日の出る果てに求めし魂。
地の交わりし果てに生み落ちたる命。
永き地を治めし姫神の眼。
魔を操りたる術士に呪われ、
――殺戮の魔女とならん。
◆
夕日が、山々の間に沈もうとしていた。
窓から差し込む、焔を思わせる日の光。
私――ルシファーはそんな中、同行者を宿屋で待っていた。
木精霊亭というらしい宿屋の隅で人間族に紛れ、一人グラスを傾ける。
アヴァタール産のワインらしいのだが、確かに現地の物より味がいい。
おそらくは、レウィニア辺りの水を使用しているのだろう。
旅の同行者――セリカ・シルフィルは、今はこの場にいない。
ギルドで別々に受けた依頼をこなすため、近隣の山に出向いている。
私の方は近隣の洞窟に住み着いた盗賊退治。
全て捕縛し、つい先ごろメンフィル王国の衛兵に引き渡したところだ。
報酬は三千ディル。
地方神や古神が人の姿を取ることがあるように、私も見た目には、翼さえ出さなければ人間族と変わらない。
力を押さえ込んでしまえば、ほとんど見分けもつかないように思う。
だからある程度力がある者で無ければ、魔神だと気付かれることもない。
そのため、特に問題を起こすことはなかった。
セリカの方はというと、あいつは一人で魔物退治に行っている。
洞窟に住み着き街を襲っている集団だそうだが、問題はないだろう。
実力は共に戦ってきたのだから、十分知っている。
万が一倒せずとも、引き際を間違えるようなことはしない。
そこまで含めて実力なのだから。
「――ザとかいってたよね……。魔神グラザ」
ふと耳に入った言葉に、外套のフードで隠した顔を声の方向に向ける。
目を向けた先には、この宿につい先ほど辿りついたらしい、疲れた様子でいる女が三人いた。
まず目に付いたのが三人の中でとりわけ背の小さい者。
他の二人は戦闘向きな服装をしているのだが、彼女だけ一般の旅人とそれ程変わらないため逆に目立っていた。
大きな眼鏡と腰まで届く茶色の髪に、撫子色を基調とした服と帽子。
幼さの残る外見とその身長のため、女というより少女といった感じで、どうもここでは場違いに見えてしまう。
一方で、他の二人は如何にも傭兵といった様子だった。
一人は明るい赤の髪を一纏めにし、軽鎧を身に着けたやや褐色の肌の女。
もう一人は背に弓矢を背負い、紫の髪を一本櫛で留めている鋭い目つきの女。
その三人の女は、私の座るテーブルの二つ隣に腰を降ろしていた。
「確か退治されたと聞いたのだが?」
「そう、ガーランドって勇者にね」
紫の髪の女が質問し、赤い髪の女が答えた。
――ガーランド。
その名前は記憶に新しい。
ラウルバーシュ大陸アヴァタール地方より、ケレースを越えて更に北。
オウスト内海を渡って、レスペレント地方に私とセリカが入って数年後。
機会があれば会ってみたいと思っていた魔神を殺したのがその人間だった。
――魔神グラザ。
主観が入りすぎて全く参考にならない噂から事実だけを抜きだせば、彼は変わった魔神だった。
ハイシェラのように他国を侵略するわけでもなく、はぐれ魔神のように只管戦いを求め続けるわけでもない。
ここメンフィル王国より南の辺境地域。
モルテニア地方の闇夜の眷属を支配し、何ら動きを見せなかった魔神。
客観的に見ればそれはまるで争いを拒絶し、平穏を望んでいるかのよう。
だから私とアイドス、アストライアの思いを忘れずにいるセリカは、その魔神と機会があれば話をしてみたいと思っていた。
何を以て人を襲わずにいるのだろうと。
私がいうのも何だが、その魔神らしからぬ行動に疑問を覚えたがために。
尤もセリカの肉体や、他国に与える影響を考え、迂闊に近づくことはできなかったが。
しかし、その願いは三年前に叶わぬこととなってしまった。
嵐の神バリハルトの勇者、ガーランドによって魔神が殺されたという噂が流れたためだ。
……その後、モルテニアの闇夜の眷属が散り散りになったところをみて、噂が真実だということは直ぐに分かった。
「凄いよね、勇者っていう人種は……。
まあ兎に角、そのおかげで今は南の方も人が住めるようになったらしいよ」
その言葉には、僅かに称賛とは別の感情が込められているように感じた。
聞いた話によれば、ガーランドという人間は神格者ではなかったという。
確かにもしもそれが本当だとすれば、かなりの実力者なのだろう。
しかしながら、ただの人間が魔神の城に行くなど自殺行為に思える。
……先ほどの言葉に込められた感情はそれに対する皮肉か。
何れにせよ、大した勇者であることは間違いない。
しかし魔神を討ったという行為については、正直評価できない。
