今日も平和な日々を送る幽州――しかしここ数日は平和では無かった。
無論、それは幽州の国全体が平和ではないと言う意味ではない。
幽州にそびえ立つ、とある屋敷内が平和では無いと言う意味である。
その屋敷とは勿論、幽州の太守である長曾我部元親の屋敷の事だ。
原因は最近和平を結んだ大国“呉”から家出してきた1人の姫様にあった。
姫様の名は孫尚香――彼女のお陰で、各々の武将達が不満を募らせていた。
「ご主人様、この書類について御話が……」
「元親〜〜〜ちょっと一緒に街へ出掛けよう!」
「お、おいおい……!」
例えば、仕事について話し掛けてきた愛紗から元親を強引に攫ったり――
「主、少し訓練の御相手を……」
「元親ぁ、シャオと一緒に訓練しようよ」
「ちょっと待て。今は星が……」
「放っておけば良いの。それより早く早く!」
例えば、訓練の相手を持ち掛けてきた星から元親を強引に攫ったり――
「元親、少し将棋の相手をしてくれない?」
「それは別に良いんだけどよ……」
「えへへ……元親♪」
「…………気が失せるわね」
例えば、元親と2人だけで将棋をしようとした華琳に対抗するように、ずっと彼にくっ付いて離れなかったり――
と言ったように、色々と元親に想いを寄せる武将達を彼から遠ざけるように行動するのだ。
彼女曰く「元親の優しさや固い信念に思わず一目惚れしてしまった」との事。
元親も彼女の強引なやり方には文句を言おうとしたりするのだが、圧しが強い為に言えなかったりする。
流石の“天の御遣い”又は“幽州の鬼”と恐れられている元親も1人の少女には弱かったりするらしい。
そして孫尚香と武将達の対立を決定付けたのは昨日の夕食時の事だった。
「シャオがね、元親の妻になってあげる♪ 嬉しいでしょ?」
「…………あ〜〜〜俺は何て答えりゃ良いんだ?」
この際に武将達全員が心の中で「即答で断って下さい!!」と、大きく叫んだのは言うまでもない事だ。
孫尚香の“元親の妻”宣言は屋敷内で数多くの争奪戦や喧嘩(主に口で)を発生させる事となってしまった。
今はまだ表面に出ておらず、水面下で行われているだけだが、それが表に出てくるのも最早時間の問題であろう。
最悪の場合、反董卓連合ならぬ、反孫尚香連合なる物が結成される日も近いかもしれない。
まあ上記の方は少し言い過ぎかもしれないが、皆の心は簡単に言い表せばこうである。
早いところ呉に戻ってほしい――恋する乙女達からすれば、こう思うのは仕方無い事だ。
数日前に孫権へ向けて送った文の返事が早く来てほしいとも、強く思っていたりするのも仕方無い。
無論、殆どの者達は彼女の事情は分かっているのだが――げに恐ろしきは女の嫉妬だったりする。
そんなギスギスした状態が暫く続いたりしたのだが、ついに転機が訪れる事になった。
◆
「よう、よく来たな。突然だから驚いたぜ」
「そうか、驚かせてすまない。文の返事を書く間も惜しくてな」
「はは。妹が心配っつう気持ちは分からなくもねえけど」
屋敷の前で孫権一行を元親と愛紗達、数人の有力武将が丁重に出迎えた。
何と文の返事の代わりに、孫権自らが多数の部下を連れて幽州へやって来たのである。
突然の彼女の来訪に驚いた元親達だったが、特に何の落ち度も無く迎える事が出来た。
「ところで妹は……孫尚香は何処に居る?」
謁見の間へ向かう途中、孫権が少し落ち着かない様子で元親に訊いた。
元親は微笑を浮かべつつ、その問い掛けに答える。
「そう慌てんなって。今あいつは別の部屋だ。居ると互いに落ち着いて話せないだろ?」
「む……すまん。迷惑を掛けているだろう? あの娘は少々お転婆なところがあるから」
「まあ、ほんの少しだけな。あんたが言うお転婆のところは俺も否定しないね」
そんな会話をしていると、一同は謁見の間に到着した。
部屋へは元親、孫権、甘寧、陸遜がそれぞれ入っていく。
護衛役として愛紗や星、翆が入ることを望んだが、元親が扉の前で止めた。
「心配するな。孫権相手に護衛は必要ねえだろ」
