幽州・元親の屋敷――その通路を堂々とした態度で歩く1人の女性が居た。
彼女の名は曹操、大国である魏の国王だ(現在は“元魏王”であるが)。
曹操は手に持つ1つの箱を時折見つめつつ、目的の場所へ向けて通路を歩いていた。
箱の中身は幽州で比較的人気の高い“酒饅頭”である。
(あいつ、今は何をしてるのかしら……?)
曹操は頭の中で目的の場所に居る筈のあいつ――元親の事を思い浮かべた。
彼女が向かっているのは元親の部屋、療養している彼のお見舞いの為である。
一応自分を家臣と共に助けてくれたのだから、このぐらいの事をするのは当然だ。
――これで通算5回目のお見舞いでなのだが、決して私的な感情は挟んでいない。
「(――っと、着いたわね)ちょっと! 見舞いに来てやったわよ!」
気が付けば目的の場所に着いていた曹操は、少々乱暴に彼の部屋の扉を叩いた。
しかし部屋の主である元親からの返事は一切無く、少しの反応も無い。
「(へえ……私を無視するとは良い度胸ね)返事しないなら勝手に入るわよ!」
曹操はそう言うと同時に部屋の扉を勢いよく開けた。
扉が盛大な音を立てて開くが、それでも反応は全く無い。
「…………?」
よく見ると、仕事をしている筈の伯珪の姿が何処にも見当たらない。
更に元親の世話を健気にこなしている侍女2人の姿も見当たらなかった。
「休憩しているのかしら? まあそれなら別に良いけど……」
曹操は視線を机から右側にある寝台へと移した。
そしてそこへ向けてゆっくりと歩いていく。
案の定、そこには穏やかな顔をして眠っている元親の姿があった。
「寝てたのね……気付かない訳だわ」
それでも大きな音は立てたんだけどと、曹操は呆れながら思った。
どうやら眼の前に居る男は1度眠ってしまうと、少しの事では起きないらしい。
曹操は徐に元親の右頬を人差し指で優しくなぞった。
「間抜けな顔……本当に私はこんな奴に助けられたのかしら?」
今更ながらも、曹操はふと疑問に思ってしまう。
寝顔はこんなにも間抜けなのに、普段は余裕や笑顔を絶やさない。
そして一度戦場に出れば、誰もが恐れる“鬼”へと変貌する。
ここまで差があれば、助けられた事実を疑いたくなるのも当然だ。
「でも事実は事実。それに私はまだ貴方の事をよく知らない」
再び曹操は元親の右頬をなぞった――今度は少し強めに。
流石に不快感を覚えたらしく、元親が小さい声で唸った。
その反応を見た曹操は微笑を浮かべる。
「だから早く身体を治して、家族についての事や貴方自身の事も教えなさい」
最後に「私を拒んだんだからね」と付け加え、曹操は元親の右頬を軽く抓った。
元親は身体を一瞬震わし、右頬を押さえながらゆっくりと上半身を起こす。
「痛え……な、何だ?」
「ふふ、やっと起きたわね」
元親は眼の前に曹操が居ることに少し呆然としつつ、痛む右頬の事について訊く。
すると曹操は悪びれも無く、あっさりと頬を抓った事を認めた。
「起こすんならもう少し優しい起こし方があるだろうが……」
「あら? じゃあ次は鼻を摘んでみようかしら?」
「…………おっかねえ女だな」
元親は溜め息を吐き、曹操は意地の悪い笑みを浮かべた。
曹操からすれば、せっかくお見舞いに来たと言うのに、相手が眠ったままと言うのは面白くない。
それに彼が眠っている間に言いたかった事も好きに言えたのだし、気分は少し爽快気味だった。
「んで? お前は何をしに来たんだ?」
「分からないの? お見舞いよ」
曹操は持ってきた箱入りの酒饅頭を元親に手渡した。
「おおっと、すまねえ。まさか見舞いとは思わなかったぜ」
