カルッシャ王国、王都ルクシリアの一室。
 部屋の大半を占める本棚には、新しいものから古いものまで、何百冊もの魔術書が所狭しと並べられている。
 その大半が古代エルフ語で書かれた物。
 とはいえ、別に部屋の主が魔術に傾倒しているというわけではない。

 彼女の望みはただ一つ。
 今も苦しんでいるであろう、実の姉を呪いから解放すること。
 そのために病弱な身体でありながら、無理をして姫神フェミリンスについて調べ続けていた。

 彼女の名をセリーヌ・テシュオス。
 カルッシャ王国、第二王女である。

 生まれたときから身体が弱く、床に臥せっているのが常。
 時々体調が良いときは、城のバルコニーから城下の街を眺めることはあったが、城から出ることは叶わなかった。

 貴族たちからは王族としての勤め。
 すなわち他国に嫁ぐこともできない役立たずと、直接ではないにしろ言われ続けている。

 だが彼女はそんなことは気にしていなかった。
 自分のことよりも、呪いに犯されている姉のこと。
 魔族の王妃になった妹のことを按じている。

 これが悲劇の姫を気取るための自己満足に過ぎなかったら、どんなに良かったことだろう。
 だが彼女は真実、姉と妹のことだけを心配し、自分のことは気にしていなかった。

 生まれたときから自分は何も出来ないのだと突きつけられたことが、そうさせたのか。
 何よりもせめて姉のために何かをしたいと思う心が優先される。

「ご苦労様です、ギルティン殿。このような時勢に危険なお願いをしたというのに」
「勿体無きお言葉」

 ベッドに横になり身体を起こしたセリーヌに、ギルティンと呼ばれた騎士が片膝をついて返答した。
 セリーヌが彼から受け取ったのは、先にこの騎士に届けさせた手紙に対する返事であった。
 今は敵国の王妃となってしまった実の妹、イリーナからの。

「では、私は失礼致します。御用があればいつでもお呼びを」
「……ありがとう。どうか、気をつけて」

 無骨ながらも僅かに微笑んで、ギルティン・シーブライアは退出した。
 敵国へ手紙を届けるという、命がけの任務。
 セリーヌはそれを強いる自分の身勝手さに胸を痛め、それでも何とか戦争の犠牲を無くそうと、意志を固める。

 受け取った手紙を開き、イリーナからの言葉を一字一句心に刻んでいく。
 どうやらメンフィルでの生活は悪いものではなく、それどころか幸せに暮らしているようだ。
 魔族ということで心配していたのだが、妹の言葉を信じる限り、人間族とそれほど変わらないように思う。

 そこでセリーヌは、この王宮内で聞き及ぶ噂を思い出した。
 母リメルダの死は病死ではなく、父であるラナートと宰相サイモフによる謀殺であったのだと。
 卑劣なのはいったいどちらなのかと、ついそう思ってしまう。

 単なる噂と思うのは簡単だが、おそらく真実だろう。
 時折見せるサイモフのこちらを見る表情に、何かを後悔するような感情が混じることがあった。
 別にそれを今更どうこう言おうとは思わない。
 母親の顔を覚えているのは、三姉妹の中では姉だけだろう。
 悲しみは覚えても、怒りの感情は湧いてこなかった。
 寧ろ普段王宮には居らず、噂を知らない姉がそれを知ってしまったとき、彼女はいったいどうなってしまうのか。
 それだけが心配でならなかった。

 溜息を吐き、読みかけだった手紙に再び視線を降ろす。

「……私に、興味を?」

 近況を語るイリーナの手紙。
 その末文には、いつかぜひ会ってみてほしいと一人の人物の名前が書かれていた。
 手紙だけではどうにも判断できないが、とても優しい人らしい。

「……私などに興味を持つなんて、いったいどんな人なのかしら」

 呟くように口から出た言葉を聞く者は、今この場にはいない。
 ただ彼女の表情は、柔らかな笑みを形作っていた。





 セリーヌがイリーナからの手紙を読んでいるころ、別室で難しい顔をした一人の男がいた。
 カルッシャ王国宰相、サイモフ・ハルーインである。

 彼は自身の行動を、今更ながらに悔やんでいた。
 それは先のメンフィルとの会談で、ステーシア王妃と組んで姫将軍と魔王の暗殺を企てたこと。
 結果見事に利用され、逆に姫将軍にテネイラを殺されてしまった。

