天幕の向こう側から、篝火を囲んだ兵たちの陽気な歌が聞こえる。
僅かに雲のかかった空には数多の星の輝き。
夜の帳が下りたユーリエの街に張られた野営の陣。
そこから遠く離れた王都ルクシリアで、同じ空を眺める仮面の女性がいた。
――凛とした立ち姿だ。
鎧にも似た煌びやかな衣服。
さらりとした細く長い、一纏めにされた金の髪。
醸し出す雰囲気は、一国の女帝を連想させる。
しかしそれは、身に纏う物の華麗さからくるものではなかった。
胸元の首輪と腰の革帯の青色宝石は、美しさより強化を優先した魔法石。
衣服にはその身に宿る人の身を越えた魔力を封印するための魔術呪文が刻まれている。
結ばれた口元から窺える強い意志と、仮面の下からでも分かる鋭い眼光。
一目で王族と分かる姿ながら、畏怖すら覚えるその苛烈さ。
それこそが戦場に参ずる姫が何人もいる中、唯一彼女だけが“姫将軍”と呼ばれる所以なのだろう。
カルッシャ王国第一王女――エクリア・テシュオス。
レスペレント地方に武勇轟かす“姫将軍”の二つ名を冠する女将軍。
しかし、彼女も望んで戦場に立ったわけではない。
母であるリメルダ王妃が、第三王女イリーナの出産と引き換えに亡くなる。
その後経緯は不明だが、第二王妃として迎えられたステーシア・メキオル。
彼女が世継ぎとなる皇太子レオニードを産んだことで、エクリアは常に戦場に身を置くことを選択せざるを得なかった。
宰相であるサイモフに言われ続け、自身も妹たちに言い続けた“一国の王女は国のために尽くすもの”という言葉。
無論それもあるが、彼女が“姫将軍”となった理由は他にある。
王妃という後ろ盾を無くし、自身は男児ではないため国王との繋がりが血筋しか残っていない。
更には、その国王は第二王妃に執心している。
ならばセリーヌとイリーナの二人を、権謀術数蠢く宮廷にあって守るためには、確たる地位を築くしかない。
そして何より、自分の代で“全て”を終らせるために――。
己が血統の始祖――姫神フェミリンスにかけられた呪縛。
女神の系譜を継ぐ母親から最初に生まれた娘に、人の域を越えた魔力と共に受け継がれる“殺戮の魔女”の呪い。
その悲しみを終らせるために誰も愛してはならないと固く誓い、心を殺して彼女は“姫将軍”になったのだった。
見上げる夜空に思うものはいったい何か。
エクリアは、今の自分を内心で自嘲する。
幸せに成りたかったという願い。
悲しみを終らせなければならないという誓い。
二つの相反する感情がぶつかり合って、今自分の身の内にあるのは――イリーナに対する嫉妬だった。
本来ならば守ると誓った存在。
だからこそこの魔窟から遠ざけるために、メンフィル王国に嫁がせることを了承したのだ。
だが実際にその段階になって、形はどうあれ女としての喜びを得ることができた妹を妬んでしまった。
無事に辿り着ければいいがなどと、今は亡きライゼン将軍に思わず呟いてしまったのは、その現れだったのだと思う。
何という……浅ましい行いか。
「……フッ」
そんな思考は更なる自分への嘲りに変わり、笑みとなって表に出る。
何を今更くだらないことを考えているのか。
噂を聞く限り、イリーナは守護を必要とせぬほど強くなった。
ならば、セリーヌを護ることだけを考えよう。
サイモフの動きを掴んだ時点で、行動に移すことは決めていた。
今更そんな自嘲など、どこぞへ捨ててしまえば良い。
例えそれで、イリーナに何かあったとしてもそれは――
「何をご覧になっておられるのですか? 姫将軍殿」
わざとらしく“姫将軍”を強調して呼びかけられた声。
そんな称号など欲しくはなかったと思い、薄い笑みを浮かべてエクリアは答える。
「夜に見えるものと言えば、月や星々以外にあるまい。それとも、賢き大使殿には別のものもお見えになるかな。
……ケルヴァン・ソリード卿」
燃えるような赤い髪に、尖った耳をした魔族の男。
明日訪れる予定のメンフィル王に先立って、数週間前よりルクシリアに滞在していたメンフィルの使者。
しばらく戯言を語り合った後、徐にエクリアが尋ねた。
「リウイ・マーシルンなる者、どのような男なのだ。上辺の賛辞はいらん。
