翌日、早速問題が起きた。
「………どうしよう」
腕と脚が固定されている以上、移動は不可能だ。
身動きが取れないということは即ち、用を足す事が出来ないわけであって。
ナノマシンを投与してもらったとはいえ、動けるようになるまで最低でも2日はかかる。
―――つまり、だ。
「………どうしよう」
朝の部屋。2度目のぼやきは、誰もいない室内に響いて消える。
1階で待機するアキトは、フェイトを拾った責任として彼女が回復するまでの間世話をすることになった。
無論、彼女を月に移送できないわけではないが、命に別状はない以上、丁重に扱う必要もあるまいということで。
「……むぅ」
天井を見つめたまま唸ってみるが、答えは1つしかない。
だが、これはあまりにも屈辱…というかお嫁にいけなくなってしまう。
しかし、あと2日間も我慢する事が果たして可能なのか。
大はともかく、小は確実に不可能だ。眠ってもいない限り…。
そんな感じでフェイトが悩みに悩んでいると部屋のドアをノックしてからアキトが入室してくる。
手には見慣れない形状のビンが…。
「あ、お、おはようございましゅ」
「……寝起きか?」
「い、いえ、そういうことじゃ…それは…?」
「尿瓶だが?…まさか君はそんな体で歩き回るわけじゃないだろう」
「あぅ…あぅぅ…!」
昨晩と同じ真っ黒な服装のアキトは、スリッパをパタパタと鳴らしながら手に持った尿瓶をフェイトの股間のところまで持っていく。
「ま、待ってください!」
「恥ずかしいのか?…まぁ、わからんでもないが、我慢しすぎると膀胱炎になるぞ。
―――それとも、自分1人でやってみるか?」
自身に着せられていた水色の寝衣の裾に手をやろうとしたアキトを制止。
アキトの提案に顔を羞恥に紅く染め上げながらもコクコクと勢いよく頷く。
―――やらなければならない。そう、やらねば貞操の危機である。
まさにそれは決戦であった。
というか昨日のイネスという女性はどこに行ってしまったのか。
むしろやってくれるなら彼女にやって欲しかった。
確かにこちらの希望を一々聞くほどの義理も恩もないわけだが、同じ女性なのだからこちらの苦悩を理解してほしいものだ。
「なら、好きにしろ。俺は少し外に用があるから出かけてくる。どうしても無理だと思ったらこれを使って俺を呼べ」
フェイトの慌て様もどこ吹く風か。
アキトは淡々と告げると、自身のパンツのポケットに手を突っ込み、その中から時計を取り出してフェイトに手渡す。
フェイトにもその時計はかつて見た覚えがあった。そう、某スポーツ時計である。何たらショックとか。
「横のボタンを押せば俺と通信が繋がる。それじゃあ、俺は行くぞ」
最後にそれだけを告げ、アキトはゆっくりと部屋から退出していく。
と、そこでフェイトは何かを思い出したのか、慌ててアキトを呼び止める。
「あ、あの、アキトさん!」
「…どうした?」
「あ、ありがとうございます。助けていただいて…」
「……感謝している暇があるのなら、早く元の世界に戻る方法を考える事だ」
それだけを返し、アキトは部屋を出て階下へと去っていく。
その言葉にフェイトは若干表情を曇らせるのを感じながらも、敢えて突き放すのであった。
カップリング記念SS第2弾「フェイト」
どうやらアキトはイネスを呼んだらしく、退室してから数分後にイネスがフェイトの寝室を訪れた。
流石に男に便の世話をされるのはイヤだというフェイトの考えをきちんと理解していたのだろう。
フェイトはそんなアキトの気遣いに感謝するが、ある疑問に行き着いてつい問うてしまう。
それは、イネスをどこから連れて来たのか。
昨日このペンションを発見した際、周囲には何もなかった。あったのは林だけだ。
疲弊していたとはいえ、そこの記憶ははっきりと頭の中に残っている。
車でも使ったのか。否、車など置いてなかったし、車庫も見えなかった。
そもそも車が通れるほどのスペースや、道路が舗装されていたわけではもない。
それにイネスは、説明しましょうといつもの癖でフェイトを苦しめ…彼女が解放されたのはアキトが戻った昼頃であった。
「何か、説明してもらったようだな…」
「………はい」
昼食を載せたトレイを持って入室したアキトは、疲れた表情で天井をぼんやり見つめているフェイトに悟ったようだ。
ベッドの傍の椅子に腰掛け、傍のミニデスクにトレイを置いて溜息を吐く。
「ドクターには何かを説明させてはいけない」
「それを言うならもっと早めにお願いします…ふぅ」
「……すまない。それで、食欲はあるか?」
「あ、はい」
「利き腕はどっちだ?…使えるなら自分で食べろ」
「あぅ……」
「…そうか」
アキトの問いに気まずそうな表情を浮かべるフェイト。
アキトはその反応から読み取ったのか、トレイのスプーンを使い、フェイトの口の前にスプーンを運ぶ。
「あの…?」
「餓死したければすればいい。ただし死体はそこらへんにでも放置させてもらうがな」
