其は、太古の伝承記。

 ――暁の子、明けの明星よ。如何にして天より隕ちしや――

 かつて存在した、バビロンという都の王の滅びを記したものだ。
 
 ――諸々の国を倒しし者よ。如何にして斫れて地に倒れしや――

 だがそれはいつしか、一対の意思総体を持つ、とある魔王を謳ったものと認識されるようになる。

 ――汝先に心中に思えらく――

 いや……現にその魔王が存在していた以上、最初からあの“大戦(おおいくさ)”をこそ語ったものだったのかもしれない。

 ――我、天に昇り、我、位を神の星の上に上げ、北の極なる集会の山に座し―

 事の真偽など今を生きる人間族は元より、語られた当人たる私とて分かりはしない。
 尤もそんなことははっきり言ってどうでもいい。神学者にでも研究させておけばよい。

 ――高き雲居に昇り、いと高き者の如くなるべし、と――

 重要なのは、あの“物好き”はどうか知らないが……オレ(・・)がそのように思っていたのは事実ということだ。

 ――されど、汝は黄泉に堕とされ――

 だからアイドスと共に生きる私が、もしもオレ(・・)と相対したその時は……

 ――坑の最下に入れられん――

 やはり、戦わざるを得ないのだろう――己が存在を賭けて。

『ルシファー様、どうかなさいましたか?』
『いや、大事ない。少し昔のことを考えていただけだ』
『……そうですか。……やはり、魔神パイモンが?』
『過去を思い出した原因は間違いなく奴だろうな。
 だが今まで何の興味もなかったというのに、こうも頻繁に……』

 何か別の要因があるのか……いや本当は分かっている。
 それはこの地が、私の肉体の封じられている場所に一番近いため。

 そして――

『何か、私が過去を思い出さなければならないようなことが起こる前触れなのか。
 ……いや、荒唐無稽だな。たかが懐旧の念だけでそこまで――』

 しかしリウイたちと邂逅した宮殿に出向く前に見た夢のこともある。

『そういえば――』

 結局パイモンは、本当は何をしに宮殿を訪れたのだろうか?

 魔神ネルガルとの同盟のためというのも一つの理由だ。
 しかし奴はネルガルが敗北するのを座して待っていた。
 確かにあの戦闘の中に飛び込むのは自殺行為だったが、転移で逃げ立て直すなり、やりようはあったはずだ。
 しかし実際には、ネルガルは再封印され、深凌の楔魔は重要な拠点を失った。
 つまり大局的に見ても、局地的に見ても、パイモンの行動は結果的に無意味だったことになる。

 私やリウイに会うため?

 それこそまさかだ。
 ただ会うだけならばいつでもできる。
 そんな意味のない行動を、あの謀略家がするはずがない。

『――ん?』

 私は何か、重要なことを見落としているのではないか?

 ――楔魔と魔神ネルガルとの同盟。

 ――アザゼルとして現れたパイモン。

『そして、拠点陥落にも関わらずあの余裕……』

 私を魔王にするとは言っていたが、その前に自分の身が危険に晒されては元も子もない。
 パイモンは忠誠を誓った主のためであれば喜んで命を差し出すが、それ以外では強かだ。
 仮に楔魔が敗北の末離散することを承知していたのだとしても、新たな身の振り方は考えているはず。

 奴は……あの戦いの後、南の空に消えた。
 ケレース地方から南となると、アヴァタール……そしてディジェネール地方に至ることになるのだが……。
 いくら奴が“神に強くされた者(アザゼル)”であったとしても、
 あの辺境の山脈地帯を跋扈する獰猛な魔物共を束ねられるとは思えない。
 それが可能なのは、それこそ熾天魔王か、黒翼天魔。或いは――

『――まさかな』
『さっきから何を言っているの?』
『ん? 大したことじゃないさ。何にしても実際起こらなければ、何度考えても無駄ということを理解しただけだ』
『よく分からないけど……なら、早くこの森を出ましょう。あまり長居したい場所でもないし』

 それもまあ、そうだ。
 薄暗く、僅かに血の臭いさえする陰気なケレースの樹海に、いつまでも居たがる者はここにはいない
 私にとっても常と比べて五感が鈍るうえ、そこら中から殺気を感じて方向を特定できない悪環境。
 その上濃紺の瘴気が大気に滲み、純粋な魔の気配が異常に強い……やれやれ、まさに"巣"だな。

