ユーリエの街郊外の荒野を、一人の貴族風の格好をした女が騎士に背負われて逃げていた。
騎士の名をギルティン・シーブライア。
横抱きにされた女の名を、セリーヌ・テシュオス。
姉、エクリア・フェミリンスの王宮追放と共に差し向けられた追っ手。
それは姉のみならず、その妹であるセリーヌにまで及んでいた。
姫神の系譜を継ぐという、ただそれだけの理由で。
後方に目を向ければ、追ってきているのは姉直属の近衛騎士ではない。
今はすでに皇太子レオニードに掌握された、王族派の騎士たちであった。
王宮を追放になってから一晩が経つ。
いくらギルティンが屈強な亜人間の騎士であっても、人一人を背負って逃げ続けるのは困難。
身を隠しながらとはいえ、体力も限界を迎えつつあった。
「セリーヌ様、私が足止め致します。どうかその間にお逃げください」
「……分かりました。ギルティン殿、どうかご無事で」
ここで自分が、そんなことはできないと駄々を捏ねても、身体の弱いこの身は足手纏いになるだけ。
人の命を預けられた重圧に押し潰されそうになりながらも、彼女は決意を固める。
「貴女には、生きてお会いしなければならない方々がおられます。それをどうかお忘れなく」
「……はい」
地に足をつけたセリーヌは、剣を構えて背中を向けるギルティンの姿を見る。
おそらくこれが最後になるであろうことも、互いに理解している。
だからこそ、王女である自分のために死ぬであろう忠義の騎士の姿を目に焼き付けようとして――
「……邪魔だ」
静かに、荒れた大地に響いた声。
そして突如、目が眩むほどの光に襲われる。
細切れとなって宙を舞うレオニードからの刺客たち。
その光景にセリーヌはしばし呆然として――次いで青褪めた。
どのような類のものかは分からなかったが、今のは間違いなく攻撃。
これほどのものとなると、真っ先に思いつくのは姉であるエクリアだが、感じた魔力の質が違う。
いくらギルティン殿でもとそう思い、はたと気付く。
今の攻撃は、追っ手を対象としたもの。
自分と同じように唖然としているギルティンに近付き、
『相変わらずというか、御主は加減というものを知らぬの』
「ルシファーの魔法剣を真似て見たが、悪くは無いな。……差し詰め雷光紅燐剣といったところか」
『この戯けっ! 嬢ちゃんまで殺すところであっただろうに、何が悪くないな、だの!』
「……そうだったか?」
声の聞こえた方に顔を向ければ、この世のものとは思えないほどに、美しい女性がいた。
燃えるような赤い髪に、透き通った青の瞳。
緑の軽鎧を着てはいるが、騎士というよりも傭兵か旅人といった様子。
そこまで考えて、その女性の体つきを見て思う。
確かに顔は女性としか思えないが、よくよく観察してみると、その旅の剣士は男性であることに気付いた。
エクリアという女騎士を知っているからこそであるが、筋肉のつき方というのだろうか。
ほとんど肌を露出していないとはいえ、どことなく違和感を覚えた。
「……無事か?」
「何とか。ですがセリカ殿、なぜこのようなところに?」
騎士ギルティンが剣士の顔を見て、安堵したように溜息を吐く。
彼の様子から、どうやら知り合いらしいことが分かった。
「王女を浚いに来た」
「……は?」
『確かに行動を考えれば間違ってはおらぬが……御主、もう少し言葉を選んだらどうだの』
浚いに来たとはいったいどういうことだろうか。
それに、先ほどから聞こえるこの心に直接語りかけてくるような声は、いったい何なのだろう。
この場にはギルティン殿と自分と、剣士セリカ殿しかいないはず。
そういえば、セリカという名前をどこかで……。
ふと以前、妹イリーナから送られた手紙のことを思い出す。
その末文にぜひ会って欲しいと書かれていた人物。
