私たちが迷い込んだ、神の墓場と現世の狭間にある異界の神殿。
長い通路の先を遮っていた濃い霧の間から、その最深部と思われる開けた空間が見えた瞬間――私は駆け出していた。
理性が私に、打倒すべき敵の詳細を把握しろと叫んでいる。
何しろここには“やつ”の気配があるのだから。
だが本能がその叫びを掻き消すと、私は神力が消失していることも相手の“肉体が何者であるか”確認するのも忘れ、
両手で握った神剣を下段横に構え刃を水平にし、遮二無二前へ前へと足を出し続けた。
「――ッ!」
巨大な魔神の前で、大量の血を流しながら片膝をつく朋友――セリカ。
そしてその魔神が発する、かつてベルゼビュートで感じた吐き気を催す気配。
それだけで、私の中にはもはや剣を収めるという選択肢はなかった。
「邪魔だっ!」
流体の体を持った異質な魔物――内から滲み出る力は下級の魔神ほどもあろうか。
私の行く手を阻もうとしているのか、それとも本能のままに私に襲いかかっているのか。
だがそんなことはどちらでもいい。
来るなら殺すまで。そこに、微塵の躊躇もない。
「ルシファー様、ご命令を」
まるでそれが必然であるというように、エクリアが私の隣を駆ける。
更に後方には、戸惑いながらも追従するラーシェナが。
「殲滅するぞ。魔力量を気にする必要はない。こいつらは倒すべき――敵だ」
こいつらは今まさに私の朋友たちの命を脅かす敵だ。
ならばそれを排除することに、どうして迷いがあろうか。
『……ルシファー』
『分かっている、アイドス』
アイドスにそれだけ告げ、私は見敵必殺を旨とするかのように、手当たり次第に“敵”を切り伏せていく。
ただ感情――“憤怒”に身を任せつつ、判断そのものは適確に。
不思議なことに憤怒に犯されれば犯されるほど、私は状況を冷静に分析できるようになっていく。
行動は問答無用で殲滅するというひどく感情的なものだが、
頭は如何にして“敵”――あの小さな山ほどの大きさを持つ魔神を打倒するかを様々な側面から考えている。
今ある自分の立ち位置、残存魔力、どの程度エクリアたちは戦えるか……。
しかしそれは、私の心が平静であるを意味しない。
常と違う点。それは目的がセリカを救出することではなく“あの魔神を葬る”になっていること。
私は火山から噴き出す溶岩のような激情に突き動かされている。
「ま、待て。あの者は魔神ザハーニウ。我ら深凌の楔魔の盟主だ。
……何か様子が可笑しいが、それを滅するというなら――」
「――ラーシェナ、諦めろ。あれはお前のいう魔神ではない。寄生虫に神核を乗っ取られている。
あのような状態ならば、いっそ滅ぼしてやった方が救いだ。お前ほどの剣士が分からぬはずはあるまい」
「……くっ!」
言葉を交わしながらも進撃を止めず、風鎌剣の技を振るう。
だが相手は無尽蔵に湧き出してくるとでもいうのか、倒しても倒しても数を増すばかりだ。
ならばやはり、魔神のみを標的にする他ないだろう。
……違うな、魔神ではない。あのような汚物と成り果てたものに、魔神の称号を与えるなど許されるわけがない。
広範囲直線状の敵を蹂躙し突き進む鎌鼬による一閃――エクスブラッシュで道を開く。
そうして私たちは遂に、もはやその姿を見ることすら我慢ならない相手の眼前に躍り出た。
そこで漸く、何故私がこうも憤怒に駆られているのかを理解する。
この怒りはこいつがセリカに重傷を負わせたことからくるものではなく――
「人であった“モノ”よ。そうまでして生き延びようとするか、そうまでして……」
「これは手間が省けた。よもや貴様の方から我の前に現れるとは。
神殺し共々、今度こそ我が糧として――」
「――私の問いに答えろ!」
許せなかった。
私が私であることに誇りを持つように、アイドスも、セリカも、エクリアも、セリーヌも――。
我が従僕を含め、私が認めた者は誰も彼もが自分に誇りを持っていた。
そして目の前にいるこいつのことも、確かにその意思を嫌悪したとはいえ、
神を越えんとする意志だけは認めていたのだ。
――だというのに、
「貴様、何故自らの体を持ちながら他者の……意思ある肉体に乗り移った」
「愚問だな。より強い力を得るためぞ。そして、神をも越えるため」
「違う、それは断じて違う。それは力を得たとは言わない。お前は力に支配され“自分”を捨てたのだ」
捨てた。“自分”を捨ててしまった。
かつてセリカが記憶を無くしたように。私が“ルシファー”となったように。
――だがこの者は、自らの肉体を持ちながらそうした。それは決定的な違いだ。
肉体を得てから全てが始まった私は語るまでもなく、失いたくなくともそれしか方法がなかったセリカは、
必死に自分を保とうとし、女神との約束を護るという信念のもと、今も運命の女を探すという確とした意志を持っている。
対してこいつは力さえ手に入ればいいと、もはやそれだけの“概念”に成りつつある。
「私はお前のその、力を渇望し神をも越えんとする意志だけは認めていた。
だが何だその様はっ! 己が能力を鍛えるのではなく、他者の力を糧としたわけでもなし。
剰え、自ら越えようとした“神”――魔神に精神だけ乗り移っただと!?