態々面倒を看てやってるんだから、と付け足し、アキトは困惑するフェイトの口の中にスプーンをねじ込む。
塩味の効いたコンソメスープが口の中に広がり、喉を下りていく感覚にフェイトは満足感を覚えてしまう。
「……優しいんですね」
「…君は男を見る目がないな。俺みたいな犯罪者を優しいとは」
「犯罪者?」
「ああ、そうさ。俺は元テロリストだからな。俺のせいで死んだ人間は10や100で数え切れるものじゃない」
「……そんな風には見えませんが」
「それこそ見る目がない」
淡々と答えつつも、アキトはフェイトの口に食事を運び、フェイトはそれをされるがままに咀嚼する。
「……何をしたんですか?」
「復讐さ。単なる復讐、それだけのために無関係の一般人を殺した。それだけの事だ」
「………」
暗く、底が見えないほどに暗い瞳を浮かべ、アキトは答える。
そこには、誰もが踏み込んではいけないと、本能的に悟らせてしまう黒い炎が見える。
フェイトもまた、安易にその場所に踏み込めば、自身が大火傷を負ってしまう事を直感で理解した。
それから2人は何も喋らず、重苦しい雰囲気のまま食事の時間が過ぎていく。
そして、食事が終わるとアキトは先ほどとは違う、いつもの無表情に戻って部屋を出て行く。
「……まさか、出会って2日目の君にこんなことを話すことになるとはな。俺も相当ストレスが溜まっていたらしい」
「え…」
「忘れてくれ。気分のいいものじゃない」
その言葉を最後にアキトは部屋のドアを閉め、階下へと下りる。
そして、そのままボソンジャンプで月の食堂にトレイを置いて戻る。
単独のボソンジャンプ装置、北辰が使用していたものを更に改良したそれは、今はアキトの腕時計となって肌身から離せない物となっている。
「…フン」
隠れ家に戻ってきたアキトは、自然と漏れる苦笑と共に歩き出す。
しばらくは散歩でもして時間を潰したほうが……というか、この精神状態では誰かと話が出来るような状況ではない。
アカツキもフェイトのことを耳に入れ、彼女が完治するまでは仕事を回さないなどといらぬ気を遣われたため、ポッカリと時間が空いてしまったのだ。
こうなればあの場所に行って落ち着かせたほうがいいだろう。
そう判断し、アキトはいつもの丘へと歩みを進めるのであった。
夕食時のアキトは普段の無愛想に戻ってはいたが、フェイトの心の中には昼間にアキトが見せた瞳が引っかかっていた。
だが、本人に訊くのも憚られ、イネスに訊くべきかと悩んでいたが、結局フェイトの傷が完治しても訊けずじまいであった。
帰還する方法がないフェイトは、捜索班が自身を見つけてくれることを祈ってただ待つのみ。
行き場のない彼女は快く…とはいかないが、アキトのペンションに居候する事となった。
食事は、ペンションにはバランス栄養食「カロ○ーメイト」以外に何もなかったので、フェイトはアキトに頼んで食材を調達。
自身も簡単なものしか作れなかったが、まだ前述のものよりもまともだと判断し、アキトにも食べさせようとしたが、アキトはそれを頑なに拒んで口に
入れよう
とはしなかった。
信用されていないのかと落胆する一方、強硬な姿勢を崩さないアキトの態度にどこか違和感を感じていた。
こうして、フェイトがアキトと出会ってから1週間経ったある日、夏の朝。
アキトは仕事に行くと告げてペンションを出る。
その姿はフェイトが最初にアキトと出会った時と同じ、スーツ姿であった。
帰りは遅くなるから適当に過ごせと言われ、フェイトは初めて一人で時間を潰す事になった。
「……掃除、かな」
一人ぽつんと佇むリビング。ふと見れば、周囲には埃が溜まっているところが幾つか見える。
しかし、そこまで汚れていないため、誰かが掃除に来ているのか、はたまたアキトが掃除しているのか。
もしくは、アキト自身がここに来てから日が浅いのか。どれが正しいかは判断がつかなかったが、やれることはやっておきたい。
「……あった」
フェイトがトイレの隣のドアを開けると、そこには掃除道具一式が納められていた。
掃除機に雑巾バケツ、はたきなど、これだけあれば掃除は出来るだろう。
使われた跡はなく、それすらも埃が溜まっている事から、どうやらこの家では外からの第3者が掃除をしているようだ。
まぁ、まだ数日しか共に過ごしていないが、アキトの性格を鑑みれば掃除をやっているようには見えない。
ともあれ、こうして始まった大掃除。
リビングキッチンベランダフェイトの自室、色々とやっていたら正午を越えていた。
しかし、アキトが帰ってくる気配は一向にない。やはり今日は遅いようだ。
(というか、これってまるでお嫁さん?…う、ううん、そんなんじゃないよね)
三角巾を頭に装着、エプロンを纏ったフェイトの姿はまるで家政婦か、それとも夫のいない家を綺麗にする妻の姿か。
そんな馬鹿な考えに至り、フェイトはリビングで一人くねくねと身をよじらせる。奇怪な事この上ないのはフェイトにもわかっているが、止まらない。