セリーヌは今、その名前をはっきりと思い出し、漸く零れた安堵の笑みと共に、
「人違いでしたら申し訳ありません。貴方が、セリカ・シルフィル殿でしょうか?」
◆
セリカとセリーヌが会話を交わす場所から、馬で半時ほどの距離を置く。
そこでリウイ軍はカルッシャの砦に攻撃を仕掛けていた。
カルッシャ王国の防衛の要とでもいうべきブロノス砦への進撃。
しかし流石に大国だけあって、これまでの相手とは兵の質が違う。
ミレティアの竜騎士を加えた空中部隊の攻撃があるとはいえ、流石に苦戦を強いられていた。
そんな中で活躍するのは、当然のことながらメンフィルの誇る将たちであった。
消耗覚悟の突撃によって疲弊していく兵達を鼓舞し、次々と襲い掛かるカルッシャ兵を退けていく。
特に猛威を振るうのは、機工種族であるシェラ・エルサリス。
機工兵器の力は想像を絶するものであり、十分魔神とも戦えるほどと思われた。
そしてそんな戦場で聞こえる悲鳴に、メンフィルの王妃イリーナは陣営後方にいながら心を痛めていた。
自分たちが今戦っている相手は祖国の人間。
かつては王女である自分に親しみを抱いてくれていた者たちである。
そんな彼らが死んでいく様を見て、どうして平然としていられようか。
メンフィルの王妃になると決意したその時に、このようになる可能性を覚悟しなかったわけではない。
だがそれと心情はまた別の問題だ。
あるいはあの会談の時、テネイラ師が暗殺されていなければ、カルッシャとメンフィルが手を取る未来もあったかもしれない。
そう思ってしまうのも仕方がないことだろう。
ブロノス砦の戦の前にラージャという将に言われた、できることをしろという聊か厳しくもある言葉。
私にできることとはいったい何なのだろうか。
イリーナは俯き、これまでのことを思い返す。
カルッシャ王国との戦。
自分が矢面に立てば、兵の動きも鈍る。
どこにいようと私たちに安全な場所などないだろうと告げて、彼女は無理に戦に同行した。
そんなことを言ってまで従軍した理由は、メンフィルの王妃としてできることをと思ってのこと。
姉の“一国の王女は国のために尽くすもの”という言葉が、彼女の中にあったからなのだろう。
無論、夫の役に立ちたいという感情もそこにはあった。
王妃になったことを後悔しているわけではない。
だが果たしてこれまでの戦で、自分には何ができたのだろうか。
カーリアンは前線で、ファーミシルスは将軍として、ペテレーネは治癒術士として。
リウイを慕う他のものたちは、何かしらの役に立てているというのに、自分はただ見ていることしかできない。
嫉妬心よりも先に、溢れ出す無力感。
人と魔の共存を願い、その理想を掲げながら、自分には何もできないのだと突きつけられた。
後悔があるとするならば、その自分の不甲斐無さだ。
その上慕っていた姉たちさえ、王宮を追放されたという噂が流れていた。
戦場から聞こえる声の中に時折聞こえる糾弾の声。
姫将軍がメンフィルの魔物を呼んだという言葉が、ますます不安を駆り立てる。
あまりに無力な自分。
否応なしにそれを実感させられるようで――
――その時だった。
「……え?」
声が聞こえた。
一番上の姉のように厳な。
それでいて、記憶にないはずの“母親”のような穏やかな声。
――還りなさい。
しかしその声には一切の感情というものが感じられない。
急に恐ろしくなって周囲を伺ったが、他の誰にも聞こえているような様子は無く、
「貴女は……」
――我が系譜の者よ。私の力は今解き放たれました。
はっきりと、そして言葉の力とでもいうべきものを伴って響く声。
王妃の異変に気付いたのか、周囲を護っていた兵たちが訝しげにしている。
――最も私に近き者は、忌むべき魔族に敗れました。
