―『英雄』である我が親友は何時も一人だったように思う―
―いや、彼女は『英雄』になるにつれて一人になっていった―
―『英雄』を孤独と言う人間がいるが、孤独にされてしまった人間を『英雄』と言うのではないだろうか?―
―ならばの、アシュレー。わらわはお主を『英雄』にはせぬよ。じゃから……―
―わらわを決して『英雄』にしないでくれるか―
Trinicore
#3
―王都トリスタニア―
比較対象に国境間に点在する小国が含まれる事が殆ど無いため、一般にはハルケギニア一の小国と認識されるトリステインではあるが、その王都であるトリスタニアは、流石に周辺の都市や貴族領の一都市などとは一線を画すだけの設備と活気を有している。また、休日になれば貴族も多くここを訪れるため、自然と高級店が集中し、魔法学院に入学してくる子弟達の密かな憧れの一つともなっている。
さて、そんなトリスタニアには一輪の華があるとされている。そう、王女アンリエッタである。彼女は、今回のタルブ戦争での勝利を機に、ゲルマニアとの婚約を破棄。自らが女王となることを宣言し、つい先日王位継承が為されたばかりであった。
その新たな女王が住まう場所、王都トリスタニアの花園とも言うべき白の宮殿。今、王都の中をその花園へと向かって進む奇妙な集団があった。
「……」
その一団、全員が全員女性であり、服装も髪の色も、てんでバラバラ。装備している武器すらばらばらで隊列すら存在しない、大凡統一感の無い奇妙な集団であった。が、その集団の視線には力があり、その全員が全員希望と若干の不安を綯交ぜにした様な視線をトリスタニアの王宮へと向けていた。
「……」
「……」
その奇妙な集団の中で、何故か一人だけ紛れ込んでいる大剣を持った男性と、一際目立った格好をしている金髪の少女。その二人だけが、やや困った視線と面倒臭そうなジト目を宮殿へと向けている。
(はぁー、どうにもこうにも、碌な事にならなそうじゃの)
大きく、今日何度目になるか分からないマリアベルのため息が漏れた。それを脇で見ていたアシュレーも、正直困り顔だ。
(結局、どうして僕達が名指しだったんだろうね?)
(名指しするだけの理由、先の戦争くらいしかないからのぅ)
小声で相談して、再び溜息を吐く二人。はっきり言って、二人にしてみれば、この王宮からの招聘は厄介事以外の何物でもない。探していたエルフの情報もようやく手に入れる事が出来て、いざガリアへと思った矢先に起きた戦争。その戦争の復興を取り敢えず目途が付くまで手伝ってから出発しようと思っていた所への招聘。もしあれを断れば、下手をすればタルブの村に被害が行く可能性もあった。
(まったくもって、王の招聘とは厄介なものじゃな)
(うん……)
二人の出発はまだまだかかる様だった。
◆
王宮内に入ると、そこには市内とはまた違った趣の、ある種の別世界が広がっていた。
「へぇ」
「ふむ……」
女を捨てたとはいえ、こういった美しさには何かしら感じるものがあるのだろう。傭兵の女達がそれぞれその内装を見て感嘆の声を上げる中、アシュレーとマリアベルの二人だけは、その視線を全く別の所へ向けていた。
二人の視線の先にあるのは、訓練を行っている王宮の兵士、俗に言う魔法衛士隊の訓練の風景だった。その訓練の動きにキビキビとしたもの、恐らく先の戦争で自然と戦いが近い事を感じ取ったのだろう兵士達の動きは、どれもしっかりとした力強いもので、視線にはハッキリとした真剣な光があった。一方、マリアベルが注目したのは別の所だった。
「ふむ、のうアシュレー、何故魔法衛士隊の中にグリフォン隊の姿が無いのじゃ?」
そのマリアベルの言葉に、アシュレーも「あれ?」と首を捻る。確か、二人が魔法学院で王女だった頃のアンリエッタの訪問の際に同僚に聞いた話では、魔法衛士隊は三部隊、マスティコア隊、ワイバーン隊、そして、グリフォン隊からなる王直属の部隊の筈だった。が、その訓練のインターバルはどう見ても二つにしか分かれていない。
「どういう事じゃ?」
首を傾げたマリアベルと同じく、アシュレーも疑問符を上げる。
「グリフォンが外に居ないな……」
そう、良く見ると、訓練の為に動いている幻獣はマスティコアとドラゴンだけで、グリフォンの姿が存在しないのだ。
「……」
「……」
その様子を観察しながら、アシュレーとマリアベルは顔を顰める。どう考えても、あまり良い結果にはならない。
(見回りに出ているのかな?)
(だったらグリフォンが残っている事の説明がつかんじゃろ)
アシュレーが希望的観測を述べてみるが、マリアベルがため息交じりにその可能性を打ち消す。
(隊そのものに何かがあったのかもしれんの)
マリアベルが、状況証拠だけで分かる部分を述べてみる。
(そして、それが今回の女王の招聘に繋がったのかもしれん)
はっきり言って、銃士隊という案に対して言わせてもらえば、別にそれ自体に文句を付ける気はない。が、一つだけはっきりしている事がある。それは、銃と剣を持った平民よりも銃と剣を持った貴族の方が強いのだ。そうであるにも拘らず、態々平民、しかも主に女性だけを集めた理由は……一体何なのだろうか?
「あまり、良い理由とは思えんの」
マリアベルがそう呟いたのだった。
王宮を訪れた一団は、すぐに門番が呼んで来た侍従から、謁見室へと通された。
「あれ?」
「む?」
謁見室に入っての、アシュレーとマリアベルの第一声。原因は、奇妙な程に片付けられた室内だった。
ここは仮にも王との謁見室である。であるにも拘らず、美術品はおろか、調度品も一切見当たらない。それどころか、絨毯すら無く、およそ王宮の謁見室として相応しい様には思えない。
(珍しいね。謁見室にこんなに物が無いなんて)
(……)
アシュレーはそう感想を漏らした。嘗て、オデッサとの戦いの際には幾度と無く各国の王との謁見を行ったアシュレーであったが、ここまで良く言えば質素で悪く言えば貧相な謁見室は見た事が無かった。唯一例外は工房の集合体であったギルドグラードだろうが、そこにしたって少なくとも他者を持て成す、あるいは迎える心構え位は感じられる部屋だった。一方、マリアベルはと言えば少なからず胸騒ぎを感じていた。
(戦時にこれから入ろうというのじゃ、王自ら進んで質素倹約は分かる。分かるには分かるのじゃが……何故ここまでしたのじゃ?)
戦災の様な緊急時に王が進んで質素倹約に励むこと自体は悪い事だとは思わない。むしろ、民に重税を掛けて自分が贅沢をするなどよりは遥かにマシであろう。が、はっきり言ってトリステインには戦力が無い。国力という意味では他三国に劣り、貴族特権の為年々その少ないを減らしている。はっきり言って、その少ない国力ではアルビオンとの戦争は不可能だ。戦端を開けたとしても、勝利することは不可能だ。ならばどうすればいいか?簡単である。味方を増やせばいい。しかしそうなると疑問が残る。何故、女王は味方を作る場である謁見室までその費やす金を減らしたのだろうか?謁見室の鐘を減らすということは、対応する客をそれだけ低く見ているという風に取られかねない。そこまでする理由……王女には味方を作る気はないのだろうか?
(その可能性は無くは無いのぅ)
この度の戦争に先立って、有力な融資先であるゲルマニアとの婚姻を蹴ったばかりだ。それをして大丈夫なのかと言えば判断はつかないが、タルブの村で見たあの巨大な閃光の事もある。もしかしたら、女王はあの閃光の原因を既に掴んでおり、自身の戦力に組み込むことに既に成功しているのかもしれない。ならば、
(ふむ、少し見通しを変えてみるか……)
マリアベルは今回の戦争を長期戦と仮定していた。理由は、アルビオン軍の事である。神聖アルビオン帝国軍は、内乱の勝利で強烈な勢いを持ってはいたが、疲弊した台所事情を鑑みれば、持久力はあまり高く無いと見るのが普通だった。その事を踏まえた上で、マリアベルは国の重鎮達が長期戦を選択すると考えていた。アルビオンを封鎖し、敵を疲弊させる事で確実な勝利を手に入れる。敵の勢いを殺す事が出来ればという前提はあったが、先のタルブ戦争でそれが成功していた。が、戦争はやはり短期で済めば済む程いい。そして、女王は短期決戦を選択するに足る何かを既に手に入れている可能性がある。そう考えれば、味方を作ろうとしない行動原理、形振り構わず一時的な資金をかき集めようとしている行動も説明が付く。が、だとすると一つ疑問が残る。
(何故、今更銃士隊などという親衛隊の組織を考えたのじゃ?)
そこまで決定的な物を手に入れていてまだ戦力を欲するのか。いや、確かに勝利の可能性は高ければ高いほどいいだろう。が、女王が集おうとしているのは親衛隊だ。戦争には直接の関係は無い。
(……まさか、わらわは勘違いをしておったのか?)
そこで、マリアベルは別の可能性を考えた。自分達は、女王の招聘によってここに集められた。女王が自分達を必要としていたからだ。が、本当にたかが平民の傭兵を戦力と見るだろうか?もし見る様であれば、こんな部屋に自分達を呼んだりはしないだろう。だとすれば、可能性があるのは自分達を戦力以外として呼んだ可能性だ。
(だとしたら最悪じゃの)
女王が、戦力以外として平民をかき集めた理由。そんなものは数える程しか無い。そして、そのどの理由であっても、自分とアシュレーは不要な足止めを食らうことになる可能性が高かった。
(目途は立ったが……)
今までアシュレーとマリアベルがこの国に滞在していた理由は、一重に『シャイターン』の情報を得るためであったが、必要な情報が揃ってしまった以上、この国に留まる理由はゼロと言っていい。女王の招聘は面倒事以外の何物でも無かった。
(アシュレー)
(うん?)
隣で、何となくきな臭いものを感じ取ったのだろう、険しい表情をしていたアシュレーが反応する。
(どうしたの、マリアベル?)
