セリカが目を覚ますと、最初にその目に映ったのは弧を描く布地の天井だった。
背中には敷物を介して固い床の感触がある。どうやら馬車の中に寝かされていたらしい。
もしや、嘆きの渓谷まで共に旅した商人のナッソスたちを巻き込んでしまったか。
そう思いつつ側に人の気配を感じて体を起こすと、
何か悲壮なものでも見たかのような顔のルナ=クリアが視界に入った。
「おはよう。気分はどう?」
「……良くは、ないな」
ルナ=クリアの問いかけに、セリカは重々しく答えた。
その面持ちから彼の心情を察することはできないが、声音は憂いを帯びていた。
それも今の状況を考えれば無理もない。
魔神ザハーニウ――ブレアードと戦い、手酷い傷を負った。
その後で空間に亀裂を開くという荒業を成したのだ。残された魔力の量など高が知れる。
ならば体調の悪さは隠しようもない。
何より――
「あいつは……やはり死んだのか?」
「魔神ルシファーのことならば、私たちが貴方と合流した時には、既にどこにも……。
ただ彼が理由もなく貴方の側を離れることはないと思うから、おそらくは霊的光子に……」
唐突な問いに僅かに考える素振りを見せ、
沈鬱な表情で語ったルナ=クリアの言葉を、セリカはしばし呆けたように聞いていた。
あいつ――ルシファーが不意を突かれて自らの急所を穿たれた。
その事実を半分受け止めながらも、
あの時は何とかやるべきことをやろうと、セリーヌたちを現世に送り出した。
すべきことがあるうちは、セリカは決して立ち止まらない。
しかしブレアードを追い払い、一先ず身の安全が確保できたことで、
漸くルシファーの消失という事実と向き合うことになった――なってしまった。
そんなセリカの心を占めるのは、ただ漠然とした喪失感だった。
普通の人間であれば、悲しみのあまり感情が麻痺していると捉えることもできただろう。
だが“神殺し”であり、感情が女神の神力に殺されているセリカは、そんな当たり前の感覚さえ失ってしまっている。
だからきっとそれは感情が麻痺しているわけではなく、それ以上心が揺れないだけ。
せめてもの救いは、それでもルシファーという朋友を亡くした事実に、悲哀と呼べるだけのものを持てたことか。
「何が、“礼を言う”だ。馬鹿が……」
口から出た言葉とは裏腹に、両の手をきつく握りしめる。
礼とは、あいつの代わりに空間を切り裂きセリーヌたちを逃がしたことに対してなのだろうが、
そんな言葉を最後に言うくらいなら、気力ででも何ででも構わないから、生き残って欲しかった。
あの状況では不可能なのことだと分かっていても、そうセリカは思わずにいられなかった。
「……どうやら他の方々も、貴方が起きたことに気づいたようね」
ルナ=クリアの言葉に、セリカが下げていた顔を上げると、見知った顔が馬車の入り口からこちらを覗いていた。
緑の髪の少し生意気そうな顔立ちの少年と、赤髪を頭の左右で結った大人びた雰囲気の少女。
名前をコアとネナという二人はもう一人の少年――二人と比べるとやや気の弱そうな人柄であるヤムクと共に商会に参加している。
「良かった、お目覚めになったようですね」
覗き見ていた三人を咎めるように苦笑しつつ、その商会の主であるナッソスが馬車の中に入ってきた。
彼らとセリカは、北ケレースの大地に飛行生物が墜落し、そこからセリーヌと共に南へ降った際に偶然出会っただけであったが、
危険地帯で命を守ったこと、そして車輪が壊れていた彼らの馬車の修理を手伝ったことから、
セリカ当人は全く気づいていないが、身を按ずる様子を見せるなど、友好的な関係を築きつつあった。
「お前達も……こっちに?」
「ええ、セリカさんを待っていたのですが、突然黄金の印が現れて、気付いたらこのように」
まるで何とも思っていないかのように、あっけらかんとした様で語る彼に、セリカはやや戸惑った。
優先順位としてルシファーたちのことを先に慮っていたからそれほどでもなかったが、
彼らを巻き込んでしまったという罪悪感を持っていたというのに、当人にこのような態度を示されては何とも言いようがない。