 姫神フェミリンスの呪いを受け継ぎ、いつ“殺戮の魔女”になってしまうか分からないエクリア王女。 
 こちらの殺害を提案したのはステーシア王妃だが、彼自身は成功確率など微々たるものと思っていた。
 むしろ彼の狙いはリウイ・マーシルンの殺害。
 サイモフはテネイラとは違い、魔族は力で従えてこそ利となるものという考えを持っていたためである。

 それは一国を預かるものとして当然の帰結だったのかもしれない。
 魔族と侮り、それなりには武に長けているものだから、慢心の過ぎる皇太子レオニード。
 浪費ばかり続け、国のために何もしない王妃ステーシア。
 呪いを受け、暴走する可能性を抱えた第一王女エクリア。
 病弱で、他国に嫁ぐことすらできない第二王女セリーヌ。
 リメルダ王妃を暗殺してから、後宮から滅多に姿を見せなくなったかつての賢君ラナート。
 ならばせめて、第三王女イリーナだけでもと思えば、魔族の妃になってしまう。

 彼自身、国家を背負うという重責に押し潰され、視野が狭くなってしまっていたのだろう。
 だがそれでも、宰相の地位にあるものとして彼はカルッシャ王国を護らなければならない。

 ここ数日レオニードがセリーヌの部屋を訪れ、何やら不穏な動きをしているようだが、そんなことを気にしている場合ではない。
 何をしようと勝手だが、姫将軍に殺されないようにだけはしてほしい。

 頼りにすべきものはもはやいない。
 レオニードは王で良い。
 飾りの王でも、兵を纏めるくらいの役には立つ。
 だが何としてでも“殺戮の魔女”の思惑通りにするわけにはいかない。
 そのために、私がカルッシャ王国を護る。
 そう決意を固め、彼はミレティア保護領の代表、ティファーナ・ルクセンベールのもとに向かう。

 彼女を使って、サイモフは古代の魔術装置を研究させていた。
 来るべき決戦において、少しでも自分の手駒を増やすために。

 だが、彼はまだ気付いていなかった。
 その装置の研究を任されているのは、他でもない姫将軍エクリアの協力者。
 世界を恐怖で支配する王に仕えることを望む、赤い髪の魔族であることを。




 
 ――メンフィル王国。

 魔神ディアーネが私の使い魔となって数週間後。
 ディアーネの根城となっていた背徳の塔の陥落という知らせが王都に届くのに、それほど時間はかからなかった。
 リウイによれば、ディアーネは上位悪魔を従える強大な魔神だったらしい。
 神出鬼没の悪魔を中心とした部隊に、罠を多重に張り巡らせる軍略。
 度重なる奇襲攻撃に、隣国のクラナ王国とティルニーノ部族国は多大な被害を被ってきた。
 正面から戦えば、如何に連戦連勝のメンフィル軍とはいえ、難しい相手と言わざるを得なかっただろう。

 だが如何に強大な軍といえども、王を失っては有象無象に成り果てる。
 メンフィル軍のロッド砦進軍の知らせを受けて同盟を申し込んだ、ティルニーノ部族国。
 彼らが援軍として参戦したことが決定打となり、グルーノは敗戦国となった。

 上位悪魔の何人かは抵抗をしたが、ディアーネ捕縛の知らせを受けて混乱する兵を纏めることは叶わなかった。
 特にディアーネに家族を殺された、ルースというティルニーノ出身の青年の活躍は目覚しいものだったそうだ。
 私がディアーネを屈服させたことで、復讐対象を失った青年。
 それでもこの戦の中で成長したらしく、今度は国を守るために戦ったと聞いた。