(場合によっては……逃げるぞ)
(分かった)
マリアベルの小声に、コクリと頷いた。と、そこまで言った所で正面の扉が開いた。
「どうやら、来たようじゃの」
「ああ」
周囲の希望や観劇に満ち溢れた表情とは裏腹に、アシュレーとマリアベルの二人は緊張した面持ちで入室してくる女王の姿を見ていた。
「初めまして皆さん。女王のアンリエッタです」
話はまず、女王アンリエッタのそんな気さくな言葉から始まった。
「まずは、今回のタルブでの戦い、皆さんの様な勇気ある平民の方々の力で住民にも殆ど被害が無く済んだ事、国を代表して心より礼を言います」
アンリエッタの言葉に周囲がざわつく。当然と言えば当然だ。いくら自分達が命を掛けたとはいえ、王女から直々の礼を言われるなど本来は望外の出来事なのだ。
「特に」
未だ女傭兵達の声が止まぬ中、アンリエッタの視線は集団のほぼ真ん中にいた二人、アシュレーとマリアベルへと向けられた。
「ミスタ・ウィンチェスター並びに、ミス・アーミティッジの御二人には礼を言っても言いきれない程です」
その言葉に、呆気に取られる者、納得の視線を送る者、羨望の眼差しを向ける者、称賛する者、あるいは嫉妬する者など、反応は様々であったが、一貫しているのは、周囲がアシュレーとマリアベルの二人を少なからず特別視しているという事だった。当然と言えば当然だ。何せ、先の戦いで僅か二人だけで竜騎士の大隊を屠った二人だ、今回の話題の中心とならざるを得ない。しかも、アシュレーは今回の招聘で唯一、女性を基本とするというその基本を破ってまで招聘された存在だ。自然と注目も集まるし、中には情報屋からアシュレーの情報を集めていた者も少なく無かった。一方、当人達の反応はどうかと言えば……かなり非友好的なものだった。最初に名指しされたアシュレーは、誰にも気付かれない様に静かに重心を移動して、何時でも室内から逃げ出せる体勢を取っている。隣にいるマリアベルも、女王からの注目があったにも拘らず、腕組みをそのままに、値踏みするような視線を国の元首へと向けていた。
二人の警戒に気付かない様子のアンリエッタは、そのまま話を続けることにした。グッと、背筋を伸ばして片手を握り締める様子は、さながら民衆を熱く熱狂させる希有な政治家のそれと非常によく似ている様にマリアベルは感じた。
「今、トリステインは未曽有の危機に瀕しています」
そんな言葉から女王の演説は始まった。
「始祖ブリミルより受け継いだ正しき伝統が失われ、神聖などと冠した貴族の利己主義にすぎない帝国が、私達の故郷を脅かさんとしているのです」
室内に、毅然とした態度の女王の声が響く、
「その魔の手は、つい先日平穏な一村落へと向けられました」
その言葉に、惹きつけられる様に耳を傾ける傭兵達。
「幸運なことに……ええ、とても幸運なことに、私達はそれを退ける事が出来ました。そして、それを退けるだけの力をこの国は手に入れる事が出来ました」
「やはり……」チラリと視線を交わしたアシュレーとマリアベルは推測が当たっていた事を知り、アンリエッタが短期決戦を決定した事を確信する。
「しかし、まだ私達には力が足りません」
スッと両の手を組んで、祈る様な佇まいとなるアンリエッタ。
「永き権力の末に、腐敗してしまった貴族は余りにも多いのです。今のままでは、此の度の戦いすら切り抜けることは難しいのです」
心の底から、国の行く末を悼む様な声、その中へどれ程の祖国への愛が含まれているのだろうか?
「ですから、お願いです。皆さんに、ここにいる皆さんに、新たなこの国の力と……翼となって欲しいのです」
キッと上を見つめ、その更に先にある未来を見つめるアンリエッタ。その姿は、いっそ神々しささえ感じられる。
「私は信じております。貴方達が、この貴族偏重な国に新たな風を吹き込み、そして新たなる原動力となる事を!」
サッと開かれた両の手、天に向かって掲げられたそれは、まるで虚空を漂う光を包み込む慈母の愛そのもの。まるで天から齎されたそれは、ここにいる傭兵達を救うために遣わされた聖女そのものではないか!
傭兵になるなど、まともな理由では無いのだ。ましてやそれが女であるなど。彼女達は皆、大なり小なり脛に傷と胸に苦しい半生を抱えていた。それが今……報われようとしている!
「私は!」
不意に、室内に大きな声が響いた。女性としては少し低めの、腹の底から朗々と響く力強い声だった。その声に、室内の全員が振り返る。皆の視線の先、その中心に居たのは、胸に手を当てたアニエスだった。
「私、アニエスは!王女アンリエッタ様に絶対の忠誠と、この剣を捧げる事を誓います!」
ガバッと跪き、そして腰の剣を煌めかせると両の手で掲げ、まるでそれが自身の持てる最高の宝であるかのようにアンリエッタに捧げて見せる。その姿も又、真に女王に忠誠を誓う騎士そのものだった。
「私も!女王アンリエッタ様への絶対の忠誠を誓います!」
「私も!」
「私も誓います!」
私も私もと次々と室内に居る者達が剣を捧げていく。そう、これは誕生なのだ。彼女達にとっての救い主の。そして、女王に取っての剣の。この小さな小さな産声が、この国を突き進む強靭な二つの『足』とならん事を!
「ありがとうございます。貴方達には、これより女王直属親衛部隊、『銃士隊』の結成を命じます。私の盾として常に傍に立ち、最後の砦となってください」
「「「「「「「「「「はっ!」」」」」」」」」」
謡う様に祝詞を告げたアンリエッタとそれに応える最後の騎士達。
「貴方達の忠誠、嬉しくおも……」
静かに、視線を降ろしたアンリエッタが最初に見たものは、跪く傭兵の中で静かに佇む二人。何か困った様な視線を向ける大剣を持った青年と、酷く冷めた視線を向ける金髪の少女だった。
室内に、妙な沈黙が広がる。傭兵達は、突然途切れたアンリエッタの声に、いぶかしみながら僅かに視線を上げ、そして、自分達の聖女たる少女の前で平然と立ち続ける二人の『異常者』に瞠目した。
「え……?」
それは、誰が漏らした声だったのだろうか?ポタリと零れ落ちたそれは、純白のテーブルクロスに落ちたインクの様にじわじわとその姿を肥大させていく。
俄かにざわつき出した室内に、「静まりなさい」と凛とした女王の声が響く。傭兵達のざわめきの中で不思議に響いたそれは、一瞬で元の静謐を乱雑な室内に取り戻させる。
「貴方達は……」
「マリアベル・アーミティッジじゃ。この国の女王たる者との謁見。まずは光栄至極」
「僕はアシュレー・ウィンチェスターです」
一瞬考える様な仕草をしたアンリエッタに、答えを出す前にすかさず名乗りを上げたマリアベルと、それに続くアシュレー。
「それで、貴方達は?」
『何故跪いて居ないのですか?』
言外にそんな言葉を残しながらも、ふんわりと二人に微笑むアンリエッタ。その言葉に「ふむ」と少し考えたマリアベルだったが、すぐに答えを纏めたのか、これといった感情も無く口を開く。
「わらわ達は女王陛下に忠誠は誓えぬからの」
「なっ!?」
激震。そう表現するのが最も相応しいだろう。室内に走った衝撃は、そうとしか表現が出来ない程に強烈なものだったのだから。
「理由を……聞いても?」
「時間が無いからです」
僅かに、殆ど誰も気付かない程ではあるが、確かに引き攣った声で尋ねたアンリエッタに、今度はアシュレーが事も無げに答えた。
「はぁ?」
再度、激震が走った。自分達がこの様な場所で女王陛下から直々に騎士となる事を依頼されるのが異例なら、それをにべも無く断ることなど正に異常。ましてやその理由が、高々「時間が無いから」などという本当に下らない理由であるなどというのは、最早周囲の傭兵達には、これが夢であるという錯覚を覚えさせる程であった。
「時間が無い……ですか?」
「ええ。僕達には時間が無いんです。トリステインの戦争に参加している時間も無ければ、ましてや騎士となって働くなどという事はとてもではありませんが出来ません」
どこまでも真剣な表情のアシュレー。ソレも当然と言えば当然だ。何せ、この戦争にトリステインの命運が掛っているのだとしたら、アシュレーとマリアベルの双肩にはこの世界だけでなく『ファルガイア』に生きる者。正に二つの世界の全ての命がかかっているのだ。が、そんな事情はアンリエッタは当然知らない。恐らく知っていたとしても本気にはしなかっただろうが。
「そこをどうにか、曲げてお願いできないですか?先のタルブ襲撃の際の貴方達の働き、実に見事でした。その力をトリステインの物として存分に振るって欲しい……私の剣として存分に。そう思って、貴方達が働く機会を与える為にも、貴方達二人には特にシュヴァリエの位を用意したのですよ?」
最早何度目になるだろうか。傭兵達は今度こそ現実とは思えなかった。女王陛下自らが、武力を持つとはいえ高々一平民にシュヴァリエの位を自ら用意するなど。
最早異例ずくめのその状況。しかし、
「すみませんが……僕達は『銃士隊』に入隊することは出来ません」
そう言って、アシュレーは深々と頭を下げた。そう、どんなに高い地位を得ようとも、どんなに多くの富を約束されようとも、アシュレー達はそれを受ける事が出来ないのだ。そんな地位の為に、世界を見捨てる訳にはいかないのだから。
だが、
「……す」
目の前の女王は、
「な……ん、す」
胸の内に様々なモノを抱え込んだ少女には、
「何故なんです!」
通用しなかった。
「……」
突如激発した少女に、一番嫌な予感が当たってしまった事を知るアシュレーは、内心で困った様に頭を抱えた。しかし、ここはギルドグラードでは無い。仮にも女王たるアンリエッタに真っ向からものを言う訳にはいかないのだ。
「すみません。ですが僕達には」
「そんな事は聞いてません!」
アシュレーの再度の言葉を遮ってアンリエッタが叫んだ。
「平民が貴族の地位を得る絶好の機会なのですよ!?」
「いえ、僕達はその地位は持つには相応しく無いと思いますが」
「貴方達が辞退したら一体誰がシュヴァリエに相応しいと言えるのですか!?貴方達が断るということは、他の平民達の地位の向上の可能性が失われるということでもあるのですよ!?」
「……」
痛い所を突かれた。確かにアシュレー達にはしなければならない事が大きく目の前に立ちはだかっている。が、だからと言って他のこの世界の住民の生活を苦しめる気は無かった。だから、二人は戦争で焼け落ちたタルブの復興を手伝い、アンリエッタからの招聘をタルブの村では断らなかったのだから。
黙ってしまったアシュレーの様子に、心が動かされたのを感じたアンリエッタは、すかさず二の矢を放つ。
「それに、貴方達が戦争に関わるということは、それだけ戦争を早く終わらせるということになるのですよ?それをしなければ、多くの平民が戦争の為の重税で苦しむことになるのですよ?」
「……」
