「空の境界」

──変わりゆく日常──





──黒桐幹也の章──(前編)




 
 御上さんの淹れる紅茶はあたたかい。一口に飲むごとに気分が安らぎ、心地よい風が吹き渡るように、僕はゆったりとした気分に浸っていた。心の底から、と いう感覚はこういうことを言うのだろう。

 
 一週間ほど前、はじめて新しい友人の紅茶を飲んだ僕は、とても夢見心地な気分になってゆっくりと瞳を閉じ、その世界を見たのだ。事務所のソファーに 座ってみんなと談話を楽しむ僕と式の姿を。彼女は信じられないくらい僕に寄り添い、女の子らしい口調で話し、女の子らしいしぐさで魅了し、女の子らしい微 笑を振りまいていた。

 僕らを取り巻く橙子さんも鮮花も御上さんも、みんな本当に楽しそうに式と一緒に笑っていたのだ。

 やがて、式が僕の耳元でささやいた。
 
 「ねえ、幹也、私のこと……」

 
 それは「甘美な」というには、あまりにも現実離れしていたかもしれない。いや、ありえない現実だろう。だって、あの式が僕の耳元で甘くささやくのだか ら……

 それでも僕は、意識が引き戻されるまで、幻想の式が紡ぎだそうとする言葉の先を聞き取ろうと努め続けたのだった。

 
 ふと、目を開けるとティーカップに満たされた明るい紅色の液体を覗き込み、微笑している僕がいる。
 
 僕こと黒桐幹也にとって、御上真という元同級生の顔は、高校生から大学に所属していた6月頃まで、ほとんど記憶にない有様だった。彼とは、腐れ縁の学 人を交えて幾人かのグループと会話をしているときに数回ほど顔を合わせたこともあったそうだが、名前を聞いた以外、本当に申し訳ないのだが彼のことを憶え ていなかった。

 だから、11月の終わりに事務所の近くで見知らぬかっこいい男の人に声を掛けられたときは本当に驚いたのだ。

 しかし、どういうわけか曖昧な面識しかなかった僕らは、その日のうちに打ち解けてしまっていた。御上さんも言っていたが、

 「どうして今まで話せなかったのだろう?」

 と、僕も首を傾げてしまった。どうして学人から名前が挙げられたとき、僕は興味を持たなかったのだろう? どうして学人が「不思議なヤツ」と語っていた 「御上真」という同級生を確かめなかったのだろう? どうして、僕以外の誰が式宛のお見舞いの花束を届けたのか調べなかったのだろうか?

 「いや、気にする必要はないさ、黒桐。俺も方向性が違うけど、けっこう似たような状況だったんだからね」

  彼は、人懐っこい笑顔で言い、注文したアーネンエルベ限定のチーズケーキを嬉しそうに頬張る。まるで子供のような笑顔が──数秒前とはまったく違う表 情がものすごいギャップとなって僕を楽しくさせた。

 そして、僕らは近い再会を約束して別かれたのだが、その際、彼は不思議なことを口にしていたのだと、後になって思い出すことになる。

 
 「いまの式さんに、よろしく」

◆◆◆

 そんな予言めいたなぞに気がつかず、12月にさしかかったある日、例の「連続猟奇切り裂き魔事件」が発生し、黒桐幹也の身辺も騒がしくなっていった。式 も連日、深夜の街を徘徊して犯人を見つけ出そうとしていたし、橙子さんも犯人の尻尾くらいはつかもうと懇意の刑事さんと連絡を取っていた。

 ある日、危ないことにはまるで駄目な僕は、都内で先の仕事の最終の確認を終わらせて事務所に戻ると、不機嫌の態で壁を蹴りつける式の姿を見たのだった。

 「どうしたの、式?」

 僕は尋ねたけれど、彼女は「なんでもない」とそっけなく言い残し、さっさと事務所を出て行ってしまった。

 理由を聞いていた橙子さんが言うには、式は昨晩、雑居ビルの立ち並ぶ繁華街の裏路地で犯人らしき男と対峙し、会話まで交わしたのだという。

 ──にもかかわらず、まったくカスリもしないで悠然と「去られた」と言うのだった。不機嫌の理由はそれだった。
 
 「逃げられた、ではなく、去られた、なんて式にかぎってあるのでしょうか?」
 
 僕が疑問を述べると、橙子さんは考えるような顔をして言った。
 
 「さあな、私もにわかに信じられないが、式が翻弄されたというのは偶然ではないようだ。あれが言うには、相手も何かの魔眼使いらしいからな」
 
 「えっ? そうなんですか。相手も魔眼使いか・・・他に式は何か言っていないんでしょうか、相手の特徴とか?」
 
 「うーん、顔や服装は暗がりでよくわからなかったそうだが、身長は黒桐よりだいぶ高め、声や身のこなし方から十代後半から二十代前半の男と言うこと だ」

 そうですか、とつぶやいて考え込んだ僕に、橙子さんは咥えていたタバコを落としそうになりながら思い出したように言った。

 「そういえば、犯人らしき男は式の名前を知っていて、左の耳に碧玉のイヤリングをしていたらしいぞ」

 へえ、とぼんやりとうなずいた僕は、次に全体が思い当たる人物の姿をうかべて驚愕した。

 
 「まさか!そんな……」

 突然、乱暴に机を叩いて立ち上がった姿を見て、橙子さんは怪訝な顔をしていた。

 僕は、「早退します」と言って事務所をいてもたってもいられずに飛び出し、彼と会えるかもしれないアーネンエルべを覗いてみたり、住んでいるアパート を調べ上げて待ったりした。