「……そんな事言うのなら、もう2度と来てやらないわよ」
「ああ、嘘だ嘘。悪かったよ」
元親は渡された箱を開け、8個詰められている酒饅頭の1つを手に取って口に入れる。
流石は幽州で人気が高い酒饅頭だけあり、口内を酒と饅頭の甘さが一瞬にして満たした。
「美味いな。だがもう少し強めの酒が入ってても良いかもしれねえ」
「仕方ないじゃない。貴方の酒の好みなんか分からないんだもの」
「そう言われればそうだな。まあ、今の内に覚えておいてくれや」
元親の言葉を聞き、曹操は再び意地の悪い笑みを浮かべる。
「ふ〜ん……それってまだ私が見舞いに来る事を期待してるの?」
それに対し、元親は――
「ああ。家族からの見舞いは嬉しいからな」
何も動じる事なく、元親はそう平然と答えた。
曹操は思わず「うっ……」と言葉に詰まってしまう。
(こいつは……何を平然と答えてんのよ)
「おい、どうした?」
「な、何でもないわよ!」
慌てた様子を見せないよう、曹操は強めに言葉を切り出した。
逆にそれが慌てていた事を思わせるのだが、本人はそれに気付いてないようである。
「期待するのは勝手だけど、今回は特別よ。次から春蘭達も居るんだからね」
「別に気にしねえよ。寧ろ人数が多い事は悪くねえし」
「…………そう」
この言葉に対し、曹操は少しだけムッとした。
自分1人だけが見舞いに来る事を期待しているかと思ったのに。
まあ、それは自分が勝手に思ってしまっただけなのだが――
それでも何故か分からないが、ムッとせずにはいられなかった。
――これも決して、決して私的な感情が挟まっている訳ではない。
「なら次は春蘭達にも見舞い品を選ぶように言っておくわ。貴方は人数が多い方が好きみたいだしね」
そう言って曹操は元親に背を向けた。
その顔は拗ねた表情を浮かべていた。
「? 何を拗ねてんだ?」
「……別に」
実は今回の酒饅頭は街に行った際に春蘭達(夏候惇達)と相談して決めた物なのである。
見舞い品の候補として、春蘭は文鎮、秋蘭(夏候淵)と桂花(荀ケ)は筆、季衣(許緒)は饅頭を始めとする茶菓子等だ。
そしてその結果、1番手軽な物と言う事で季衣の挙げた食べ物と決まった。
時間もあまり無かったため、曹操が選んだ酒饅頭のみとなったのだ(監視役の愛紗が厳しかったせいもあるが)。
無論、元親はそんな事を知る由も無い。
「ところでよ、どうだ? ここの暮らしには慣れたか?」
「藪から棒に何よ…………そうね、来た当初よりはマシだわ」
「そりゃ良かった。その調子でここに馴染んでくれよ」
「貴方に言われなくても…………」
背を向けたまま答えていた曹操だが、徐々に元親へ向き直ってきた。
元親はその様子を何となく面白いと思いつつ、話を続ける。
「街とか行く時も監視役が面倒だと思うが、それぐらいは勘弁してくれよ」
「別に気にしないわ。私がそんな小さな事を気にする女だと思ってるの?」
「…………思わねえな」
元親は苦笑する。
「それに監視役を置くのは適切だと思うわ。私は元々魏の王、謀反を起こすかもしれないしね」
「おうおう、まるで本当に謀反を起こしそうな発言だな」
曹操は元親を鋭い眼付きで見つめる。
「……もし謀反を起こしたら、貴方は私をどうする?」
挑戦的な視線を向け、曹操は元親に少し詰め寄る。
元親はジッとしたまま、身体を動かさなかった。
曹操の視線を真っ直ぐに受け止めた後、元親は答えた。
「どうもしねえさ……」
「えっ…………!」
「お前は謀反なんか起こさねえ。そう俺が信じてる」
