『孫策……雪蓮! 雪蓮!!』
『――――ッ! 冥琳……来てくれたのね……』
『当たり前でしょう! 私が貴方の傍に居ないで、一体誰にその役を任せると言うの!?』
『ふふ……最後の最後に……貴方の顔を見る事が出来て良かったわ……』
『そんな事を言わないで……! 絶対に大丈夫、大丈夫だから……!!』
『夢は叶わなかったわ……けど貴方なら……貴方なら叶えてくれる……』
『雪蓮…………!?』
『後を……お願い…………』
◆
また思い出してしまった、周喩は薄暗い王室で1人立ちながら自嘲気味に吹いた。
眼を閉じれば何時でも生々しく頭に浮かんでくる、あの時の光景――
明るい笑顔を絶やさなかった孫策の青白い顔が頭と心に沁み付いて離れなかった。
夢を自分に託して亡くなった孫策――ならば自分はその夢を叶えなくてはならない。
例え修羅の道を歩もうと、どんな外道の者達と手を組もうと叶えなくては。
「孫権様が長曾我部に捕まったそうです。策は見事に失敗、参っちゃいますね……」
「……撤退してきたこちら側の損害は?」
「結構な物ですよ? でもまあ私達の兵力を使えば補えます」
薄暗い王室の中、干吉は少し苛々したような表情で周喩にそう告げる。
対する周喩は大して驚いた様子は見せず、顎に手を添えて軽く頷いた。
「そう――か」
「おや? 冷たい反応ですね。もっと動揺するかと思ったのですが……」
「私が動揺したところでどうにもなる物でもあるまい? それより――」
周喩が未だに苛々した表情を浮かべる干吉を一瞥する。
「どうして貴様はそんなに苛々している。孫権様が捕まった事がそんなに悔しいか?」
「違いますよ。長曾我部の奴、私の左慈の頬を殴ったんです。今は治療のために休ませてますけどね? でも……ああ、痛がっている顔も可愛いかったなぁ」
「この変態が……」と、周喩は秘かに心中で吐き捨てる。
暫く不気味な表情を浮かべていた干吉だったが、少しずつ真面目な表情へと変わった。
「それでこれからどうするんです? 長曾我部はまだ疲れが残ってるのか、陣を張って戦場に留まっているようですし、孫権様を奪還しに行きますか?」
周喩は干吉に背を向け、眼を閉じて思案を始めた。
確かに孫権が捕らわれたのならば絶対に奪還すべきである。
しかし今はそんな感情に任せて軍を動かして良いものか――
「迷う事などあるまい?」
突然声が室内に響き、周喩が眼を閉じていた眼を開ける。
後ろへ振り向くと、そこには氷の眼を持った、顔に深い斬り傷のある男が立っていた。
傷の男――左慈と干吉、そして白装束の者達を己が策謀で巧みに操る毛利元就である。
「これは元就様。御顔の傷の具合は如何ですか?」
「余計な心配は無用。盤上の駒は下がっておれ」
「袁紹さんが熱心に手当てをしていましたからねえ……っとと、下がっていますよ」
干吉が軽口を叩くが、元就に本気で睨まれた為、苦笑しながら王室を後にする。
そして初めて元就と対面する周喩は彼の冷たい眼に思わず身体が震えるのを感じた。
元就は周喩を見つめた後、ゆっくりと口を開く。
「そなたも分かっている筈だ。これから己が何をすべきか、な」
元就が表情を変えぬまま静かにそう告げる。
周喩はその言葉に静かに頷いた。
「…………私が反旗を翻せば良い、そう言う事だろう?」
孫権は長曾我部に捕らえられた。
このままでは人質として扱われ、呉は長曾我部に屈する事になる。
あるいは呉を統べる者として、孫権はその首を落とされるだろう。
