑把なもので前世が日本人で舌の肥えたリィンからすると、とても耐えられる食事ではなかったと言うのが料理を覚えた理由として大きかった。
まあ、前世の頃から料理をするのは好きで普段から自炊をしていたので、その経験が生きたとも言える。
いまではすっかりとプロ並の腕になったが、それなりに苦労もしているのだ。
それに――
「戦場での楽しみなんて食べることくらいしかないからな」
そうリィンに言われて周囲を見渡しながら、そういうことかとエイジは納得する。
想像していたのと違う本格的なカレーの味に驚きながらも、和気藹々と食事をする人々の姿があった。
先程までの暗い雰囲気は既にない。腹が満たされ、少し余裕もでてきたのだろう。
腹ごしらえが先だと言ったリィンの言葉の意味を、エイジは実感していた。
「……美味しい」
「子供向けに、そっちのは辛さを抑えてあるしな」
子供扱いされて少しムッとした表情を見せるも、料理に罪はないとばかりにカレーを口に運ぶアスカ。
丁度、夕飯時だったこともあり、腹も減っていたのだろう。
それに悔しいが、リィンの料理の方が母親の作ったものより美味しいのは確かだった。
レイラも料理が苦手と言う訳ではないのだが、味付けが微妙なのだ。
日によって辛かったり甘過ぎたり味が安定しないのは、彼女の大雑把な性格が料理にも色濃くでているのだろう。
「それで話を戻すようだが、これからどうするつもりなんだ?」
腹が膨れたところで、リィンにそう尋ねるエイジ。
ここを拠点にするのはいい。商店街から集めてきた食材や物資で、この人数なら一週間程度であれば籠城できるだけの余裕はある。それだけの時間があれば、救援が来るまで耐え凌ぐことは出来るだろう。しかし、それはこれが普通の災害であれば――という条件が付く。
怪異という非現実的なものが現れている以上、元凶を排除しなければ、この騒動が収まるかは怪しい。異変が解決しなければ、恐らく軍による救援も期待は出来ないだろう。
それどころか、このままの状態が長く続けば、日本という国の存続が危ぶまれる。
エイジが何を期待し、何を考えているかはリィンも察していた。
とはいえ――
「前にも言ったと思うが報酬次第≠セ。それに、まだ助けを求められた訳じゃないしな」
シャーリィはやる気になっているみたいだが、リィンとしては積極的に関わる気はなかった。
仮にリィンたちの力を借りてこの場をどうにか凌いだとしても、世界から怪異の脅威が消えてなくなる訳ではない。
この件が終われば、リィンたちは自分たちの世界へと帰ってしまうのだ。
今後のことを思えば、この世界の問題はこの世界の人間の手で解決した方が良いと考えてのことでもあった。
「……北都からの連絡はまだないのか?」
「連絡も何も、気付いてないのか?」
「は?」
リィンに言われて、ハッと何かに気付いた様子でサイフォンを取り出すエイジ。
そして適当な番号に電話をして、そういうことかと大きく舌打ちをする。
他にも幾つか並んだ番号に掛けてみるが、電話が通じなかったからだ。
「これも異界化≠チて奴の影響か?」
「たぶんな。どういう理屈か知らないが、エマの念話も封じられているみたいだしな」
ようするに通信手段が封じられているのだと、エイジは悟る。
だが、同時に納得もする。近くにいたから九重神社に直行したが、その後も組から連絡一つないことを訝しんでいたのだ。
落ち着いたらすぐにでも連絡を取るつもりだったが、こうなると組の方も心配になる。
そんななか――
「方法ならあるよ」
カレーを食べ終えたアスカが二人の会話に割って入る。
そんな彼女の言葉に「はあ?」とエイジだけでなくリィンの口からも驚きの声が漏れる。
エマでさえ、どうすることも出来ないと言っているものを、どうやってと疑問が湧いたからだ。
「サイフォンには特殊なモードが幾つかあるって話をパパから聞いたことがあるの。開発中のものだから知っている人も少ないけどね。そのなかに限られた範囲でだけど、サイフォン同士を直接繋いで通信する機能があったはずなんだけど……」
そう言ってエイジからサイフォンを受け取ると、特殊な操作をして開発用の裏メニューを呼び出すアスカ。
そして、事前に父親から教わっていた通信用のアプリを起動する。
それはリィンの監視を命じられた時に、何かあった時のためにと教えられていたものだった。
「はい。これで設定は完了よ」
渡されたサイフォンを訝しみながらも、先程と同じように電話をするエイジ。
しかし相変わらず応答はなく通話が繋がった様子はないことから、訝しげな視線をアスカに向ける。
