外界と遮断された未開の地でありながら、それでもまだ世界の一部であった嘆きの渓谷。
 乾燥した土の舞う荒野の広がっていたその一帯は、今はもう見る影もない。
 自然の厳しさを具現化したかのような土地でも、まだ生命を感じられたというのに、
 今あるのは生命とは呼べないようなモノ――混沌生物だけが蠢く死の世界だ。

 神の墓場とそう、誰が名付けたのか。三神戦争で滅び、また処刑された神々の眠る大地。
 そう言えば聞こえはいいが、要するに遺骸を奉られることを恐れた者共が創り出したごみ捨て場なのだ、ここは……。
 そんな場所なのだから、当然気分がいいわけがない。
 行く手を阻む者を退け進む道中に、まだ神殿の内部のため同胞の痕跡は見つからないが、
 肌を撫でる気持ちの悪い風の心地と、時折耳に届く異形生物の声だけで、この場にいたくないと思わせられる。
 混沌という属に耐性があるはずの私でさえこれなのだから、いったい慈悲の女神にはどの程度の影響があるのか。
 少なくともベルゼビュート宮殿の比ではあるまい。

 怯える――そんな感情は、私にとって屈辱でしかないが、
 戦いが得手というわけでもなく、場慣れこそしていても本質的に争いに向かない彼女にとって、ここは地獄のはずだ。
 なぜなら、我ら“神”と名の付く者にとって、神の墓場にいるということはつまり、
 人間が四肢を縛り上げられ、魔物の徘徊する遮蔽物など何もない平原に、身一つで放り投げられたようなものなのだから。

「……」

 しかし、だからといって解決策があるわけでもなく、私は沈黙するしかなかった。
 神の墓場という、一つの“世界”が及ぼす影響を遮断する力は私にはない。
 現神に並ぶほどの信仰力でもあれば話は別だが、ディル=リフィーナでそれは望めまい。
 ……望めないように、現神が変えてしまった。

「しかし一時とはいえ、まさかフェミリンスと行動することになるとは思わなかったぞ」
「……私は何となくこうなるのではと思っていましたけれど」
「ああ……そういう傍若無人なところはかつての主と瓜二つだからな……まったく」

 暗い感情が胸の奥で渦巻き始めようとしたころ、そんな二人の会話が耳に届いた。
 私を気遣ってなのか、魔術主体から連接剣での攻撃主体に切り替えたエクリア。
 そしてもう片方は休戦を受け入れ同道している魔神ラーシェナである。

「……その、ラーシェナ」
「なんだ、フェミリンス」
「貴女は、その……私に思うところはないのですか?」

 様々な思惑から僅かに警戒の色を含むエクリアの問いは、当初私も懸念していたことだった。
 エクリアの先祖である地方神フェミリンスと、深凌の楔魔は長きに渡り敵対関係にあった。
 それ故、いくら休戦協定を結んだとしてもそれは私とラーシェナの間のもの。

 魔神ゼフィラの態度を鑑みれば、ラーシェナが再び刀を向けることも考えられ、
 しかしそれを承知でなお、問題ないと判断してラーシェナたちとの休戦を望んだ訳なのだが……。

 敵の施しは受けぬと私の治癒魔術を拒み、パイモン辺りが用意したのであろう魔法薬。
 それで傷を癒した彼女は、同胞であるはずのベルフェゴルとは一度だけ視線を交わした程度。
 能天使であるニルとも互いに興味を示さず……では肝心のエクリアはどうなのかと言うと、

「ないといえば嘘になるが……お前が想像しているのはゼフィラだな。
 我はあいつとは違う。フェミリンスには恨みより戦士として敬意を以て戦っていた。
 それをブレアードめ……あのような搦め手で征しおって……。
 無論馴れ合う気はないが、特別憎いとは思わん。むしろ諸共封印したブレアードこそ我は嫌悪する」

 ……どうやら、杞憂だったようだ。
 同胞であるベルは言葉を交わさずとも意思疎通はできるだろうし、
 私と契りはしたが今も能天使の位階に身を置くニルとは、言葉ではなく剣による対話しか望めまい。
 故にどちらの場合も互いに不干渉を貫くというのは予想できたのだが、エクリアにどう接するかだけは分からなかった。
 しかしこれならば、むしろディアーネと協力することの方が困難かもしれないな。

『おい、ルシファー。また我を分別のない獣と思ってはおらぬだろうな?』
『違うのか?』
『この……大馬鹿者めが!』

 思ったことが伝わってしまったらしい。
 ベルやディアーネ、そしてニルとは契約を結んでいるため魔術的繋がりが強く、
 意図せずにこちらの思考が朧気ながら伝わってしまうことが時々ある。逆もまた然りだが。
 おそらくセリカも同じなのではないだろうか。