もういい……貴様は寄生虫だ。ただの虫けらだ。他者の力を自分のものだと勘違いしている馬鹿者だ。
貴様の、存在そのものに反吐が出る!」
「……ふん、相変わらず口は達者なようだな。だがどうする?
ここは神の墓場。ベルゼビュート宮殿で我が使用した紛い物の空間とはわけが違う」
「だからどうした、寄生虫。貴様を殺すには十分だ」
――体が熱い。
闘争の兆しに血潮が滾っている。
我が本性である“憤怒”がどうやら、完全に表に出てきてしまったらしい。
何とかそれを押し込め、先ほどから視界には入っていたセリーヌに目を向ける。
セリカの側で、歯を食いしばって涙を堪えながら治癒魔法をかけ続けている彼女に、目立った外傷はない。
神殺しがここまでの傷を負っていて、その従者がほぼ無傷ということは、
どうやらセリカの怪我は、セリーヌを庇ったためのようだ。……まったく、こいつも無茶をするものだ。
それで女を泣かせているというのは、やはり互いにどうしようもない。
「セリカ、再会を喜びたいところだが、その前に戦えるか?」
「……再会早々にそれか、本当にお前らしい。
……戦うしかないだろう。彼女もいるのだから」
「彼女……?」
だがそれ以上は口を開くのも億劫という様子のセリカに、私は沈黙した。
代わりに少しだけ落ち着いた心で言葉を探し、結局は端的な一言をセリーヌに掛ける。
「やれるな?」
「――っ、はい!」
無理をしているのは分かる。
主を危険に晒したことに、自責の念を感じているのかもしれない。
心配そうにセリーヌに声をかけるエクリアを視界に収め、だが敢えて何も言わずにラーシェナへと視線を移した。
「戦い難いなら、引っ込んでいてもいいぞ」
「ふざけるな。……救えぬというのならば、せめて我の手で終わらせる」
「かつての主が相手でもか?」
「無論だ。それに我は言ったはずだ。こやつを嫌悪していると」
そういってラーシェナが睨むのは巨体の魔神――ザハーニウではない。
その奥底に居座っている、寄生虫。
――即ち
「そういうことだ魔術師ブレアード・カッサレ。だから早急に殺してやる」
「ふふ、全力を出せぬと分かっていながら……よく咆えるものだ。
よかろう、そこまで言うならば貴様から取り込んでくれようぞ!」
……やれやれだ。どうやら未だにこいつは分かっていないらしい。
ならば直接その身に叩き付けて遣るほかあるまい。
私が“殺す”と、そんな滑稽な言葉を敢えて言った――その意味を。
◆
神殺し――セリカ・シルフィルは、朋友の変貌に僅かな動揺を覚えていた。
魔神ザハーニウの体を乗っ取ったブレアードは、間違いなく自分と彼の敵だ。
しかし、体を狙われるなどということは今までもあったこと。
にも関わらず、この今まで見たこともない戦意は――どうして態々“殺す”と言ったのか。
痛む体を魔神剣ハイシェラで支え、セリーヌの癒しを手で制す。
更にルシファーの動きに合わせて自らも戦闘を再開しながら、セリカはこれまでのことを思い返した。
魔神ゼフィラの謀略により、飛空生物と共にセリカたちが墜落したのは、北ケレース地方でも南部。
昨今になって混沌生物と呼ばれる異形の魔物が大量に発生し、生態系にも異常が発生していた領域だった。
墜落の衝撃からセリーヌを庇ったセリカは、負った傷を癒しながらルシファーたちと合流するため南に下る。
その過程でバリハルトの開拓旅団――ナッソス商会と出くわし、正体を隠しながらも成り行きで共に行動することになった。
元々ナッソス商会は、商会を率いる商人のナッソスの言によれば、イソラ王国に向かう予定だった。
イソラ王国は南ケレース、オウスト内海にほど近い平地に建国された国家。
だから当然彼らも南へ向かい、結果として“嘆きの渓谷”と呼ばれるこの狭間の領域に迷い込むことになる。
――そして
セリカはこの地で声を聞く。
彼がセリーヌ以上に惹かれ、運命を感じている女性。
その“来てはいけない”と危険を知らせる、鬼気迫る声を。