どう伝えればいいのだ。どうすれば伝わるのだ。アシュレーのそんな葛藤を、漸く我儘な子供が自分の非を理解したと受け取ったアンリエッタは、ホッと胸を撫で下ろす。少々紆余曲折はあったものの、なんとか自分が想定していた戦力が集まった。先のタルブ戦争で見た時に、この二人の戦力は、何があっても確保しなければいけないと思っていた。
「貴方達が『銃士隊』に加わるという事は、貴方達だけでなくトリステインに住む皆の幸福へと繋がるのです。もちろん、ただでとは言いません。先の戦いで見せた見事な戦闘。ミスタ・ウィンチェスターには『銃士隊』の隊長の地位を約束し」
「いい加減にせんか!!!!!」
室内に怒声が響いた。その声に込められた強烈な覇気と怒りに、アンリエッタが思わず言葉を途切れさせる。周囲の傭兵の中には、その手を剣の柄に掛けている者もいる程だった。
その強烈な覇気の中心。それは、見た目はまだ十代前半が精々の少女。マリアベル・アーミティッジだった。まだ年端もいかない少女が、まるで強大な軍隊の先頭を駆る英雄のごとき覇気を持って、ギロリとアンリエッタを睨みつける。
「な、なんなのですか、ミス・アーミティッジ。今は私が」
「やかましい!己が守るべき民の命を盾にアシュレーを脅した分際で高尚に見えるだけの腐りきった御託を並べるな!」
「なっ!?」
アンリエッタは今度こそ絶句する。周囲の傭兵や家来達も皆似たような表情だ。女王たるアンリエッタの国を思う言葉を、『腐りきった御託』と切り捨てたのだから。
「少し、面白い話をしてやろうかの?」
ピッと一本、マリアベルは指を立てた。
「面白い……話?」
「何故お主がアシュレーにそこまで固執するのかじゃ」
ニヤリと……笑わなかった。真剣な表情でアンリエッタを睨むマリアベルは、一瞬だけアシュレーに視線を走らせ、すぐにヒタとアンリエッタを見据える。
「そもそも、お主の話は始めからおかしかった」
「何が……ですか?」
マリアベルのその視線に怯みながらも、なんとかその答えを絞り出したアンリエッタ。その表情は、取り繕ってはいたものの、少なくない負の感情が込められている事が見て取れる。
「お主はアシュレーが今回の話を蹴る事が平民の地位向上の妨げになると言ったの?」
「ええ、この国では、残念ながら平民が地位を得る機会はそれ程多くありません。もし、今回の話を受けて貰えないなどという様な事があれば、貴族達はこぞって平民に地位を与える事の愚を唱えるでしょう」
マリアベルの質問に頷いたアンリエッタ。恐らく、今回の話を通す為にかなりの数の貴族の不満を潜り抜けて来たのだろう。が、
「下らんの」
マリアベルは静かに一閃した。ピシリと室内の空気が凍りつくのがハッキリと分かった。
「何が……ですか?」
僅かに震えるアンリエッタの声。内包した怒りが、ドロドロと染み出してくる。
「本当に平民の地位の向上を行いたいというのであれば、もっと単純な人権や生存権を認め、悪戯にその命を失わせぬ事で十分じゃろ?」
「そのような小さな事では、今のこの国を動かすことは出来ないのです!」
恐らく、現場で貴族の様子を見て来たがゆえの言葉なのだろう。だが、
「平民が望んでおることがお主に分かるのかの?平民は今の苦しみから解き放たれる事を望んでおる。国を動かす事を望んでおる者もいるじゃろうが……そんなもの、平民の地位を向上させるための一手段でしか無い」
スッとその目を細めて、マリアベルはアンリエッタを見据える。
「そもそも、その『銃士隊』とやらを平民の地位向上の旗印の様に唄っておるが、普通の平民に一欠片も恩恵を与えぬ、傭兵として腕の立つ者だけならともかく、更に女のみと努力ではどうする事も出来ない区切りをつけて……いや、女が傭兵になること自体、無理が大きいの」
アシュレーとマリアベルの頭をチラリと聖女の血筋の渡り鳥の姿が過ぎった彼女もまた、過酷な生に、ボロボロだったと言っていい。
「そんな片手落ち且つ恣意的なものが、平民の地位を保証するものになど……成りはせんわ」
そう言って、フンッと鼻を鳴らした。
「この度の戦争に出来るだけ早く勝つため!その為に必要な事なのですよ!?」
「戦争に早く勝つため……か」
呆れたように、「はぁ〜」と大きく溜息を吐くマリアベル。
「その事に関しては二つ程言いたい事があるがの。まず第一に、戦争に直接関係無い親衛部隊が、どこをどうしたら戦争を早く終わらせる為に役立つのかの?」
「そ、それは、新たな戦力を得れば、必然的に軍は力を増して……」
「あ、もういいのじゃ。話すとボロしか出んようじゃからの。それよりも……そもそも、平民達はこの国の存続など別に望んではおらぬぞ?」
「なっ!?」
何の気無しに放たれたマリアベルの言葉に、アンリエッタは今度こそ絶句した。が、マリアベルにしてみれば、そんな事一目瞭然でしか無い。
「平民達にも様々な要求があるじゃろう。公平な裁判、より良いな治安……が、結局のところ一番に考えるのは少ない税じゃ」
マリアベルは、口元を皮肉気に歪めた。若干心当たりがあるのか、傭兵達の中にはばつが悪そうにしている者もいる。
「貴族政治六千年の歴史の結晶。いや、愚民政治の結晶の方がこの場合は正しいかの?どちらにせよ、初等教育も受けていない様な愚かな民衆に、少ない税より効果のある餌なぞそうそう無いわ」
今度は、アンリエッタの後ろに控えていた文官らしき者達が顔を顰めた。傭兵達と同じく、こちらも国の政治に携わって来てその事を良く理解していたのだろう。
「そも、この『銃士隊』などというものを創設するための金もまた、平民の懐から出ておる。にも拘らず、その金を出した平民には何一つ還元する物が無い。こんなものが平民の地位向上の道筋じゃと?穴だらけにも程があるわ」
「黙りなさい!」
吐き捨てたマリアベルの言葉に、アンリエッタがとうとう耐えかねたのか、ヒステリックな声を上げて、次を紡ぐのを遮る。
「貴方が言いたかったのは、何故私がミスタ・ウィンチェスターに固執したかでしょう!?『銃士隊』の創設が正しいかどうかは関係が無いじゃないですか!!」
「んな、どこに正義があるとも分からぬ部隊に無理矢理配属させられそうになっているのはこっちなのじゃが……」
若干呆れたように呟くマリアベルだったが、すぐに気を取り直す。
「ま、確かにそうじゃったの。アシュレーにお主が固執する理由……宮廷内の発言力じゃろ?」
「!?」
マリアベルが、核心に触れた。
「此度の戦、実の所大半の貴族が戦端を開くのに反対であった事は、既に聞き及んでおる。実質、開戦派は女王一人であったとも。それでもなお戦争まで漕ぎ着ける事が出来たのは、一重に平民からの強力な支持じゃったが、周囲の貴族の発言力を見てお主は痛感した筈じゃ『自分には発言力が無い』との。当然と言えば当然じゃろ。ついこの間まで政略結婚の道具になる予定であった、碌に帝王学も学んでおらん小娘がお飾りの女王に成った位で手に入れられる程、宮廷内の発言力というものは軽くは無いからの。平民の支持と先のタルブでの戦のおかげで何とか自身の思い通りに事を運んだお主じゃったが、タルブの記憶が薄れれば自然と自分の発言力は低下する事を理解した。故にお主は必要に迫られた。そう、自分親派の新たな権力層の確立を……の」
サッと青褪めるアンリエッタ。が、マリアベルの言葉はどうということも無くすらすらと紡がれる。
「そう考えれば、お主が『銃士隊』を親衛隊にした理由も良く分かる。要は、『銃士隊』は欠けてはいけないのじゃ。武をもって結集された部隊ではあるが、宮廷内の貴族の中ではやはり魔法至上主義が多い。はっきり言って、『銃士隊』の戦力に疑問を持つ者はほぼ全員と言っていいじゃろう。その中で、『銃士隊』が役立たずと分かれば、自然とその発言力は低下する。いや、それだけならばまだ良いが、下手をすれば自分自身も任命責任で発言力を削られかねない。失態をしない、最悪武功は立てなくても構わない。兎にも角にも此の戦争を通して、自分の親派として宮廷内の権力闘争に組み込めればそれで良い。そう考えたお主は、武功を立てなくてもそれなりの名声を手に入れる事が出来る親衛隊に『銃士隊』を配属する事に決めた。が、それだけではどうしても納得しない者もいるじゃろう。最低一人は実際に剣を持って魔法使いを打倒せるくらいの者が必要じゃ。もし、その一人が魔法使いを打倒すれば、隊全体をそれなりに見直す筈じゃからの」
そう言って切った時、部屋は先程の静謐なものとは違う、妙な沈黙に包まれていた。ある者はただただ呆然とし、またある者は必死にマリアベルの言葉を聞かない様にしている。
「先のタルブ襲撃戦でアシュレーに目を付けたのはその為じゃろ?単騎で幾人もの貴族を屠る平民。お主の構想の中で魅力的に映った筈じゃ。わらわは無いの。魔法をこれでもかという程使っておったからの」
そう言って、締めくくったマリアベル。女王を見れば、その肩を震わせ、何を考えているのかは俯けた顔からは読み取ることは出来ない。
数秒、あるいは数分してからだろうか。アンリエッタがガバッと顔を上げて叫ぶ。
「貴方達は、何様のつもりですか!モット伯邸襲撃を行った犯罪者の分際で、私が差し伸べて差し上げた手を振り払うとはどういうつもりです!」
「それがお主の本性か……」
怒りと共に吐き出された確かな恫喝の響きに、マリアベルはそっと溜息を吐いた。
はっきり言って、この言葉は吐くべきでは無かった。少なくとも、アシュレーとマリアベルの二人には逆効果と言えただろう。仮にも、平民の地位向上を唄ったのだ。平民を食い物にしようとしたモット伯の件に関してモット伯を正義と扱うのだけは避けるべきだった。
「どうしても……私の役には立ってくれませんか?」
能面の様な表情で、アンリエッタが呟いた。最早、答えは求めて居ないだろう。
「断る」
マリアベルが、短く、しかしはっきりと言い放った。
「そうですか……」
アンリエッタがスッと右の手を上げる。
「トリステイン女王アンリエッタの名において命じます。そこの罪人二人を取り押さえなさい。二人を取り押さえた者には、シュヴァリエの位を約束しましょう」
「「「「「「「「「「!?」」」」」」」」」」
特大の餌が釣り下げられた。
「御二人も、どうかその場から動かぬよう。それ以上抵抗すれば、罪は重くなるばかりです」
騒然となった部屋で、アンリエッタが囁く。それは、平民の幸せを唄っていた時の様な慈愛に満ちた声だった。
俄かに騒然となった部屋だったが、徐々にその喧騒は沈静化していく。
「……」
最初の一人が剣を握り締めると、それにつられる様に一人また一人と剣を構えていく。初めの数人がその姿を取れば、後は一直線だった。結局、彼女達も人間なのだ。目の前に自分達の地位を一気に貴族まで押し上げる者が存在すると分かった以上、それが打ち取られるのを、ただ指を咥えて見ている訳にはいかない。そんな事をすれば、自分達が得られるかもしれない地位が、他の者に掻っ攫われてしまうではないか!