しかし周喩が反旗を翻せば話は別だ。
「そなたが反旗を翻し、呉を掌握すれば孫権に人質としての価値は無くなる。そして同時に孫権は呉を統べる者では無くなり、必ずしもその首を落とされる必要も無くなる」
確かに元就の言う通りなのだ。
自分が反旗を翻せば全てが上手くいく。
孫策が託した夢も叶える事が出来る――
「孫権が居ない今が好機ぞ。そなたが呉を率いて長曾我部を倒し、大陸統一を成し遂げた後、再び干吉の術によって変えた“理想の孫権”に帝位を収めさせれば良い」
周喩が眼を閉じ、唇を噛み締める。
「孫策が後継ぎに選んだ孫権が大陸統一者と成り、そなたが託された夢もそれで叶う。迷う必要が何処にある?」
更に周喩は両拳を握り締めた。
あまりに力を入れ過ぎた為か、血が滲み出て来ている。
「選ぶが良い。正しい選択をな……?」
元就の言葉を周喩は噛み締めていた。
反旗を翻した自分を、孫策は許さないかもしれない。
だがしかし――それでも構いはしない。
自分が愛する人の、孫策から託された夢を叶えられずに居られようか。
自分が愛する人の、孫策の言葉を違える事など出来る筈が無い。
地獄の業火に焼かれる覚悟は――出来ている。
「これから全兵に告げる。これより呉は……この周喩公謹が統べるとな」
「…………そなたは正しい選択をした。それで良い」
元就は冷たい眼で、決意の表情を浮かべた周喩を見つめた。
◆
「さて……どうなるんでしょうかね?」
王室の外――元就に睨まれ、出て行ったと思われた干吉は聞き耳を立てていた。
元就と周喩の会話を全て聞いた後、正直自分の心が高鳴って仕方が無い。
「覚悟を決めた彼女を選ぶか、長曾我部を選ぶか……運命が微笑むのはどちらか」
干吉は眼鏡を上げつつ、微笑を浮かべる。
どちらが戦に勝とうが、自分達が最終的に成すべき事に変わりは無い。
そしてそれは――“今だけ”自分達が従っている毛利元就も含まれている。
「でも長曾我部に微笑んだ場合は…………」
干吉は自分の今の主を思い浮かべる。
そして――冷たい笑みを浮かべた。
「貴方が死ぬ時ですよ? 元就様……いえ、毛利元就」
「干吉さん、そこで何をしてらっしゃるの?」
1人そう呟いていると、自分を呼ぶ声が横から聞こえてきた。
その方向を向くと、そこには不機嫌な表情を浮かべた袁紹が立っていた。
干吉は内心深い溜め息を吐き、頭を抱える。
「(やれやれ、相手にすると疲れるんですが)いえいえ、少し考え事をしていただけですよ」
「本当ですの? 何やらブツブツブツブツ、独り言を言っていた気がしますけど?」
「そんなことはありませんよ。それよりも牢獄に居る彼女達はどうでしたか?」
干吉の問い掛けに袁紹があからさまに嫌な顔を浮かべた。
「元気な物でしたわ。甘寧さんは特にね」
「孫権様を守れなかった怒り、か。執念もそこまで来ると凄い」
感心したように干吉は苦笑する。
「様子を見てこいと言われたお陰で私、散々彼女達に睨まれましたわ」
「それと同時に驚いたでしょ? 貴方が生きていて」
「まあ、そうですわね。あの時の顔は傑作でしたわ」
愉快そうな笑みを浮かべる袁紹に対し、干吉は内心で呟く。
(長曾我部に運命が微笑んだ時、貴方も精々働いて散ってもらいますよ。復讐の姫君……)
今、白装束の中でも何かが起ころうとしていた。
それがこの先に何をもたらすのか、今は誰も知る由も無い――
◆
長曾我部本陣・とある天幕――ここで1人の女性が静かに眠っていた。
女性の名は孫権。そんな彼女を心配そうに見守るのは妹の小蓮である。