「……繋がらないんだが?」
「それはそうよ。通話先の相手も同じ設定をしておく必要があるもの」
それじゃダメじゃねえか、と肩を落とすエイジ。
確かに同じ設定をしていない相手としか通話が出来ないとなると、便利なようで使えない。
開発者しか知らないような裏メニューを熟知している人間は、それこそサイフォンの開発に携わった関係者くらいだからだ。
そう考えて、ふとリィンが気になったことを尋ねると――
「お前のサイフォンも設定してあるのか?」
「……あ」
いま思い出したとばかりにバツの悪そうな顔をアスカは浮かべるのであった。
◆
連絡がないのは当然だ。
サイフォンを持っているのはアスカだけで、この世界の端末をリィンたちは所持していない。
そのため、何かあればアスカのサイフォンに連絡があるはずだったのだが――
「……ごめんなさい。うん、いろいろとあって」
電話越しにペコペコと頭を下げながら、両親に事情を説明するアスカの姿があった。
その背中には、七歳の少女とは思えない哀愁が漂って見える。
子供と言えどネメシスの一員である以上は、うっかりでは済まされないミスだと自覚はしているのだろう。
「電話。パパがかわって欲しいって……」
しょんぼりと暗い影を落としながら、リィンにサイフォンを手渡すアスカ。
こんな裏技を用意していたと言うことは、こうした事態をナオフミは想定して準備を進めていたのだろう。
だと言うのに、アスカのうっかりで連絡を取るのが遅れたのだから怒られるのも当然と言えた。
親心を考えれば、何かあったのではないかと心配していた可能性が高い。
とはいえ、
『すまない。連絡が遅れてしまって……』
「それは構わないんだが、それならそうと俺たちも事前に伝えておくべきだったな」
『うっ……』
アスカだけでなくリィンたちにも同じことを事前に伝えておけば、このようなことになっていなかった。
それをリィンに言われると、ナオフミとしても反論できず唸るしかない。
そもそも多少は腕が立つと言っても、アスカはまだ子供だ。
責任を取るのは大人の仕事であって、過度な期待をする方が間違っている。
事前の確認を怠ったことや連絡の不備など、ナオフミたちにも問題がないとは言えなかった。
「で? どうするか腹は決まったのか?」
『ああ、根回しをするのに時間が掛かったけどね。正式にキミたちへ依頼をしたい』
やはりそういう結果に落ち着いたかと、ナオフミの話を素直に受け止めるリィン。
ネメシスやゾディアックだけの戦力で事足りているのであれば、こんなことになる前にもう少しマシな対処が出来ていたはずだと考えたからだ。
しかし、異変は起きてしまった。それも杜宮市だけでなく東亰全域が異界に呑まれてしまうという最悪のカタチで。
『正直、神話級グリムグリードが相手となると、戦力を集中したとしても討伐できるかどうかは分からない。それにそんなことをすれば――』
市内で起きている異変の対処すら追い付いていなかったと言うのに、これだけの広範囲をカバーしきれるはずもない。
となれば、異変を引き起こした元凶を討伐するしか、この状況を打破する方法はない。
だが、そのためには戦力を集中する必要がある。問題は戦力を一箇所に集中すれば、他が手薄になると言うことだ。
確実に多くの犠牲者がでる。最悪、東亰という街が地図から消えるほどの被害がでるかもしれない。
それでも他に頼れるものがなければ、ネメシスとゾディアックは元凶の討伐を優先しただろう。
異界化した街をこのままにはしておけないし、人類の脅威となる怪異の討伐は何よりも優先されるからだ。
「分かった。ただし、報酬はしっかりと貰うぞ。それにどんな苦情も受け付けない。後始末はすべてそっちでやってもらう」
ナオフミは電話越しに渋い顔を浮かべるも、圧倒的に自分たちの方が立場は不利だと悟ってリィンのだした条件を呑む。
それに、リィンが何を心配しているのかを察してのことだった。
今回の件が明らかとなれば、セイジュウロウやヤマオカの権限でリィンたちのことを隠しておくのは難しくなる。
その面倒事に巻き込むなと釘を刺されているのだと、ナオフミは受け取ったのだ。
本来であれば難しいことだが、今回に限って言えば誤魔化すだけであれば不可能ではないとナオフミは考えていた。
『キミたちの協力が得られれば、恐らく願いに沿うことは出来ると思う』
「……何をするつもりだ?」
『申し訳ないけど、レイラには英雄≠ノなってもらう』
