ミレティア保護領を落としたという知らせが王都に届いたのは、つい先日のことだった。
 保護領とはいえ、飛竜を用いた空中戦にカルッシャ王国からの援軍。
 苦戦は必至だったが、救いだったのはミレティアの領主が領土北部で発見された、魔法装置を起動させなかったことだろう。
 リウイの言によれば、どうやらその装置には合成生物を生み出す他に、気象を操る力があったのだそうだ。
 現在はリウイ自らが破壊し、機能を完全に失っているが、下手をすれば隕石召喚すら可能だったという。

 ともあれ、領主ティファーナ・ルクセンベールを捕虜とし、リウイはミレティア保護領を下した。
 意外だったのはミレティア領主と、レスペレント都市国家郡の国家長の間で、リウイを仲介に和平が結ばれたこと。
 話によればリウイと領主ティファーナは、どういうわけか何度か邂逅したことがあるらしい。
 都市国家長レアイナ・キースへの仲介役もその縁から思い立ったと語っていた。
 その結果、長く続いていた両国の小競り合いに漸く幕が降りたことになる。

 本来ならば牙を向けた以上、捕虜として扱うことが普通なのだろう。
 だがリウイは人間族のやり方とは違うと語り、その方針を取った。
 正しかったのか、そうではなかったのか。
 結果が出るのは数十年先のことになるだろうが、彼の判断は間違いではなかったと、信じたいと思う。
 
 ティファーナ・ルクセンベールはそのまま従軍。
 そして、ついにメンフィル軍は、城砦都市ペステを拠点としてカルッシャ王国と事を構えることになった。

 振り返ると都市国家辺境の村でイリーナに出会ってから、三年余りが経とうとしている。
 魔と人の共存を掲げる半魔人の王と行動を共にし、時にその関係の複雑さから面倒なことも多かったが、充実した毎日だった。
 セリカもほとんど分からない程度ではあったが、楽しそうにしていたように思う。
 それが、後数日で終ると思うと感慨深いものがあるが、これ以上戦を長引かせるわけにもいかない。

 カルッシャ王国侵攻において初戦となるのはおそらく、ミレティアとの国境にあるブロノス砦になるだろう。
 エクリア・テシュオスが、今もまだ“姫将軍”であるのならば、彼女は必ずそこに現れるはずだ。
 そのため、すでに私とセリカの従軍は決定している。

 近頃、民衆に幻燐戦争と呼ばれ始めたこの大戦。
 その終焉が間近に迫っている。
 そう思いながら、私はマルーダ城二階の庭園から郊外で訓練に励むメンフィル軍を一瞥し、その場を去った。





 その日、空は雲一つない快晴であった。
 ミレティア保護領のぺステの街から西へ半日ほど。
 以前立ち寄ったときとは比べ物にならないほど頑強な様相を呈している砦が見えてくる。

「ブロノス砦……随分と姿形を変えたものです」
「俺達、メンフィルの者が和平会談に訪れてより、砦を頑強にしたのだろう。
 他国の襲撃への備え怠りなし、ということか……」
「……それだけ、他国の襲撃を恐れていたということでしょうか?」
「そのとおりだ。……逆にいえば、それだけ臆病ということかな」

 リウイとイリーナ。
 そして近衛騎士隊副長である赤い髪の騎士リネア・エーアストの会話を聞きながら、私は訝しげに城砦を眺めていた。
 セリカもどうやら気付いたようで、先ほどまではあった戦意が霧散している。

「姫将軍の魔力を感じない。……あの噂は本当だったのか」
「……分からない。だが――」

 そう言ってセリカは、北に見える森を指で示した。
 カルッシャの主要都市、ユーリエの街の郊外。

「あの辺りに感じる魔力が、そうかもしれない」
「……お前がいうのならば、確かだろう」

 魔力感知は私も自信はあるのだが、セリカの方が感知範囲は広かった。
 女神アストライアの特性というよりも、セリカの技量によるものだと思う。
 この男はそれを、酔ったイリーナを避けるために使っていたりするのだが。