『我が戦を好むのは確かだ。だがな、こんなところで仕掛けるほど愚かではない』
『つまり場所が良ければ仕掛けたのだな?』
『うっ……そ、それは否定はしないが、だが我は決してエヴリーヌのような猪ではない。
 あれは“動くものには取り敢えず攻撃”というほどに、猪突猛進だったぞ』
『エヴリーヌ? ああ、あのベルゼビュートで襲いかかってきた魔神か。あれは獣というより、精神が子供なだけだろう。
 ……というかお前、封印されて“世界”を知る時間すらなかった魔神と自分を比べるつもりか?
 それは、最初から勝つことが分かりきっている闘争に勝利して悦んでいる道化と何ら変わらないぞ』
『い、いや、我はだな、その……ええい、五月蠅いわ!』

 それきり、ディアーネから返答はなかった。

 彼女は弱者を嬲ることにも愉悦を見出す。
 だが、それでも戦いに矜持がないわけではない――でなければ私が使い魔にするはずもない。
 そしてその矜持を刺激されたからこそ言い淀んだディアーネは、

『逃げたわね』

 黙って聞いていたアイドスの言うように逃げたのだろう。
 何とも情けない気がしないでもないが、私が愉しかったので良しとしておく。
 やはり、あいつの拗ねる姿はなかなか――

『ルシファー?』

 そういえば、アイドスとも魔術的繋がりはあったな……。

『ああ、さて――先を急ぐか』
『……ふふふ』





 襲い来る物質化した瘴気のような魔物――混沌生物を切り捨てる。
 どろどろに溶けた気味悪い物体を純粋系魔術で薙ぎ払い、常に比べ拙い感覚を総動員すれば次なる敵の気配。
 身を捻って振り向き様、接近してきた比較的生物のように見えるもう一体を神剣で縦に割った。
 だが振るった剣技は風鎌剣(フウレンケン)とは呼べない代物だ。

 風鎌剣は飛燕剣を基にしている特性上、連続剣である瞬連舞系、一撃重視の絶影斬系、広範囲を強襲する恍舞剣系。
 そして更にそこから派生した分身しての包囲攻撃に分類される。

 最後以外は形として風鎌剣(かざかまけん)と何ら変わらないのだが、闘気の量、体捌きの速度、斬速――。
 何れも神の力を失ったままでは再現できない領域にある業だ。
 即ちここ(・・)では例え型を取ったとしても、隙が大きく“強者を打倒する”という剣技本来の主旨が成立しない。
 仕方なく私は惜しいと思いつつも、今ある自身にできる精一杯の動きで剣を振るうに留めていた。

「以前から気になっていたのだが、それは人間の技か?」

 ラーシェナの唐突な問いかけに、答えるのを僅か躊躇う。
 私は口の達者なパイモンやルキフグス――
 そして曙の明星(我が父)やかつての“オレ”も一目置く“あの女”とは違う。
 結局、そのまたも波紋を起こすだろう問いには、首を縦に振るしかなかった。

「レウィニアで戦っていたころに、な」
「……パイモンから聞いてはいたが、本当に水の巫女に従っていたのだな」
「お前がどんな話を耳にしているかは知らないが、私はただの一度でも他者の配下になった覚えはない。
 自らの意思で力を貸すだけならば兎も角、私が従属するなどあり得ない」
「だが水の巫女の頼みに従っていたのならば、従属も同じだろう。
 ……仮にも魔族の王の名を称していながら、お前は――」
「――だからこそだ。あいつの名を名乗る私だからこそ、全ての決定は私の意思でなければならない。
 それこそ、私の行動を一々指図される謂われはない」
「だがっ! ……いや……これ以上は止めよう。貴様の、志操の固さを知らぬ我では……ない!」

 深い溜息と苦笑と共に、予想通りの言葉を口にしたラーシェナは片手間に敵を屠りながら、
 私同様、弱体化した身体能力で以て、しかし変わらず吹き荒ぶ風の如き業を成す。

 縦一直線に通り抜けるように刀の切っ先を突き出した突進で敵を穿ち、停止したと思いきや飛び上がって勢いを利用して宙返り。
 そのまま下方に純粋系魔術を放つと、つい先ほどまで敵対していたというのに、戦闘では信用していると示すためか私の側に降り立つ。
 そして丁度私とラーシェナは、背中合わせで周りを囲む混沌生物と対峙する形になった。

「無駄な言い合いよりも、今は我の目的を果たさせてもらう」
「目的? そういえばお前たちは、何故こんな辺境に――っ!」

 私は大きく地面を蹴ってラーシェナと別れると、エクリアが繰る数多の氷刃に合わせて雑多共の中央に飛び込んだ。
 まるでこちらの動きを最初から知っているかのように、的確に攻撃を合わせるエクリアに、自然と口が三日月を形作るのを感じる。
 打てば響くとはまさにこのことで――本当にエクリアが使徒で良かったと思う。