ナオフミが何を考えているかを察して、リィンは「ああ……」と半ばレイラに同情する。
現在の東亰は結界によって通信を封じられ、中から外への脱出は勿論のこと外から中への侵入も難しい状況に置かれていた。
そんな訳で増援を見込むことは出来ないため、いまある戦力でどうにか問題に対処するしかないのだが、外から中へと入って来られないと言うことは結界の中で起きていることを知る手段が外の人間にはないと言うことだ。なら、都合良くシナリオをでっち上げてしまおうというのがナオフミの考えだった。
そのスケープゴートにレイラが選ばれたと言うことなのだろう。
『だから悪いんだけど、レイラも一緒に連れて行ってもらえるかな?』
「……仕方がないか」
話に信憑性を持たせるのであれば、レイラも同行した方が良いというのはリィンも理解を示す。
それにシャーリィと良い勝負をしたレイラなら、足手纏いにはならないだろうと考えてのことだった。
「なら、契約は成立だ。こうして連絡をしてきたってことは、元凶が潜んでいる場所も特定しているんだろ?」
『ああ、取り敢えず監視に留めているけどグリムグリードが無数にいて、近付くことも容易じゃない状態だ』
ナオフミの声からも、かなり切羽詰った状態であることは察せられた。
街を滅ぼすことが可能だと言われているグリムグリード級の怪異が無数にいると報告を聞けば、その反応も当然であろう。
戦力を集中しなければ対処は不可能だとするナオフミの主張の正しさをリィンは理解する。
それでも為すべきことは変わらない。
契約が成立した以上は、どんな依頼であろうと途中で投げ出したりはしない。
受けた依頼は必ず果たす。それが、リィンの猟兵としての矜持でもあった。
それに元凶を倒さなければ、元の世界へ帰ることすら出来ないのだ。
ナオフミたちで討伐が出来なかった場合、どのみち自分たちの手で片を付けるつもりでリィンはいた。
「それで、何処なんだ?」
そう言って尋ねてくるリィンにナオフミは――
『東亰タワーだ』
と、簡潔に答えるのであった。
◆
「生きてる?」
そう言って瓦礫の上から見下ろしながら尋ねてくるシャーリィに、無愛想な表情で「どうにか」と答える少年――カズマ。
彼の目の前には、いまにも崩れ落ちそうなほど半壊した孤児院の姿があった。
半分は地震の所為だが、残り半分はシャーリィが暴れた所為と言っていい。
しかしシャーリィが通り掛からなかったら、自分たちは怪異に殺されていたと分かっているだけにカズマは文句を言えなかった。
「カズマ、その化け物みたいな女は……」
「ああ……取り敢えず、敵ではないから落ち着け」
明らかにシャーリィを警戒する弟分を落ち着かせるカズマ。
彼の名前は、高幡志緒。カズマと同じ孤児院で暮らす一つ下の少年だった。
他にも子供や恐らく孤児院の職員と思しき大人たちの姿も見えるが、全員が状況を呑み込めていない様子で呆然としている。まだ、それはマシな方でシャーリィを見て、恐怖で身体を震わせている者も少なくなかった。
自分たちを助けてくれた相手とはいえ、化け物を一方的に殺戮し、人間離れした力で建物を半壊させた相手を恐れるなと言うのは無理がある。当然の反応と言えた。
「まあ、いいけどね」
そんな人々の反応を見て、特に何かをする訳でも無くシャーリィはカズマたちに背を向ける。
単にそこに敵がいたから戦っただけで、感謝をして欲しくて助けた訳ではないからだ。
それに助けた相手にこうした反応をされるのは、いまに始まったことではなかった。
命を救った相手に、化け物や人殺しと罵られたことも随分とある。そんなことを一々気にしていては、猟兵なんて稼業はやれない。
いつものことと、その場から立ち去ろうとした、その時だった。
「待ってくれ!」
カズマに呼び止められ、シャーリィは足を止める。
「助かった。シオや施設の皆を助けてくれて、ありがとう」
そう言って頭を下げるカズマに倣うように、シオも揃って頭を下げる。
二人の姿に看過されてか、感謝を口にしながら頭を下げる子供たち。
そんな子供たちの姿にバツの悪そうな顔を浮かべ、恐怖で震えていた大人たちも頭を下げる。
思っていもいなかった感謝をされ、目を丸くするシャーリィ。
そして、
「……逃げるなら西へ行くといいよ。そっちからは嫌な気配はしないから」
どんな気まぐれか?
そう言って軽く手を振ると立ち去って行くシャーリィの背を、カズマは呆然と見送るのであった。
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