見たことも、経験したこともない“はず”の太古の景色。
それが脳裏を過って伝えてくる。
お前は“憤怒”を司る堕天使サタネルなのだと。
それを――冷静に受け止められているのは、薄々そうではないかと私自身感じていたからなのかもしれない。
だがこれで、何故パイモンがこんな話をわざわざしたのかも分かった。
「私の司るものが……憤怒とはな……」
憤怒――怒りには理由が必ず存在する。
別にそれは大切なものを奪われたといったような、他者から一定の共感を得られるようなものである必要はない。
例えば『相手の行動が癇に障った』といったような、それだけのことでも十分理由足り得る。
そもそも憤怒の理由など、だいたいが身勝手なものだ。
……では、そんな“憤怒”を司る者とは、どのような存在なのだろうか。
その答えに至ったことに気付いたのか、パイモンは視線を私から外した。
目が向けられた先にあるのは、神剣アイドス・グノーシス。
「怒りの理由などそれこそ無数にありますが、その帰結はたった一つ、闘争です」
私ではなく、アイドスにパイモンは語る。
……それがパイモンの狙い。
「そして、七つの大罪に列せられる根源的な怒り……理由無き憤怒とは、生物が持つ闘争本能です」
憤怒という感情は、必ず“戦う”という行為に結びつく。
ならば理由無き怒りもまた、最終的には闘争に至るはず。
故に彼我の思想の差異、性別、種族、信仰する神。
そういった“理由”を一切排し、ただ“戦う”という行為に喜びを見出す。
それこそが大罪――“大いなる憤怒”の正体。
故にもしも憤怒を司る者がいれば、その者は――
「サタネル様の今までをご覧頂けば分かると思いますが、彼は“軍神”としての性質を持っています」
――その通りだ。
セリカとの命がけの戦い。
ディアーネとの、ラーシェナとの、そして数々の強者との戦いの中……。
私の口の端は吊り上っていなかったか。
それが“争い”を呼び寄せる戦神でなく、何だというのだ。
「果たしてサタネル様は……“慈悲の女神”であるアイドス様が、共に行動できるお方でしょうか?」
それが、パイモンが私に過去を自覚させた理由。
なるほどな……。
例え私が自分の過去を知ったとしても、“私は私だ”で解決されるのが関の山。
――だから“慈悲の女神”の心を突いてきた。
「貴女が司るのは慈悲。しかしサタネル様が司るのは憤怒です。
一緒にいたとしても、互いの抱える物を潰してしまうだけではありませんか?」
慈悲の女神は争いを嫌う。
それが彼女の本質なのだから、決して変わることはない。
だからこそ私が司るものが憤怒――闘争だとしたら、果たして慈悲の女神は私と共に行動できるのか。
……。
現状ではアイドスが人間に討たれる可能性は低い。
そう考えたのか、或いは別の理由があるのか。
確かなのは、どうやらパイモンは私とアイドスを引き離すつもりでいるらしい。
……腹立たしいが、良い手だ。
他人を縛ることを好まないのが“私”だということは、パイモンも知っている。
アイドスが私を拒絶すれば、それを受け入れることも想定済みだろう。
『……なるほどね』
アイドスはそう、何かに納得するように心話で告げる。
『でも残念。女神の寵愛はそんな安いものじゃないわ』
透き通るような声と共に、海岸に光が溢れる。
光を放っているのは、私の持つ神剣の柄に付けられた珠玉。
――それで理解した。
今は昼だから赤い月は出ていない。
しかし“ここ”には、紅き月神殿と同じように魔力が満ちる古神の祠があった。
やがて満ちた光が魔力の風と共にかき消える。
そして思った通りに、流木に座った私の隣に、紅の髪の美貌の女が立っていた。
「馬鹿にされたものね。貴方の姦計如きで私が揺れると思ったの?」
まるで私のような、傲岸不遜な態度。
威厳溢れる姿に見えるのだろうが、私には無理をしているのが手に取るように分かる。
それでも迷い無くそう言ってくれた彼女の姿に、しばし見惚れた。
「なめるな、パイモン! 彼は万物を平等にしか愛せない私――慈悲の女神が“選んだ”男(ひと)よ!」
……お前は本当に、欲しい時に欲しい言葉をくれるのだな。
「……良いのですか? サタネル様は争いを引き起こす軍神ですよ。貴女の在り方に反するのでは?」
「お生憎様ね。昔は兎も角、今の私は自分の信念を他者に押し付ける気はありません。
私の“慈悲”というあり方は変える気はないけれど、だからといってルシファーを受け入れられないわけじゃない」
「……妥協すると?」
「いいえ、仕方がないなんて思わない。
争いを回避しようとする彼も、戦いを求める彼も、どちらもルシファーだと認めるだけよ」
