満月が空に輝く夜――元親は自室で机に連なる書類の山々と睨み合っていた。
朝から愛紗達に手伝ってもらっていたのだが、終わる気配をまるで見せない。
「あ〜〜〜……眠ぃ」
度々出そうになる欠伸を堪えつつ、元親は書類の文字に眼を通していく。
色々と頑張ってくれた愛紗達を気遣って先に休ませたのは良かったと思う。
しかし――その後の事までは考えが回らなかった。
「俺1人で片づけられる訳がねえよなぁ……」
元親は手に持った書類を山の上に置き、背をグッと伸ばした。
ダルさが一瞬だけ取れはしたが、すぐにそれは元に戻った。
「う〜〜〜ん……気晴らしに散歩でもすっか」
思い立ったら即行動――元親は窓から出る為、壁に立て掛けてある碇槍を手に持った。
以前に元親は桜花と共に屋敷を抜け出す際、木に碇槍を引っ掛けて脱出した事がある。
今回もそれと同じ事をしてコッソリと庭へ散歩に行くつもりだった。
「部屋の窓際近くに木が生えてるってのが運の良い証拠だな」
窓を開けた元親は微笑を浮かべ、すぐそこにある木に引っ掛けようと碇槍を振り上げる。
その時だった――
「おや? 主、黙って外出ですか?」
「――――ぬおッ!?」
背後から聞こえた声に驚いた元親は、その拍子に勢い良く尻もちを突いてしまった。
痛む尻を押さえながら元親は声の主と向き合う。
「脅かすんじゃねえよ。愛紗かと思ったじゃねえか」
「ふふふ。もし訪ねて来たのが愛紗であれば、主の今の行動は怒髪天物ですな」
「…………頼むから愛紗には言わねえでくれよ? 冗談話にもなりゃしねえ」
「主が今の行動を続けられるのならば、愛紗に告げ口せざるを得なくなりますが?」
突然の訪問者――星は意地の悪い笑みを浮かべながらそう言う。
無断外出を告げ口されては堪らないと、元親は散歩を諦める事にした。
「ハァ……それで? こんな夜更けに何の用だ?」
「話が早くて助かります。久しぶりに主と一献飲もうかと思いまして」
そう言いながら星は右手に持った大きめの徳利を元親に見せた。
それを見た瞬間、散歩が出来なくて不機嫌だった元親に笑顔が宿る。
「そりゃ良いなぁ。散歩が出来なかった分、それで気分を晴らすか」
「先程の行動は散歩をしようとしていたのですか? 全く奔放な方だ……」
星が溜め息を吐き、呆れ気味に呟いた。
「別に悪い事じゃねえだろ? 部屋に籠り切りは身体に毒だ」
元親が悪びれも無くそう言いながら、何処からともなく2人分の杯を取り出す。
「おお、何とも用意が良いですな。主」
「お前みたいに突然やって来て、一緒に酒を飲もうっつう誘いは多くってね」
刹那、星が不機嫌そうに眼を細めた。
(むう……誰かは知らぬが、私と同じ事を考えていたか)
「??? どうした? 座らねえで立って飲むのか?」
「――っとと、失礼を致しました。無論、座って飲みます」
2人が絨毯の上に座り、互いの杯に酒を注いだ。
そして共に杯に口を付け、ゆっくりと注がれた酒を飲み干す。
口内にまろやかな味が広がり、2人の気分を和ませた。
「かぁ〜〜〜っ! 疲れた時の酒は格別だな!」
「確かに。就寝する前とは言え、よく効きますな」
「この酒、お前が選んで買ってきたのか?」
「ええ、以前主に助言を頂いた通り、自分がこれだ! と思う物を買いましたよ」
「そりゃ良い。お陰で大当たりじゃねえか」
元親が上機嫌に徳利を持ち、空になった杯に再び酒を注ぐ。
散歩が出来なかった鬱憤を晴らすには十分過ぎる酒である。
しかし――何かが足りない。
酒は十分なのだか、何かが足りないのだ。
「ん〜〜〜……何か丁度良い肴とかねえか?」
「丁度良い肴ですか?」
「ああ。それがありゃあ、もっと美味くなる筈だぜ?」
元親の言葉に星が2、3度程ゆっくりと頷く。
どんな時でも酒を飲む時には肴は必要な物。
それがあれば酒は進むし、味が良くなるのだ。
「おっ! そうだ。星、メンマはねえのか?」
「メンマですか? 何故……?」
「何故って……星と言えばメンマだろ?」
元親の言葉通り、星のメンマ好きは屋敷に住む者なら誰でも知っている。
たまに自分で作り、ジックリとそれを1人で味わっている程である。
噂では星のメンマに手を出せば、その者は地獄以上の恐怖を味わうらしい。
「ふう…………主」
盃の酒を飲み干し、深々と溜め息を吐いた後、星は元親を見つめた。