「しかしご主人様、そのような油断は禁物です」
「そうだよ。もし隙を突かれてやられたりしたら……」
愛紗と翠の言葉に、元親はゆっくりと首を横に振る。
「そんな卑怯な奴なら魏との戦いの時に、俺達に何度も援軍を送ったりしねえさ」
「「ご主人様……」」
「だからそんなら心配するな。俺はあいつを信じてる」
様子を見ていた星が呆れたように溜め息を吐く。
どうやら彼女はこれ以上言うのは無駄だと感じたらしい。
「主、もしもの時の為です。警戒心だけは絶対に解かないようにして下さい。せめてこれぐらいは聞き入れて頂かなければ家臣として困りますぞ」
元親は「おう」と一言だけ返事をし、扉を閉める。
その姿を愛紗達は不安な表情で見届けた。
「愛紗、もしもの為だ。大きな物音がしたら即座に部屋に押し込むぞ」
星が鋭い目線で愛紗を見やる。
愛紗はゆっくりと頷いた。
「……そうだな。翠、私達も一応の準備はしておこう」
「ああ、分かったよ」
◆
「まあ、とりあえず座りな。肩の力抜いて話そうぜ」
元親の勧められるまま、孫権は用意してあった椅子に腰掛けた。
陸遜は彼女の隣に座り、甘寧は座らずに孫権のすぐ傍に立つ。
「そういやぁ訊きそびれたが、あんたの隣に居る奴は誰だ? 初めて見る顔だが……」
「ああ、そうだったな。彼女は陸遜、周喩と同じで呉の軍師を務めてくれている」
元親が陸遜に視線を向けると、彼女は眩しいくらいの笑顔を浮かべて頭を下げた。
そのせいで豊満な胸が少し揺れ、元親は――頬を掻きつつ――視線を少し逸らす。
「初めまして〜長曾我部様。性は陸、名は遜、字は伯言です〜」
元親は彼女が醸し出す穏やかな雰囲気に思わず警戒心を解きそうになる。
こちらに居る朱里以外にも、ほんわかした軍師が他にも居るとは思わなかった。
「…………軍師にしちゃあ、随分とのんびりしてるな」
「よく言われます〜。でも一生懸命仕事はしてますよぉ」
「ホントか? とてもそんな風には見えねえが……」
「本当だぞ。彼女は立派に務めを果たしてくれている」
人は見掛けによらず、と言う言葉は彼女にとてもよく当てはまるかもしれない。
元親は顎に手を添え、感心したように2、3度ゆっくりと頷いた。
1度彼女が真剣に仕事をしている場面を見られれば評価も変わるだろうか。
「コホン……長曾我部殿に孫権様、陸遜の話はもうその辺で良いのでは?」
今まで様子を見守っていた甘寧が咳払いし、何処となく注意を入れる。
彼女にそう指摘され、元親と孫権は話の本題に入る事にした。
「孫尚香はすぐにでもこちらへ連れて帰る。妹がお前に多大な迷惑を掛けてしまい、本当にすまない」
「よしてくれ。前にも言ったが、重大な迷惑を被ってる訳じゃねえ。ほんの少しだけあいつの自由な行動に振り回されてるだけだ」
そう言う元親に対し、孫権は自分の事のように顔を赤く染める。
「私が自分の事だけでなく、もう少し妹のことを気遣ってやれていれば……」
「孫権様が悔やむ事はないです。孫尚香様のお目付け役である私が悪いんです」
陸遜の話によれば孫尚香が呉を出て行く際に孫権には黙っているようにと、約束を取り付けられたらしい。
孫権に言うか言わないか悩んでいたところ、元親からの手紙が来たのをキッカケに話す決意をしたとの事。
――だが一応数日間の間は彼女との約束を守ったのは、陸遜が孫尚香の事を想ってなのかは謎である。
何となくこの場が暗い雰囲気になりかけた為、元親は明るくしようと話題を振った。
「おいおい、別にあいつは真名で呼んでも構わねえぜ? 俺は知ってるしな」
「何……? 妹の真名を知っているのか?」
少し驚いた表情を浮かべる孫権に、元親は冷や汗を掻きながら答える。
「まあ……ちょいと色々あってな」
苦笑し、頬を掻いて誤魔化しているが、教えてもらうまでの背景が頭に浮かんで離れない。
特にその時の愛紗と華琳の2人と言ったら――思い出すだけでも身震いがしてしまった。
「そ、そうか……お前も色々と苦労しているんだな」