ものの数秒もしないうちに、アシュレーとマリアベルの周りには、剣を構えた女傭兵による包囲網が出来上がっていた。
「……」
チラリと視線を走らせれば、入口には剣を構えたアニエスが居た。
無言の注視ではあったが、すぐに自分に向けられたものである事に気が付いたのだろう。アニエスは歯を食いしばって叫んだ。
「頼む、止まってくれ!私はお前達を斬りたくない!」
「その抜き身の剣が鞘に収まっていれば、その言葉に説得力はあったじゃろうが……」
やれやれと肩をすくめたマリアベルは、呆れた様な視線を送る。
「お主にお主の正義があるように、わらわ達にもわらわ達の正義がある……。押し通るぞアシュレー!!」
「ああ!」
サッと隣に居る相棒に目をやれば、彼もまた力強く頷いた。
「スリープじゃ!!」
室内に響いたマリアベルの声。同時に、彼女を中心に噴き出す青白い霧。それに触れた者達が、一瞬で意識を奪われて昏倒していく。残ったのは、術の発生者であるマリアベルと魔法に耐性のあるアシュレーの二人だけだった。
「行くぞ!」
傭兵達を踏んづけるのもお構い無しに扉まで行くマリアベルと、彼女達を避けながら進むアシュレー。なんとか、このまま気付かれる事無く脱出したいのだが、
「何だ今の声は!」
「謁見室の方からだったぞ!」
そう、上手くは行かない様だった。
叫ぶ場内の警備兵達の声を聞き、顔を見合わせて苦笑する二人。すぐに真剣な表情となると、一つ頷いて一気に駆け出したのだった。
前方からやってくる気配に、アシュレーは急いでマリアベルを抱えて物影に隠れる。抱き寄せたマリアベルを胸に、しばし息を殺していると男達が何やら呪文を唱えるのが聞こえる。と、
「そこだ!その物影だ!」
叫んだ男の指示で、一斉に魔法が放たれる。
「くっ……」
一瞬早く転げ出ていたアシュレー。そして、すかさずマリアベルがレッドパワーを放つ。
「スリープじゃ!」
「なっ!?」
恐らく、城の兵士達は見た事が無いのだろう。マリアベルの扱う未知の力に混乱しながら昏倒していく。
「ふぅ……」
溜息を吐いたマリアベルだったが、その隣でアシュレーが考える。
「マリアベル、もしかして今使われたのって」
アシュレーの確認の言葉に、マリアベルも「ふむ」と頷く。
「ディテクト・マジックじゃな」
厄介な魔法だ。あの魔法がある限り、アシュレー達は隠れることもままならない。
少し考えた二人だったが、結局出た結論は同じだった。
「……正面突破?」
「それしかあるまい」
頷いた二人は武器を抜く。アシュレーはバイアネット・シューティングスターを、マリアベルは精神感応デバイス・アカ&アオを。それぞれ出して、並び立つ。
「じゃ、行こっか」
「うむ」
歩き出した二人だったが、そこでアシュレーがふと疑問に持っていた事を口にした。
「そう言えばマリアベル」
「ん?何じゃ?」
「さっきの事なんだけど」
「さっきの事?」
首を傾げるマリアベルに「うん」と言って頷くアシュレー。が、何を聞きたいのか分からないマリアベルは首を傾げる。
「さっきの、女王様の事」
「ああ、あれか」
「マリアベルは、どれくらい確信を持っていたんだ?」
「ふむ、聞きたいか?」
「うん」
頷いたアシュレーの、真剣な表情に苦笑する。この正義感の強い大切な『仲間』は、一時の事とはいえ、世話になったシエスタやタルブの村の人間達が誰かの食い物にされることは納得出来ないのだろう。
「あれはの」
「あれは?」
「実は殆ど口から出まかせじゃ」
「なっ!?」
思わずその場でずっこけそうになるアシュレーを見て、「むふふ」と笑って見せるマリアベル。パクパクと何かを言いたげな様子のアシュレーだったが、言葉が見つからないらしく、なかなか話し始めない。
「で、出まかせ?」
「うむ」
やっと出た言葉に、マリアベルはすぐさま頷く。
「まあ、出まかせとはいっても、根拠が無い訳では無かったがの、証拠は無かった。が、ああいった解釈は出来ると言った所じゃ」
「それじゃあ……」
「いや、言った後じゃが、恐らく外れてはいないじゃろう。女王の反応を見る限りはの」
呟いたマリアベルの言葉に、アシュレーが真剣な表情となる。
「それじゃあ、この国の人達は」
「言っても聞かぬじゃろうな。なにせ、相手はタルブの襲撃戦で勝利を齎した聖女なのじゃからの」
「そんな!」
「ただ欲望を口にするだけで人を従わせる事が出来る。そこには理も非も問われぬ。あるいは、聖女という人間はああいう人間を言うのかもしれんの」
「……」
皮肉気に笑うマリアベルに対し、苦い表情のアシュレー。これから苦しむ事に成るであろうトリステインの人々の事を思って、悲しんでいるのだろう。マリアベルは、アシュレーのその優しさを尊いものだと感じながら、心配を解きほぐす様に微笑む。
「じゃが、あれだけ挑発しておいたのじゃ。シエスタ達にわらわ達のツケが行く事だけは無いじゃろ」
「そっか」
漸く少しだけ明るくなったアシュレーの表情に、マリアベルも微笑む。
「さて、出口はもうすぐじゃ!」
「ああ!」
力強く頷くアシュレー。
「止まれっ!止まらねぎゃぁ!?」
取り敢えず、目の前に現れた障害物を蹴り飛ばした。
なんとか王宮を出た二人だったが、ここからが困ったことになった。はっきり言ってしまえば、二人には足が無い。このまま徒歩での移動を行えば、いずれは追いつかれるだけで無く、完全に包囲されてしまう危険性すらある。
顔を使わせて考える二人だったが、ほぼ同時にある事を思い出した。
「「グリフォン!」」
確か、王宮に入る前に、魔法衛視隊の訓練場があったはずだ。そして、その奥には大量の幻獣。そして、何の事情があったのか知らないが、使われていないグリフォンが沢山いたはずだった。
「そうと決まれば善は急げじゃ!」
「ああ!」
頷いて、二人はグリフォンの居る隊舎へと向かう。と、そこまでは良かったのだが、そこで問題が発生した。
「……」
「……」
声の主の一人はアシュレー。が、普段の精悍な様子とは程遠い、冷や汗を流して青褪めた表情をしている。視線の先に居るのは当然マリアベル。が、こちらの方はと言えば、ジッとグリフォンの上に座ったまま、微動だにせず無言のプレッシャーを放っていた。
「……」
「……」
二人の視線の先、そこにあったのは、マリアベルの座るグリフォンの鞍だった。が、無論、マリアベルとてグリフォンに鞍が付いていること自体に文句を言う気はさらさら無い。原因は、更にその下、マリアベルの足元。そこにあるものは、
マリアベルの小さな足……と、その更に先にある鐙
だった。
「……」
仕方の無い事と言えば仕方の無い事なのだ。何せ、本来このグリフォンに乗るのは成人した男性が殆どで、女性、ましてやマリアベルの様な体躯の少女が乗ることなど全く想定していないのだ。分かってはいる。分かってはいるが、マリアベル・アーミティッジという少女がどのような感想を持つかも又よく知っているアシュレーにとって、この状況は拷問に等しかった。心なしか、マリアベルに跨られているグリフォンも表情を青褪めさせてアシュレーに助けを求めている様な気がする。
「のう、アシュレー」
「な、何かな?マリアベル」
「この鐙はわらわに一体何を言おうとしているのじゃろうな?」
「……」
抑揚の無い声とそこから出された簡単な疑問符。しかし、アシュレーだって命は惜しい。そんな簡単な疑問符に答えを返す事が出来なかった。が、ここで天からの助けが来た。
「そっちにはいたか!?」
「いや、まだだ!」
「まだ見つからないのか!?」
微かに聞こえた怒鳴り声。だが、その声はハッキリとアシュレーとマリアベルの耳に届いていた。本来ならば慌てるべきなのだろうが、ホッと胸を撫で下ろすアシュレーとハッと我に返ったマリアベル。
「止むを得ん!アシュレーがわらわを支えるのじゃ!」
「あ、ああ。分かった」
マリアベルの出した結論に頷くアシュレー。元々、アシュレーには乗馬の技術があまり無かった。一応山岳地帯の行軍用の驢馬の乗馬訓練などは受けてはいたものの、グリフォンをいきなり乗り回す様なスキルは残念ながら持ち合わせていなかった。対するマリアベルは、流石に上流階級の出である。単純な乗馬だけでなく、幻獣の手綱の握り方もかなりのレベルで心得があった。が、いかんせん体格が合わなかったのである。
マリアベルが出した妥協案にすぐに頷くと、アシュレーはグリフォンの背中に飛び乗ってマリアベルの小さな身体を支える。ギュッと柔らかな身体を抱きしめると、「ふみゅ!?」と妙な声を出したマリアベルだったが、アシュレーは気にせず「準備はいいよ」と告げた。
「う、うむでは行くぞ」
心なしか、後ろから見えるマリアベルの耳が赤くなっているが、アシュレーは気が付かない。外に出たグリフォンにマリアベルが一発、ピシリと鞭を入れると、その幻獣は大きくその羽を広げ、力強く地面を蹴って飛翔したのだった。
「いたぞぉぉぉぉぉ!!!!!!」
後ろの方から、兵士の怒声が響いていた。
トリスタニアの王宮から飛び立ったアシュレーとマリアベルだったが、すぐさま魔法衛士隊と思われる兵士達が、二人の後を負って幻獣に乗り上空へと飛び立つ。その姿は、まるで大群を指揮し、その先頭を単騎で駆け抜ける一騎の『英雄』の様にすら見えた。その幻想的な光景を、トリスタニアに住む平民達がある者は感嘆の、ある者は羨望の眼差しを向けて見上げている。しかし、当事者たちにしてみればそれどころでは無かった。
隊列を固めた軍は、それがまるで一匹の巨大な幻獣であるかのように自由自在にその隊列を入れ替えてアシュレーとマリアベルの乗るグリフォンの制空権を蹂躙していく。両の爪が一撃、また一撃と振るわれる都度に、二人の乗ったグリフォンはバランスを崩しかけては何とか立て直すと言った動きを繰り返している。しかし、彼らもまた必死なのだ。
「くそ!来たぞ!全員備えろ!」
「ちぃっ!!」
隊列の目の前で炸裂する閃光弾。その強烈な光に、乗っている幻獣達がパニックに成り、一部の幻獣は視力を奪われて滅茶苦茶に飛翔する。
「なんとか幻獣を落ち着けるのだ!最悪、一瞬視界を奪っても構わん!」
隊長格と思われる男の声が響く。その声に「はっ!」と答えて、なんとか体勢を立て直す者、幻獣が完全に使い物にならなくなったと判断した時点で、全精神力をつぎ込んだ一撃をアシュレー達に向って放った後に降下して行く者、様々だ。が、それでも、巨大な幻獣が一回り小さくなっても尚その隊列を維持し続けているというのは、それだけ兵の練度が高いということでもある。
「む!来たぞ!全隊幻獣の目を保護せよ!」
「「「「「「「「「「「はっ!」」」」」」」」」」」
瞬間、炸裂した閃光。しかし、その弾は先程の物とは違うものだった。
キィュオォッ!!!!!!!!