『それでエクリア、やはりここより更に北なんだな』
『はい。確かにアイレとの繋がりを感じます』

 そうか、と答えて少し考える。……確か北は渓谷になっていたはずだ。
 当時はバリハルトの開拓旅団の通り道だったから、今もそのままなら荒れた街道がある。
 とはいえ、全く人間族の手が入っていない領域の方が多いのはどうしようもないが。
 生憎と道を整備する“意味”と、それを可能にする“知性”を持った魔族は両者共にケレースには少ない。

『追いつくのは難しい、ですね……私の失態です……』
『パイモンの妨害があったのならば仕方ないさ。
 あいつの魔術は、私でさえ全て防ぐのは困難だからな』

 我ながら、慰めにもならぬ言葉がよく出たものだな。
 エイの速度と現在の状況を鑑みれば、エクリアの言は正しい。
 しかし、その事実は彼女が一番口にしたくはなかっただろう。
 セリカは兎も角、エクリアの妹であるセリーヌが無事である絶対的保証はないのだ。

『でも、貴方は追うのでしょう?』
『……お前には心配ばかりかける』

 少し憮然とした様子でアイドスが、

『そう思うのなら、私を置いて行かないで』
『アイドス……』
『うん……心配し過ぎなのは分かってるわ。でも、嫌なの……』

 落ち着いてはいるが、先の戦いがまだ尾を引いているのだろう。
 余裕のある戦いではなかったが、無茶と言うほど危険だったとは思えない。
 やはり僅かな時間とはいえ、アイドスと離れてしまったことが悪かったのか。

 だが、それは――。

 アイドスに頼られることが嬉しくないはずはない。
 しかし当人のことを思えば、あまりいい傾向ではない。

 かといって、私が何を言ったとしても真の意味でアイドスに届くことはないだろう。
 なぜなら離れたくないと思っているのは、私も同じだからな。
 ただ彼女には、彼女自身が抱いた信念だけは忘れないでいて欲しいと、強く思う。
 優し過ぎて、意外と猪突猛進で……それでも人間を慈しむことを決して忘れない、そんな彼女を私は愛しているのだから。

 ――ふと、

 心地良い甘い香りがし、隣に目を向ける。
 すると気配では感じていたのだが、珍しいことにエクリアが直ぐ側を歩いていた。
 いつもは私の後ろを控えるようについてきていたが、こんなことは初めてかもしれない。
 気になってどうしたのか訊くと、彼女は端正な顔をやや俯きがちにし、聞き取れるか否かという声量で、
 
『……何でもありません』

 そう言いつつ、今度は体がくっつくかどうかというところまで寄ってくる。
 らしくないと思うが、この森の中では彼我の距離が近い方が援護し易いので、好きにさせよう。
 ……いや、この微妙な距離感は、逆に彼女らしいか。




 
 海岸線を外れ、南ケレースの森を北上すること二日。私たちは『嘆きの渓谷』と呼ばれる難所に差し掛かった。
 周囲を切り立った崖に囲まれている山岳地帯のため見通しが悪く、また幾重もの枝分かれした脇道によって、方向を惑わされる。 
 しかし普段であればこの程度の道のり、そう大したものではない。
 リブリィール山脈やケレース地方深部など、難所という難所を越えてきている。
 だから、また同じと――そうなるはずだった。だが今、私たちは別の艱難に晒されている。
 
「――――」

 それは果たして魔物と呼んでいいのかどうか……。
 生物としてはあまりに細い胴体に、顔のない頭部。
 全身は全てを塗りつぶすかのような黒に染まり、まるで怨念がそのまま形を成したかのよう。
 例えるなら……そう、かつてアヴァタール地方を脅かし、私とセリカの手で浄化した、あいつ(・・・)の分体に似ている。
 呼び名を付けるとすれば、差し詰め“混沌生物”といったところだろう。

 そして立ちはだかるのはそれだけではない。
 偶然か、それともこれもあの男の策なのか。
 いや、要らぬ疑念は視野を狭くするだけだ。重要なのは、刃を交えている相手のこと。
 どこか鬼気迫るものを感じる彼女との戦いは、これで三度目になる。

「……なぜ、我を生かした。我はもはや、貴様の敵と言ったはずだ」
「そうしたかったから、そうしただけだ」

 対峙する相手の名は――魔神ラーシェナ。おそらくパイモンの話の通り拠点陥落に伴って、残党を率いて南下したのだろう。
 そしてそこに、偶然にも私たちが出くわした。……全く以て嫌になる。
 とはいえ、愚痴を言っていても仕方がない。セリカはこの先なのだから、何とかして突破しなければ……。