当然、クリアがここにいる以上マーズテリアの騎士もいるだろうから、自分の正体も分かっているはず。
にも関わらず、態度を変えずに接するとは器が大きいのか、何も考えていないのか。
ただ必ずしも表に出ている感情だけが全てではない。
“神殺し”である今のセリカにはそれを察するのは甚だ難しかったが。
「……ひとまず、貴方には私たちがおかれている状況を教えるわ。
普通の人間は別にして、神力を使う貴方や私にとっては問題なことも多いし。
今後のことはそれから考えましょう」
どうやら自分には、お前の死を悲しむ時間さえ許されないようだ。これもまた、神を殺した罰なのか。
セリカの内心を考え、空気を変えようとしてくれたルナ=クリアに感謝する――だが、
それでも受け入れて前に進むしかない自分のあり方に、セリカは初めて怒りを覚えた。
「……せめて」
せめてセリーヌたちは無事であって欲しい。
人を思うという感情さえ希薄な自分でも、そう思わずにはいられない。
まずは信じて、成すべきことを成そう。
そう思い、セリカはルナ=クリア達の後を追って、
彼が今まで一度も見たことのない植物が群生する世界――神の墓場へと、その足を踏み出した。
◆
「……迎えに行くよ」
ディジェネール地方上空に浮かぶ巨大構造物――天空魔城。
その中央部に位置する謁見の間で玉座から王の姿を欠いたまま、パイモンとビヨンデッタの二柱が密談していた。
およそ国家とは言えずとも、組織或いは集団とまで呼べるほどの規模となった彼らの軍勢。
今彼らは国家を形成するための第一歩。
“大地”における拠点を決めていた最中であった。
そんな時に唐突にビヨンデッタが発したのが、先の言葉である。
ビヨンデッタは発言すると同時に、その中世的な顔を恍惚の表情に変え、
他方パイモンもまた、ビヨンデッタの言葉を聞いた直後に口の端を吊り上げ、喜悦を隠しきれない様子となった。
「では、いよいよ……」
「眷属を介して“彼”があの場所に墜ちたのだけは確認した。だけど、どんな選択をするかはまだ分からない。
それに墜ちた課程が僕らにとっても想定外だったからね」
「……ルシファー様を狙ったのは、ブレアードではなかったのですか?」
パイモンが少し意外そうに首を傾げる。
ビヨンデッタは僅かに顔を強ばらせると、忌々しげに語り始めた。
「馬鹿だよね、あの魔術師。サタネルに対して正面から挑むなんてさ。
そりゃ神の墓場を戦場に選んだりとか、君らのとこの首領……ほら、何て言ったけな……。
そうそう、ザハーニウとかいう魔神の特性も利用したりしたみたいだけど、
その程度の小細工では彼を倒しきれないなんて分かりきったことだろうに」
「それを蹂躙してこそ“将軍”黒翼天魔でしたね」
「……まあそれはいいんだけど。問題なのはその後。
なんなんだろうね、彼はさ。あんな悪意の塊は滅多に見れないよ」
「“悪意”……ですか?」
ただの“悪意”ならば魔神たる彼女たちにとって決して珍しいものではない。
特にビヨンデッタに至っては、もはや慣れ親しんだものと言っても過言ではない。
だというのに、そのビヨンデッタをして滅多に見ることができないと言わしめるほどの悪意とはいったい何なのか。
「あの魔力、何処かで感じた気がしないでもないけど……」
ブレアードの眷属を乗っ取って行動しただけで、“悪意”自体は精神だけで行動していたようだった。
それではできることも限られているだろうが、同時に直接その場に行かなければ、魔力の質もはっきりしない。
そして気がかりなことがもう一つ。
それはサタネルが敗北した理由が、女神を庇って負った傷であったこと。
「……」
だがビヨンデッタはそれをパイモンには伝えなかった。
代わりにブレアードとの一戦以外に気を向けず、周りへの注意を疎かにしていた油断を突かれたと告げる。
場所は神の墓場。
相手は人間とはいえ、その身体はパイモンも認める上位魔神のもの。
そして油断していたのは事実だろうから、ビヨンデッタの嘘にも真実みがある。
「どうかなさいましたか?」