……もっとも、自国の王を貶せる臣民などあろう筈もないが……」
ケルヴァンから返ってきた答えは、半魔人であること。
復讐のために決起したこと。
イリーナのおかげで人の優しさを知ったこと。
今回の不平等と言うのもおこがましい協定文書。
それにも拘わらずカルッシャを訪れる気になったのは、その謝意であろうこと。
そして――
「我が主も若輩。ときにひどく感情的になることがございまして……。
魔神の血を受け継いでいる以上、いつ何時、衝動的な行為に及ぶとも限りません。私めも何度となく、お諌め申し上げたことか……。
もし、ユーリエの街でお待ちになられているテネイラ師に、万が一のことがあったらと思うと……」
エクリアは思う。
なるほど、この男の狙いは何か分からぬが、意図するところは同じか。
あるいは……この私を利用しようとしているのか。
――面白い。
ならば貴様の思惑に乗った上で、私は私の目的を果たさせてもらう。
鋭くなったエクリアの視線に、ケルヴァンは慌てたように謝罪した。
それが本心ではないことは間違いない。
しかしここまで演技であることを隠そうともしないとは、笑みすら零れるというものだ。
互いの思惑、その全てが一致したわけではないだろうが、エクリアは一先ずケルヴァン・ソリードと手を組むことを決める。
いずれは切り捨てることになるだろうが、それまではせいぜい役に立って貰おう。
そう思い、カルッシャ王へ“衝動”の件を報告しておこうと告げて、その場を去る。
その間際、付け足すように言われた言葉に、彼女は思わずケルヴァンを見返した。
「そういえば、数年ほど前でしたか。“黒翼”と“神殺し”と思われる者が、我が主に接触してきまして」
「……何だと」
「主の父君のことと、決起の理由を聞いて去ったようです。
しかし残した言葉を守っているとすれば、未だレスペレントにいる可能性が御座います」
「……貴重な情報、感謝すると答えるべきか?」
「いえいえ、領国の友好のためと、王女誘拐の謝罪の印としていただければ……」
「……ふん」
数百年ほど前、アヴァタール五大国の一つレウィニア神権国で、水の巫女の盟友として絶大な力を誇ったという魔神。
伝承ではかつて古神に仕えた天使であり、現在は女神との盟約を果たし、はぐれ魔神になったと聞いている。
馬で三月もかかる遠き国家のことで詳細は分からないが、今でもかの国では“黒翼公”と敬称をつけてまで慕う騎士もいるとか。
……しかし、果たしてどこまで本当のことか。
だが“黒翼”がここレスペレントでも知られているのは、他でもない“神殺し”の唯一の盟友として伝わっているからだろう。
とはいえ、アヴァタールやケレースとは違い、この地では真に伝説と信じて疑わぬものが多く、存在しないと思っている者が大半だ。
実際、エクリアも半信半疑であった。
しかし“黒翼”と“神殺し”共に実在して、この地に留まっているというのならば……。
「邪魔ではあるが、下手に刺激すれば、藪を突いて蛇を出すことになるか……」
万が一軍神の介入を招くような事態になれば、計画自体が破綻する。
まして、如何に私でも勝てる相手ではない。
そう、エクリアは思考を巡らせ、
「下手な干渉はせぬほうが賢明であろう。……お前の主にも、明日忠告するとよい」
「……御意に」
慇懃に頭を下げて返すケルヴァンを一瞥し、今度こそエクリアはその部屋を辞した。
後に残された男の心の内を知る者は、今は誰もいない。
◆
ギルドから旅の資金を得て、ラクの街の大通りを私とセリカは歩いていた。
この街に駐留しているカルッシャ軍の動きにまだ変化はないが、人通りは幾分少なくなっている。
おそらく戦の気配を感じ、メンフィル王国にほど近いこの都市国家郡から、旅人が離れているためだろう。
カルッシャ王国宮廷魔術師テレイラ・オストーフ――メンフィルの魔王に暗殺される。
そんな話を聞いたのはレスペレント都市国家の一つ、ラクの街に着いたころだった。
セルノ王国王都レティカを発って、およそ一週間あまり。
旅の資金を稼ぎながらカルッシャに向かっていた私にとって、寝耳に水の話だった。