「姫将軍の王宮追放……か。イリーナがあの調子なのは、それもあるのだろうな」

 俯いたまま、先ほどからリウイに叱責されているイリーナ。
 これから出撃というときに、そのような顔のまま俯いているのならば陣の後方に下がっていろと。
 苛立ったようなリウイの態度と、悲しげな様子でいるイリーナを見れば分かるが、未だにすれ違いは改善してはいなかった。
 気にはなるが、こればかりは当人ではない以上どうしようもない。

「それで、どうする。姫将軍が砦にいない以上、ここにいる意味はないわけだが」
「……決まっている。居場所が分かるのならば――」

 リウイへの申し出。
 ここから直ぐ近くの森に姫将軍の気配を感じたため、私とセリカはそちらに向かうと。
 もともとそういう理由での従軍であったため、申請自体は難なく通った。
 最後にイリーナの、お姉様を宜しくお願いしますという言葉を背後に、私とセリカは一時陣を離れる。

 あるいは、私の耳にイリーナのその言葉が強く残ったのは、微かな予感があったからかもしれない。
 ……それが、人である彼女と交わす、最後の言葉だという予感が。





 空気が怯えていた。
 視線の先に立つのは、一度レスペラント王国近郊で見たきりだった黒の仮面を外した女。
 警戒するように眼差しを向け、凛とした佇まいで連接剣を構えている。

 足元には刺客と思われる人間族の遺体。
 腕が根本から消し飛んでいるところ見ると、純粋系魔術の攻撃によるものだろう。

 現在セリカは別の件が理由で、この場にはいない。
 偶然遭遇した光景に、私が一度だけ頷いたのを見て取ると、別方向に駆けて行った。

「……刺客よ、姿を現せ。もとより隠すつもりはないのであろう?」
『だから言ったでしょう。彼女に小手先は通じないって』
「誰かは知らぬが、その通りだ。私をあまり甘く見ないほうがいい」

 アイドスの言葉が聞こえていることに僅かに驚き、私は木々の間から姿を現す。
 驚いた様子でいる彼女を尻目に、さてどうしたものかと考える。
 直ぐに姿を現さなかったのは、カルッシャの刺客まで相手にするのは面倒だというのもあるが……。

「お前の妹らしき人間族が追われていたが、いったい何をしたのだ、お前たちは?」
「妹……いや、それより先ほどの声は……」
「やはり、神剣の声が聞こえるのか」
「神剣だとっ? ……馬鹿な、貴様は魔神であろう。その気配……神が魔族などに……」

 切れ長の目を見開き、こちらを睨みつけてくる女。
 余程アイドスの存在が驚愕だったのか、激しい動揺を見せている。

 無理も無いだろう。
 魔神と女神が共に在るとは普通は考えまい。
 しかし“魔族など”か。
 それは果たして彼女自身の心から出た言葉なのか、それとも――。
 ……まあいい。

「時間は有限だ。セリカの方も気になる。早々に終らせよう」
『話しとか訊かなくていいの?』
「フェミリンスの呪いを解いてからで構わないだろう。……確かに気にはなるがな」
「……呪いを解く、だと。貴様は私を馬鹿にしているのか。そのようなこと――」
「――お前の意見などどうでもいい」
「なっ!?」

 神剣アイドスを正面に構え、おかしな表情をした女騎士を見据える。
 そういえば、戦う前に確認しておかなければならないことがあった。

「忘れていたが、お前が“殺戮の魔女”エクリア・テシュオスで間違いないな」
「……大そうな通り名を付けて頂き、光栄至極。だが、テシュオスの名など疾うに捨てた。今の私はエクリア・フェミリンス」
「そうか。ならば、エクリアよ。既に知っているだろうが、これでも私はメンフィル王に雇われている身だ。
 悪いがここで捕縛させてもらうぞ」
「半魔人の王……。そうか、貴様が“黒翼”か」