曹操の瞳に少しずつ動揺の色が広がる。
元親はそれを逃さず、更に言葉を続けた。
「家族をトコトン信じてやるのが、兄貴としての役目なんでな」
「…………ふ、ふん! 馬鹿じゃない……! 甘過ぎるわ……!」
「馬鹿って言われ慣れてるからな。全然屁でもねえぜ?」
「馬鹿…………!」
曹操は一時元親から視線を逸らした。
頬が熱くなっている顔を元親に見られたくなかった。
「そ、それより貴方の方こそどうなのよ! 身体の具合は良いの? 悪いの?」
「おお、華柁の話だと、順調に回復に向かってるってよ。痛みもだいぶ取れてきたしな」
華柁――元親が定期検診を頼んだ女医の名前である。
曹操は会った時からキナ臭い物を感じていたが、案の定それは当たっていた。
何と彼女は1度、元親の検診中に意識を失って気絶しているのである。
それを後から聞いた時には少しだけ驚いてしまったが、呆れが多かった。
愛紗や鈴々達も不甲斐無さに呆れてしまっていたが、元親は今後の定期検診を頼んだ。
曹操には(愛紗達もそうであるが)元親の真意が分からなかった。
「ねえ、どうしてその娘に定期検診を頼んだの? 検診中に気絶したのに」
「おお、別に深い意味は無いんだけどな。しいて言えば……」
「言えば?」
「スゲェ面白かったんだよな、あいつ」
元親の思わぬ答えを聞き、曹操は呆然としてしまった。
そして意識を取り戻し、頭を抱えながら問い掛ける。
「面白いって何がよ。何が面白かったの?」
「いや、あの落ち着かない様子が面白くてな。つい今後の成長を見てみたくなった」
屈託の無い笑顔で笑いながら言う元親に対し、曹操は華柁に少しだけ同情した。
華柁本人はどう思っているか知らないが、元親は今後の成長を見てみたい、面白いと言った理由で検診を頼んだのだ。
(華柁って娘、結構不憫ね……)
曹操はそう思わずにはいられなかった。
「そうだ曹操、少し遊ばねえか? お互い退屈してんだし」
曹操を尻目に、元親は――何処からか取り出した――木製の盤を手に持っていた。
盤の厚さは3cmくらいであり、マスは縦9マス、横9マスに細かく分けられている。
更に盤の上に乗っている小さな箱の中には、文字が描かれた駒が何十個も入っていた。
「私は別に退屈してる訳じゃないんだけど……少しぐらいなら付き合ってあげるわ」
「よ〜し! それじゃあ3回勝負と行こうぜ。そこの丸机を持ってきてくれるか?」
元親に言われ、曹操は渋々言われた丸机を持って来てやった。
元親自身、寝台からロクに起き上がれないための配慮だろう。
丸机は元親の寝る寝台と曹操に挟まれ、その上に元親が持っていた盤が置かれた。
「これは何? 見た事ないわ」
「これは天界の遊び道具で“将棋”ってんだ。療養中の暇潰しに作ってもらったんだぜ」
「しょうぎ……? 成る程、面白そうね」
元親は箱から取り出した駒を並べ、準備を整えていく。
その様子を曹操は興味深そうに見つめていた。
「ふ〜ん……これと似たような物があるけど、やり方はまったく違ってそうね」
「全く違うと思うぜ。いいか、やり方はな…………」
元親は曹操に出来るだけ詳しいやり方を説明してあげた。
曹操は顎に手を添え、元親の説明を一字一句聞き洩らさずにしている。
そして説明が終わった時、曹操は微笑を浮かべた。
「思ったより簡単そうね。3回とも連勝出来そうだわ」
「へっ、舐めるなよ。俺だってガキの頃は結構やったんだ。初めてやる奴に負けねえぜ」
「ふっ……良いわ。この曹孟徳に不可能は無いと教えてあげる」
互いに不敵な笑みを浮かべ、将棋を使っての勝負が始まった。