「お姉ちゃん……」
長曾我部と呉の戦が終わりを告げてからもう随分と時間が経っている。
姉が元親と共に武将達によって運ばれてきた時は生きた心地がしなかった。
自分が大切だと思っている人が2人も同時に運ばれてくれば、誰だってそうなってしまうだろう。
しかしどちらも死ぬ程の怪我では無く、手当てをすれば安心と知った時、小蓮は涙を浮かべて安堵した。
(元親も大丈夫かな……? お姉ちゃんもこうだし、元親も……)
怪我を負ってまで姉を助けてくれた元親は、本陣の方で手当てを受けている。
姉が眼を覚ましたら、少しだけ彼の様子を見に行ってあげようと思った。
「お姉ちゃん……しっかりしてよね」
小蓮は眠っている姉の手を、ソッと優しく握った。
無事に眼を覚ましてくれるように、願いを込めて。
すると――
「う、うう……」
「――――お姉ちゃん!」
少し呻き声を上げながらも、孫権の徐々に閉じていた眼が開いていく。
小蓮はそんな姉を励ますように、必死に声を掛け続けた。
「しゃ……小蓮……?」
「お姉ちゃん! そうだよ、シャオだよ!」
孫権は頭を押さえつつ、ゆっくりと上半身を起こしていく。
小蓮は彼女が倒れないよう背中を支えて起こすのを手伝ってあげた。
「どうして……こんなところに……? それに……ここは……?」
「ここは元親が敷いた天幕だよ。私はお姉ちゃんが心配で、お姉ちゃんが急に宣戦布告をするから……大喬と小喬の分まで……」
小蓮の言葉を聞いた後、朦朧としていた孫権の脳裏に記憶が徐々に戻っていく。
呉に戻った時の事、甘寧と陸遜が連れ去られていく事、干吉と名乗る男に何かをされた事、幽州に宣戦布告をした事、元親に剣を何度も振り下ろした事、彼が自分へ必死に呼び掛けていた事、彼の首を締め上げた事――
その全てが戻った時、孫権が両腕で顔を覆った。
激しい後悔の念が襲い掛かり、涙がこみ上げてくる。
「私は……何て事を……!! 私は……何て外道な事を……!!」
「落ち着いてお姉ちゃん……!! お姉ちゃんのせいじゃないよ……!!」
「ううっ……ヒック……えう……ああ……」
「もう大丈夫……大丈夫だよ。だからお姉ちゃん、落ち着いて……」
「しゃおれん……しゃお……!」
涙を流し、嗚咽を漏らす姉を小蓮は優しく抱き締めて慰める。
姉がこんなにも取り乱して泣くところを小蓮は初めて見た。
だからこそ、精一杯姉の悲しみを受け止めてあげたかった。
それが――血を分けて生まれた姉妹の務めだから。
「あ〜〜〜邪魔……したか?」
そんな光景をバツが悪そうな表情で見守っていたのは、頭を掻いている元親である。
彼が居る事に気付き、孫権は小蓮からゆっくりと離れ、涙を拭いて顔を背けた。
「もう! 元親ったら。こう言う時には出て来ちゃ駄目なんだよ」
小蓮が頬を膨らませ、元親に抗議する。
しかし元親からすれば面白い顔をしているようにしか見えなかった。
「そりゃ悪かったな。お前の姉ちゃんの具合が気になってよ」
「それは分かるけど……元親の具合はどうなの?」
「俺? 見て分かんねえのか? 心配いらねえって」
微笑を浮かべながら言う元親だが――額に包帯、顎に当て布、心配要素満載である。
しかしそれでも余裕そうな表情を浮かべている辺り、流石は元親と言ったところか。
小蓮はそんな彼を笑った後、ゆっくりと天幕を出て行く。
「ん? 何処に行くんだ?」
「お姉ちゃんに、何か温かい物でも持ってくる。お腹が空いちゃってるだろうし」
