闇の勢力の影響化にあるせいか、奇怪な原生林に彩られた樹海。
魔神剣で道を切り開きながら進んでいくと、セリカは開けた場所にたどり着いた。
逸る気持ちを抑え、周囲の様子を窺う。
視線の先には、隆起の激しい地形の多いケレース地方を象徴するような切り立った崖――底の見えない谷が横たわっていた。
その谷に浮かぶ物体を認識して、セリカは眼光を鋭くする。
――あれか。
巨大な生物だった。
まるで入港する船の碇のように、長い尻尾を崖に突き刺して身体を固定している。
『間違いないの。セリーヌ嬢ちゃんはそのエイのような生物の中であろう』
『……何故そう思う』
セリカの問いかけに、彼の剣に宿る魔神ハイシェラは少し呆れたようだった。
深い溜息を一つ吐き、ゆっくりと心話を続ける。
『まず御主も気付いておるように、エイの内部から嬢ちゃんの気配がする』
『それは分かっている。だからお前にも念のため確認したんだが……』
好んで得体の知れない魔物の体内に飛び込むものはいまい。
万が一感覚が間違っていて罠だった場合、目的を達成するのは不可能になってしまう。
――そう、魔神に攫われたセリーヌを救出するという目的を。
事の発端は、魔神ゼフィラの奇襲攻撃だった。
突如として釣りをしていたセリカの前に現れた魔神ゼフィラは、挨拶代わりに火炎の魔術で挑発。
すぐさま矛先を、彼が釣りをしていた河川からそう遠くない広場で、姉と魔術訓練に励んでいたセリーヌに向ける。
そしてパイモンの妨害にあっているエクリアを忌々しげに見ながら、セリーヌの方を人質として誘拐。
その上で、セリカに一対一の決闘を申し込んできたのだった。
ゼフィラからすればその行いは自分で決めたものではなく、魔神パイモンの提案を受けただけだったのかもしれない。
だがセリカからすればそんな事情は知ったことではない。
ましてそのような手段を相手が使ってきた以上、容赦する気はかけらもなかった。
『御主、以前はもう少し考え無しであったと思ったが、存外慎重だの』
『……もう、俺一人の身体ではないのでな』
『ふふふ、そうか。……そうだの。ならばついでにもう一つ根拠を上げておこう。
御主は忘れておるようじゃが、あのエイを我らは一度見ておるぞ。
砂漠で一度あの魔神に出会ったときに、奴が従えておった魔獣だの』
『なるほど、ならばアレの中にいるのは間違いないか』
そうと分かればすべきことは一つ。ただ踏み込むのみだ。
既にこちらの状況は、エクリアがルシファーに伝えに向かったため問題ない。
こちらの位置はエクリアが置いて行った小さな風の使い魔――セリカの肩に乗るアイレ・メネシスが知らせてくれるはず。
あの古き朋友ならばそこから状況を正確に理解し、臨機応変に対応するだろう。
無論、セリカの身に万が一が起こった場合も想定して――。
『……行こう』
魔神剣を握りしめる。
余計な考えを今は捨て、セリカは飛行生物の内部に入った。
◆
放たれる飛燕剣。
身妖舞と鎌速剣の複合技――沙綾身妖舞。
切っ先を下げた構えから神速の体捌きで連撃を繰り出し、餌に群がるように迫る魔獣を切り捨てた。
その剣速は人であったころを越え、数百年前の自身さえも凌駕している。
一振りで魔物五体を斬殺し、次の相手が攻めに移るより先に胴を両断する。
伝説とまで謳われる片手高速剣――その本領を遺憾なく発揮し、セリカは明かりの点いていない通路を進む。
『動力が落ちているのか?』
『そのようだの』
魔神ゼフィラがセリーヌに傷を負わせていない保証はない。
一刻も早く魔神の元に辿り着かなければ――
『力量の拮抗する相手……ルシファーが居らねば、御主がここまで強くなることはなかった』
負の焦りを抱えた心を和ませるためなのか、ハイシェラが徐に話しかけてきた。
セリカはそんな相棒の不器用な気遣いに僅かに口の端を上げ、しかし言葉そのものは素気なく返す。
『だろうな』
神殺しに剣技で敵はいない。
もしそうなってしまっていたら、セリカはそれ以上強くはなれなかっただろう。