奇妙な炸裂音と共に、破裂する弾丸。先程の閃光弾とは違い、光もそれ程強く無い。「不発か?」と首を一瞬傾げた魔法衛視隊の面々だったが、その変化は突然現れた。
「な!?行き成りどうしたんだ!?!?」
「くそ!言う事を聞け!!」
「だ、だめです!制御が出来ません!!」
「くっ、止むを得ん!全体すぐに降下だ!」
幻獣達は、もがき苦しむものや、暴れ出すもの、はたまたその場で気絶してしまうもの等が続出した。現状をどうする事も出来ないと判断した隊長の号令に、隊員達が一斉に手綱を離して空中に身を投げ出す。バラバラと振って来る幻獣の群れに、市内は俄かに騒然となるのであった。
「作戦成功……かな?」
マリアベルを片手で支えた体勢で、後ろにバイアネットを向けていたアシュレーが呟いた。銃口から漂う硝煙を棚引かせ、なんとか魔法衛視隊を撒けた事にホッと胸を撫で下ろす。
「もう良いよ、マリアベル」
「む?そうか。敵は?」
「全員追撃は止めてくれたみたい」
「よし、それでは行くのじゃ」
乗っているグリフォンの側頭部を両手で押さえていたマリアベルが、その手を離して再び手綱を握る。
「しかし、何時の間にあんな物を準備しておったのじゃ?『ハルケギニア』に来る前には話題にも上らなかった筈じゃが」
そう言って、マリアベルが感心したのは、先程アシュレーが放った弾丸、対モンスター用の音響弾だった。本来、グロウアップルの様な有用種や絶滅危惧種のモンスターを追い払う為のそれは、人間とは可聴域の異なるモンスター専用の鎮圧弾と言えた。
「ここに来る前に、『ファルガイア』と『違う部分』の可能性ばっかり考えて、『同じ部分』の可能性を考えていなかった事に気が付いてさ。いらないかもしれないとは思ったんだけど、一応少しだけ持ってきておいたんだ」
「ふむ、何というか、備えあれば憂い無しと言った所かの」
「そう言ってもらえると嬉しいんだけれど、何で僕の太腿を抓っているの?」
うんうんと感心した様に頷くマリアベルと、冷や汗を流すアシュレー。
「わらわを慌てさせた罰じゃ。どうやって傷付けん様に撃退するか必死に考えておったわらわがバカみたいじゃろうが」
そう言って、ペシペシと今抓っていた場所を叩くマリアベルだった。
◆
「カッタートルネード!」
風の刃を飲み込んだ竜巻が、空で爆ぜる。散弾銃の様に撒き散らされたカマイタチを済んでの所で回避するグリフォン。
「むう、しつこい奴等じゃの!」
グリフォンの手綱を握ったマリアベルが、腹立たしそうに呟いた。アシュレー達がトリスタニアの王宮から逃げ出して丸半日が過ぎようとしていた。既に日は沈んでおり、周囲は暗く、人の気配もしなくなっていた。
そんな夜の空を駆る、一頭のグリフォンとそれを追う、数匹のワイバーン。二人は今、トリステインとガリアの国境付近へ来ていた。本来ならば、このまま一気に国境を越える予定だったのだが、ここで思わぬモノにぶち当たった。そう、国境警備隊である。
アシュレー達がやって来た『ファルガイア』は、その土地の多くを荒野が覆っている。その為、国境という概念はあっても、その実国境をそこまで厳重に管理しても、あまり意味が無いのだ。荒野から発掘される資源はほぼ無に等しく、密猟など出来るはずも無いのだから。広大な世界をメリアブール、シルヴァラント、ギルドグラードの三国で分け合っている状態のため、国境が広すぎて管理しきれないというのも一因である。せいぜいが、巨大な飛行艇等に関して事前の入出国の連絡が必要な位で、陸路ならば王都に入る時くらいしか入国審査は存在しない。しかし、ここは『ハルケギニア』だ。国土全体に水が豊富なトリステインを始めとして、全体的にきな臭い状態である大陸において、国境の管理が厳密で無いはずがあるだろうか?答えは、一目瞭然だった。
「くっ、こうなったら……」
既に、アシュレーとマリアベルを追う国境警備隊との鬼ごっこは一刻にも渡っている。トリスタニアでの様に、音響弾を使うなりすればいいのかもしれないが、それをこんな暗い所でやれば、かえって人を集めることになってしまう。埒が明かない現状の打破の為に、マリアベルが、一か八かの賭けに出る。
「アシュレー。ちょっと手綱を握っているのじゃ!」
「え!?ちょっ!?」
慌てるアシュレーに手綱を握らせると、よじよじとその肩ごしに後ろを向く。視界に入るのは三人の兵士達。いずれも手にレイピアを握っており、その切っ先をマリアベル達に向けている。内一人が、急に二人が乗るグリフォンが失速した事に気が付いたらしく、手信号で何かを伝える。が、そんな事を気にしている場合ではない。集中。夜という空間で、その魔力は一段と妖しさと艶やかさを増す。
「バリバリキャンセラーじゃ!」
包まれた光に、相手の乗るワイバーンが停止する。そして、羽ばたく事の出来ない飛竜達は、主ごと地面へと吸い寄せられていく。
「よし、成功じゃの゛!?」
クルリと再び正面を向いて機嫌良さそうに笑ったマリアベル。が、急にその頭を掴まれて、無理矢理最初にいた所へ押し込まれる。
「にゃにするんにゃ!」
涙目になって口元を押さえるマリアベルが後ろを振り向こうとするが、アシュレーの腕がそれを押し留める。
「マリアベル、取り敢えず急いで国境を超えないと」
そう言って、ポンポンと軽く頭に手を乗せて宥めるアシュレー。その言葉に、「まあ、いつまた追われるか分からんからの……」と呟いたマリアベルが手綱をパシンと一発くれてやる。
「行くぞ、アシュレー」
「うん……」
「アシュレー?」
ふと、妙な事に気が付いた。普段ならば響くとは言わないが、ハッキリとしたアシュレーの声に力が無い。
「……え?」
ピチャリ。
マリアベルの頬に、どろっとした温かいものが張り付いた。濃密な甘い臭い。これは……
「!?アシュレー!!!!」
アシュレーの!!!!!
「……」
「くぅ!?」
崩れ落ちる様に横倒しになったアシュレーを無理矢理に支える。が、バランスが大きく崩れ、グリフォンごと墜落してしまいそうになる。
(て、手当て!手当てをしないと!血が!)
温かく、彼自身が生命である事を告げる紅い紅いアシュレーの血。後から後から噴き出すそれが、掴んでいる衣服ごとびっしょりとマリアベルの両の手を濡らしていく。
「しまっ!?」
不意に、ガクンと揺れが来る。崩れ落ちそうになるアシュレーとそれを支える為に身を乗り出したマリアベルをなんとか支えようと必死に体勢を変えていたグリフォンが、力尽きたのだ。横転する様に揺れたグリフォン。その背に乗っていたマリアベルとアシュレーは、
「きゃあぁぁぁぁ!!!」
真直ぐに夜の森の中へと飲み込まれていった。
「つぅ……」
墜落した際に強く打ちつけた頭を押さえながら、マリアベルが意識を取り戻す。あの時、アシュレーを抱えたマリアベルは運良く直ぐ下にあった大木の枝に向かって落下した。樹齢数百年を軽く超えるであろう大木は、落下する二人を地上よりも上で掴み、枝のクッションでその衝撃を和らげたのだった。
軽く頭を振って思考をはっきりさせるマリアベルだったが、直ぐにハッとなる。
「アシュレー!アシュレーはどこじゃ!?」
周囲を見回すと……いた。
「アシュレー!!」
木の根元で蹲る、青い髪の青年に、直ぐに駆け寄るマリアベル。
「アシュレー!シッカリするのじゃ!アシュレー!!」
「う……」
「アシュレー!」
まだ意識がある。それだけ確認したマリアベルは、すぐさま自身のウェストポーチを乱暴に開く。
『ファルガイア』から持って来た医療用キット一式。その中にある清潔な包帯を取り出し、血で濡れたアシュレーの衣服を破り捨てる。
「そんな……」
その先にあったものは、一直線に裂けた斬り傷。左胸からザックリと裂けたそれが、ぱっくりと開けた口から止め処無くアシュレーの命を吐き出している。
「くっ!」
すぐさまグローブを外すと、手諸共包帯に消毒薬をぶっ掛ける。そして、両手で傷口を握り締める様にして止血する。
(血が……止まらぬ……)
溢れ出る鮮血は、マリアベルの止血で僅かにそのスピードを減衰させたものの、一向に収まる気配が無い。
元々、戦闘能力に関しては折り紙付きと言っていい二人だった。例え、大がかりな戦いに巻き込まれる事があっても、それ程問題無く切り抜ける事が出来るだろうと思っていた。それよりも、怖いのは戦傷では無く毒や微生物など科学兵器の様なものだと思っていた。医療用キットもそれを想定していた。外傷用の備えは……これだけだった。
「く、止まれ!止まらぬか!!」
傷口を押さえて叫ぶマリアベル。その声は最早、懇願どころか半狂乱と言ってよかった。
「マ……ベル」
「!?アシュレー!?シッカリするのじゃアシュレー!」
「……ん」
「喋るで無い!今止血しておる所じゃ!」
「……め……ん」
「だから何じゃ!喋るで無いと!」
「ご……めん」
耳に、それだけが届いた。
「な、ななな、何が『ごめん』じゃ!縁起でも無い!」
「……」
「お主はARMSの隊長じゃろ!この程度、何度も潜って来たじゃろうが!」
「……」
「オデッサだけでは無い。カイバーベルトコアにロードブレイザー!」
「……」
「わらわだけではとても倒せんかった敵を一人で打倒したのじゃぞ!」
「……」
「そんなお主が、こんな所でくたばる筈が無いわ!」
「……」
「じゃから、アシュレー」
「……」
「なんとか言うのじゃアシュレェェェ!!!!!!!」
流れ出る血の勢いが治まって来た。だが、これは止血の効果では無い。鼓動が弱まっている……噴き出すだけの血が無くなって来たのだ。
「……」
考えた事も無かった。
「……」
信じたくも無かった。
「……」
自分はこんなにも無力だったのか。
「……」
死に逝く仲間を、見届けることしかできないのか?
