セリカの腕の中、旅服を鮮血に染めながらも、セリーヌは安心したように目を閉じている。
彼女の傷付いた柔肌に触れ、傷薬を丁寧に塗っていく。
そうしている間にセリカは、己の内に今まで以上の激情が沸き起こるのを感じていた。
「邪魔をするな、神殺し。貴様の相手はそいつを殺してからだ」
がたん、という大きな音。
どうやら魔神が飛空艇を操作し、離陸させたようだ。
誰にも邪魔をさせる気はないという意思表示なのかもしれなかったが、セリカは気にも止めなかった。
「お前の戯言など聞く気はない」
「なに……?」
ゆっくりと顔を上げ、セリカは魔神を見据えた。
炭化した手足を認め……衝動のままにセリーヌの髪を撫でる。
セリカは、ふいにそうしたいと感じたのだった。理由など、当然分からなかったが。
それから彼は、壊れ物を扱う様にセリーヌを床に横たえた。
彼女の穏やかな表情に、息をすうっと吐き出す。
肩に乗っていたエクリアの守護妖精――アイレ・メネシスが、セリーヌに治癒魔術をかけ始めたことに気付く。
宜しく頼むと目で合図をすると、そのまま魔神剣を握り直し、改めてゼフィラと対峙した。
「ここからは、俺が相手になる。待ってやるから、その無様な体をさっさと修復しろ」
「……っ! ふん、後悔するなよ!」
飛空艇の壁から、淀んだ魔力がゼフィラに集り始めた。
セリカの眼前で、魔神は徐々に淡い橙色の光に包まれていく。
自分のものではなく、おそらく飛空艇に蓄積している魔力を己のものとする。
そしてそれを利用して体を治癒しているのだと、セリカには分かった。
というのも自身、女神の体になってからはよく使う方法だったため、魔神の周囲で起こっている変化を感じ取れたのだ。
「さあ、これで仕切り直しだ。折角の勝機を逃したな!」
「何度も言わせるな。貴様の戯言など聞く気はないといったはずだぞ。さっさとかかってこい」
「……き、きさまあああっ――!!」
流れるような軌道で、ゼフィラが迫る。
しかしセリカは、その動きの全てを正確に捉えていた。
向かってきたゼフィラの拳を紙一重で躱し、気合を入れる声も出さずに一閃。
それが咄嗟に距離を取って避けられたと分かるや否や、追撃の剣舞を繰り出す。
「ちいっ!」
悪態を吐くゼフィラを尻目に、セリカはぐっと足に力を入れ、体内の神気を練り起こした。
それは分身包囲攻撃"円舞剣"の精度を高めた上級技、沙綾円舞剣だった。
四人に分身したセリカが、一人を除いて三方向に駈け出す。
「っ、それがパイモンのやつが言っていた飛燕剣か!」
セリカが練り上げた神気が凝縮され、魔神剣から青白い炎が噴き出す。
瞬間、三人のセリカは左右と上空からゼフィラに襲い掛かった。
一人だけ残っていた最後のセリカだけは、その場に留まる。
「この程度で私を討てると思うな!!」
叫びながらも周囲に炎の竜巻を起こしたゼフィラに、同時攻撃は防がれてしまう。
だがセリカは当然そんなことは予想していた。
本人知らず激昂していても、常に冷静に戦況を見ていたのだ。
やがて陽炎のように竜巻が消えていく瞬間、それを待っていたとばかりに最後のセリカが動き出す。
「疾っ――!!」
正面から、今までに倍する魔力を魔剣に込めて刺突を放つ。
しかしゼフィラはそれを、驚愕に顔を歪める間も惜しいとばかりに、転がるように左に避けた。
神速の突進はとても認識できるものではなく、だからきっとそれは生存本能だったのだろう。
一人に戻ったセリカは、倒れ伏すゼフィラをその目に納めた。
致命傷は避けたようだが、剣から放射状に放たれた衝撃波を真面に受けたのかもしれない。
ぼろぼろの体を晒し、呻き声を挙げている。
いくらセリーヌに傷を負わせたとはいえ、その姿を見て僅かにセリカは躊躇したが、意を決して魔神剣に魔力を込める。
魔神ゼフィラはフェミリンスに強い恨みを持っている。
ルシファーならばディアーネにしたように、それでも記憶を消して側に置いたかもしれない。
だが、この魔神に特別思い入れのないセリカは、そんな危険を冒す気は更々なかった。
なぜならセリカはセリーヌの主。唯の同情で魔神を助け、使徒を危険に晒すわけにはいかない。
どちらか選べと問われれば、セリカは躊躇わずセリーヌを選ぶ。
「……ッ!」
魔神を完全に滅するとなれば、相応の攻撃で臨まなければならない。
セリカは深く自分の心の中に埋没するように目を閉じ、意識を集中する。
ルシファーと共に互いを高め合い、そして何よりも“彼女”を忘れずに信じ続けているからこそ発現できた力。