心なしか、彼女の身体から何とも言えない不可思議なオーラが出ている。
「な、何だ? どうかしたのか?」
急に雰囲気が変わった彼女に対し、元親が首を傾げる。
「主は食糧庫の大切さを理解しておいでですか?」
「…………唐突だな。そりゃあ俺だって理解してるぞ」
急に質問を投げ掛けてきた星に内心戸惑う元親だが、表に出さないよう冷静に答えた。
食糧庫には幽州の民から献上された食べ物が大切に保管されている。
戦が長期に亘ったり、籠城戦になった時は食糧をここから配るのだ。
苦しい財政の中、四国で戦火を潜り抜けてきた元親が理解していない筈もない。
「それは良い。食料庫は長期の戦や籠城戦の要なのです。大切にしていて損はありません」
「まあな。戦の要でもあるが、町の奴等が持ってきてくれた物で溜まってんだ。大切にしなきゃ罰が当たるってもんだぜ」
「ええ」と呟きつつ、星が空になった自身の杯に酒を注いだ。
「籠城戦ほど、過酷な物はありません。特に食料が尽き果てた時です」
「そうだなぁ。食う飯が何も無けりゃ人間は狂っちまうもんな」
「その通りです。士気を上げようとすれば下がり、人間関係もドンドン崩れていく。最悪の場合、堪りかねた味方の兵士が門を内側から抉じ開けてしまうそうですよ」
その時のことを想像し、元親は背中が冷たくなるのを感じずにはいられなかった。
正直に言って自分はそんな絶望的とも言える場面に遭遇した事はあまり無い。
しかしどんなに結束が固い軍にも起こり得る事は事実、否定のしようがない。
元親は小さく溜め息を吐いた。
「申し訳ありません。せっかくの酒の席に無粋な話を持ち込みました」
「良いって事よ。お前からの忠告はありがたく受け取っておくぜ」
元親は気にするなと言う意味を込めて星の肩を叩いた。
星は軽く頭を下げつつ、盃に口を付ける。
「でも驚いたぜ。急にお前が食糧庫の話を持ち出すから何事かと思ったじゃねえか」
「ふふ、肴代わりの話です。それで主、もう1つだけ……肴代わりの話があるのですが?」
星が微笑を浮かべながら元親にそう持ち掛けた。
断る理由も見当たらないので元親はその話を聞く事にした。
「近頃、夜な夜な食糧庫に怪しい人影が出入りしているのですよ」
「何……? そんな報告、愛紗や朱里からも聞いてねえぞ?」
元親が顔を顰め、持っていた杯を絨毯に置いた。
「食糧泥棒を行うなど、全く持って不届きな所業です。私はそれを許す事は出来ない」
「それは俺も同じだ。泥棒野郎め……俺がいっちょ礼儀って物を教えてやらねえとな」
元親の言葉に星がクックッと笑った。
「ところで話は変わりますが、最近私の大切にしていた秘蔵のメンマが無くなりましてな」
「秘蔵のメンマ……? んな物があったのか」
「ええ。それはもう大切に、大切に食糧庫に保管してもらっていたのですよ」
星の顔は笑顔――あくまで笑顔だ。
しかし身体から出ているオーラは凄まじい物がある。
(ああ……やられたな?)
――元親は瞬時に悟った。
どうやら彼女、秘蔵のメンマを食糧泥棒に盗られてしまったらしい。
哀れと思っていると、星が何時の間にか元親との距離を詰めていた。
「主……3日程前、とても美味い物を食されたと聞きましたが?」
「3日前……? ああ、ありゃスゲェ美味かったな」
元親はその時の事を思い出していた。
とある“猪突猛進”を代表する武将2人が元親に持ってきた黒い壺。
中には匂いを嗅ぐだけで涎が零れそうな見事なメンマが入っていた。
『こりゃ美味そうだな。お前等どっから持ってきたんだよ』
『別に良いじゃん。そんな事より早く食べようぜ』
『うん! 鈴々も翠に賛成!! お兄ちゃん、早く食べよう!』
3人でそれを分けて食べ、腹を十分に満たしたのは記憶に新しい。
特に白飯にメンマをタップリと乗せたメンマ丼は絶品だった。
「あれだけ美味いメンマはそうそう無いだろうぜ。星も呼べば良かったな」
「ええ、是非とも呼んでほしかったですね。なんせ秘蔵のメンマですから」
「…………ハッ?」
刹那、星の言葉によって場の空気が一瞬にして凍り付く。
星は変わらず笑顔、元親は額から冷や汗を一滴垂らした。
「あ〜〜〜……星?」
「おや? 顔色が優れませぬぞ、主」
「……俺は全く知らなかった。今初めて聞いた」
元親はそう言うが、間近にある星の眼をまともに見れなかった。