「苦労しねえ太守なんざ、居たら教えてほしいぐらいだぜ……」
コホンと、また甘寧から話題を中断させる咳払いが室内に小さく響いた。
場を明るくしようとしたにも関わらず、重くしてしまっては本末転倒と言うものである。
話題が逸れていると言うのもあるだろうが、そんな意味も込められているのかもしれない。
元親と孫権は互いに苦笑し、参ったと言わんばかりだった。
「まあ、その……なんだ。あんたが良けりゃ、小蓮を暫くここに置いても良いぜ?」
「それは駄目だ。そこまでお前に迷惑を掛け、世話になる訳にはいかない」
「別に気を遣わなくても良いんだぜ? 似たような大喬と小喬も居る事だしな」
「それでも駄目だ。小蓮は連れて帰る」
孫権の頑なな態度に対し、元親は軽く溜め息を吐く。
「そう言うだろうと思ってたが……あいつの気持ちも汲んでやりなよ」
「小蓮の気持ち…………?」
孫権は首を傾げ、陸遜は少し表情が暗くなった。
どうやら陸遜は元親の言おうとしている事が分かったらしい。
「ああ。最近色々と大変なんだろ? あんたと周喩」
「――――ッ!? …………小蓮から全部聞いたのか」
「相当仲が険悪らしいじゃねえか。あいつ、あんたと周喩が喧嘩してるのが嫌らしいぜ」
孫権は頭を抱え、何かを掃うように頭をゆっくりと振るう。
甘寧と陸遜には彼女のそんな姿が痛々しかった。
「全ては私が悪いんだ。私が呉王として未熟だから……」
「いや、あんたのせいだけじゃねえ。和平を結んだ俺にも責任はある」
「そんな……! 長曾我部、お前には何1つとして責任は……!」
「あるんだよ。仲が険悪になっちまったのも、俺と和平を結んだからだ」
元親の言葉を聞き、孫権が俯く。
「それでは……お前は私との、呉との和平を取り消すのか?」
「そうは言ってねえよ。俺はただ、テメェの責任を取りたいだけだ」
元親は座っていた椅子からゆっくりと立ち上がる。
「何つーか、話し合いの場でも設けようじゃねえかって言う話だ」
「話し合いの場……?」
元親は微笑を浮かべ「おう」と言って頷く。
「言ってみりゃあ、俺は周喩って奴の事は何も知らねえ。そいつが何を考えて、どうして和平を結ぶ事が気に食わねえのかも分からねえ」
元親は腕を組み、辺りをゆっくりと歩き回る。
不思議と孫権達は落ち着きが無いとは感じられなかった。
「だから話し合いの場を設けるんだよ。それを機にあんたとの仲も少しは良くなるんじゃねえかと思うんだが……」
「そうか……」
孫権の中には戸惑いもあったが、嬉しいと言う気持ちもあった。
周喩と仲が険悪なのは、全て自分のせいだと言うのに――
「ちょいと余計なお世話だったか?」
眼の前で照れくさそうに頬を掻く男が、何処か頼もしく思えた。
「ううん。お前の気持ちはとても嬉しい」
「そ、そうか。じゃあ話し合いの件は考えてみてくれるか?」
「ああ。何とか周喩と話し合って機会を作ろう」
元親は満足そうな笑みを浮かべ、孫権の言葉を喜んだ。
この事を聞けば孫尚香――小蓮も少しは安心するかもしれない。
「どうです孫権様。話し合いの場を設けるまで、長曾我部様に小蓮様を預けてみては」
「そ、それは……しかし……」
「小蓮様もここでは結構楽しくやっておられるようですし。ね?」
陸遜が元親に同意するように視線を向ける。
実際に小蓮はここで自由気ままにやっているので否定は出来ない。
――呉の姫様と言う立場としては考えられない態度ではあるが。
「だな。寧ろ今無理矢理に連れて帰ったら、今度は小蓮と仲が拗れるかもしれねえぞ」
「む……むう」
「小蓮の事は俺に任せて、あんたは周喩との事を考えな」
孫権が傍に立つ甘寧に視線を向ける。
甘寧は静かに頷き、賛成の意を示した。
「……分かった。もう暫く小蓮の事を頼む」
「ああ、お転婆娘の事は俺に任せとけ」
「それから、大喬と小喬の事も頼んだ」
「おう、ドンとそいつ等も任せとけ」
笑顔で胸を叩く元親に対し、孫権は微笑を浮かべる。
今更ながら、眼の前に居る男が大勢の者に慕われている意味が少しだけ分かった気がした。