「……」
愛する人一人護れないほど弱かったのか!!!!!
「え……?」
脆弱な自身への殺意に気が狂いそうになっていたマリアベルのポケットから、小さな小瓶が零れ落ちた。いつ入れたものだったろうか。こんな小瓶、見覚えが無かった。
(いや、待て)
ふと、頭の中で囁くモノがあった。
(もっと良く思い出せ)
それが何だったのか。
(思い出さねばならぬ)
どこで手に入れたのか。
(それは……)
どんなものだったのか。
―――
――
―
『む、何じゃこれは?』
これを拾い上げた時、自分はそう言った
『モット伯様が私に使おうとしていたポーションです』
帰ってきた答えはそんな感じだった。
『ふむ、媚薬かなんかかの?』
首を傾げた自分への返事は否だった。
『いえ、モット伯様がおっしゃるには、女性の肌に擦り込むと、周囲に治癒効果を発生させるポーションだとか』
そうだ、これは医療用として使えるものだった。
『医療用かの?しかし何故こんな所に?』
首を傾げた自分に、彼女は何と言った?
思い出せ……思い出すのじゃマリアベル・アーミティッジ!
『その……膜を一瞬で再生させることで女性の破瓜を何度も味わいながら、自身の感覚を鋭敏にするためだとか。反抗してきた女性がいても、これがあれば痛くも痒くも無いとか』
―
――
―――
「!!」
そうだ、これは……女の肌に反応して周囲の傷を回復させるポーション。
躊躇している暇は無かった。自体は一刻どころか瞬きする間すら惜しいのだ。エプロンを解き、ボタンを外していく。お気に入りのドレスを脱ぎ捨てると、その身を包むのは、アシュレーと買った、黒く透き通る小さな薄布のみ。それすらもすぐさま剥ぎ取ると、そこには、少女の純白の肢体だけが月よりも更に微かな星屑に照らされて浮かび上がる。だが、そんなことすら余談だ。マリアベルはすぐさま瓶を取り上げると、スッと薄く瞼を閉じ、首元に緑色のドロッとした液体を垂らし始めた。
ひんやりとした夜風に撫でられ、僅かに震えるマリアベルの身体。その喉を犯した緑色の液体は、鎖骨の谷間から零れ落ち、穢れの無い雪原を一筋走り抜けていく。その下の窪みに溜まったのとほぼ同時に、その無垢な手が自らの体を舐め上げてネットリと薬を塗りたくって行く。
「!?」
不意に、その細腰が弓形になる。染み一つ無い掌が、ただその桜色の頂きへと軽く触れただけなのだ。だが、その一瞬で軽く達してしまったマリアベルは、息を切らしながらも必死にポーションを体へと擦り込んでいく。
(く、耐えよ。耐えるのじゃ!)
頭の中で、もう一人の自分が叫ぶ。元々、寝屋の睦み合い為に作られたポーションなのだ。多少の媚薬など、想定の範囲内だ。
「アシュレー……今、助けるぞ!」
呟いて、その傷口に真直ぐに身体を重ねていく。胸元を肩口に臍を肋に。秘所で脇腹を押さえ、鍛えられた太い腿に、自分の両足を絡みつかせる。
「くぅ……」
肌が吸いついた瞬間、頭が電気に犯された様な感覚に陥った。重ね合わせた肢体。触れ合った身体。そこから伝わる体温に、ジュクジュクと思考が滅茶苦茶に掻き回されている。
「ん……はぁ……」
漏れた息に、自分自身が驚くが、既に麻痺した感覚では、まともに考えることすら難しい。
「はぁ、はぁ……あ……!?」
一瞬の事だった。二人の頭上の更に上を、先刻のワイバーンが飛び去って行った。
「はっ、はっ……!」
激しく鳴る動悸を落ちつける様に、ギュッとアシュレーの体を抱きしめて目を固く瞑る。と、一瞬開いた視線の先に、僅かに入ったそれ。肩から僅かに見えるアシュレーの傷の一端は、本当に僅かではあるがピンク色の薄皮が張っていた。
(いける。これなら……)
アシュレーを助けられる。それだけを、なんとか確信した頭で必死に身体を押しつける。まともに稼働していない思考回路でも何とか理解することが出来る。これを続けていれば……
(アシュレーを、愛しい人を助けられる……)
泡立つ頭が、それだけを吐き出した。
◆
森の朝は早い。時間という概念から解き放たれている動物達の行動は、時計に縛られた人間よりも遥かに規則正しく正確だ。まだ露が下りた靄の中で、既に鳥達が囀り始め、獣達がもそもそと巣穴から這い出して来る。
(温かい……)
自らの腕の中にある暖かな塊に、アシュレーが重い瞼を持ち上げた。気だるい体。思考もどこかハッキリとしないが、なんとか昨日の事を思い出す。
(そうだ、昨日は確か王宮から逃げ出して……)
そのまま国境まで来たはいいが、突然後ろに現れた国境警備隊を名乗る、竜に跨った兵士達。その男達を撒く為に逃げ回る事数刻。下手に国境を越えて、トリステインとガリア両方の兵士から追われる事を危惧して、そのまま国境を超えることすらままならなかった。
(それで、確かマリアベルが)
事態を打開しようと、グリフォンが追い付かれるのを覚悟で行動停止をさせるレッドパワーを放った。結果、なんとか魔法使い達の駆るワイバーンだけを機能停止に追い込むことが出来た。
(そうだ、その後確か)
満足そうに自分の腕の中に戻ろうとしたマリアベルの後ろで、アシュレーは妙な胸騒ぎを感じていた。
何故か止まない胸のざわめきに、つい振り返ったアシュレーの視線の先にあったのは、大きく振りかぶったレイピアを立て一文字に振り下ろす兵士の姿と、その先から現れる一陣の風の刃だった。
『!!』
叫ぶ間も無かった。
マリアベルの頭を狙ったのだろう。正確に金色の髪へと疾駆したそれを受け流す事も出来ず、アシュレーは自身の体を盾に、なんとか『仲間』を守ったのだ。
だがその後、風刃に切り裂かれたアシュレーは、その場で崩れ落ちることになる。そのままぷっつりと途切れた記憶と意識は朧気で。覚えているのは、自分の前で泣きじゃくる金髪の少女に、絞り出す様にしてなんとか謝罪の言葉を上せた所までだった。
「ん……」
中空を漂わせていた視線を下ろすこと無く、再び瞼を閉じる。腕の中にある温か味。何故かそれが愛しくて、酷く手放し難い気がしたのだ。
(何だか……とっても安心する)
抱え込んだその温もりに、心がどこまでも安らぐのを感じる。どこまでも幸せを感じさせるそれに、鼻を擦りつける様にして甘えるアシュレー。
(いつ以来かな?)
最後にこんなに安心したのは。いつの事だっただろうか?記憶の糸を手繰り寄せてみても、少なくともここ数百年は無かった。足を向ける先々で、様々な問題を解決してやる立場ではあったものの、とてもではないが誰かに頼るなどということは出来なかった。その更に前は、既に自分はオデッサとの戦いの中へと身を投じていた。殺し合いに次ぐ殺し合い。エゴとエゴのぶつかり合い。憎しみや、人の穢らわしさ、弱さすら糧にして、ただ目の前の敵を打ち倒すことしか考えられなかった。それが、皆の幸せだと信じていたから……。
(迷ったのも、その時だった……)
コキュートスの一角、トロメアの言葉。『戦場で交わした約束は何よりも重い。戦場でつないだ絆は何よりも強い』。その言葉の意味を推し量る都度に、自分の中での『正義』が揺らいでいくのを感じた。苦しみの中で縋る先も見つけられなかった自分を助けてくれたのは、ブラッド・エヴァンスという人生の先達だった。だが、それもまた、無条件の安らぎでは無かったように思う。
(もっと……前?)