そのことを聞いて私が最初に思ったのは、どうにも解せないということ。
カルッシャ王国は確かに、徐々に衰退の途を歩んでいる。
だが、それでもレスペレント最大の影響力を持つ国家であることは間違いない。
にも関わらず、テネイラ暗殺などという益になるどころか、自分の首を絞めるようなことをリウイがするだろうか。
行動に移るにしても、あまりに国力差があり過ぎる。
これでは一部を除き、人間族の国が大半であるレスペレント諸国家全てに宣戦布告したようなものだ。
他国と同盟を結ぶにしても、いつ寝首をかかれるか分からないという不信感を与えることになる。
後がないならまだしも、ベルガラードとエディカーヌとの同盟関係にある中で、わざわざそんな危険を冒す理由はない。
そこで、ふと思い出す。
以前、ハイシェラに半魔人という存在について尋ねたことがあった。
語られた言葉の中にあった気になる言葉、魔人病。
確か、人の血が魔の力に蝕まれ、魔神へと変化していく病だったと記憶している。
魔神に変化する過程で、人の血が強い抵抗をみせれば、死に至ることもあるらしい。
治癒するには、魔神の血を強めるしかないのだが、それでも完全に治るというわけではない。
うまくいったとしても魔神に近い半魔人となり、失敗すれば魔神の力に肉体が耐え切れず、肉体が崩壊する。
だとするならばテネイラとの会談の最中にリウイは、魔人病を発症させたのだろうか。
古神に属しながら魔神と呼ばれるものは例外だとして、基本的に魔神は破壊と殺戮を好む。
なぜならそれは、魔に連なるものが力を追い求めることは本能とでもいうべきものだからだ。
もしリウイが魔人病を発症させたとして、衝動的にテネイラを殺してしまった可能性は……。
――ない、とは言い切れない。
ただ四年前の魔神に匹敵する魔力量からして、すでに治癒されてる確率の方が高い。
厭くまで可能性でしかないが。
そして、同じくテネイラ事件に関してもう一つ気になることがあった。
元々その会談は王都での対談の前に、非公式な場という形で設けられたものだ。
しかしテネイラ暗殺の報は、瞬く間にレスペレント地方を駆け抜けた。
それではまるで、初めからその事実を流布することが決まっていたかのようではないか。
そして何より流布された噂の中に混じる、会談に姫将軍が同席していたという話。
これはどういうことだろう。
護衛として姫将軍が同行するのはおかしなことではない。
だが仮に、リウイが魔人病を発症したとして、姫将軍が異変に気付かないなどということがあるだろうか。
答えは、否だ。
事実彼女は、奇襲してきたメンフィル兵と思われる者たちを迎撃している。
衝動で動いたというのならば、仮にも近衛騎士団長の職にある者が殺気に気付かないはずはない。
もちろん、真にリウイに暗殺の意図があったのならば別だが。
おかしな点はもう一つある。
テネイラの実力は、姫将軍と並んでカルッシャの魔法戦の要といわれるほど。
聞き知った状況から考えて、いくら会談の場で油断していたとはいえ、テネイラが一般兵程度に後れを取るとは考え難い。
魔術障壁くらい即座に展開できるだろう。
つまりテネイラを殺害したのは、あの場にいて“守りのテネイラ”の障壁を突破できる実力を持った者。
考えられることは……。
『あの男が意図したこととは限らない。……エクリア・テシュオスの謀略か』
『姫将軍も襲撃されていることを考えれば、邪魔に思った他の何者かの仕業。……それを利用したとも考えられるだの』
セリカの心話に、自身の経験から答えるハイシェラ。
王として戦場に立ったことのある彼女からしてみれば、別に珍しくもないことなのだろう。
実に淡々とした口調だった。
『テネイラ・オストーフはカルッシャではほぼ唯一の親魔族派だった』
『彼が亡くなった今、カルッシャは完全に闇夜の眷属と敵対する方針を取る……取らざるを得ないわね』
アイドスが沈痛な面持ちで、私の言を引き継いだ。
彼女の言う通り、テネイラが亡くなったことで、カルッシャとメンフィルの和平は事実上消滅したと考えていい。
“殺戮の魔女”という言葉が頭を過ぎる。
……姫将軍は争いを望んでいるとでもいうのか?