そう穏やかな声で答えてから、静かに微笑する。
「……ルシファーはね、私の在り方を否定しなかった。
私の“慈悲”を認めた上で、その思いを組んで魔神である“自分”と戦っている。
そして私だけが背負うべき“罪”を、ずっと一緒に背負ってくれている。
何よりそんな得難い理解者を、貴方なんかにくれてやる気はないわ!」
震える手を隠す様に、必死に握りしめて彼女は言う。
ここまでの強い言葉、元よりアイドスの柄ではない。
だからこそそんな“優しさ”に、私は本当に感謝する。
……だが、彼女はいつから私が司るものを憤怒と気付いていたのだろうな。
「……流石と、言うべきなのでしょうね。“ルシファー様”が選んだ半身なだけはある」
ひどく感心したような顔をしたパイモンに見せつけるように、私は立ち上がって、アイドスを胸に引き寄せた。
可愛らしい驚きの声を上げつつ、腕の中に収まった恥じらう彼女を見る。
私の眼差しを受けて、アイドスは無理に笑顔を作ろうとしたようだが、上手くいかず、上目遣いの彼女は泣き笑いになっていた。
私はいったいどんな表情をしていたのか。
少し首を傾げて、大丈夫だとでも伝える彼女の胸元に、私が贈った首飾りを認める。
似合っていると軽く心話で告げて、何だか気恥しくなりパイモンに顔を向けた。
「そういうわけだから、残念だったな」
「そうですね……ですが、お二人の絆を改めて確認できただけでも収穫です」
「用が済んだのならば、拠点に帰ったらどうだ。……まあ、私の本質が分かったことにだけは礼を言っておく」
「拠点ですか? それなら既にリウイ陛下に落されましたよ」
「……なに?」
拠点が落ちた?
「先日、リウイ陛下がザハーニウを一騎打ちの末に倒し、拠点――ヴェルニアの楼は陥落しました」
「……一騎打ちだと?」
「ええ、ザハーニウは世界に留まるだけの魔力を失い、既に肉体が崩壊し始めていた。
とはいえ、あの方も強くなったということなのでしょう」
魔神ザハーニウは確か、神の墓場で生まれた魔神。
パイモンの言い方からして、死んだわけではなく、生まれた場所に還ったということだろう。
しかし拠点が落ちたというのに……パイモンのこの落ち着きようはなんだ?
――いや、それより、
「パイモン――お前ここまでどうやって来た?」
「え? それは転移魔術じゃ……っ!」
確かに、転移魔術で訪れた可能性はあった。
……ただし、拠点――ヴェルニアの楼が落ちていなければ。
「転移魔術にも制約が存在する。何処にでも移動できるわけじゃない。
こいつが、レスペレント地方を縦横無尽に移動できていたのは、ブレアード迷宮の転移陣を利用していたからだろう。
迷宮に直結するこいつらの拠点が落ちたというのならば、こんな辺境地方まで転移魔術だけで来れるわけがない」
問い質すように私がそう言うと、パイモンは顔に笑みを張り付けたまま、徐に語り出した。
「そうですね。確かに転移魔術だけではここまで来るのは難しいです。
ですので、ゼフィラさんに“神殺し”のところに行くと言って、彼女の持つ飛行生物で送ってもらいました」
……――っ!
「……パイモン、動く気はまだないのではなかったのか?」
「はい、確かに“私は”動かないと申し上げましたね。
しかしゼフィラさんの行動に関しては、私の関知するところではありません」
……白々しい。
セリカと魔神ゼフィラの間には因縁がある。
あの馬鹿は既に忘れているが、数年前にマータ砂漠で出会い、散々に挑発しているのだ。
そんな奴のところに向かうと告げれば、何も言わずともセリカを襲撃するのは必定。
その上、ゼフィラはフェミリンスに恨みを持っている。
……兎に角、合流しなければ。
そう私が思った直後、空気を引き裂くような音が耳に入る。
音が発せられた方角に視線を向ければ、空に巨大な魔法生物――エイのような何かが浮上していた。
「おやおや、ゼフィラさんもひどい方だ。私をここに置いて行くつもりらしいですね」
言葉とは裏腹に、パイモンの仕草に困ったような様子はない。
つまりここまで予定通りというわけだ。
『……様! ルシ……様!』
そう考えていた私に、エクリアの心話が届く。
ここから村までは然程距離はないが、心話を聞くには離れている。
『どうした?』
『セリー……連れ去られ……セリカ様……追い掛けて……』
『お前は今、村にいるのか?』
『ルシ……様を……して、森……かに……』
『分かった。私は今、海岸にいる。迎えを行かせるから、少し待っていろ』
セリーヌを誘拐して、セリカを誘き出したわけか……悪辣な手だ。
それともそれも、涼しい顔でこちらの様子を窺う、この優男の指示だろうか。
考えていても仕方がない。