 美麗な顔に歪んだ笑みを浮かべ、彼女は今度こそ臨戦態勢を取った。
 瞳の奥に伺えるのは、いつだったかリウイの中にも感じた暗い欲望。

「その通りだ。だが安心するといい。私はセリカと違って、加減くらいはできる」
「戯言を。始めに言ったはずだ。あまり私を、甘く見るなと!」

 左の掌に結ばれた魔術印。
 なるほど、姫神の末裔というのは伊達ではないらしい。

「ディアーネ以上か、面白い」
『油断は貴方の悪い癖なのだから、気をつけて』
「ああ無論だ。ここでしくじれば、リウイに何を言われるか分からないからな」

 連接剣が伸張し、組まれた秘印術が解放される!





 互いの魔力のぶつかり合いによって、森の生物たちが次々と逃げていく様を視界に収めた後、私は改めてエクリアを見た。
 戦い始めてから経過した時間は、まだそこまで長くはない。
 しかしその短期間の間に高速剣に対応して見せたことには、流石に驚いた。

 魔力を一点に集中させ、隙あらば一撃のもとに四肢を破壊するという意思が込もった魔術攻撃。
 連接剣による不規則な攻撃も、並みの魔神では対峙できるようなものではない。
 そもそも連接剣など普通の闘気と技術では、とても扱えるものではないのだ。
 それを使いこなしているだけでも、称賛に値する。

「はあっ!」
「……ちっ!」

 同時に私との相性も最悪だ。
 彼女は連接剣を鞭のように使い、相手の力を利用して戦う術に長けている。
 私の剣術は高速剣とはいえ、本質的には剛の剣になる。
 その振るわれる力を利用した柔の反撃。
 なるほど力押しの魔族とは違う、人間らしい戦い方だ。

「強いな。流石は姫将軍か」
「無駄口を叩くなっ!」

 だがそれもここまでだ。
 冷笑を浮かべて繰り出してきた相手の斬撃を、わざと受けることで油断を誘う。
 瞬時に魔力と闘気による圧力を、セリカと対峙するときと同等にまで高める。
 地を強く蹴って接近し、神剣に闘気を乗せて障壁ごと鎧を断ち切る。

「……馬鹿な……この私が……」

 身体に傷は負わせていない。
 たが闘気の込められた斬撃の衝撃をまともに受け、立つのもやっとといった様子であった。
“姫将軍”と呼ばれていた一人の女を見つめ、私は……

「な、何をする貴様っっ!!」
「魔力を無駄に消費し過ぎた。少し、お前に協力してもらう」

 倒れたエクリアを地に押さえつけ、その顔を見つめる。
 艶やかで瑞々しい金の髪。
 必至に睨んでくる金の瞳と羞恥に染まった頬。
 やや気の強そうな印象を受けるが、端正な顔立ちをしている。
 女神の系譜なのだから当たり前かと思う一方で、この凛とした雰囲気はエクリア自身のものなのだろうと思う。
 誰にも媚びることなく、悠然とあり続けた者の美しさを彼女は体現していた。

「驚いたぞ。私に本気を出させたのは、お前で三人目だ。尤も、他の二人は私に勝っているが」
「何だとっ! くっ、そこをどけ!」
「呪いを解くと言ったが、あれは本当だ。だがお前との戦いで少し魔力を使い過ぎた。悪いが、お前から奪うぞ」
「何をする気だ! 放せっ……はな……んっ、んんっ!」

 驚いたのか、開いた歯の間に舌を割り込ませる。
 怯えたように逃げるエクリアの濡れた舌。
 仮にも“姫将軍”を名乗っていた者のそんな様子に、

「なんだ、生娘だったのか?」

 途端に林檎のように赤く染まった頬。
 今頃になって気付いたのか、顕になった胸元を目に留め、彼女は肩を竦めた。
 そんな仕草が、何とも言えない感覚を抱かせる。
 ……意外と可愛い女なのかもしれない。