急激にセリカを覆う神気が高まり、それがやがて紅蓮の炎となって周囲を漂い始める。
それは真の“聖なる裁きの炎”――セリカとサティアの絆の形。
流石に女神のように、手足の如くとまではいかない。
だがただ一撃だけならば、膨大な魔力と引き換えに行使できるようになった"星乙女"固有の能力。
セリカはそれを魔神剣に集約し、神炎の刃を解放するための言霊を叫す。
「“スピカの灼焔”――!!」
ゼフィラ目掛け、神炎が奔る。
アイドスの魔術であり、ルシファーが行使する“スティルヴァ―レ”とは桁が違う魔力の放出。
それでいて、対象とした相手以外に傷一つ負わせることのない、正義と裁きの一閃。
媒介となったのが魔神剣ハイシェラだからこそ解き放つことができた斬撃は今、神の肉体を奪わんとした者に断罪を与えんと迫る。
「ガアアアア――ッ!!」
到達と同時に轟く、獣のような絶叫。
かつて天空に輝いた、女神の化身たる星の名を冠する斬撃――その圧倒的な熱量が魔神ゼフィラを襲っている。
……終わりだ。
あの炎を受けた以上、もうゼフィラは立つことはできない。
もう記憶にはないが、確かにあの炎で神をも殺したのだ。二つ名持ちとはいえ魔神が立てる道理は無い。
セリカはそう思い、セリーヌの様子を確認するため魔神に背を向けた。
その瞬間、
決して行使者の意思以外では消えるはずのない神炎が弾け、消失した――。
◆
――彼女はその赤い瞳を細め、遠見の魔術で魔神と神殺しの戦いをじっと見つめていた。
別段、その戦いそのものに興味があったわけではない。
所詮弱者でしかないゼフィラに、神殺しが倒せるとは思っていなかった。
まさかただの一撃すら与えることなく、それどころかここまで一方的な勝負になるとは思っていなかったが……。
だが何れにしても、本来であれば見るまでもなく、ゼフィラが死にかけた時に目的を果たすために割って入れば良かったのだ。
しかし彼女は、その本来であれば不必要な注視という行為を、自分でも理由も分からず行っていた。
それはきっと彼女が蔑視する人間が、神の力をあれほどまでに引き出して見せたからかもしれない。
舞うが如く繰り出される、飛燕剣というらしい剣技。
体捌きは、彼女が好意を寄せる男に勝るとも劣らず、こと速さにおいてのみならば上回っているかもしれない。
これが、あいつが言っていた人間の……
そこまで思い、彼女ははっとして首を横に振った。
それにつられるように、長い紫紺色の髪が左右に揺れる。
――くだらない。いったい何を考えているのか。
思って……そして彼女は行動に移る。
今後の為に、まだ魔神ゼフィラに死んでもらっては困る。
女はそうして、飛空艇の内部に転移した。
◆
魔法剣“スピカの灼焔”が掻き消えた空間。
聖炎によって焼き払われたその場所に、男とも女とも思える中世的な顔立ちの女が立っている。
その衣の上からでも分かる豊かな胸には、ぐったりとして意識を失っている魔神ゼフィラを抱えていた。
艶のある紫紺色の長髪に、純白と翡翠色を基調とした、コート状の緩やかな衣。
紺色の脚絆は、太腿までを覆う短いもの。
すらっとした脚を守るように、翡翠色の長い靴下の上に、それと同じ色のブーツを履いている。
「元人間にしては結構やるね。伊達に女神は殺していないということかな?」
「……何者だ」
セリカの過去を知った上でのいきなりの挑発。
しかしそれには応じず、セリカは誰何の声を上げた。
対して相手は、姿を現したときと変わらず、相貌に不敵な笑みを湛えている。
「ふふ、君の思う通り僕は人間ではないよ」
随分と道化じみた話し方をすると、セリカは思う。
だが、それはいつだったか戦った魔神エヴリーヌのような無邪気さからくるものではない。
こいつの雰囲気から窺える空気は、場を引っ掻き回して自分のペースに持ち込むトリックスターのそれだ。
「ああ、でも確かに僕だけが君の名前を知っているのは不公平かもしれないね。
……じゃあ、ね……ビヨンデッタ……うん、僕のことはビヨンデッタと呼んでくれ、セリカ。……そして、魔神ハイシェラ」
『貴様……我を知っておるのか』
答えを期待したわけではないだろうが、ハイシェラが問いかける。
聞こえているのかいないのか。
ビヨンデッタと名乗った女は、笑みを崩さず佇むだけだった。
「それでさ、セリカ。本題なんだけど、コレの命を僕に預けてくれないかな」
「……どういう意味だ?」