何しろ相手がいないのだから、技を磨こうにもそれがどの程度有効なのか分からない。
むちろんそれは逆も然りだ。
『ルシファーも御主が居らねば技を昇華させることはできなかった。……しかし、ルシファーもなかなか強かだの』
『恍舞剣だけかと思えば、まったく……飛燕剣のいいところだけ盗んでいくなんてな』
『“風鎌剣”は相応の剣才が無ければ扱えないとはいえ、所詮は人間のための剣技。
あやつや御主が扱うには、想定した担い手の能力に差があり過ぎて、今ではもう扱い難い。
それに、技を繰るくらいならば力でねじ伏せた方が――っ』
開けた空間に出たセリカが魔法剣を振るおうとしたため、魔神剣ハイシェラはそこで心話を一度切る。
セリカの尋常ならざる闘気が物質化し斬の属を得た剣技に、電撃の秘印術が付与される。
その名を――雷光滅鋼斬。
稲妻の刃は特殊金属でできた床と壁を焼き、一直線にかつてブレアードの生み出した魔獣の軍を切り裂いていく。
『――手っ取り早い。だからこそ上位魔神の高い身体能力に相応しい流派が必要になったわけだ』
『……俺の飛燕剣か』
『うむ、あやつが直接その目で見てきた“御主が使う飛燕剣”
それこそは風鎌剣の昇華剣技――“フウレンケン”を形にするための参考にうってつけじゃった。
……風鎌剣の極意を集約した“黒天風鎌剣”のキレを見る限り、未だ昇華仕切れていないようじゃがの。
あれが真に御主の“枢孔飛燕剣”と並んだ時、“フウレンケン”は完成するのであろう』
技というのは、本来弱いものが強いものに勝つために考え出されたもの。
だから当然、強者に分類される古神であるルシファー。
彼にとって担い手に神格者までを想定している風鎌剣を不満に思うようになるのは、時間の問題だった。
ディル=リフィーナに降り立った直後は兎も角、セリカと旅を初めて数百年は経つ。
当然扱う魔力の量も増え、風鎌剣が本来の型を離れていく。
それは古神であるルシファーの身体能力に、剣術が合わなくなってしまったことが原因だった。
だからこそルシファーは、同等の身体能力を持つセリカの“飛燕剣”に着目した。
――古神という超常存在の肉体を得た人間に適応する、その剣技に。
セリカに教えを請い、その上でルシファーは風鎌剣を基盤として、自分のための新たな型を模索する。
そうして生まれたのが、両手剣という重武装には本来あり得ない高速体術を併用。
刹那の間に繰り出される切り替えし回数を増やした剣術――“風鎌剣”だった。
『古き言葉で読み方だけを変えたのは、あやつなりに思う所でもあったのであろう』
『名はそのものの本質を表し、個を確立させるためのもの、か……。
確かにあれは“かざかまけん”を土台にしている。
誰かに教えるとしたらその会得無くして習得できるものではないから、なっ!』
確か元は慈悲の女神の言葉だったなと思い出しつつ、セリカは足に力を入れた。
魔剣が妖しく輝き出し、一瞬体がぶれたように揺らめく。
すると、その場から二人のセリカが現れ左右に駈け出した。
「――!」
魔獣たちの驚く様を無視して、二人のセリカは同時に襲い掛かった。
円舞剣――高速体術による包囲攻撃。
中でも神殺しのそれは分身をも可能にする。
どちらに攻撃するか戸惑った魔獣たちは、しかしその一瞬の逡巡は致命的な隙となった。
流れるような体捌きでセリカは斬撃を放ち、駆け抜ける。
細身の身体から繰り出されたとは思えないほどの振り降ろしの威力に、鋼鉄の床が砕ける。
受けた斬撃の重さで魔獣が吹き飛ぶ。まるでその様は、暴風の中の木の葉のよう。
最後の魔獣を同時に斬りつけ、二人のセリカは一つに戻る。
そして――紡がれる言霊。
「――“リーフ=ファセト”――」
巻き起こった稲妻が、紫電の残像と共に狂乱の場を創り出す。
ルシファーの魔力操作を参考に、更なる研鑽を積んだ結果、その威力はかつての比ではなくなっていた。
雷嵐に薙ぎ払われ、発生した衝撃波に蹂躙され……やがて広場に蔓延っていた魔獣の気配は完全に消失した。
『雑魚は粗方倒した。魔神の気配は――』