「ルシファー様!」

 相手は有象無象の雑多と云えど――アイドスには決して言えないが――これほど心躍る戦いがあるものなのだな。
 剣技(つるぎわざ)の型の目標にしていた、魔界指折りの剣士が背中を守り、傍らでは信を置く流麗の使徒が敵を討つ。
 そしてこの身に仕える勇ましい使い魔たちと――神剣に宿る愛しき女神が我が身を支えてくれる。

 ――負ける気がしない。

 この身が弱体化しているのは間違いない。まず間違いなく、今の私は全力状態の十分の一ほどだろう。
 しかし不思議なことに、相手が誰であろうと、何であろうと、今は負ける気がしない。
 常であればこんな万能感は、我が業である慢心と思う所だが――

 或いは“神の力”が弱まったことで、より私の本質に近い部分が表に出てきたのか。
 闘争にこれほどの悦びを感じているとは、まったくの想定外。
 ……だが、それが悪くないと思えてしまうこの“神の墓場”の影響は……危険に過ぎる(・・・・・・)

『ルシファー……大丈夫?』
『ふふ、やはりお前には分かってしまうか。……ああ、問題無さ過ぎて、逆に危険だな』

 例え気持ちの上では何でもできると思っていても実際は、
 魔物とすら呼べないモノ相手だというのに、協力して(・・・・)やっと退けることが可能なのだ。
 そこまで弱体化しているというのに、認識が現実に追いついていない。
 戦慣れしていない新兵に多いと以前リウイが言っていたが、まさかこの私がそんな事態になるとはな……。

『……ふう、例えどれだけ力があっても負ける時はあっさり負けるというのに。
 ああ、だが困った。分かってはいるが、自分で自分を止められん』
『……ん、最後の一線を見誤らなければいいんじゃないかしら』
『えっと……きっと、そんなものかと』

 惚けるように答えるアイドスと、純白の頬を朱に染めて、困ったように言うエクリア。
 うむ、見事に私の周囲には、何も言えない者しかいないようだ。
 だがここから先はそうも言っていられまい。何故なら――

「……何者かが戦っているな。……いや、だがまさか……」

 異界に落ちぬよう慎重に神殿の通路を進み、転移を数度繰り返すと、
 霧のような邪気に覆われ、先の見えない幅の広い道に至った。
 そこからどれだけ進んだところかは分からないが、微かに爆発音と金属同士がぶつかりあう音が耳に届く。
 何とはなしに口にしただろうラーシェナの呟きに気付いた私は、

「お前の“目的”か?」
「分からん。だが、気配は確かにこの異界と化した領域から……」
「なるほど……同じというわけか」

 この先にセリカがいるかどうかは不明だが。
 ラーシェナの探し人となれば、それは深凌の楔魔に関わる者なのだろう。
 まして魔神ラーシェナ自ら探索に乗り出すとなれば、相応の相手のはず。
 ……だが、音の発生源に近づく程嫌な予感は強まる一方だ。

『間違いなく、やつもいるな』
『……おそらくね』

 心話が伝わっているエクリアが怪訝な顔をする。
 私はエクリアに話すべきか迷い――結局黙することを選択した。
 彼女を信用していないわけではない。
 ただ奴の話をするとなると、必然セリカの過去も関わってくる。
 だから今は、精神攻撃を得意とする厄介な敵とだけ告げることにした。

『……ごめんなさい、その……』

 私だけならば兎も角、アイドスさえ言い淀んだことで、どうやらエクリアも察してくれたようだが、
 それと感情はまた別の話しらしく、不満と……おそらく寂しさが混じり合う複雑な表情になる。

『すまない。セリカの過去に関わることなのでな、あいつと合流するまで待ってくれないか』
『――っ、いえ、申し訳ありません』

 ……生真面目さは変わらないな。
 旅装束のドレスの端を握りながら、やや俯きがちに言うエクリアは、
 おそらく自分が使徒の身で、踏み込んではならないところに入ってしまったとでも思ったのだろう。
 そういう殊勝な振る舞いは嫌いではない。しかし、な――。

「我は確証が欲しい。それに貴様らの探し人――大方、神殺しだろうが――戦いになっているやもしれん」

 ラーシェナ……。
 エクリアのことだけでなく、他にもいろいろと気になるが、今は――

「……分かった」

 短くそう、端的に答えた。




あとがき

完結までのプロットが完成しました。
後は時間が取れればいいのですが……。
何とか頑張りたいと思います。



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