自分はパン屋の居候だった。幼馴染のマリナの家に転がり込んで、おばさんには御世話に成りっ放しだった。例え何百年の時を過ぎようとも、自分は彼女には頭が上がらないだろう。だが、
(ここも、違う)
例え子供であっても、いや、子供だったからこそ、おばさんが自分に心配させない様にしていた事に誰よりも敏感に気が付いていた。だから自分は、出来るだけ手のかからない子供であろうとした。
(まだ、もっと……先)
そうだ、この安らぎ、こんな無条件な安らぎを最後に甘受したのは……
「う……あ……」
僅かに甘い香りが鼻孔を擽った様な気がした。
アシュレーが目を開けると、まず視界に映ったのは、金色の頭とその旋毛だった。
「マリア……ベル?」
自分の腕の中にある温かいモノ。その正体を、恐る恐る口にしてみる。
「ん……」
その声に反応したのかしていないのか。マリアベルが、コスコスとその頬をアシュレーの厚い胸板に擦りつけてくる。その仕草は、まるで子猫が自分の居場所を主張する様に身体を擦りつける様子に良く似ている気がした。
「えっと、そろそろ起こした方がいいかな?うん」
スースーと寝息を立てている少女の姿は、何となく見ていて飽きないものであったが、そうとばかりも言っていられない。こうしている間にも、追手は自分達の後を付けて来ているかもしれないのだから。
「マリアベル。起きて」
「ん……」
「ねえ、マリアベル」
「んぅ……」
「ほら、もう朝だよ」
「むみゅ……ふぁぁぁ」
腕の中で大きな欠伸を漏らす小さな少女。瞼を擦り擦り、はっきりしない頭でぼんやりと周囲を眺めていた彼女だったが、不意にパッと目を見開くと、両手でアシュレーの顔を挟み込む。
「あ、ああ、アシュレーなのか!?」
「え?どうしたのさ、いきなり!?」
突然のマリアベルの行動に、目を白黒させるアシュレーだったが、マリアベルの奇行は止まらない。鼻をつまんだり、耳を引っ張ったり、はたまた頬を両手で引っ張ってみたり。そこまでしてようやく落ち着いたのか、スーハースーハーと何度か深呼吸を繰り返す。
「改めて聞く。アシュレーなのじゃな?幻覚では無いのじゃな?死んでなどおらぬのじゃな!?」
ジッと不安げに、それこそ、何かに脅える様に瞳を震わせるマリアベルに、アシュレーはゆっくりと、安心させる様に頷いて見せる。
「大丈夫。マリアベルのおかげで、元気だよ」
そう言って、頭を撫でてやるアシュレー。視線の先の少女の目から、ポロリと一滴の透通る宝石が零れ落ちた。
「あ、ああ」
「おかげで助かった」
「あああ、」
「ありがとう」
「アシュレー……この、バカチンがッ!!!!!!!!!!!!!!!」
「ぐふぉっ!?」
飛んで来たのは、マリアベルのグーだった。
木の根にその頭をしたたかに打ちつけて、思わず後頭部を抱えるアシュレーの両肩を掴んでマリアベルが叫ぶ。
「アシュレー!お主何を考えておったのじゃ!あのまま言ってしまえば、お主は死んでしまうかもしれなかったのじゃぞ!?」
「い、痛い、ちょ」
「その辺分かっておるのか!?死ぬという事が、残される者がどう思うのか分かっておったのか!?あぁん?」
「ぼ、僕が悪」
「んなもん当り前じゃ!!お主以外に悪い奴がどこに居るか!古今東西類を見ぬ大馬鹿者にして極悪人じゃ!!」
「で、でも、マリ」
「わらわを助ける為?その為にお主が死にかけておってはどうにもならんじゃろうが!!」
「で、でも、『剣」
「大体そこじゃ!!お主、不老ではあっても不死では無かった事を何故わらわに言わんかった!?そんな身で何故自分を盾にするような真似をしたのじゃ!?」
「し、仕方」
「じ・ぶ・ん・がっ!死ぬかもしれぬ方法が仕方が無いじゃと!?舐めとんのか!?」
「で、でも」
「わらわは不死じゃ!永遠を生きるイモータルの末裔!わらわはたかが人間の魔法ごときでくたばったりはせぬ!そういう存在がして初めて!問題無しと言える様な事をたかが不老の分際で真似するとは何事じゃ!」
ガックンガックン揺さぶられる首に、まともに答えることすら出来ないアシュレー。既に何回か舌を思いっきり噛んでしまっている。
「お、お主は!一人だけ命を掛けてしまうという事がどういう意味なのか分かっておるのか!?置き去りにされるわらわがどんな思いか分かっておるのか!?」
ジワッと、マリアベルの目に涙が浮かぶ。突然降ってわいたその光景に、ただただ呆然とするしかないアシュレー。
「大切な者を失う者の気持ちが分かるのか!?命かけて!カッコだけ付けて!勝手に満足するだけか!?わらわが、お主を失うかもしれぬと考えた時のわらわがどんなに怖かったのか!大事な、大切な……ひっく、アシュレー・ウィンチェスターを失うかもしれないと考えたマリアベル・アーミティッジの気持ちが分かるのか!?」
叫んだ。いっぱい、いっぱい。その心の内を、全て曝け出す様に叫んだ。そう、これはマリアベルの心にある一番純粋な、大切な所。
「わらわは!アシュレーを失いたくないのじゃ!!」
一番知っていてもらいたい所。
心に刻んで、忘れないでいて欲しい想い。
そう。
自分にとって、
マリアベル・アーミティッジにとって、
アシュレー・ウィンチェスターは、
こんなにも、大切な人なのだから……。
腕の中で、肩を振るわせる小さな少女。その姿が、いつも以上に小さく見えた。傲慢な程に気丈に振る舞い、どんな敵の前でもしっかりと胸を張る彼女は、こんなにも弱いのだ。『仲間』を、『大切な者』を愛して止まない彼女は、それを守るためにどこまでも強くなり、そして、それを失いそうになるという不安で果てしなく弱くなる。そんな彼女の心からの声が。アシュレーを大切だと叫んだ思いの丈が。ただただアシュレーを撃ち据えて、悔恨と共に、十全な一つの感情を湧き立たせる。
「ごめん。マリアベル」
そう、
「でも」
それは、
「僕も、マリアベルが傷つくのを見たくなかった」
アシュレーもまた同じなのだ。
抱き寄せた体温。ぐしゅぐしゅと幼子の様にぐずる姿を愛おしそうに眺めながら、そっとその頭を撫でてやる。僅かながらに癖のあるその髪は、アシュレーの手櫛をきゅっと掴み、そして流せばサラサラと解けていく。
「僕も、マリアベルの事が大切だったから」
後にやって来る、甘い香りは、形容するに難しいが、一言で言えばマリアベルの香りだった。
「ただ僕が傷つくだけだったかもしれない。余計な事だったと言われるかもしれない。でも」
譲れないものがあった。どうしても、
「マリアベルの事を守りたかったんだ……」
呟いた瞬間、アシュレーは奇妙な感覚に囚われていた。心情を、心の底からの思いを吐露した直ぐその時に、胸に去来した言いようのない感覚。
(!?)
ドキン。そう表現するのが最も近い感覚だっただろうか?自分の腕の中で、幼子の様に泣きじゃくる、自分を想って涙する、そんな少女の姿に、アシュレーの胸の動悸がさらに激しくなった。
「のう、アシュレー……」
不意に顔を上げたマリアベルと視線が絡み合う。その瞬間、言いようのない感覚は胸の内で更に猛り狂った。
「何?マリアベル」
囁く声が、自分の言う事を聴かない。込められた感情が、暴発する場を必死に探している。
「わらわと共にあると……誓ってくれぬか?」
答えは……とっくに、本当に前の前から決まっていた。
「うん」
頷いたアシュレーの腕の中、マリアベルが漸く今日初めての笑顔を見せた。
(やっぱり、マリアベルは笑っていた方がいいな)
悪戯っぽい笑顔、ニヤリとあくどい笑顔、むほほほといやらしい笑顔や、見るからに人を小馬鹿にした笑顔。どれも本当の彼女の笑顔で、そのどれもが彼女の本質でもある。が、その笑顔を見た瞬間に、アシュレーの心は安らぎと安寧を取り戻した。
そうだ
この笑顔が一番最初にあるから
彼女の笑顔は素敵なのだ
自分は、彼女のこの笑顔が好きなのだ。
内心を、そう当りを付けたアシュレーだったが、その感情が、実はもっと別の場所から出ている事に気が付くのは……もう少し先の事だった。
漸く二人が落ち着いた所で、アシュレーはふと腕の中にある感触から、ある奇妙な事に気が付く。
「あのさ、マリアベル」
「む?どうかしたのかの?」
「怒らないで聞いて欲しいんだけど……」
「何じゃ、藪から棒に?いきなりそんな事を言われても困るのじゃが」
「うん、それは分かるんだけど、やっぱりちょっと言い難いというか……」
「ええい、煮え切れん奴じゃの!もっとこうはっきりとせんか!」
「えっと、じゃあ言うけど」
「うむ」
「その格好、どうしたの?」
「む?」
「その……何で裸なのかなって……」
「はだ……か……?」
視線を逸らすアシュレー。その顔は、横からでもはっきりと分かる程に真っ赤だ。その単語に、見たくない現実が抜き打ち訪問をマリアベルに敢行する。
「……」
ゆっくりと、あくまでもゆっくりとした動作。が、その動作がアシュレーには余計に怖かった。
見下ろすまでに数秒、自身の胸元に向けられた視線が固定される事さらに数十秒。たっぷりそれだけの時間をおいてのマリアベルの第一声は……
「ん゛に゛ゃ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁ!?!?!?!?」
猫を踏んでしまった様な奇妙な悲鳴だった。
それからのマリアベルの恐慌状態は先程といい勝負と言えた。
「み、見るなっ!あ、いや、見てはおらぬの。そのまま、こっちを向くな!って、視線を逸らしたってことは既に見たって事なのじゃな!?」
腕の中でパニックになるマリアベル。普段なら彼女がパニックになった時になだめるのがアシュレーの役割の筈なのだが、肝心の相方の思考回路も又先の映像で完全にパニック状態なのだ。
シッチャカメッチャカという表現がここまでピタリと当てはまる状況も珍しいだろう。『み、見られた?嫁入り前なのじゃぞ!?い、いやっ!あ、やっぱり今の無しじゃ!って、無しってことはそれでいいってことじゃろうが!え、あ、嫌では無いぞ。アシュレーとならばわらわはうぬぬ。って、何を考えとるかあぁぁ!!!』など意味不明の電波を受信するマリアベルと、ただただ脂汗を流しているアシュレー。漸く出たらしい結論モドキは、
「き、着替えるから腕を離してくれぬか?」
「あ、ああ。分かった」
何とも間抜けなものだった。
アシュレーの上から立ち上がったマリアベルは、直ぐに自分の下着を探す。
単純に、下着を一番最初に着る為というのもあるし、昨日投げ出してしまった記憶があった為というのもある。ドレスが既に視界に入っていたのも理由の一つだが、一番単純な理由は、
(ううむ、見付けずらいの。買う時もっと考えればよかったかの)
布の面積が小さすぎて見付けることが出来ないのであった。
漸く見つけたそれは、両方とも近くの茂みに引っかかっていた。
薄く反対側が透けて見えるキャミソールと対に成る黒のGストリング。その二つを手に取った時、マリアベルはふとある事に気が付く。
「そういえば、アシュレーが妙にわらわの裸に反応しておったの……」
再会してからの今まで、マリアベルはアシュレーに幾度となく色仕掛け(の様なもの)を仕掛けていた。原因は、最初の風呂の時の生温かい何とも言えない視線のせいであった。アシュレーと再会した時、風呂を覗かない様にからかい半分の言葉ではあったが、釘を刺したのだ。が、それに対して赤面したアシュレーだったが、視線だけは背伸びする子供の成長を嬉しそうに見る父親のそれだった。その視線に、マリアベルのプライドは大きく傷ついた。そして、それと同時に女としての闘争心に一気に火が付いた。その後、同じように色仕掛けをする事既に数十回。幾度となく繰り返されたそれは、ことごとくマリアベルの撃沈という結果で終わっていた。何せ、本人は赤面してパニックになっているようでいて、その実帰って来る反応はどれもこれもがひどく理性的だったのだから。
マリアベルだって分かってはいるのだ。そもそも、アシュレーは元父親である。その子供、しかも、年齢を逆算してみれば分かる事だが、最後に見た子供の姿に近い体型の自分では、『女』として見られるよりも先に『娘と同年代』という目で見られてしまうのだ。
マリアベルとて、それくらいは察せる。そして、その事実を考えれば、アシュレーの反応は仕方の無い事だとも言える。自分の子供と同じくらいの年代の者に欲情してしまう人間の方が遥かに危ない。それは分かる。分かるのだが……マリアベルとて『女』なのだ。しかも、そんじょそこらの女性が品も無しにレディを気取っているのとは訳が違う。少なくとも、レディを名乗るに相応しい修行も修めたし、それに見合うだけの教育も受けていた。そう、唯一足りないのは外見的な年齢だけなのだ。そんなマリアベルにしてみれば、唯一どうにもならない外見だけで『女性』として見てもらえない事が口惜しくてならないのだ。アシュレーはマリアベルを対等に扱ってくれている。が、それはあくまでも戦いの中における『仲間』としての対等さであって、『男女』としての対等さでは無いのだ。
が、先程の反応。赤面はいつもの事だったが、問題はその視線だ。
(嬉しそうでは無かった……いや、それ以前にあれは)
本気で目のやり場に困っていた?