『――我の感覚でも上だの。……セリカよ、いくらセリーヌ嬢ちゃんが心配とはいえ、天井をぶち破ろうなどとは思ってなかろうな?』
『……』
『その沈黙はなんだのっ!』
『いや……先を急ごう』
『おい、セリカ!』
それからセリカは、内部の部屋を一つずつ確認していった。
元は輸送物資の運搬を行っていたらしく、中には錬金術のための素材などが無造作に放置されている。
ハイシェラに悪党だの、などと揶揄されながら回収していると、ある部屋の先で転移装置を見つける。
どうやら動力を供給している広場に繋がっているらしい。
転移した先でセリカは動力装置を起動させると、最上階に至る通路の閉鎖された扉を解放した。
それから黒鉄の扉の前まで行き、道具袋から取り出した治癒女神イーリュンの秘薬で傷を癒す。
セリーヌがいれば、こんなものに頼る必要もないのだが……。
よく考えもせずにそう思ったセリカの口から――ふっ、と微かな笑みが零れた。
……ああ、俺はあいつを守っていたつもりだったが、本当は頼りにしていたのだな、と。
『この先か』
『……やれやれ、面倒なことをしてくれるものじゃ』
『さっさと終わらせる』
『油断するでないぞ』
ハイシェラに分かっているとぞんざいに返し、セリカは階段を上り始めた。
◆
セリーヌ・フェミリンスは今を嘆くのではなく、むしろ怒りを感じていた。
セリカの抱える“寂しさ”を少しでも和らげたいと旅に同道した。
だがこうしてあっさり魔神に連れ去られ、飛空艇の中枢と思しき場所の壁に、以前のエクリアのように触手で磔にされている。
かつては病に臥せっていたとはいえ、彼女とてフェミリンスの血族。
いくら普段温厚だとしても、そういう気の強さも当然持ち合わせている。
だからこそセリーヌは憤る。
――何の為に魔術を学んだのか。
自分が愛した相手に迷惑をかけてばかりいる己の不甲斐無さに、憤慨せずにはいられない。
しかし――
「…………」
セリーヌはその感情を表には出さず、己を浚った魔神をじっと睨む。
元来、その気性が表に現れ易い姉や妹とは違い、彼女は怒りを覚えながらも、冷静に事態を把握できる器量の持ち主だ。
この場で魔神――ゼフィラに怒りの矛先を向けても、手足が動かない自分ではただ嬲り殺されるだけ。
今直ぐに打つ手がないのならば、下手に刺激せず周りの変化を待つしかない。それが自分にできる精一杯のこと。
そう判断して、時間稼ぎのためにゼフィラの戯言に耳を貸す。
「まったく、パイモンに話を持ちかけられた時はどうしたものかと思ったが、こうもうまくいくとはな。
喜べ、フェミリンスの娘。貴様の主は見事にこちらの誘いに乗ってきたぞ。
後は“神殺し”を倒し肉体を奪えば、もはやザハーニウらと行動する意味はない!」
言葉の端から情報を得る。
どうやら魔神ゼフィラは魔神ザハーニウの元を離れ、魔神パイモンに協力しているらしい。
魔神パイモンは確か――ルシファー様を魔王に仕立て上げようと画策していたはず。
なるほど、つまり彼女はセリカとの一騎打ちの場を作ってやるから、協力しろとでも魔神パイモンに言われたのだろう。
そして実際にセリーヌが浚われた時、幻術を使って一緒にいたエクリアを足止めをした。
だが魔神パイモンからすれば、ゼフィラが勝とうが負けようがどうでもいい。
……いや、この慢心した魔神に負けるセリカではない。
そこまで考えているのだとしたら、ゼフィラはセリカの足止めのための捨て駒。
つまり、本当の狙いは……。
「しかし、まずは手始めに貴様を殺すというのも良いな」
そう告げると、魔神ゼフィラは指を鳴らした。
直後、セリーヌを捕縛していた触手が解け、彼女は飛空艇の床に投げ出される。
「一番色濃く受け継ぐ者ではないとはいえ、貴様もフェミリンスの末裔には違いない」
「――っ!」
思わず身構える。
ここ数年の間に分かるようになった、姉であるエクリアとは違う腹を空かした獣のような純粋な殺気――暴威。
冷たい汗が吹き出し背中を伝い、セリーヌは自分の顔が強張るのを感じた。
だがそれでも決して引き下がりはしない。この程度、耐えられずしてどうする!