――故に、私は貴女を器に蘇りましょう。
「……あっ」
身の内から湧き上がってくる膨大な力。
ふわりと舞い上がった、純白の羽。
――還るのです。私に……姫神フェミリンスに……。
その言葉を聞いた刹那、イリーナの意識は眩い光の中に溶けていった。
◆
快晴の空に、圧倒的な神気を伴った光の柱が伸びていく。
周囲の者たちをなぎ払いながら突然出現した光源に、その戦場にいた全ての存在がしばし呆然とした。
やがて、収束した光の中に現れたのは、
「イ、リーナ……?」
左右一対の純白の翼を広げて空に浮かび、戦場を睥睨する一人の女。
結ばれていた髪は解け、常に王城で見てきた姿。
しかしその雰囲気は一変し、リウイが協力関係にある一人の剣士を彷彿させる。
他と隔絶した重圧を放ち続ける女。
彼女はカルッシャとメンフィルの兵が入り乱れて戦う中に、器となった者の名を呼んだリウイの姿を認めると、
「この身は、イリーナなる矮小な存在ではありません。我が名は、姫神フェミリンス。……忌むべき者たちよ、ここで滅びなさい」
姫神が翳した掌に、大気を揺るがすほどの魔力が収束していく。
やがて虚ろであった姫神の顔に、はっきりと分かる狂気の笑みが浮かび上がり、
「全軍、魔術障壁を展開しろ! 急げ!」
リウイが叫び、呆然としていた兵隊たちが行動を開始したのとほぼ同時。
姫神より放たれた神聖魔術――“エクスピアシオン”が両軍に襲い掛かった。
衝撃を伴う光の奔流。
王の号令に即座に対応してみせたメンフィル軍の魔術部隊は、瞬時に防壁を展開。
しかし同じ斜線軸に存在していたカルッシャ軍は、姫将軍不在のため指令系統が統一されておらず、瞬く間に飲み込まれる。
収まり始める光。
障壁を突破され掠り傷こそ負ったが、自分にも護衛の騎士たちもどうやら無事。
リウイはそこではたと思い、姫神と名乗ったイリーナの姿を視界に入れようとして、
「完全な復活には程遠い。……仕方がありません」
イリーナを器として仮の復活を遂げた姫神は、リウイを嘲笑うかのようにその場から姿を消す。
それ以前の戦いと合わせ、兵の大部分を失ったカルッシャ軍は混乱の中城砦から自然敗走。
同時に我に返った将官たちが、軍の混乱を治めるために帆走する。
次いで伝令兵より告げられる、メンフィル本国での反乱。
今のリウイはただ、唖然として佇むことしかできなかった。
◆
――メンフィルの王都で反乱が勃発。
本陣に戻った私がその知らせを受けた時、リウイは自失状態にあった。
ただ反乱が起こっただけならば、即座に対応できただろう。
その可能性はリウイも承知していたようであったから、それだけだったならば……。
問題は誰にとっても想定外の出来事。
イリーナの姫神覚醒と、その後の両軍に対する攻撃であった。
よりにもよって最愛の存在から攻撃を受けたリウイの精神の状態は芳しくない。
とても指揮が取れるとは思えず、しかしこのままではメンフィルの民に危険が及ぶ。
本国防衛に当たっているシルフィアの安否も不明。
分かっていることは、反乱の首謀者がメンフィル旧王族ということであった。
しかしそれだけでは済むまい。
恐らく混乱に乗じてカルッシャ軍が動いているだろう。
私とセリカが王城を離れた隙を突いたように起こった反乱。
これはエクリアが起こしたのか。
否、決起の前にエクリアは王宮を追放されている。
ならば、彼女の部下の判断か。
「……ケルヴァンと私は手を結んでいた」
ファーミシルス将軍の判断で、エクリアとセリーヌの処遇は一時保留。
転進して本国に向かう傍ら、両側を挟むようにして監視役を任された私とカーリアンに、彼女は唐突にそう言った。
カーリアンがいる理由は、念のためということらしい。
「利用し、利用される関係ではあったが、ある程度の情報も与えていた。