「ルナ=クリア……」
“彼女”の名を呟きながら剣を振るう中、セリカは再びルシファーの様子を窺う。
その姿は鬼神と表現するのが正しい。
なるほど、態々あのような言葉を告げただけのことはある。
まるで“真なる神”のような圧倒的な力だ。
いったい何処からこんな力を引き出したのか、両手剣である神剣アイドス・グノーシスを片手で握り、
ブレアードが生み出した異形の魔物を次々に斬殺していく。
振るわれているのは風鎌剣ではない。
あれは間違いなく風鎌剣。
「馬鹿な。ここで振るえるわけが……まさか!」
『あやつめ、限界を越えて魔力を放出しておる。
確かにあれならば一時的にはブレアードとその眷属を上回るが。全く、無茶をする……』
瞬連舞から風牙瞬連舞――そして断禍瞬連舞へと舞を繋ぐ。
踊るような体捌き。力強い斬撃。
万全状態のセリカの振るう飛燕剣にも勝るとも劣らない、圧倒的なまでの剣技。
広がるのは凄惨な光景だというのに、一枚の絵画のような美しさを感じさせるものだ。
だからこそ――セリカは信じられなかったのかも知れない。
無限に増殖する魔物を退け道を形作り、遂にはブレアードへとその刃を届かせた魔神ルシファー。
人間族の成体ほどもの大きさを持つ漆黒の手を切り落とし、更なる追撃で胴に真一文字の斬撃。
そしてブレアードを仕留めるために、最大の魔法剣“極限の傲慢”の魔力収束に入り――
「……ぁ」
意識せずに漏れた、音に成らない驚愕の声。
推していたのは完全にルシファーの方。
あいつの保有魔力量から考えても、まだ能力が落ちる刻には程遠い。
なのに、どうして――彼の胸を
――槍のような触手が貫いているのか。
「……――ルシファー!」
そんな女神の悲痛な叫びが、セリカの意識を叩いた。
◆
「……やれやれだ」
時間にして、それはほんの僅かな戦闘だった。
相手が如何に“化物”と雖も、私もまた“化物”ならば私に敗北はあり得ない。
そう――相手が私ならば……。
「い、や……どう、して……」
「ああ……私がお前を守るのは……当たり前のことだろう」
貫かれたのは胸――これは神核だけを砕いている。
宿敵と呼ぶに相応しい相手ながら、流石と言うか……いや、宿敵だからここまで的確に私を狙えたのか。
攻撃はまさに一瞬だった。
魔術師ブレアードへの止めをさそうと繰り出した大技――その前段階に当たる魔力収束の間の僅かな隙、そこを狙われた。
当然ながらそんなことは私とて予測済み。
例えそれが“やつ”本体による攻撃ではなく、
既に倒し、私のすぐ側の大地に倒れ伏すブレアードの魔物に乗り移っての攻撃であったとしても、対応できるだけの余裕はあった。
――想定外だったのはアイドスの行動。
“やつ”の奇襲攻撃を、私が気付いていないと思ったのか。
神剣を飾る真紅の宝玉から自身の魔力を使って具現化した彼女は、
今まではなかったというのに“やつ”の攻撃と私との間に割り込んでしまった。
……いや、これだけ無茶をすれば、先の戦いでの行動からそう思われて当然だろうな。
ならばこれも自業自得。
だから、私は……。
油断といえば、油断になるのだろう。
この場所を訪れたその時に“やつ”の気配は感じていた。
にも関わらず、私はその直感を無視してブレアードとの戦闘を初めてしまった。
そしてその結果が、これだ。
幸いなのは神の墓場の影響で、アイドスの神力をブレアードが感知できないことか。
『予想とはちょっと違うけど……まあ、結果は同じだからいいか。
邪魔な貴方を殺せればそれで……』
何処にいるかは分からないが、やはり、貴様か……。
精神に直接語りかけてくる声は、無邪気な子供のよう。
それでもそこには確たる意志が……いや、意志だけが存在している。
私は何とか力を振り絞り、操り人形となっている混沌生物を右の拳で殴殺する。
だがそれで限界だったようだ。ゆっくりと、視界が神殿の白い床に覆われていく。
「何の役にも立たぬと思っていたが……くく……」