マータ砂漠の迷宮でハイシェラが言った言葉、それが今こそ試される時だ!
――覚悟を決める。
「余興だ。少し遊んでやろう!
……ああ、飛空艇のことならば案ずるな。制御装置には強固な障壁が張ってある。さあ、立て!」
武器――魔導銃プレシアは取り上げられてはいない。
身体――縛られていたためか、腕や足が痛むが戦えないほどではない。
相手は魔神。無傷で勝つのはまず無理だ。
しかし、敵は態々セリカがこの飛空艇に侵入したことを教えてくれた。
ならばセリカがここに至るまで時間稼ぎができればいい。
「……っ!」
腰のホルスターから魔導銃を抜くと同時に、腕組みをして空中に留まっているゼフィラの羽を狙って撃つ。
「奇襲か! だが甘い!」
魔導銃から放たれた魔弾は"狙い通り"体全体を覆ったゼフィラの翼で弾かれる。
この瞬間、この手の魔物は翼が邪魔になってほんの僅かな時間攻撃ができない。
セリーヌは続けて得意とする火炎系の魔術、メルカーナの轟炎を唱え――
「人間が……私をなめるな!」
通常の魔物や下級魔神であったならば、それは高位魔術を唱えるのに十分な隙になっただろう。
しかし相手は、下位とはいえ深凌の楔魔の二つ名を持つ中級の魔神。
その身体能力は並みの魔族を凌駕し、あったはずの必殺の瞬間は得られなかった。
「ふ、ぐッ……!」
声に鳴らない悲鳴を上げて、セリーヌは喉から血を逆流させる。
防御の体勢から常識外の速さで一気に間合いを詰めたゼフィラの拳が障壁ごと腹を抉る。
そのまま壁に叩きつけられ、しかし咄嗟に秘印術を未完成のままゼフィラ目掛けて解放した。
「……ちっ!」
追撃を仕掛けようとしたゼフィラは機先を制される形になったが、一度後方に飛んで距離を取った。
その顔が、予想外の好敵手にあったかのように僅か喜悦に歪む。
「ただの糧かと思ったが、神殺しの使徒というのは伊達ではないらしい。
だがおしいな。並みの魔物ならば兎も角、貴様程度では私に傷を付けることは不可能だ」
「う……く……」
侮っていたのはセリーヌの方だった。
心の何処かで、セリカが圧倒した相手なのだから、それほど強くはないだろうと思っていたのかもしれない。
だがそうではない。
この魔神が弱いのではなく、セリカが強過ぎるのだ。
「どうした。まさかいくら弱いといっても、ただの一撃で終わりというわけではあるまい。
仮にもあの憎らしい姫神の系譜というのならば、もう少し私を興じさせてみろ」
勝手なことを言ってくれる。
だが、確かにたった一撃で終わるわけにはいかない。
私はセリカ様の使徒――いや、それだけが理由ではない。
病弱だったこの身に人生をくれたあの人。
セリカのために生きると決めたのだから、こんなところで……
「……こんなところで……死ぬわけにはいきません!」
「ならばせいぜい足掻いてみせろ!」
足掻く? そうだとも。
自分にできることは、治癒と防御だけ。
ならば最後まで足掻いてやろう。きっとあと少し。あと少しであの人が……
「燃え盛れ、白き聖炎!」
ゼフィラが翳した掌から繰り出された“ケシェスの聖炎”
セリーヌは、放たれたそれより威力は落ちるが詠唱速度が速いマナの轟炎を放ち、直後にその場から離脱する。
当然ぶつかり合った直後に、ゼフィラの炎がセリーヌの炎を突き破ったが、威力の減退には成功した。
着弾した聖炎はその周囲を焼き払う。だが、セリーヌが移動した場所にまでは至らない。
「小細工を!」
言葉とは裏腹にゼフィラは笑みを浮かべ、今度は接近戦を仕掛けてくる。
セリーヌは元々後衛であり、魔術戦以外は苦手としている。接近を許すわけにはいかない。
「罪深き者に裁きを!」
セリカから教わった電撃系の魔術――贖罪の雷を解き放ち、迫るゼフィラを妨害する。
同時に魔導銃で牽制しながら、大竜巻の詠唱に入る。
「くっ! 近付けん!」
二度の過ちは犯さない。
ただの牽制で時間を稼ごうとしたのが間違い。
ゼフィラ相手ならば、最初から全力を出し切るべきだった。