 でも、そこからぷっつりと消息がつかめず、12月の空の下、暗がりが拡がって時間が過ぎるほど、彼と会える確率は低くなり、結 局、僕は大きな不安と心配を胸に溜めたまま、自分のアパートに戻るしかなかった。

 だってそうだ。僕と再会できてとても喜んでいた元同級生、僕に久しぶりに充実した時間と笑いをくれた御上真という新しい友人。「両儀式」という少女を共 に見守っていたという事実。

 黒桐幹也は、アーネンエルベで思わぬ告白を聞いたのだ。入学式の頃に式と僕のやりとりの一部始終を知っていたこと。式が気になって、時々彼女の姿を教室 に確認しに来ていたこと。式が人嫌いで「独り」になったことをとても心配していたこと。彼女が交通事故にあって学校に姿を見せなくなり、とても落ち込んで しまったということ。

 「なあ、黒桐。俺はね、本当は君たちとすぐ友達になりたかったんだ。あの時、式さんを初めて目にした瞬間から、黒桐幹也を初めて意識したあの 時から、ずっと友達になりたいと望んでいたんだ。
 言い訳になるけれど、俺は君たちと関わるわけにはいかなかったんだ。俺自身の事情が全てだけれど、今は、あのときの空白の時間を後悔しているよ。式さんが 交通事故に遭って、よりいっそう喪失感が増してしまったんだ。だから、それでもダメだと解っていても足を運ばずにはいられなかったんだ」

 僕は確信していた。式が入院中、僕以外の誰かが度々お見舞いの花束を看護婦さんに預けていたのだ。その人物は名前も告げず、式が退院する直前まで月に一 度は花束を届けてくれたようだった。


 「一体、誰が?」

 とても気にはしていたのだが、式のことで頭がいっぱいだったせいか、途中、大学の中退のことで親ともめたこともあり、なぞの人物について深く追究しよう ともしなかった。

 それから2年あまりが過ぎ、職場の近くで偶然声をかけられたことがきっかけで、その謎の人物が「御上真」だと確信したのだった。

 僕と彼の両儀式を想う気持ちは同じだった。まぶしいようで、そのままだといつか怪我をしてしまいそうな淡い存在の彼女を放っておけなかったのだ。僕と ちがって直接、式に関わったわけではないかもしれない。でも、式を怖れ関心をしめさなくなった周囲より、はるかに彼女と繋がっていたのだ。

 
 彼は、ずっと僕や式と友達になりたかったと話した。理由はわからないけれど、それが叶わず、長い間、想い続けてきたに違いない。その瞳はとても深く、や さしく、それでいて罪の深さを己に向けているようでもあった。

 「ありがとう。ずっと式を見守っていてくれて……」

 僕は言わずにはいられなかった。笑顔を振りまいた瞳の奥に秘められた苦しみ、罪の意識を背負い続けた彼を解放してあげたかったのだ。何かを秘めたまま生 き続ける苦しみがどれだけ過酷か「浅上藤乃」の件でいやというほど肌に感じている。それに、元同級生を非難しようなどという気は微塵もなかった。むしろ、 とてもとても嬉しく、とても感謝したいくらいだった。ああ、僕一人じゃなかったんだな、想いを同じにする仲間がとても近くにいたのだなぁ……

 
 しばらく言葉のなかった元同級生は、びっくりするくらい女性的に破顔して言ったのだ。

 「ありがとう。肩の荷が下りたよ」


◆◆◆
? 
 そんな彼が、まさか!