おそらく旧メンフィル王族を監視させていたハーマン……私の部下に、私の命令だとでも告げたのだろう」
「……生きてたのね、あの男。でもあいつを庇うのはこっちとしても不本意だけど、それが真実だという証拠はないわ」
カーリアンが挑発的な笑みで、そう返す。
エクリアは自嘲するように、
「そうだな……」
「……なんだか拍子抜けなんだけど。ねえルシファー、実は姫将軍の影武者ってことはないわよね?」
彼女の魔力を感じ取れば一目両全だろうに、カーリアンがそう言うのも無理はない。
呪いが解けた影響なのか、姫将軍としての苛烈な姿は無く、気落ちした様子であった。
姫神と名乗ったイリーナ。
その情報を耳にしたときからこの有様である。
彼女が何を思っているのか私には分からないが、少なくともメンフィルと戦う意思はもうないと感じられた。
「間違いなく本人だ。何より私の障壁を突破してきたからな」
そこでちらっとエクリアに視線を向けて、
「それに、性魔術の相性も悪くない」
『誰も相性まで聞いてな――ああ、そういうことね』
アイドスと私の言葉に何を思い出したのか、エクリアは唇を触って急に真っ赤になった。
見上げるようにしてこちらをキッと睨みつけてくるが、全く怖くない。
その姿にカーリアンが、変なものでも見たような顔になる。
「真面目な顔で貴方は何の話をしている!」
「事実を言っただけだが」
「――ッ、貴方という人は……こんな場で語ることではないだろう!」
「……少し落ち着け。お前の方こそ場を考えろ」
私のその言葉にエクリアは押し黙った。
カーリアンはそんなエクリアに唖然として、
「……本当に姫将軍なの?」
「エクリアはエクリアだろう。なぜそんなに疑問に思う?」
「だって、ねぇ?」
意味ありげに、にやにやと笑みを浮かべ、カーリアンがエクリアの様子を伺う。
そんな彼女の視線を受け、エクリアは俯いた。
「さて、戯言を言うのはこれくらいにしてさっさと行くか」
『やっぱりね。……そんなにエクリアが気に入ったのかしら』
「……ッ、貴方はっ!」
ぼそぼそと呟くアイドスと、からかわれたことに気付いて怒鳴るエクリア。
……これで少しくらいは気を取り直すことができただろうか。
そうして私たちは、アウストラル街道を東に急いだ。
◆
シルフィア・ルーハンスが反乱軍の総大将。
そんな情報が齎されたのは、本国が間近に迫ったときであった。
民に危害を加えさせないために止むを得ずなのか、それとも……。
そこまで考え、馬鹿馬鹿しいと思いなおす。
ここで彼女を疑えば、それは彼女に神格を与えようとした私自身すら疑うことになる。
どの道結果は戦えば分かると判断し、攻勢に出始めたメンフィル軍に加勢する。
「セリカ、お前はセリーヌ王女とエクリアを頼む」
「もとよりそのつもりだ。話を聞く前に死なれては困る」
一度だけ互いに頷き、その場で別れる。
セリカは騎士ギルティンとセリーヌ王女、エクリアと共に本陣に待機。
私はファーミシルス将軍に一言、エクリアの口にしたハーマンという男を捜すと告げ、了承を得て城内に駆け出した。
反乱軍に加わった兵達。
その中には、上の命令に逆らえずに参戦したものもいるだろう。
だからといって、私は同情する気はない。
そんな意味のない感傷を抱いても、反乱を引き起こした事実は変わらないのだから。
風鎌剣の中で、牽制技に分類されるフルブラッシュの剣圧で襲い掛かる兵を吹き飛ばす。
「……こんな時に」
集団で迫る新たな敵兵を確認すると同時。
私は左手に冷却の秘印術を組む。
「――」
範囲魔法攻撃で敵兵を一掃し、先へと進む。
――そんな中でだ。
唐突に発現した、シルフィアのものと思われる魔術の迸りを感じた。
上段から斬りかかってきた兵を一撃の下に両断し、辿り着いた謁見の間。