「……いいや、何でもない。それより君も戦闘の準備をしておいてくれ。
場所が場所だけに、ヘカトンケイルあたりと戦う必要があるかもしれないからね。
僕も念のため“槍”を持って行くよ」
「承知致しました」
恭しく頭を下げ、ビヨンデッタの前からパイモンは去った。
その姿を見つめながら、彼女はなぜ事実を告げなかったのか、自分でも分からないその理由を思う。
結局、魔神アスタロトが呼びに来るまで、彼女は答えを見つけることなく考えていた。
◆
――墜ちていく、深い深い闇の中を。
まるで終わりなどないと、そう身に刻まれるかのように。
どこまでも、どこまでも、果てしなく墜ちていく。
……ああ、不思議なものだ。これが“死”という感覚か。
セリカの“影”の不意打ちから女神を守り、我が魂である神核は確かに致命傷を負った。
肉体の傷ならばどうにでもなったが、神核を破壊されたとあれば、どう足掻いても現世に留まることはできない。
アイドスは無事なのか、エクリアは捕らえられてはいないか。
セリカやセリーヌは逃げられただろうか。使い魔達は繋がりが消えても平気だろうか。
心に去来する思いは多々あった。
その大半が、アイドスの身を按じたものだったのは語るべくもない。
そして最後に残った思いは、古神たるこの身にとって恥ずべきもの――世界への心残り。
アイドスとの約束を守れず、死した神が辿り着く場所へと向かっているのか。
もっと彼女達と共にいたかった。
アイドスの理想――誰も争わずにすむ世界を、彼女と共に見てみたかった。
だが、それもここまで……いや、
この程度のことで諦めていいわけがない。
私はあいつと契約を結んだのだぞ。
悪魔が契約を違えるなどあってはならない。
だがどうする。
死を自らの意思だけで克服することなどできはしない。
そんなことができるのならば、私は今すぐにサティア・セイルーンにセリカの元へ戻ってこいと言ってやりたい。
それが自ら望んだものならば別にして、彼らはただ“運命”の手で引き裂かれ、別れざるを得なかったのだから。
しかし外的要因を模索したとして、果たしてこの空間に干渉できるものがいるものだろうか。
そもそも私とてここが何なのか分からないというのに……。
「――ん?」
空間を漂いながら考えていた私は、不意に違和感を覚えた。
……これは、本当に“死”なのだろうか。
アレはこんな生ぬるいものだっただろうか……。
……――っ、違う。これは、違う!
“死”はこんなものではない。
私が知っている“死”は、もっとおぞましいものだ。
己の信念も意思も、魂でさえも削り抉られ消えていく。
私たち神族の“死”とは、再誕すら叶わぬ完全なる滅び。
それが未だに思考を止めず、感情的で居られるほど優しいものであるわけがない。
存在の消失はもっと虚無的なのだから――何かまだできることがあるのならば、それは“生”に他ならない。
どうしてそんなことが分かるのか、自分でも説明できない。
しかしそんな抽象的な"生の感覚"よりも、もっと確実なものを私の身体の奥に感じる。
激しくも暖かい、この確かな繋がりはアイドスとエクリアの……。
――そう、この感覚はあいつらとの契りの証。
ならばこの身はまだ、滅んではいない。
断じてこれは“死”では――ない。
周囲の光景が一変したのは、まさに私がそう強く念じた瞬間だった。
「……お待ちしておりました。我が君」
すっと耳に入り込む透明感のある声が、世界に響く。
光を遠ざけるかのような、闇色の衣の女の姿が――そこにあった。
あとがき
この話を以て戦女神Verita編は完結です。
次回から最終部となります。
最後までお付き合い下されば幸いです。
:蛇足
本作中で出た天魔という言葉。
公式では天使と悪魔のハーフ、もしくは両方に分類される種族のことのようです。
『闇と光が合わさり最強にみえる』というやつですね。
まあ、みえるだけで最強ではないのでしょう。
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