『何れにしても、大戦になることは間違いない。
闇夜の眷属が親魔族派の代表を殺害したとなれば、事実がどうであれ人間族は黙っていないだろう』
『数年は旅がし辛くなるやもしれぬな』
『……そうね』
カルッシャ王国へ向かう旅。
戦となれば、閉鎖される関所も増えることだろう。
混沌とした情勢下で、盗賊団などの犯罪集団の活動も活発化することが予測される。
そう思い、憂いの感情を伝えるアイドスに、私は慰めの念を送った。
愛しい女が苦しんでいるのに、放っておけるはずがない。
――笑ってほしい。
それでもまだ、彼女の心はどこか翳りを帯びている。
アイドスもまた、懸念しているのだろう。
今回の事件の要因が、フェミリンスにかけられた呪いである可能性があることを。
無論それはエクリア自身のことだけでなく、それが周囲に与えた可能性をも含めてである。
ならば、私のすべきことは決まったようなもの。
エクリア・テシュオスに興味があるという理由も確かにある。
だが何より、私の行動理由の基準はアイドスなのだ。
四年前は、姫将軍に会う強い理由はなかった。
だが今は、フェミリンスの呪いが更なる災いを招き、アイドスが嘆く原因になるというのならば……。
「……セリカ、以前話したフェミリンスの呪いについては覚えているか?」
「……何のことだ?」
「いや、忘れているのならばもう一度話す」
かつてこのレスペレント地方に君臨した、神格位を持った人間族の話。
古の大魔術師ブレアード・カッサレによって人に落とされ、呪いをかけられた姫君。
その呪いを受け継ぎ、殺戮の魔女となる運命にある可能性を持った姫神の系譜。
エクリア・テシュオスが、おそらくその末裔であるということ。
語り終わった私にセリカは、
「ミゼリコルディア……か」
呪いを破戒する術を、アイドスが扱えることを覚えていたのだろう。
そう呟くと、何事か考えるように目を閉じた。
やがて――
「……多少の危険は今更だ」
「いいのか?」
私の問いには答えず、セリカは歩く速度を速める。
さっさと行くぞということらしい。
『まあ、ルシファーが姫将軍と繋がりを持てば、セリカもセリーヌ姫の話を聞けるであろうから、悪い話ではないだの』
『まるでセリカの保護者のような発言ね』
『そういう御主は、勝手に自身の力が使われることに決まったようだが、良いのか?』
『……少し、心配ね。呪いの規模にもよるけど、呪詛破戒の意図を持ってあの神聖魔術を使えば魔力喪失状態になる可能性もあるし』
『そういう意味では――』
「――ルシファーが目覚めるまでは、俺が護衛をすればいい」
ハイシェラとアイドスの心話に割って入ったセリカは、足を止めて私を見る。
「……任せた」
「ああ、任せておけ」
言葉などそれだけで十分。
互いの内にあるのは確かな信頼。
『……何だの』
拗ねたように呟くハイシェラ。
それを尻目に、私とセリカは再びカルッシャへの長い道のりを歩み出す。
メンフィル王国がカルッシャ王国に向かって侵攻を開始したという話を耳にしたのは、それから数日後のことだった。
押して頂けると作者の励みになりますm(__)m