その後、孫権達は幽州を後にした。
小蓮にこの事を話すと、彼女は物凄く喜んだらしい。
――逆に愛紗達の不満はかなりの物だったらしいが。
小蓮が関係する元親の悩みはまだまだ続きそうである。
しかし元親が自分で招いた事なので、何とも言いようがないのである。
◆
呉の本国――書類整理を終えた周喩は自室へと戻ろうと、通路を歩いていた。
家出した妹を迎えに行った孫権達を見送った後は、殆どの時間を書類整理に費やした。
そうしなければ無意識に心に募っていく苛々に押し潰されそうな感じがしたからである。
(大喬と小喬はどうしたのか……あれから一向に報告も無い)
孫権を無理矢理説得し、和平締結へ向かう隊に加えさせた2人。
長曾我部元親を女の魅力で籠絡すると言う策は未だに成功していないのか――
それとも既に間者と見抜かれ、長曾我部の手によって殺されているのか――
(まあそれも孫権様が戻れば分かる事……)
万が一2人が殺されたとしても、次の策は用意してある。
あらゆる事態を考えて策を用意するのが軍師と言う役柄だ。
だがあの2人は自分にとって――
(ふっ……私は何を悲観的になっているんだ)
自嘲気味な笑みを浮かべつつ、周喩は自室の扉に手を掛けた――
「どうも。お初に御目に掛かります」
周喩が扉を開けると、部屋の中央に立つ1人の青年が居た。
青年は気味が悪いくらいの白い衣服を身に纏い、眼鏡を掛けている。
「――――何者ッ!!」
周喩は瞬時に腰に掲げている騎乗鞭を手に構え、青年に問い掛けた。
激しい敵意と殺意を向けるが、青年は動じる様子を見せない。
「まあまあ、落ち着いて下さい。私は貴方と話をしに来たのです」
「話だと……? 笑わせる。人の部屋に無断で入る奴の話など、聞く耳持たん!」
周喩は騎乗鞭を振り上げ、青年に打ちつけようとする。
「私の話が貴方にとって有意義な事であっても……ですか?」
「……何だと?」
周喩の鞭を振る上げた手が止まった。
彼女の様子を見た青年は微笑を浮かべ、礼を言う。
「ありがとうございます。私からの話ですが……手を組みませんか?」
「手を組む? お前と手を組めば私に何か得でもあるのか?」
「ええ、沢山ありますよ」
青年を少しズレた眼鏡を人差し指で掛け直す。
「長曾我部を倒し、呉が大陸を支配し、貴方の夢も叶う――良い事尽くめです」
周喩は青年の言葉を鼻で笑い、一蹴する。
「笑わせるな。そんな上手い話がこの世にあるものか」
「それがあるんですよ。貴方の眼の前にね」
青年は先程までと打って変わって、冷たい眼を周喩に向けた。
「更に良い事はもう1つあります。貴方も知りたい事ですよ」
「何だ……? 私に知りたい事など――」
「前呉王の孫策様……突然死んじゃいましたよねえ。病に倒れて」
刹那、周喩の眼の色が変わった。
今まで止めていた騎乗鞭を、青年に向けて勢いよく振るう。
青年はそれを難なく避け、周喩と距離を取った。
「危ないですねえ。いきなり振るうのは無しにしましょうよ」
「貴様……気安くその名を言うな!!」
青年がやれやれと、溜め息を吐く。
「貴方が怒ると、全くもって話が進みませんよ」
「黙れ!!」
周喩が再び、怒りのままに鞭を振るった。
しかしそれも青年は難なく避ける。
「(これでは埒が明きませんねえ)知りたくないですか? 彼女の死の真実を」
「――――ッ!」
青年の吹いた言葉に周喩の動きが止まり、顔を俯かせる。
これを機に、青年は畳み掛ける事にした。
「孫策様を愛する貴方なら、是が非でも知りたい筈です。彼女の死の真実をね」
「…………」
「私――いや、私達と手を組めば教えてあげましょう。お互いに良い結果を生む筈です」
青年が周喩にゆっくりと歩み寄り、手を差し出す。
周喩は俯いていた顔を上げ、差し出された手を握った。
「御理解頂き、何よりです。我が主も喜びますよ」
「虫唾が走るがな…………貴様の名は?」
周喩の問い掛けに、青年は怪しい笑みを浮かべた。
「私は干吉、方術使いです」