それは私が同種族であるという私情からではなく、大局的な判断としてだ。
魔神グラザがどのような存在だったのか、今となっては知ることはできない。
だが彼がモルテニアの闇夜の眷属を纏め、人間族との無益な争いを起こさないようにしていたことだけは、間違いない。
それがいなくなった今、果たしてどうなるのか。
答えは至極簡単で、一時は統率者を失い、闇夜の眷属は大人しいままだろう。
だが、闇と光は表裏一体。
黄の太陽神アークリオンと、暗黒の太陽神ヴァスタールのように、どちらか片方だけが滅びることはない。
時間が経てば新たな統率者が生き残った者の中から生まれる。
それが、魔神グラザと同じく無益な争いを避ける方針を持つかは分からないのだ。
魔神グラザがガーランドに討たれて三年。
早ければ、そろそろ新たな支配者が動き出す。
であれば、メンフィル王国は近いうちに荒れる。
それがいつか現実のものになる。そんな予感がした。
「……待たせたな」
そうやって今後の情勢を考えていると、私と同じ外套で顔を隠した、この場にいなかった旅の同行者が声をかけてきた。
突然話しかけられたわけだが、気配は感じていたので驚くことはない。
「いや、問題は無い。それより……大丈夫なのか」
大丈夫、というのは、別に毎回依頼から帰ると彼の外套がぼろぼろになっているからというわけではない。
もちろん、セリカは放っておけばそのぼろぼろのまま旅をしようとする。
だからかえって目立つため、注意しなければならないのは間違いではない。
しかし今回の言葉の意味は、娼婦を雇わなくても大丈夫なのかという意味だ。
同行者――セリカの肉体は彼自身のものではなく、正義の大女神アストライアのもの。
故に、魂の格が肉体の格に合わないため、精神を維持するのに魔力を必要とする。
もしも魔力が尽きてしまえば、神の肉体の圧力にセリカの魂が押し潰され、第一段階として肉体が女性のものに。
やがては、セリカの精神が消滅してしまうことになる。
その果てに神の身体に一体何が残るのかについては、話したことはない。
例え何かが残っていたとしても、それでは何の意味もないのだから。
「……一部屋」
「気にするな」
その一言で、普段ほとんど感情を見せないセリカの表情が、僅かに緩む。
私はそんなセリカに椅子を引いてやり、取り敢えず何か飲んではどうかと勧めることにした。
『貴方たち、前から思っていたけど、今の会話でどうして意思疎通ができるの?』
『……本当だの』
振るうたびに使われる魔力を抑えるために、ここ数百年短剣の形になっているハイシェラ。
そしてテーブルに立てかけていた、常と変わらぬ輝きを放つ神剣に宿るアイドスがぼやくように言う。
『そんなに変なことか?』
セリカが、宿屋の給仕の娘からワインの入ったグラスを受け取りながら、心話で答える。
私も別におかしなところはないと思うのだが……。
『確かに事情を知っていれば分からないわけではないけど、それでも難しいのではないかしら』
『……ちなみに、今のセリカの言葉はどういう意味だったのだ?』
別に難しいことはないと思うが。
『セリカの言葉は――』
――お前に言われて気付いたが、戦いで少し魔力を使ってしまった。
回復するために性魔術を行使するから、今日は娼館に泊まる。
部屋を二つということで頼んでいて悪いが、今日は一部屋に何とかできないだろうか。
本当にすまない――という、それが彼が言いたいことだった。
『だから私は――』
――おそらくそうなるだろうと思い、多少狭いが部屋二つではなく二人部屋を用意していた。
だから、別に料金はそれほど変わらないから気にしなくていい。
代わりに何かしら情報があれば、掴んできてほしい――と答えたわけだ。
『……それを御主とセリカは、あの会話とも言えぬような言葉の中でやりとりしたのか?』
ハイシェラまで何をおかしなことをいうのだろう。
それ以外口にしなかったのだから、決まっているではないか。
私とセリカは顔を見合わせる。
『貴方たち、私とハイシェラが何を言っているのか分からないって雰囲気は止めなさい』
『そうは言っても、俺もルシファーも実際分からないのだが』
『……もう、どうでもいいだの』
魔神と女神の溜息に思わず首を傾げる。
ふと見れば、セリカも表情に変化はないが、私と似たような様子だった。
そんな私とセリカの様子を受けて、更に二人の溜息は深くなる。
よく分からないが、ハイシェラが匙を投げたことでこの話題は打ち止めになった。
◆
セリカとハイシェラのいない部屋の窓から、私は街の様子を眺めていた。