なんせ今眼を合わせればトンでもない事になると感じたからだ。
「……人と話す時は眼を逸らさない!」
星は怒気を含んだ声で元親の両頬を掴み、自分の眼と無理矢理合わせた。
「と、主は我々に言っているではありませんか」
「お、おう……」
星の表情は笑顔――変わらず笑顔を貫き通している。
だが元親からすれば、その笑顔はかなり怖かった。
常人ならば即気絶する、そのぐらいの迫力である。
「誰と食されたのですか? 主」
「いや、あのな、それは……」
「だ・れ・と・食された?」
最初の声よりも遥かに重くなった声色に元親の気まずさが大きく増す。
戦場に居る筈はないのに、まるで戦場のド真ん中に居る感じさえした。
「……星、とりあえず落ち着かねえか?」
「だ・れ・と?」
「…………鈴々と翠と一緒に食べた」
星の追及に折れた元親はメンマを持ってきた張本人2人の名を上げた。
2人の名を聞いた星は顎に手を添え、満足気に頷く。
「国を守る太守である御方が家臣と共に食糧泥棒を働くとは……嘆かわしい」
「ちょ、ちょっと待て! 食糧泥棒ってのは……」
「人の物を勝手に食すのは泥棒とは言わないのですか?」
グッと言葉に詰まり、何も反論が出来ない元親。
立場的にも状況的にも彼に味方する物は何も無い。
「もしかして今までのお前の話って、この事を追及するためだったのか?」
「ふふふ…………それは主の想像に任せます。でも、良い酒の肴でしょう?」
「ああ……あまりに美味くて涙が出てくらぁ」
皮肉タップリに元親は言い返すが、星には何の効果も無い。
更に彼女に問い掛けたところ、夜な夜な食糧庫に出入りしているのは鈴々と翠らしい。
全て知っていたのか、そうでなかったのか――星は微笑を浮かべるだけで答えなかった。
「あ〜〜〜くそぉ。それで? 俺は何をすりゃあ良いんだ?」
「おや? 私は別に主に何も求めてはいませんが?」
「今更白々しい事を言うなよ。お前がこれだけで終わる筈がねえだろうが」
元親の言葉を聞き、星が顎にワザとらしく手を添える。
何を考えているのか、元親にしてみれば不安だらけだ。
星が考え始めて数分間――何かを思い付いたのか、星が口を開いた。
「そうですな……では明日の夜、鈴々と翠を連れて私の部屋へ来て下さい」
「2人を連れてお前の部屋へ行くのか? …………何をすんだよ」
元親が訝しげな表情を浮かべ、星に訊いた。
「な〜に。主は食糧庫の大切さを理解していると仰っていましたが、今回の件で私は理解が足りないと思いました。無論、それは鈴々と翠も同様です。御三方には私の部屋で存分に食糧庫の重大さを理解していただきます」
星の爆弾発言に元親は血の気が引いた。
わざわざ部屋へ説教をされに来いと言っているのだから。
「…………もうちょっと軽くならねえ?」
「ふむ……なれば愛紗や朱里の耳に入れ、その2人にも参加していただきますが?」
「全く軽くなってねえ! 寧ろ説教役が増えてるじゃねえか!!」
悲鳴のような声で訴える元親だが、星は容赦無くそれを笑い飛ばした。
「主、最初に言っておきますが、食糧泥棒の犯人は私と主しか知らぬのです。愛紗や朱里にまだ知られてないだけでも、軽いと思っていただきたいものですな」
どうやら完全にメンマを取られてご立腹のようだ。
最早彼女に情けを求める言葉は通じないらしい。
「では主、明日の夜、御待ちしていますぞ」
そう言うと星は徳利を持ち、早々に扉へと歩いて行く。
酒盛りはどうやらこれでお開きにするらしい。
「そうそう、もし逃げたり人数が足りなかったりしたら――」
刹那、星が冷たい表情を浮かべた。
「後が怖いですよ?」
思わずゾッとするぐらいの声色に元親の背が自然と伸びた。
ぎこちない動きをしつつ、元親は返事を返す。
「お、おう……必ず行く」
元親の返事に満足したのか、星が笑顔で軽く頷いた。
「結構。明日は主も鈴々も翠も、一睡も寝かせませぬぞ?」
「ああ……そうかい。楽しみにしてるぜ」
星が妖艶な笑みを浮かべた後、ゆっくりと部屋を出て行った。
普通の男なら一撃で魅了する笑みだったが、元親からすれば重い物でしかない。
「ハァ……書類整理の方がまだ楽だぜ」
元親の背後にある机の上の書類が窓からの風で揺れる。
何故かそれは今の彼の気分を物語っているように見えた――