 そうしてグルーノ魔族国を下したリウイは、ティルニーノの前部族長であるフェイエ・ルートと正式に同盟を結ぶ。
 その際彼は、私との会話を思い出したらしく、フェイエ・ルートに姫神フェミリンスの神殿の探索を依頼したらしい。
 ただティルニーノが少し特殊なのであって、エルフは本来、他種族との交流を避ける閉鎖的な種だ。

 神殿があると思われる場所は、北のリークメイルか南のミースメイル。
 何れもティルニーノとはまた別のエルフが治める地であるため、交渉がうまくいくかは不明である。
 一先ずは交渉を続けるという形を取り、いよいよ本来の目的であるカルッシャ王国への侵攻。
 その最後の関門となる、ミレティア保護領への進軍準備を整えることにしたということだった。

 さて、それで現在自分に充てられた客室にいる私が、どのような状況にあるかと言うと、

「あの人ったら、昨日はカーリアン様と。一昨日はチキさんと。その前はラピス王女と。その前は――」
「……あの、ええと」

 この通り、アーライナの信徒であるペテレーネを伴った、メンフィル王国王妃イリーナの来訪を受けている。
 しかも何故か葡萄酒を片手にした、である。
 メンフィル軍がクラナ王国に侵攻した辺りから時々訪れるため、一度リウイに何とかしろと言ったが、逆に睨まれた。
 いつの間にか呼び方がイリーナ王妃から呼び捨てになっている。
 そのことにあの男は目聡く気付き、曰く、手を出したら殺すだそうだ。
 あいつはいったい私を何だと思っているのか……。

「この前だって、ティナさんと何処かにお出かけになられたみたいですし、その前だってミラ様にお会いしにいって――」
「うう……本当にいつもすいません」
「いや、似たような愚痴を時々言ってくるのがいるから、こういうのには慣れている」
『……ルシファー、それって誰のことかしら?』

 お前のことだと言いたいが、止めておこう。
 やけに低い声色に危機感を感じつつ、先ほどまで部屋にいたセリカに、初めて殺意を抱いた。
 普段鈍感なくせに、他人のこういうことに関してだけは、あの男は異常なほどに察知能力が高い。
 今頃、ハイシェラを片手に飛燕剣の型の確認でもしていることだろう。
 いったいあれほどの察知能力をどこで身に付けたのか。

 ちなみにティナというのは、癒しの女神イーリュンの修道女で、ミラというのは、独力で神格位に達した人間族の女性。
 ただイリーナもそれ以上のことは知らないらしい。

「聞いているのですか、ルシファーさん!」
「ああ、聞いている。だから、もう飲むのは止めろ」

 目が据わっている。
 ペテレーネはおろおろして、ご主人様助けてくださいと錯乱していた。
 ……いったい私にどうしろというのか。

「もちろん、分かっていますよ。あの人は魅力的ですし、王族ですから側室くらい仕方がないことだと思います。でも、嫌なんです!」
『うんうん、分かるわ。嫌なものはやっぱり嫌よね』
「そうです。嫌なものは嫌なんです。私だけの旦那様にしたいのです」
『だ、旦那様……。何ていい響きかしら』
「いい響きですよね、旦那様」

 イリーナには聞こえていないだろうに、アイドスまで参加し始める。
 それにしても、微妙に会話が成立しているのだが、本当に彼女にアイドスの言葉は聞こえていないのだろうか。

「うう……私と陛下は政略的な部分が大きい結婚でしたけれど、私の愛情は本物なのですよ。なのに……最近冷たいし……」
「確かにここのところ、あいつも気まずそうにはしていたが、別にお前のことを嫌っているわけではないだろう」
「そういう問題ではないのです! ルシファーさんも女心というものが分かっていません!」
「当たり前だ。私は男だぞ」
「あの人と同じようなこと言わないで下さい! そんなことでは、エクリア姉様は差し上げられませんよ!」
「……なぜそこで、姫将軍が出てくる」
「ご自分で、おっしゃっていたじゃないですか。それに、セリカさんがおっしゃってました。
 ルシファーさんはエクリア姉様を必要としているって」