曹操は打つ手を決め、駒に手を伸ばした――
◆
「王手! って言うのかしら?」
「ぐっ…………待てよ、まだ逃げ切れる道があるかもしれねえ」
1回戦を始めてから僅か20分足らず、元親は王手を掛けられていた。
何とか王将の逃げる道を探すが、全くと言って良い程に見つからない。
王将を囲む、金将や銀将等の完璧な駒の隊列が成されていた。
「降参する? なら早く降参して、次の勝負をしましょうよ」
「待て待て! まだ逃げ切れる道があるかもしれねえんだ……」
「諦めが悪いわね。潔く負けを認めなさい、楽になるわよ」
「ちくしょう…………」
それから少し経った後、元親は渋々負けを認めた。
敗者である元親が、動かした駒を元の位置に戻していく。
それを眺めつつ、曹操はポツリと吹く。
「ねえ、貴方に1つ訊きたい事があるんだけど……」
「ん? 何だ?」
「白装束の、毛利元就って言う男の事よ」
刹那、元親の顔つきが険しくなる。
「貴方とあの男、聞いた所によると、随分と因縁が深そうじゃない。毛利の方は恨みが深そうだったけど、貴方も毛利を恨んでいるの?」
元親は駒を動かす速さを遅めつつ、曹操に語り始めた。
「恨みはとっくの昔に消えた。だが、奴は気に食わないんだよ……」
「気に食わない……?」
「ああ。根性曲がった最低野郎で、顔も性格も今居る場所も、何もかもが気に食わねえ」
元親は元就と初めて戦場で対峙した時の事を思い出していた。
その時彼が言った言葉を、元親は今でも忘れられない。
『そのような小汚い兵士共を連れて何になる?』
『何だと……? あんた、何を言ってやがんだ。兵ってのは――』
『兵など所詮駒よ……』
『――――ッ!』
『操れば良いのだ。どうせ皆死ぬのだから……』
元親は思わず駒を動かす手に力が入った。
「毛利元就……心が無いとしか思えねえ。国の為に戦うと誓った家臣や兵士を……可愛い野郎共を、今ここにある将棋の駒みてえに扱いやがる」
元親は微笑を浮かべ、黙ってきいていた曹操を見つめる。
「だから奴だけは俺の手でぶっ飛ばすんだ。そして分からせてやるんだよ。家臣や兵士がどんなに大事な宝か分かっちゃいない、あいつをな……」
対する曹操も、元親の視線を余す所無く受け止めていた。
そして――思った。
(さっきまで真剣な顔付きをしていたくせに、もう笑顔になってる……)
甘くて馬鹿だけど――
家族と称する皆に愛情を注いで――
誰とでも分け隔てること無く接して――
人を心の底から信じる――
「貴方って、甘くて本当に馬鹿だけど……」
「ん……?」
「――――のよね……」
「んあっ? 何か言ったか?」
曹操はハッとして口を思わず閉じた。
それと同時に頬が熱くなる。自分は何て事を言ったのだろう。
彼に聞かれたと思ったが、聞かれていないのが幸いだった。
「な、何でもないわ! それより早く駒を並べなさい!」
「ぬっ……そんな怒鳴らないでも並べるって」
元親は溜め息を吐きつつ、駒を並べた。
曹操は落ち着きを何とか取り戻し、2回戦へと挑む。
「さあ、次も勝つわよ」
「この勝負は負けねえからな、曹操」
「――華琳よ」
元親は思わず首を傾げる。
曹操が吹いた言葉の意味が分からなかったのだ。
「華琳……それが私の真名。次に私を呼ぶ時は真名で呼びなさい。春蘭達――夏候惇達もね」
「……ああ、分かった。この勝負は負けねえぞ、華琳」
「ふふ、望むところよ」
1回戦で負けた元親が、先に駒に手を伸ばす。
2回戦も白熱しそうだった。
貴方って、甘くて本当に馬鹿だけど――
とても優しいのよね――