頭を過ぎった仮定に、「そんなバカな」と否定する自分と。「試してみたくないか?」と焚きつける自分が居る。
「ふむ……」
一瞬だけ考えたマリアベルだったが、その答えはハッキリと決まっていた。元々、守るなどという行動は、彼女のスタイルに反するのだから。
「よし」
意を決して、勝負下着という名の戦闘服に身を包む。マリアベルの(何か間違った方向の)勝負が始まった。
アシュレーの方に向かうと、当の獲物は正座をして木の洞に向かって何やらブツブツと独り言を呟いていた。が、取り敢えずはそんな事お構いなしに声を掛ける。
「のう、アシュレー」
「うん?ああ、着替え終わったのか?」
その体勢のまま、首を傾げるアシュレーの後頭部を見ながら、戦いの準備を始める。彼を知り己を知れば百戦して殆うからず等とは言うが、はっきり言って、まだアシュレーはそこまでのステップに行っていない。何せ、マリアベルの事を『仲間』としてしか見ていないのだから。『彼を知る』の必要はまだ無い。何が好きで何が嫌いなのか、好みに合うか合わないか。そういった厳密な行動はもっと後のステップになってからすることだ。今はまず、多少強引な手を使ってでも自分を『女』として認識させなければいけない。そこまで行って、初めて自分はスタートラインに立つ事が出来たと言えるのだから。
「うむ、もう振り返ってもいいぞ」
言いながら、着々と体勢を整える。『己を知れば』という部分は、マリアベルは良く分かっていた。肉体年齢の関係上、どうしても胸は諦めるしかない。とてもではないがアシュレーに『女』を実感させることは出来ない。むしろ、下手に触れる機会を増やしてしまう事で『娘と同年代』という認識をより強固なものにしてしまう可能性すらある。同様の理由でお腹も晒せない。別に太っている訳では無いが、子供の体型としてどうしても女性らしいくびれとは無縁な体型なのだ。というか、体の前面は基本的にマリアベルにとっては鬼門と言ってよかった。が、そう不安材料ばかりな訳では無い。マリアベルにも、十分な武器がある。
まず最初の武器は、ノーブルレッド特有とも言える、白くきめ細やかな肌だ。光や水をはじくその肌は、健康的な美しさを演出する。
第二の武器は、スラリとした手足である。大人の様な長さを持っている訳では無いが、比率的に見ても十二分に整っている上に、今からでも既にモデルの様と言われても通用する程にバランスの良い四肢は、誘えば妖しく、見せつければ美しく、マリアベルという存在を際立たせる。
そして、最後にして最大のマリアベルの切り札。それは、プリッと突き出された形の良い臀部である。
ARMSとしての行軍や、長くの旅のおかげで鍛えられたそこは、キュッと引き締まっていながらも鍛えられた為にそれなりの肉を持っており、しっとりと乗った脂は、目にする者に否応なしにマリアベルの『女性』を見せつける。
これら三つの武器を下品で無い様に取り持つスッと通った背筋。自身の持てる全戦力を、嘗て無い最大の敵、唐変木という名の馬鹿者に全力で叩きつける。
その、ポーズに、
「ぶっ!?!?!?!?」
敵は見事に撃沈したのだった。
「ななななな、何をやってるんだマリアベル!!!」
真っ赤にした顔。そして怒鳴るアシュレーだったが、その視線は決してマリアベルの方へと向けようとしない。まるで、そこが不可侵の場であるかのように視線を外したままにするアシュレーの様子をじっと観察しながら、マリアベルは
(き、きき効いたのか?脈ありなのか!?)
今までにないターゲットの様子に、脳内に居る天使と悪魔が緊急会議を開く。
((全軍突撃ッ!!))
いや、既に会議は終わっていたようだった。
「何がって……見て分からぬか?」
「分からない!分からないな!!」
お決まりのセリフを叫ぶアシュレーに、気付かれない様にそっと距離を詰める。
「ふむ、分からぬか?では、こうすればもう少しは……分かるかの?」
クルリと背を向け、すっぽりとその体を膝の上に収める。
「はっ!?」
「ふむ、相変わらず安心する座り心地じゃの」
そう言いながら、ぐりぐりと腰を動かす。マリアベルのその不意打ちに、「う……あ……」とショート寸前になるアシュレー。弱った敵の様子に好機を見出したマリアベルは追撃の手を緩めない。というか、最早高貴さの欠片も無い。『レディ』はどこへ行った。
「ほれほれ、ここがいいのか?」
「ちょ、やめ」
「何とか言ってみんか」
「ス、ストッ」
「ん?ちょっと固く……?」
「……い」
「ん?」
不意に背中から感じた、ロードブレイザーもかくやと言わんばかりの強烈なプレッシャーに、その行動を止めて首を傾げる。
「な、何……じゃ?」
「……」
「ア、アシュレー!?」
そこに居たのは黒の魔人。いや、そう錯覚してしまう程に強烈な怒りのオーラを纏った、アシュレー・ウィンチェスターその人。
陽炎を幻視する程に、何やら分からない威圧感を放つ彼に、つつーっと冷や汗が背筋を伝う。
(や、やりすぎたかの?)
「の、のうアシュ」
「……」
わたわたと言い訳を口にしようとした瞬間、アシュレーがカッと目を見開く。
「マリアベル……いい加減にしなさいっ!!!!」
「う゛にゃ゛!?」
バチコーンとマリアベルの脳天が引っ叩かれる。
「い、痛いのじゃ。ひ、ひどいではない」
「マリアベル!そこに正座!」
「へ?」
「いいからそこに正座!!」
「わ、分かったのじゃ」
有り得ないほど強烈なオーラに、つい素直に頷いてしまったマリアベル。そして、正座したマリアベルの前で仁王立ちするアシュレー。ハッキリ言って普段とは全く逆の構図である。ちなみに、アシュレーの説教は軽く一時間以上続いた。以下抜粋。
「女の子が!あんな恰好をすることが!」
「い、いやあれには理由が」
「言い訳しないっ!」
「はい……」
や、
「大体!マリアベルはいつもいつも!」
「痴女みたいに言うな!わらわとて相手は」
「その相手が僕じゃあ意味無いだろ!!」
等々。一時間後のマリアベルは、完全に衰弱しきっていた。
「まだ言い足りないけれど、時間も無いしここまでにしておいてあげる」
「うう、アシュレーがこんなに説教臭いとは思わんかったわ」
「何か言った?」
「な、何でもないのじゃ!」
ブンブンと首を横に振るマリアベルが着替える間に、アシュレーも荷物を纏めていく。乾いて黒くなった血染めのシャツを見て、自分が本当にぎりぎりで助かった事を理解する。
「ねえ、マリアベル」
だから、思った事をただ口にする。
「む?」
感謝は……本当だから。
「ありがとう」
返ってくる言葉も分かっている。
「うむ!」
それ位、心は通じ合っている。
身支度を整えた二人は、取り敢えず次の事を考える。とはいっても、やることは決まっているのだが。
「これから、どうしよっか?」
首を傾げたアシュレーに、マリアベルはポンッとエプロンのポケットを叩いてみせる。
「手掛かりは、わらわのポケットの中にあるからの」
そう言って取り出したのは、タルブでシエスタから貰った一枚のメモ。
「行くかの?」
「うん」
二人は、前を向いて歩き出した。
◆
―リュティスの北に延びる街道―
一台の馬車が、ぎっこぎっことゆっくりとしたペースで歩を進める。手綱を繰るのは、出稼ぎに来たといういでたちの農夫。その馬車の荷台、そこで肩を寄せ合う二人、青い髪をした青年と、金色の髪をした少女。うららかな春の陽気に誘われて、こっくりこっくりと舟を漕ぐ。と、手綱を握っていた農夫が後ろの青年の肩をポンポンと叩く。
「なあ、起きてくれ」
「ん……」
ゆっくりと目を開いて、後ろを振り返った青年、アシュレーに農夫が隣を指差して見せる。そこに立っていたのは、頭巾で頭を隠した旅人風の男だった。
「この人がよ、馬車に乗せて欲しいっつうんだが……構わんかね?」
「ええ、僕達は構わないですよ」
「そうかい」
農夫が振り返って、頭巾の男に頷いて見せる。頭巾の男は軽く礼を言って二台の上に乗り込んで来た。
「……」
昔からの癖で、ついその男の動きを観察してしまうアシュレー。
(あまり鍛えている感じじゃないけど、何となく手練の臭いがするな……魔法使いかな?)
内心で首を傾げるアシュレーの前で、男は腕を組んで何やら瞑想らしきものを始めた。
(まあ、気にすることでも無いか……)
そう思考を打ち切って、隣に居るマリアベルを支えるアシュレー。
だが、この行きずりとも思われる三人の関係が思いの外長く続く事になるとは、アシュレーはおろかこの男すらも、この時はまだ予想すらしていなかったのだった。
ハイルマリアベル!
ノヴィツキーです。
今回はちょっとしたアンケートの様な物を。
ぶっちゃけ、あとがきって付けた方がいいでしょうか?付けない方がいいでしょうか?
自分は、ラノベのあとがきとかって作品のイメージを壊す様な気が少なからずするんですよね
感想はいつも読ませていただいているのですが(何度も読み返してニヤニヤしているのですが)、ただでさえ少ない拍手数の水増しはちょっと避けたいと思っております。
なので、作品とは別にあとがきのみを更新する場所を投稿させていただこうか考えています。
よろしければ意見をお願いします。
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