昼の賑やかさと打って変わって、閑静な様相を醸し出すカウルーンの街。
メンフィル王国首都――ミルスへの街道を遮る城砦都市であるこの街は、高い城壁と天然の断崖によって守られている。
逆に言えば、もしも内部から何らかの策略によって攻撃された場合、逃げ道はほとんどないという意味でもある。
だからといって、今すぐ何者かの襲撃があるわけではない。
しかし私とセリカの立場上、注意だけはしておかなければならなかった。
それは兎も角、ベッドが二つ並べられている部屋で、私はこの地方に残された伝説について考えていた。
いつだったか誰かに聞いた、姫神フェミリンスの伝説。
日の出る果てに求めし魂。
地の交わりし果てに生み落ちたる命。
永き地を治めし姫神の眼、魔を操りたる術士に呪われ、殺戮の魔女とならん。
私が聞き知った伝説はここまで。
後は、その姫神の末裔が、血脈が途絶えていなければこの地の何処かに存在していること。
『姫神フェミリンスは、もう一人の私かもしれないわね』
『……人の幸福を願い、人以外を虐げ続けた現神の使徒、か』
フェミリンスはもとは、かつて存在した機工女神の血を継ぐ人間の姫だったという。
それが、現神に見初められ神格位を得るに至る。
女帝として君臨し、人間を慈しむ、他の女神の誰よりも美しい姫君。
ただその姫の人間に対する愛情は、やがて偏愛へと変わってしまう。
人という種を愛するあまり、それ以外の種に対する慈しみを忘れ、魔を虐げた。
アイドスが絶望のあまり、人間の感情を奪うことしか考えられなくなっていたように。
そして――
『フェミリンスは私にも近い存在だろうな。他者から強大な力を与えられたものという意味では、だが』
熾天魔王から力を譲り受けたことを後悔しているわけではない。
この力が無ければ、セリカと共に戦うことなど不可能だっただろうし、何よりアイドスに会うことはなかった。
感謝こそすれ、後悔などあるはずもない。
『……アイドス、一年前にフレスラント王国近郊で気になる魔力を感じたのを覚えているか?』
『姫将軍エクリア・テシュオスだったかしら。……確か、カルッシャ王国の第一王女だったわね』
『行商人の言葉が真実ならば、だがな。まあ、嘘ではないだろうが』
仮面を被った長い金の髪の女騎士。
騎馬に乗った姿を見ただけだが、人間の身に余るほどの魔力を抱えていた。
同時に、まるでへばりつくように彼女を覆うあまりにも強い憎悪の念も。
『おそらくだが、エクリア・テシュオスこそがフェミリンスの系譜である可能性が高い』
『……そう。それで、貴方はどうしたいの?』
結局のところ、思考の行き着く先はそこになる。
私はいったい、その系譜を見つけ出してどうしたいのか。
いや、そもそも私は、本当にその伝説に関わることを望んでいるのだろうか。
セリカと旅をするようになって三百年以上。
古い記憶の中を探り、呪いをかけたのは人間の魔術師だったことを思い出す。
しかしあの呪いの規模は、とても人間がかけたものとは思えない。
おそらく、闇の神の力を借りた秘術を用いたものであることは間違いない。
だが解呪する方法がないわけでもないのだ。
――ミゼリコルディア。
アイドスの力を借りた、完全治癒魔術。
とはいえ力を借りるといっても、この魔術に限っては発動させているのはアイドス自身。
私はただ、アイドスに魔力を供給しているだけ。
だから別に、私が彼女の使徒になったわけではない。
それで、その神聖魔術を前提とした上で関わる理由は、はっきり言ってしまえば……ない。
セリカやアイドスのことを考えれば、表舞台に立つのは危険過ぎるというのもある。
まして、カルッシャ王国は闇夜の眷属を嫌悪している。
結局、私はしばらく様子を見ることに決めた。
理由がなければ動くことはできない。
たが、気になるのも否定できない。
『貴方が決めたのならば、私はそれでいいと思う。……ちょっと面白くないけど』
拗ねたように言う神剣アイドスに軽く触れ、
『嫉妬しているのか?』
『う、うるさいわね!』
『……』
『ルシファー……今、笑ったでしょ?』
『……そろそろ夕食の時間だな』
『誤魔化しても無駄なんだから! ……まったくハイシェラ、余計なこと教えて!』
一筋の風が吹き抜けていく、断崖の間の街。
私はもう一度その光景を眺め、ふと思う。
並び立つ家々に灯る、夜を照らし出す淡い光。
それはまるで、幻の如く煌く燐光のようだった。
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