フェイトが我に返ったのはそれから10分後、お腹の蟲が悲鳴を上げたおかげである。
そして、午後。
フェイトは、アキトの部屋の前で突入すべきか少しの時間迷っていたが、結局掃除をすることに決めたようだ。
お節介だとは思うが、他のところをやってアキトのところだけやらないというのは後味がよくない。
こうしてアキトの部屋に足を踏み入れたフェイトは、部屋の中を見て感嘆の息を吐いた。
ステンレス製のデスクに、シングルベッド。
壁際にはスーツボックスが2箱。恐る恐る覗いてみれば、中には黒いスーツ一式が3セット×2。
どうやら仕事着には苦労していないようだ。私服は傍のプラスチックで出来た洋服入れに突っ込んであるのがわかった。
あまりに整理整頓されており、掃除の必要性もないために退出しようかと思い、踵を返そうとしたところ。
ベッドの傍のミニデスクの上に伏せられていた写真立てが気になり、それに引き寄せられるかのようにフェイトの足は動いていく。
そして、それをひっくり返すと、そこにはバイザーを纏ったアキト、そして彼の知り合いであろう人々が佇み、微笑んでいた。
場所はペンション傍の海なのだろう。皆一様に水着を纏っていた。アキトはシャツとズボン姿であったが。
そんなアキトの傍には、ピンク色の髪が特徴的な少女が、アキトのシャツの裾を掴んだままカメラをじっと見つめていた。
(元テロリストにしては…周囲が妙に明るい雰囲気だなぁ)
そういう人たちを見てきているフェイトには、アキトはともかく周囲の人々からテロリスト特有のどんよりとした空気を感じ取れなかった。
むしろこれは、友人達と遊びに来ているかのような…そんな雰囲気を感じる。
だが、写真の中のアキトは笑ってはいなかった。
無表情のまま、喜怒哀楽が抜け落ちたかのような…そう、隣の少女と同じ、何の感情も映してはいなかった。
―――寂しい、目。
彼が行った復讐とは、一体何か。
あの、引き込まれるような瞳の奥で燃え続けている炎の原因は、一体何か。
フェイトは、何故か気になってしまった。
犯罪者には犯罪を犯すそれなりの理由がある。
プレシアのように、スカリエッティのように。
では、アキトの言う、テロを起こした理由とは?
「………」
犯罪者に関して、フェイトがここまで気にかけるようになったのは初めてだ。
きっと、彼には、彼の中には、単なる理由だけではない、何かがあるのだと。
結局、アキトが帰宅したのは午後8時の事であった。
「おかえりなさい、アキトさん」
「…そういえば君がいたんだな」
玄関にて、スーツ姿のアキトは多少疲れた様子でフェイトと数瞬見詰め合うと、靴を脱いでさっさと2階の自室に戻っていってしまう。
フェイトはそんなアキトの様子が、疲れているときのなのはや同僚と重なり、本当に元テロリストなのかと疑いを持ってしまった。
「あの、ご飯はどうしますか?」
「食べてきた。君は好きにすればいい」
それだけを返し、アキトは自室へと閉じこもってしまう。
そのままその日は眠りに就いたのか、シャワーすら浴びず、部屋の電気を消していた。
「何?…態々何でそんなことを」
『いやなに、君が女性を連れ込んでいるっていうから僕も挨拶しておこうと思ってね』
「……エリナは了承しているのか?」
『勿論さ。…説得には苦労したけど』
「…ふぅ、勝手にしろ」
翌朝。
リビングの端の電話が鳴り響き、電話の傍のモニターには長髪の男性の顔が映り、アキトと会話を交わしていた。
どうやら友人のようだが、アキトの疲れ切った表情からするとあまり良好な関係とは言えなさそうだ。
「友達、ですか?」
「上司だ」
リビングにて、朝食を口に運んでいたフェイトが問うが、アキトは視線を合わせることなく淡々と答える。
そして、冷蔵庫の中から栄養食を取り出し、コップに水を注いでその場で食べ始める。
「上司って…」
「上司は上司。ただそれだけだ。俺はアカツキの奴が来るまでしばらく散歩してくる。
…君は好きに過ごしていろ」
まるで、食事そのものに興味がないような。
僅か10秒足らずで栄養食を胃の中に押し込んだアキトは、水を一気飲みしてからフェイトに告げてコップを洗う。
「…それじゃあ、私も一緒に散歩していいですか?」
「何の意図があるか知らないが、止めておいたほうがいい。特に面白いものなんてないからな」
「ここで一人の方が面白くないですよ。テレビすらないんですから」
「…勝手にしろ」
そこでコップを洗い終えたアキトは、タオルで拭いて水滴を取ってから食器棚にコップを戻す。
そして、そのまま玄関の方に足を向ける。
「俺は気が短いからな。迷いたくないのなら早く食い終わる事だ」
「…はい!」
背中越しの言葉は、何気ない優しさ。
きっと本人もそれが気遣いだとは気付いていないのだろう。
そういうことが無意識にできる性格が、フェイトには少し眩しく、温かかいものに感じるのであった。
<続>
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