「相も変わらず戯言を……憐みのつもりか……ッ!」

 憤怒の感情をぶちまけ、ラーシェナは繰り出した袈裟切りから、返す刃で左に薙いでくる。
 それを私は紙一重で避け、大きく距離を取った。だが……。
 その太刀筋からは以前とはまるで違い、優雅さの代わりに確実にこちらを仕留めるという強い意志を感じる。
 それ故か完全には回避仕切れず、上着の紅い布を横一文字に切り裂かれた。

「っ! 単調さが消えただけで、ここまでとは……まるで別人だぞ」
『貴方が油断しただけでしょ。一度勝っていても、二度目はないかもなんて当然のことよ』
「……いやに厳しいな。油断したのは確かだが、ラーシェナ自身が強くなっているのも間違いないぞ」
『知らないわよ、そんなの。貴方の油断のせいでしょ、油断。……まったく、楽しそうな顔なんかしちゃって……』

 意志の固さがそうさせているのか……或いは数年の間に私に勝つための方法を模索したのか。
 だからといって、無論最初からそのつもりはないのだが、エクリアたちに助力を求めようにも不可能だった。
 エクリアと、私が召喚したディアーネ、ベルフェゴル、ニル・デュナミスは、混沌生物と――

「我が同朋たち……ッ! 協力、感謝する!」

 ラーシェナが率いる、おそらく楔魔の残党を相手に苦戦していて、こちらにまで気を回す余裕が無い。
 流石に雑魚が相手ならばそうそう遅れを取ったりはしない四人だが、そこに混沌生物が加わる乱戦状態な上、

「カファルーッ! まさか貴様と戦う日が来ようとはなっ!」

 顔に喜悦を張り付けたディアーネが、単身で相手取っている楔魔が一柱――魔神カファルーの存在が痛い。
 確か序列では第七位。獣の王と称される実力は、伊達ではないようだ。

『ルシファー様、私たちのことならば問題ありません。
 ニルも、ベルフェゴルもこの程度で後れを取るようなことは――』
『――ありませんわ。尤も、そこの堕天使はどうか知らないけど』
『人間と神の奴隷の後塵拝すなど、そんな無様な姿を晒すなどあり得ません。
 サタ……ルシファー様、どうぞあの無礼者に相応しき処罰を』

 戦闘中のためはっきりとではなかったが、エクリア、ニル、そしてベルと矢継ぎ早に心話が届く。
 ベルのやつが言い直したのは、私が名前というものに拘りを持っていると承知しているからだろう。
 別に呼び易いのならサタネルと呼んでも構わないのだが、ルシファーの方が好ましい。
 あの忠臣は、その意を組んだのだろうな。

『ならば任せる。……ディアーネ、加減をする必要はない。全力でやれ』
『言われるまでもないわ! 今日ここで、我の真の力を見せてくれる!』

 中途半端な力を振るい、それで余計に魔物を誘き寄せるくらいならば、
 圧倒的な力を見せつけ、関わることを躊躇させた方が戦術として正しいはずだ。
 まあ、それで別の連中を誘き出してしまう可能性も無くはないが、
 連中がこんな辺境までやってくることなど、余程のことがなければあるまい。
 そんなことを考えながら、ラーシェナとの距離を間合いの外ギリギリに保ちつつ飛翔していると、徐にラーシェナが話しかけてきた。

「我はな、ルシファー。武人としての誇りを掲げてこれまで戦ってきた。
 だがお前に……よりにもよって、現神の下僕に加担したお前に情けをかけられた瞬間、その全てが砕け散ったのだ。
 仮にも熾天魔王たるあの方の神名を継いでおきながら、誰かに組するというその所業――どうしても我は許せぬ!」

 遅れずについてくる後方のラーシェナに向かって、神聖魔術“烈光流星(ルーアハ・カドシュ)”を放つ。
 無詠唱の牽制とはいえ、並みの魔物を屠るには十分過ぎる大魔術は――しかしその全てが薙ぎ払われた。
 光の流星群は、体を弧を描くように横に回転させて放たれた斬撃によって撃ち落とされ、

「しかし我はそんなお前に敗れた。全力で戦ったにも関わらず、敗北した……それだけならば、まだ良かった……。
 我は戦場に生きる者なれば、戦場に散るのは本望だからな。
 だが、我は貴様に……光に組した貴様に……許せぬはずの貴様に、こうして命を救われてしまった! 
 この惨めさが貴様に分かるか!」
「生きることが惨めだと、お前はそう言うのか?」
「そうだ! 誇り無き我が生に意味など無い!
 ならばせめてザハーニウへの手向けに、貴様とメンフィル王の命を狩って果てよう!」
「……戯けが」

 なるほど、強いわけだ。
 最初から死んでいる(・・・・・)のならば、もはや誰にも殺せない。
 だが、生きることが惨めだと?