「風よ、逆巻き捉えよ!」
魔術が発動した直後、制御室全体を障壁が覆う。
大竜巻――この魔術もまたセリカに教わったもの。
その効果は、対象を切り裂くだけに留まらない。
セリカから受け取った魔力を用いたこの大竜巻の中にあっては、魔神ゼフィラであっても束縛される。
「……女神アストライア。力を貸してください」
セリカが本当に心から愛している人。
自分では代わりにすら慣れない人。
それでもいい。それでもあの人は助けに来てくれている。それで十分だ。
だが、このまま足手纏いで終わるのだけは嫌だ。
だから私のためではなく、あの人のために力を貸してほしい。
そんな思いが、果たして今は何処にいるやも知れぬ女神に届いたのだろうか。
セリカに繋がっている魔術的なパスを通して、アストライアの魔力がセリーヌに流れ込んだ。
――星芒より出でよ、“星姫の聖炎”
虚ろな瞳のセリーヌの発した言霊と共に発現する聖なる炎。
それは大竜巻を覆う様に巻き起こり、やがて内側に閉じ込められたゼフィラに達する。
「――――ッ!!」
音に成らない絶叫。
劫火と呼ぶのも生ぬるい、全てを焼き尽くす神炎の裁き。
発現すると同時にセリーヌの目に光が戻り、しばし彼女は呆然とその光景を眺めた。
だがそれも僅かな間のこと。すぐに押し寄せてきた竜巻と炎が生み出す熱風に飛ばされぬよう、彼女はすぐに姿勢を低くし身構えた。
その間にも生きているかのような炎が踊るように舞い、逃げ場を失った魔神を焼き尽くしていく。
そして……
やがてあれほどまでに猛っていた炎は収まり、炭化した飛空艇の壁が姿を現した。
魔神ゼフィラは、
「……おのれ……ッ! 人間風情がよくも私に傷を負わせたな……ッ!」
――顕在だ。
犠牲にしたのか、確かに右腕と左足が炭化しているが、その程度で済むなど、真に女神の炎であったならばあり得ないことだ。
しかし魔術を行使したのは人間。故に発現したのは女神の力の一部――厭くまで神聖魔術の一種に過ぎない。
魔神に傷を負わせることはできても、一撃で滅ぼすには至らなかった。
「もはや余興などとは思わぬ。“神殺し”より先にフェミリンスの娘、貴様を殺してやる。その上で女神の力を奪ってやろう!」
絶対絶命とはこのことを言うのだろうと、何処か冷静にセリーヌは思う。
先ほどの無意識の魔術行使のせいで、扱える魔力はもうない。……ここまでか。
いや、諦めてはいけない。
今は亡きカルッシャの王宮。そこの自室で読んだ物語の主人公――勇者は、どんな絶望に相対しても決して諦めなかった。
仮令、機械仕掛けの神のいない“トラゴイディア”であったとしても、最後の最後まで彼らは戦った。
もちろんそれは“勇者”に限ったことではない。
彼らを信じて待ち続ける“お姫様”もまたそうだ。
子供のころの自分は、置かれた身の上もあったから尚更、彼女たちの方にこそ憧れたものだったが、
そんな“彼女たち”も“彼ら”のように諦めなかったから、最後には勇者に会えたのだ。
ならば私も、勇者を信じて最後まで戦おう。
奇跡など起こらなくてもいい。自分はここで死ぬかもしれない。
それでも運命を踏破するには、絶対に諦めることだけはしてならないのだから。
「魔神ゼフィラとかいったか。随分と都合のいい話だな。そんなこと、俺がさせると思っているのか?」
『三流魔神の分際で女神の力を奪わんとするとは……小娘がよくもまあ、ここまで増長したものだの』
……やはり、あの方は来てくれた。
「……待たせたな、セリーヌ」
優しいあの声の主が近づいてくる気配がする。
耳に届いていた足音が途切れ、少し冷たい掌が体に触れた。
それだけ。たったそれだけのことだというのに、何処か安心した気持ちになる。
「セリカ……さま……」
勇者の名を擦れた声で呟き、そこでセリーヌの意識は途切れた。
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