互いに睨み合い、シルフィアと一人の男が対峙していた。
「どういうつもりですか、白き聖騎士殿?」
「ハーマン殿、国王陛下がお戻りになられた今、もはや私が貴方に従う理由はありません」
「やはり、貴女も魔族に加担するというわけですか」
「もとより、私はメンフィルの守護者です!」
言葉と同時に、彼女が構える両手剣に付与される神聖魔術。
聖剣技と評するのが正しい技を持って、シルフィアは男に斬りかかった。
戦いの結果など言うまでも無い。
受け止めた刃ごと、軍神の力を以て両断されたハーマンの肉体。
いくら優秀な騎士とはいえ、神格者に勝てる道理はない。
圧倒的な力の差だ。
鎧を断ち切られ、崩れ落ちる巨躯。
流れ出す血の色は、私やリウイのそれと同じ、鮮明な紅。
「……魔族に……組する、など……貴女は……」
「私は、私の正義に従っただけです」
「愚かな……選択だ。……だから……貴女は……」
毅然とした態度で、シルフィアは告げる。
事切れる寸前、ハーマンは凍ったように変化のなかった顔に冷笑を浮かべていた。
そんなハーマンをシルフィアは見下ろし、
「後悔などありません。魔神でさえ平穏を望む者がいる。それを知った今、私はただ陛下に助力するだけです」
……見事だ、シルフィア。
◆
メンフィル反乱軍は、ハーマンの死が伝わり士気を落とし、程なくして鎮圧された。
シルフィアを連れ、本陣に戻った私の目に飛び込んできたのは、指揮を執るリウイの姿。
まだ混乱はあるのだろうが、ラピス王女辺りが何か言ったのか、かつての覇気を取り戻しているようであった。
その場でシルフィアと別れ、私はセリカに預けたエクリアの元に向かう。
告げねばならないことは、一人の人間族の死であった。
――最後の最後まで彼女に従った騎士。
ハーマンという男に、どんな感情があったのかは分からない。
だが呪いが解けた今、エクリアも思うところがあったのだろう。
そのことを話すと、何かを噛締めるように眼を閉じた。
部下など持ったことがない私は、かける言葉が見つからず、代わりにセリカにいつもそうするように彼女の肩を軽く叩く。
戸惑うように顔を上げるエクリアを視界に収め、私は踵を返した。
いつまでもじっとしているわけにはいかない。
ブロノス砦での敗戦。
その影響とエクリアの追放でカルッシャは動ける状態にはないだろう。
しかし一つ懸念がある以上、早急にこの戦争を終らせなければならない。
それは他でもない、姫神フェミリンスと化したイリーナの動向だ。
エクリアならばまだ人間の意識がある分、殺戮の魔女となっても行動の予測はできた。
しかしどういう理由か分からないが、姫神の意識を憑依させたと思われるイリーナ。
相手が神となれば、何をするかは分からない。
伝承――記憶を封じたディアーネの言葉が正しければ、他種族を虐げブレアード率いる十柱の魔神と戦った姫神。
彼女は間違いなく闇夜の眷属を狙うだろう。
下手をすれば“フェミリンス”を追放したカルッシャを敵と見做し、襲撃する可能性すらある。
今後の方針を決めるため、王城の一室に集った面々を見ながら私がそんなことを考えていると、
「……俺が半魔人だというだけで起きた反乱。ならば、俺はいったいどうするべきだったというのだろうな」
自嘲するように、低く重く呟かれた言葉。
声の主に視線を向ければ、そこにいたのは暗い笑みを浮かべた男だった。
「イリーナにすら裏切られた今、魔と人の共存など夢想としか思えなくなってくる」
「ご主人様……」
テーブルの上に並べられた地図を見ながら、自嘲するように語るリウイ。
ペテレーネが按ずるように傍に控える。
顔に冷笑を貼り付け、リウイは全てを嘲笑うかのように佇む。
魔人病というわけではないだろう。