「随分と甘ったれたことを言うのだな」

 だが彼女にこうさせてしまったのは……私、か。

 そのまま突っ込んできたラーシェナの斬撃を違わず捌き、私は即座に高速剣“ウェングス”を繰り出す。

「それはもう見切った!」

 言葉通り、ラーシェナは大剣の重い連撃を、見事その細い刀で受け流して見せた。
 ……やはりだめだな。型が合わないせいなのか、全力を出し切れない。
 
 速度がセリカの飛燕剣に遠く及ばない。破壊力が私の望むほどに達していない。
 攻撃後の隙が大き過ぎる。……せめて後一手、セリカの飛燕剣だけではなく、大剣技の闘気運用法を見ることができれば……いや、

「聊か癪だが、打ってつけのが目の前にあった」

 できるかどうかなど分からない。なにしろ今初めて試すのだから。
 だが、できないとは思わない。別に技を模倣するわけではなく、ただその闘気の流れを感じるだけ。
 そしてそこから、新たな闘気術を会得――それを、今この場で実行する。

 土台はある。
 数百年の間に飛燕剣を観察して編み出した技が未だに未完成なのは、飛燕剣の闘気術が厭くまで片手剣用のものだったから。
 だからこそ、風鎌剣(かざかまけん)を基にして、大凡の運用法のイメージはしてきた。
 後はどれだけ私に才があるかだけだ。

 さあ、よく見ろ。ラーシェナはどのように闘気を扱っている。
 十六夜剣舞――参考になるこれ以上の両手高速剣はない。
 決して見逃さず、己がものとせよ!

「――くっ!」

 痛みが奔る。集中するあまり、回避が間に合わずに斬られたらしい。
 左の脇腹から流れ出る血に思わず顔を顰める。

「何やら考え事をしていたようだが、そんな暇があるのか?
 油断も慢心も捨て、己の身を犠牲にすることさえ厭わぬ我にその余裕。借り物の力しか持たぬ貴様が、自惚れるのも大概にせよ!」
「借り物……か。私もずっと、それだけだと思っていたのだがな」
「――なに?」
「それにしても犠牲……身を削って能力を強化しているわけか」

 傷口を抑え、治癒魔術をかけつつラーシェナの姿をよく見れば、尋常ではないほどの汗が額から流れている。
 おそらく禁呪の類だろう。思えば、ベルゼビュート宮殿で戦った時、ラーシェナと私の力の差は歴然。
 全力で当たれば無傷で勝利できる……それだけの確たる差があった。
 にも関わらず今は互角の勝負をしている。いくら強い意志があったとしても無理がある。

「そうまでして、戦うか」
「そうだ。これが我の、魔神ラーシェナの“矜持”だ」
「私の前で“矜持(プライド)”とはまた、随分大きく出たな」
「あの方ではないお前には、関係あるまい」

 ラーシェナはどうやら、私が本当は何者なのか、知らないようだ。パイモンが教えなかったのだと思う。
 この際、その理由はどうでもいい。何れそれも纏めて奴に聞けばいいだけだ。
 今はそんなことより、こいつを止めねばなるまい。こんな(・・・)気に入らない姿にさせてしまった、私の責任として。

「違いない。なら、私がこうしても何も問題ないな」

 ――さあ、行くぞ。

 型はウェングス。だが、速度、威力、共に昇華されている。
 十六夜剣舞の闘気術、飛燕剣の体捌き、そして風鎌剣の型を合一させた独自の新たな剣技。
 風鎌剣(フウレンケン)、その『連の型の初歩』――“瞬連舞”。

「――成った」

 豪風と共に放たれた超速の斬撃は、迎撃せんとしたラーシェナを刀ごと斬り刻む。
 その威力によって、飛翔した状態から更に上空へ彼女は打ち上げられる――その直後のことだった。

 黄金の左右非対称の紋様が突如眼前に浮かび上がり――

 ――瞬間、世界が割れた。



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