 「いや、待つんだ。僕の想像はまだ早急すぎる。今時、イヤリングを付けている男の人はたくさんいる。考えすぎだ、考えすぎだ……くそっ!なんで式以外にこ うも悩んでいるんだ。ああ、もうっ!」

 僕は、どうしようもない憤りを布団を被って寝ることで忘れようとした。むろん、とてもそんなに上手くいくわけがなく、部屋を歩き回ったり、式のアパート に電話をかけたり──気がついたら夜が明けてしまっていた。

 眠い目をこすりながら出勤はしたものの、当然、健全な状態には程遠く、橙子さんに言われるまでコーヒーを入れるのを忘れているくらいだった。

 
 「すみません。すぐにコーヒーを用意します」
 
 「いいよ黒桐、自分で入れるさ。そんな状態でやけどでもされたら私が式や鮮花にうらまれてしまうよ」

 所長の軽い冗談も、そのときの僕には何の効果ももたらさなかった。

 橙子さんは、そんな僕の肩をポンとたたいた。

 「どうした、事件を追っている式のことが心配なのか? 確かに今回の事件は3年前以来の猟奇的な殺人だが、警察の見解だと手口や被害者の関係から別人の 仕業だという発表だぞ。犯人と遭遇した式も同じ事を口にしていた。荒耶との件でお前は心配しているのだろうが、あれはそんなヤワな玉じゃないことはお前が 一番理解していることだろう」

 橙子さんの言うことは最だ。それが式ひとりに関わることなら、僕は彼女を信じて待つことができただろう。だけど今回は、つい先日「友人」になったばかり の元同級生が事件に関わっているかもしれないのだ。

 もし彼が犯人(いやな想像だ)だったなら、間違いなく式と再び対峙することになる。きっと殺し合いだ。

 「そんなのダメだ!」

 僕は怒鳴って席を立つと、いすに掛けたコートを乱暴に手に取り、目を丸くする橙子さんを尻目に事務所を出て行こうとした。

 彼を探さないと! 彼に会わないと! 会って話をしないと!

 そんなに焦る僕は、橙子さんに腕をつかまれて制止した。

 「黒桐、君はいつもより変だぞ。浅上藤乃の件でも、荒耶宗蓮の件でもそこまで取り乱したりしなかった。一体、何があった? 今回の件で別の不安ごとでも あるのか?」

 橙子さんの目は僕を射抜くように鋭い。それは「しかる」というよりも「落ち着け」という訴えに近い。

 「なあ黒桐、もし不安ごとでも心配事でもあるなら私に話してくれないか。一応は君の雇い主だし、君の抱える不安や悩みくらい解決できるくらいの人 生経験は積んでいるつもりだ。どうしても、というなら無理に言わなくていい。でも、誰かに話して不安や心配事が少しでも解消されるなら、私に話してくれな いか」

 
 橙子さんの言葉に僕の陰鬱な気分は少し和らいだ。すとんと事務所の入り口の階段に腰をおろして、彼のことや、ここ数日のことを洗いざらい告白した。
 
 「黒桐……」
 
 橙子さんは銜えていたタバコを机の上にある灰皿に押し込み、ゆっくりといすに座った。
 
 「なあ、黒桐、君は両儀式を何があっても信じてやれるのに、その元同級生を信じてやれないのか。たった数時間でそこまで気を許した人間を信じてやれない のか?
 残念だが確かに力では役にはたたんよ。この先も式を直接助けることはできないだろう。それでも君は何かあるたびに、自分なりに彼女を助けてきたじゃない か。
 君は自分の限界を知っている。限界を知った上で自分にしかできないことをやり遂げ、両儀式を支えてきたんだ。式はああだが、誰よりも黒桐のことを頼りに している。黒桐、君は何か見返りを求めて「式」という異能者と長い付き合いをしてきたわけではあるまい。だから己の眼に自信を持ってみろ、黒桐幹也という 人間が信じる人物に自信をもってみることだ」

 
 僕は勢いよく顔を上げた。橙子さんの言葉が魔法のように陰鬱な気分を健全で正常な状態に導いてくれたからだ。そうだ、黒桐幹也が信じた「御上真」に自信 を持とう。僕は、確かに力はないけれど、探すことと人物鑑定には自信があるのだ。ずっとずっと式を信じているこの思いを、もう一人に向けてもいいじゃない か。

 「ありがとうございます、橙子さん」

 僕は立ち上がった。ずっと体が軽い。彼と出会ったのは決して偶然ではない。何かに導かれたからこそ、僕らは再び出会ったんだ。三年前、雪の降りしきる街 の一角で両儀式という少女と初めて出会ったのと同じように……





──後編につづく──


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 あとがき


 空乃涼です。黒桐の章(前編)読んでくれた方、感想と突っ込み待ってます。
ようやく二人目の主要人物に入りました。(長っ!)

 御上真というオリキャラをひつこく語ってもらっていますが、どうしても「本編キャラの心情はどう変化するのか?」を書いてみたかったのでご勘弁を。

 原作をご存知の方は、「あと二人」残っていることはお気づきですね。
それにしても、「章ごとに違う人物の視点で書く」というのはほんとに難しいです。特に空の境界はコアなファンが多いので、「語り部の人物がその人物のよう に語っているか?」が心配です。まあ、多少はお見逃しください。

 次回は後編です。その次はついに、あの人物が登場です。

 2008年5月2日  ──涼──

 投稿から時間も立ちましたのでいろいろ修正しました。
 手抜き挿絵を削除しました(エ

 2010年1月17日 ──涼──


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