リウイ=メンフィル王国となってから七年余り。
その人間にとっては長い年月の間に築き上げたものが破壊されたのだ。
憎悪を抱かない方が難しい。
「そういえば、姫将軍とセリーヌ王女の処遇がまだだったな。……いっそ、イリーナ共々殺してしまおうか」
エクリアもセリーヌも流石に処遇が決まっていない以上、この場にはいない。
国を守るためとはいえ、反乱軍の総大将になったことは事実。
近衛騎士隊長を解任されたシルフィア共々監視を受け、軍議が終るのを客室で待っているはずである。
「陛下、今何と?」
リウイの言葉を聞いたティファーナが、信じられないといった様子で聞き返した。
他の面々を見ても、ただ一人を除いて誰もが似たような表情をしている。
「二人とも敵国の王族だ。戦犯として極刑にしようかと言ったのだ。
イリーナにしてもそうだ。メンフィルの敵に回った以上は――」
フェミリンスに身体を乗っ取られている。
そんな可能性は、今の彼の頭にはないのだろう。
――愛する者の裏切り。
それを私が想像することはできない。
いや、できないのではなくしたくない。
だが――
「……巫山戯るな」
私が口を挟もうとした矢先、動いたのはセリカだった。
静かに発せられた言葉と共に振り切られた拳。
油断していたらしいリウイはそれをまともに受けて、床に転がる。
私も他の将たちも、ただそれを唖然としてみていた。
セリカが殴ったことに驚いたわけではない。
ただ普段感情を窺わせない表情が、明らかな怒りに歪んでいる。
ここまで強い感情を発するセリカは、長い間共に旅をしていた私ですら滅多に見たことがない。
「どうしてお前は、愛する者を信じない」
「……何が、言いたい」
セリカは立ち上がろうとするリウイを見下ろし、激情を孕んだ瞳で睨み付ける。
リウイはというと、何が起こったのか分からないという様子。
そこから一変、頬を一撫でするとセリカを負けじと睨み返した。
「剣を抜くまでもない。……さっさと立て」
「……貴様」
魔神剣ハイシェラを放り投げたセリカを見て、リウイは腰の突剣をペテレーネに渡した。
その様子を見る将兵たちに視線を向けると、参謀であるブラムは面白い光景だとでもいうように笑みを浮かべている。
ラピス王女とレアイナ・キースはやれやれと肩を竦めていた。
殺気立っていたファーミシルス将軍も、セリカの行動で何ともいえない表情をしている。
ティファーナとリオーネ王女、バルジアの王女はわけが分からないといった様子。
その他の面々も、呆れるか困惑するものが大半であった。
互いに拳を繰り出し、交差するように殴り合う。
腹、顔、胸と場所を問わず、がむしゃらに、まるで二人とも人間にでもなったかのように。
……セリカは思い出しているのだろう。
薄れ行く記憶の中、未だに消えずに残っている自分の罪。
愛する者をその手にかけたという“神殺し”以上の罪科を。
三百年という長い旅路の中で、セリカが忘れ去った出来事はあまりに多い。
それでも詳細は忘れてしまっても、決して消えることはなかった“約束”と共に、刻まれた記憶。
「イリーナは……あいつは俺を裏切った! それを憎んで何が悪い!」
「裏切ったのかどうかなど、確かめなければ分からない。それでもお前は、愛する者を殺そうとするのかっ!」
「違う! ……俺は……俺はっ!」
そう私が考えている間も、言い合いぶつかり合っていた二人。
やがて力尽きたようにリウイが膝を屈した。
死闘どころか、決闘というのも痴がましい争い。
女ばかりのこの将官の中で、理解できるのは果たして何人だろうか。
ただ言えるのは、リウイを覆っていた暗い邪気はもうないということだった。
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