ブレアードの邪な笑みが癇に障る。
何とか仰向けになった私にアイドス共々治癒魔術をかけていたエクリアは、
私の使徒であるために魔力の絶対量が減少し、上級が扱えないだろう魔術ではなく連接剣を構え、
守るように二人の更に前で刀を構えるラーシェナは、僅かに身を震わせたようだった。
「どうやら形勢は逆転したようだな」
その巨体故にゆっくりと鈍く動き出したブレアードを霞む目で捉え、
私はエクリアとアイドスが止めるのも構わず、真紅の血が流れ出す傷口を抑え立ち上がった。
「……黙れ。この程度で私が屈するわけがなかろう。笑わせるな」
「ふん、言葉では何とでも言える。だが満身創痍のその体で何ができる」
確かにできることは少ない。
しかし何もできないわけではない。
「大人しく、今度こそ神殺し、そして――フェミリンスの娘共々我が糧となれ!」
「――させないわ!」
私がぎりぎり把握できる遠方から、ブレアードに襲い掛かった光芒の束。
その攻撃を闇の霧で相殺しながら、誰何の問いを投げるブレアードは声のしたほうに振り向く。
霞む眼を凝らしてみれば何故ここにいるのか、遠く離れた崖の上でルナ=クリアが次の魔術を唱え始めていた。
なるほど、セリカが言った“彼女”とはクリアのことだったのか。
「――っ、はあっ!」
ルナ=クリアの魔術攻撃が生んだ隙を見逃さず、傷だらけのセリカはブレアードの元へ踏み込み飛燕剣を振るう。
そして、その鋭い斬撃を受けて悶えるブレアードに更に踏み込んだ――
一瞬、黄金に輝く何かが私達を照らし、その光は立ち所に消えていった。
歪む視界の先――光が消えた場所に微かに見えるのは……あれは、現世か。
ならばこれは……。
『これは……まずいぞ! 今の刻印の消滅でこの世界が元の世界と乖離し始めておる! 急ぎ脱出しろ!』
……ハイシェラ。ははっ……次から次へと。
「まったく……」
「……ルシファー?」
呆けたような顔で座り込んだままのアイドスの手を握り、無理に立たせる。
美しい彼女の白い手が、血の赤に染まる様がひどく苦々しい。
だが今はそうも言っていられない。
「……エクリア、走れ」
「し、しかし……っ!」
そんな彼女の縋るような言葉を聞き、血染めの口に苦笑が昇ってくる。
大丈夫だと告げてやりたいが……それは無理だな。今回ばかりは嘘になってしまうから。
代わりに神剣を彼女に預ける。きっとそれで意味は伝わるだろう。
「――話しは終わったか? ならば、行け」
焦った様子のセリカが戸惑うエクリアに、立ち止まるのは後だとでもいうように、
その手を握って連れてきたセリーヌを押し付けた。
「俺が不安定な亀裂を広げる。その隙間から脱出しろ」
「待ってください、それではセリカ様は……」
「セリーヌ、お前たちはそちら側から元の世界に戻る方法を探してくれ。
俺はこちらに残る。ルナ=クリアと、こいつを置いてはいけない」
「ならば尚更ルシファー様の治癒のためにも、私も……」
「どちらでもいい、急げ! 時間が無いぞ! これ以上は如何に貴様と雖も空間を引き裂くなど不可能になる!」
ラーシェナの叫ぶ声がセリカに決意させたのか、その体から膨大な魔力を発したかと思うと、それを亀裂に叩き込んだ。
尚も我儘を言うセリーヌを、アイドスとエクリアごと亀裂の向こう側に突き飛ばす。
こちらに残ったのは私とセリカにラーシェナ――そして、
「ハイシェラも頼む」
『なっ、我もか!?』
セリカが亀裂に魔神剣ハイシェラを放り投げたその僅かな時間に、私はエクリアと視線を交わす。――頼んだと。
「……アイドス、理想を忘れるな」
「ル――」
最後に何かを言いながら、現世にかえるアイドスの姿を見つめながら、
私は、ゆっくりと、前のめりに倒れた。
「礼を言う、セリカ……」
最後にそう言って――。
あとがき
お久しぶりです……。
非常に遅い更新で大変申し訳ありません。
次回はなるべく早く更新できるようにしたいと思います。
押して頂けると作者の励みになりますm(__)m