そう言って孫権を一瞥した後、小蓮は天幕を後にした。
しかしこれは小蓮なりの気遣いなのである。
(元親……お姉ちゃんの事を頼むね)
内心そう呟くと、小蓮は姉に持って行くご飯を取りに向かった。
◆
「具合はどうだ? 気分が悪いとか、そんなのねえか?」
「…………特に無い。大丈夫だ」
小蓮が去り、元親と孫権が残された天幕は重たい雰囲気に包まれていた。
特に孫権は元親に負い目を感じていることもあり、余計に重たくなる。
しかし元親はそんなことを気にも留めず、孫権へ熱心に話し掛けた。
「今日は安心して寝て良いぞ。見張りは交替でしてるからな」
「……………………」
「そうだ。今日はどうせなら小蓮と一緒に――」
「――――もう私に構うな!! 話し掛けないでくれ!!!」
孫権は元親を睨み、怒声を放った。
しかし彼女の眼からは一筋の涙が流れ、怒りも何も感じない。
元親が唯一感じたのは深い悲しみだけだった。
「もう放っておいてくれ……! 私はもう……!」
孫権が両腕で顔を覆い、顔を伏せる。
「はぁ……放っておけるかよ。この馬鹿野郎」
「――――えっ……!」
元親のその一言に、孫権が伏せていた顔を上げた。
「眼の前で大粒の涙を流して泣いてる奴を見て、俺が放っておく男だと思ってんのか?」
「私は……お前に剣を何度も振るった……! 私はお前の首を絞めたんだぞ……!」
「それが何だってんだ。そんなちっちぇ事、俺が何時までも気にする訳ねえだろ」
元親が孫権の両肩を掴み、ジッと眼を見つめる。
「あんたが泣いて助けてくれと言ったから俺は助けた。だからあんたはここに居る。これからもそうだ。あんたが助けてと言えば、俺は何時だって助けて支えてやる。これはあんただけじゃねえ、ここに居る奴等全員がそうだ」
孫権の眼が驚きに見開かれる。
「俺は頼まれちゃ、嫌とは言えない性分でね。ここに居る奴等全員が承知済みさ」
孫権は顔をゆっくりと俯かせた。
「だからもっと俺を頼ってくれよ。同じ平和を望んだ者同士、和平を結んだ者同士だろ?」
「あ…………」
「あんたが転んだら、俺が支えになって立ち上がらせてやる。転んで立ち上がれない奴なんざ、この世にいねえんだから。な?」
――孫権は今更ながらに分かった。
この乱世の中、一国を纏める1人の王として、自分にはなく、彼にだけある物が。
(逃げていた私には、絶対に身に付かない物だな……)
それは――人をここまで安心させてくれる深い優しさと、頼りがいのある言葉。
彼の言葉を聞いたら先程の悲しい気持ちが嘘のように思えるくらい綺麗に消えた。
そして不思議と顔が熱くなり、胸が強く高鳴った。
「孫権……幽州から戻った後に起きた事、全部話してくれるか?」
「…………分かった。全てを話そう。だが――」
その言葉を最後に孫権は元親に抱き付いた。
顔を彼の胸にうずめ、手を背中に回す。
「孫権……?」
「お願い……今はもう少しこのままで」
「…………ああ」
孫権は元親の言葉を聞き、自然と眼から涙が零れ落ちるのを感じた。
「今日は変だ……さっきも泣いたばかりなのに……涙が止まらない……」
「……今まで溜め込んでた分じゃねえか? あんた、我慢しそうだし」
「きっと違うわ……貴方のせい……」
孫権の言葉に元親が首を少し傾げる。
「俺のせい?」
「そう。貴方が、温かい言葉を掛けたせいよ……」
その後、孫権は小蓮が戻ってくるまで元親の胸に顔をうずめていた。
その光景を目撃され、小蓮が騒ぎ、愛紗達が騒ぐのもまた、別の話――