私がアイドスに目配せすると、彼女はエクリアを迎えに森の方へと向かった。
「……随分なことをしてくれたな」
「考えたのですよ、ルシファー様にとって本当に邪魔な方は誰なのか」
「それでセリカと思ったわけか」
「そうです。貴方がいつまでもこのような旅を続けているのは、セリカ・シルフィルという“人間”のせいでしょう。
そして結果それが、貴方が一つ所に留まることを阻害し、魔王となることからも遠ざけている。
だからまず、セリカ殿と貴方を分断することにしました」
二段構えの行動。
パイモンは私を誘い出し、アイドスの心を突いて、私との仲を拗れさせることができれば由。
でぎずとも、ゼフィラがセリカを誘い出す時間稼ぎになる。
……考えたな。
「そして、お前が私の足止めをするわけか」
「そうなりますね。私は、あまり戦闘は得意ではないのですが……」
……よく言う。
それは幻影で戦った場合の話だろう。
確かハイシェラも、似たようなことができたはずだ。
何もない空間に魔力の宿った短剣――クリスダガーが無数に展開される。
確かタロットクリスとかいう銘だった気がする。
「はぁッ!」
アイドスが顕現しているため、神剣からただの聖剣となった片手半剣で、打ち出される短剣を叩き落とす。
魔力を抑え互いに闘気だけでの攻防だったが、元より相手も確かめるつもりで放っただけ。
やはり無理かとでもいうように、パイモンは苦笑する。
「……やはり貴方を足止めするとなれば、私も本気でいかなければなりませんか」
そう言うと、パイモンは手に持っていた魔術書を閉じる。
同時に、かつてイリーナが唱えたものに似通った呪文。
即ち、彼の場合は“本来の自分”をこの世界に召喚するための言霊を唱え始めた。
「ルシファー様……ッ! これはッ!」
「下がっていろ、エクリア!」
アイドスに連れられてきたエクリアが、私に近づいてくる気配を感じ、怒鳴る。
びくっと震えた彼女を見て少し胸が痛んだが、今この吹き荒れる魔力流の中を近付かれたら、私に隙ができる。
本気のパイモン相手にそれは致命的だ。
「ルシファー、私は?」
「悪いが自分の身を守ってくれ。こいつ相手に他の者を守護しながら戦うのは難しい」
立ち昇る魔力は明らかにラーシェナを越えている。
それも当然だ。こいつは本来、地獄の王なのだから。
「……有り得ないわ。魔神パイモンは確か主天使の位階だったと思うけど、それでもこんな……」
「違うぞ、アイドス。パイモンが主天使に“降格された”のは、古き戦の後に唯一神から赦されてからのことだ。
それから天より落されて私や“父”共々、人間を試すという役目を追った。
……皮肉にもそれがきっかけで、遂に魔神にまで堕ちたわけだが。
だからこいつの位階は、もともとは座天使。本来の実力は並みの熾天使さえも凌駕する」
「そんな……そんな天使がいたの……?」
「“如何にして炎の子が土塊の子を拝せようか”――そう言って古神ルシファーと。
そして私と共に、こいつは堕天使の軍勢の旗手として、主神に戦いを挑んだ。……お前も知っているはずだ」
「……そんな……その天使は……」
パイモンを覆っていた闇の魔力が霧散し、やがてその中から本来の姿に戻ったパイモンが現れる。
緑の長髪に山羊のような角は変わらないが、その白の衣を纏った背中には、私と同じ十二枚の黒い翼がある。
「……私の名前……“パイモン”とは魔神になった後に自ら付けたものです」
「確かに神の眷族にしては、道化じみた意味だからな――古き言葉で“チリンチリンという音”だったか」
それは、こいつが召喚された時に響く楽器の音から取ったのか。
……パイモンの感性はよく分からない。
宙に浮いていたパイモンがゆっくりと降下し、地に足を付けた。
顔には笑みを浮かべているが、目は笑っていない。
「できれば、このままセリカ殿と離別して頂ければ嬉しいのですが、そういうつもりはないですね?」
「ない。アレとの旅は、飽きないからな」
「仕方がありません。では……」
――放たれる閃光。
それは目晦ましではない。
……まったく、厄介な能力を持つ。
「ああ、行くぞ“アザゼル”」
それを受けて彼――風の悪魔は常と変らぬ微笑みの中に、静かな闘志を見せた。
あとがき
パイモン=アザゼルというのは、原作にはありません。
ただイリーナを結果的に救ったり、幻影(身代わり、スケープ・ゴート)を多用したり、風の属性を得意としたり。
裏設定としてあるのではと思いました。
ちなみに、元ネタはメイザースの“アブラメリンの書”の注釈になります。
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