「これから解呪の魔術を施す相手を、殺すようなことはしない。少しだけ足りない魔力を貰うだけだ」
「……呪いの解呪など、本当にできるのか?」
「万が一できずとも、エルフの森に眠るフェミリンスの遺跡をティルニーノのエルフが探している」
「それを信じろというのか。魔族であるお前が、この私に」
「先に言ったはずだ。お前の意見などどうでもいいと。……だが、少し優しくしてやる」
「また、っ……やめ、ちゅっ……こんなところで……んむ、んんっ……ん、ふむぅ」

 そう告げて、再びエクリアの薄桃色の唇に軽く重ねた。
 今度は僅かな抵抗だけでするりと入った舌。
 後が大変だと思いながら、できるだけ優しく、胸や髪を撫でてやる。

 蕩けてきた瞳を隠すように、エクリアが何度も瞬きを繰り返す。
 一呼吸置いて、また重ねた唇。
 大分興奮してきているのか、掌の感触から胸の谷間に汗が滲み出ていることに気付く。
 鼻孔を擽る女の匂いに、ついその先まで手を出しそうになって……。

「……」

 ……危険だな。
 彼女の魔力は馴染み過ぎる。
 ずっと味わっていたいような、そんな気持ちにさせる。
 それにそう思うのは、ただ魔力が馴染むだけが理由では無い気もする。
 
 何とか自制して、私は口付けをやめた。
 やがて性魔術によって生まれた魔力が私の中に流れ込む。
 ふと顔を向けると、困惑した様子のエクリアの顔があった。

「お前は……いったい何なのだ。あれほど魔族に敵意を持っていたというのに、どうしてお前には……」
「私はブレアードなる魔術師に生み出された魔神ではない。
 だから、せいぜい嫌なやつ程度にしか感じないのかも知れない」
「嫌なやつ、か……確かに、お前は嫌なやつだ」

 穏やかに語るエクリア。
 私は黒翼を現出させ、驚いた様子でいる彼女を尻目に、神剣アイドスに魔力を注ぐ。
 女神が拗ねているかと思ったが、どうやらそういうことはなかったらしい。

「これからお前にかけるのは、慈悲の大女神が行使する神聖魔術だ。
 おそらく闇の現神の力を借りた呪いだろうから解呪の確立は五分。
 だが失敗しても死ぬことは無い」
「……どうせ、私に行き場所はない。それに私の意見など、どうでもいいのだろう?」
「そうだ」
「本当に、貴方は嫌なやつだ」

 エクリアのその言葉と共に、完全な形で発動する神聖魔術――不朽の慈悲《ミゼリコルディア・エレオス》。
 アストライアの“聖なる裁きの炎”と対を成す“聖なる慈悲の光”の効果。
 慈悲の女神の神威の具現は、あらゆる呪いを破戒する。
 しかしエクリア・フェミリンスが受け継いだ呪いの解呪は容易ではない。
 お陰で全てが終ったときには、私に魔力は殆ど残されてはいなかった。

 辛うじて保てた意識。
 呪いの解けたエクリアは、フェミリンスの魔力をそのままに、静かに涙を流していた。
 後から後から溢れ出ていた暗い欲望が、今はもうないのだと。

 ふと気配を探ると、近くまで迫った魔力が三つ。
 どうやらセリカの方も無事だったらしい。
 エクリアがこれからどうするのかは分からないが、話をしてみたいと思う。
 取り敢えずは、メンフィルの本陣に来てもらうことになるだろうが。
 これで後はカルッシャ王国との攻防を終らせれば、幻燐戦争は終る。
 
 ――だが、その考えは甘かった。

 私はエクリアの呪いさえ解いてしまえば、問題はないと思い込んでいたのだ。

 確かにエクリアの呪いは解けた。
 それは今の彼女の雰囲気を見れば分かる。
 だがブレアードがかけた呪いはそう簡単に消えるようなものではなかった。

 中途半端に解けた呪い。
 そこから生じた出来事。

 本陣に戻った私とセリカに告げられたのは、メンフィル王国本国にて反乱が起こったこと。
 そして――イリーナが、リウイを負傷させて行方を晦ましたということだった。



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