「ん? 分からなかった? 分かり易く言うとね、君たちを見逃してあげるから、代わりにコレをくれっていってるんだよ」
「…………」
何という自信だろうかとセリカは思う。
この場に現れたということは、あの天をも燃やし尽くさんと言わんばかりの炎を見ていたはずだ。
それでもなお、勝てると堂々と宣言できるものは多くはない。
いや、あの炎を消し飛ばしたのがこの女ならば、そう大それたことではないのかもしれないが。
だがそれ以上に、魔神であるゼフィラを唯のモノとしか思っていないような発言こそ尋常ではない。
しかもこの女は冗談でも嫌味でもなく、本気でモノとしか思っていないのだろう。
『おいセリカ……こやつと戦うのは、今は止めておけ』
『……どうした? お前らしくないな』
『戯け、御主も分かっておろう。それほどまでにこやつは危険ということだの。
勝てると分かっている勝負はつまらんが、絶対に何をしても勝てない勝負は御主はすべきではない』
『……分かった。消耗も激しい上、セリーヌのこともある。ここはこちらが引こう』
『うむ、それが良かろう。こやつからは嫌な感じしかしない。まるで神核を鷲掴みされているような、な』
ハイシェラにここまで言わせた存在は初めてではないだろうかと、セリカは思い返した。
一番あり得そうなルシファーと会った時のことはどうだったか忘れたが、少なくともここ数百年の間はない。
嫌な汗が背中を伝うのを感じながら、セリカは口を開く。
「……いいだろう。……だが、その魔神をいったいどうするつもりだ?」
「それはね――」
ビヨンデッタの姿が霞んだ。
直後、背後に気配を感じてセリカは振り向く。だが――
「――まだ君が知ることではないよ」
トン、と背後から声の主に肩を叩かれる。
嫌な汗が吹き出し、瞬間、ぞわっと背中を怖気が奔る。
――速い。
尋常ではない移動の速さだ。
振り返ろうとした時点では、まだ確かにビヨンデッタの気配は背後にあった。
しかし、いざ振り返り視界に入るとなったときだ。
すると既に彼女はセリカの後ろを取っていた――超常の身体能力を持つはずのセリカの後ろをである。
「……化け物め」
「人間の分際で神を殺した君に言われたくないよ」
「やけに人間族に突っ掛るが、お前は人間が嫌いなのか?」
「嫌い? そんなもんじゃないね。僕にとって人間なんていうのは――」
ビヨンデッタが何かを言いかけた瞬間、ガクンと飛空艇が大きく揺れた。
足を縺れさせながらも何とか立っていたセリカは、セリーヌの方に目を向ける。
どうやらアイレ・メネシスによって治癒は済んでおり、守護妖精の性なのか、防御の結界が張られているようだった。
「これは……こいつが飛空艇に何か細工をしていたみたいだね」
そう言いながら、ビヨンデッタは抱えるゼフィラを見ると、面白いことを考えたとでもいうように笑った。
「ねえ、セリカ。僕の大切な人の朋友ならさ、この程度の苦境どうにかしてみせてよ。
今この飛空艇は、急速に大地に落下し始めている。でも君なら……彼の朋友なら何とかできるよね」
「彼……だと……?」
「あははは、彼って言ったら彼だよ。僕が唯ひとり、一緒に歩いてみたいと思えた男。
今は余計な女のせいで、くだらない感情を抱き始めているみたいだけどね。
……まあ、それはそのうちに……ね」
揺れがいっそう激しくなる。
どうやら落下しているのは本当らしい。
『セリカ、まずは直ぐにこの飛空艇を水平にするのが先決だの』
ハイシェラの言葉を聞くまでもなく、この状況から脱却するためにはそれしかない。
だが果たしてそれをこの得体の知れない女が許すかどうか。
「どうしたの? 僕のことは気にせず、さっさと水平にしたら。
本当は今すぐ、邪魔な君を殺したいんだけど、それは後の楽しみだってあいつが言ったからね。
それに約束は守るよ、僕は……」
人間とは違って――。
そんな言葉を言った気がしたが、セリカの耳にはっきりとは届かなかった。
ビヨンデッタは何かに苦笑したような表情になると、俯き首を大きく振って、再びセリカに顔を向けた。
「それじゃあね。サタネルと再会したら宜しく。まあ、僕が先に会っちゃうかもしれないけど」
そうして飛空艇から転移した彼女が最後に残していった言葉の意味を、この時のセリカはまだ知らなかった。
あとがき
次回から本編です。まあ、ルシファーサイドともいいますが。
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