 セリカ……貴様……。
 いや、ハイシェラか……。

「何か勘違いをしているようだから言っておくが、私は姫将軍という存在に興味があるのであって――」
「――分かっています。言わなくても分かっています。
 エクリア姉様は確かに冷たいところもありますけれど、本当は優しい人なんです。そもそも姉様の魅力はですね――」

 結局、彼女の姉自慢は青き月リューシオンが空に昇るまで続いた。
 驚くべきはずっと飲み続けていたにも関わらず、彼女が酔い潰れる様子が全くなかったことだろう。
 散々愚痴を吐き出して満足したのか、イリーナはペテレーネに手を引かれ、覚束ない足取りで退出していった。
 残されたのは、開け放たれた葡萄酒の瓶が数十本。

『彼女と心話できたらいいのに。話が弾みそうだわ』

 勘弁して欲しい。





 イリーナとペテレーネが去った自室。
 先ほどまでの騒がしさが、幻であったかのように静かな中、私はベッドに横になっていた。

 イリーナが私の部屋に来るようになった理由は、だいたい予想がつく。
 不安なのだろう。自分のことを何も話さないリウイのことが。
 そして、実の姉と戦わなければならないという事実が。
 だから少しでもその不安を解消したくて、王国とは関係のない人物に愚痴を言いに来る。
 そこで相手に魔神や神殺しを選ぶ辺り、随分と逞しいものだと思わないでもないが。

 リウイとイリーナの関係に、ここのところどうもすれ違いがあるように感じられる。
 それは私とアイドスとの関係を比べただけだから、単なる勘違いかもしれない。
 四六時中顔を合わせるわけではないし、何より人情の機微に疎いのは自覚している。

 しかしグルーノへの遠征から帰って来てから、彼女の笑顔に陰りがある気がするのだ。
 もちろんそれが事実であったとして、リウイならば既に気付いているだろうが、さて。

『ルシファー、下手な手出しはしない方がいいわ。こればかりは……』
『……そうだな』

 アイドスがそういうのならば、それが正しいのだろう。
 この手のことは、未だに私はよく分からない。
 少しずつ、理解はしているが。

『大丈夫よ。私たちだってすれ違いがなかったわけじゃない。それでもこうして今も一緒にいるのだから』
『別に心配はしていない。ただ……』

 それ以上を私はアイドスに伝えなかった。
 あの二人の関係の変化から生まれた不協和音が、国に及ぼす影響。
 そこをカルッシャに突かれたら、果たしてどうなるのかと。 
 まあリウイが、手を出したら殺すなどと言っている間は大丈夫だろうが。

 しかし、不安がないわけではない。
 魔神国侵攻の際、リウイは一つの儀式を執り行っていた。

 バルジア王国のブレアード迷宮に眠っていた先史文明期の遺産。
 大量の機工兵器を内蔵した機工戦姫の起動。
 本体である鎧の名は『SG−2R』というらしいが、その動力源となったのは人間族の生娘だった。

 おそらく生贄となったのは、カルッシャ王国の間諜。
 生贄という行為に嫌悪感を覚えはするが、私やアイドスはそこから怒りにまで発展することはない。
 寧ろ私などは、軍事報告として淡々と聞いていたように思う。
 カルッシャとの国力差をひっくり返すには、私やセリカが戦争には関わらない以上、王として必要な判断。
 手段を選ばないということで、セリカやハイシェラははっきりと不快感を顕にしていたが。

 問題なのは、その行為によって魔人病が再発してしまわないかということだ。
 魔人病は魔神に人の部分が犯されていく病。
 ならば負の感情を抱えれば抱えるほど、再発の可能性は高まるのではなかろうか。
 半魔人ではない私には分からないことであるから、どうしようもないが。
 
 もしもリウイが魔人病に犯され、殺戮を求めだしたその時、私は――

 ――いや。

 今はリウイとイリーナの絆を信じるべきか。

 ミレティア保護領を支配下に置けば、いよいよ次はカルッシャ王国との戦になる。
 長きに渡る戦に終止符が打たれるまで、あと僅か。
 結末がどうなるとしても、最後まで見届けようと思う。




あとがき

他の幻燐キャラとのやり取りなどは、外伝でそのうち書けたら……いいな。



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