「空の境界」

──変わりゆく日常──




──黒桐幹也の章──(後編)






 僕は拳を握り締め、再び彼を探しに行こうとドアノブに手をかけた。

橙子さんの強い声がした。

 「まてまて、黒桐! まだ話は終わっていないぞ」

 とりあえず自分の椅子に座れ、とさらに迫力ある眼差しで命令され、しぶしぶ従う。
橙子さんは、僕が座ったところで新しいタバコに火をつけた。


 「昨晩、御上真という青年が事務所にやって来たよ」

 「えーっ!」

 僕は叫んで再びいすから乱暴に立ち上がる。とんでもなく重大なことを、うちの所長は今頃さらりと言う。

 「まあまあ……」

 「何が“まあまあ”ですか。なぜもっと早く教えてくれなかったんですか!」

 僕はたぶん、久々に語気を荒げたと思う。

 「といわれてもなあ、私だって、昨夜、御上真と話すまで黒桐とつながりがあるとは知らなかったんだ。だいたい君は彼と喫茶店で昔話をしていたなん て洩らしもしなかったじゃないか。私は魔術師ではあるが超能力者ではないのだぞ。微塵もそぶりを見せなければ推理のしようがない」

 「いや、それはなんと言うか、僕も私事なので特に話すこともないと思ったし……」

 まさにそうとしか言えない。


 「そう、それだよ、黒桐。人は自分の体験したことが重要だったり、非常に有意義だったり、誰も知りえないことを知ったときには他人に自分の経験を自慢し たくなる生き物なんだ。それが他人にも知らせるべきだと無意識に認識する機能が働くからだ。まあ、人間ほどコミュニケーションに「言葉」という無形で多様 な伝達通信術に長けた種族は存在しないだろう。人と同じように「言葉」によるコミュニケーションを行うという象やチンパンジーでさえ、言葉には限りがあ る。
 まさに多種多様な「言葉」は人間だけの専売特許と言っていいだろう。だがその反面、人間は自分にとって不利だったり、大きな利益となることだったり、自 己満足で留めておきたい小さな事となると極端にコミュニケーション力が鈍る。
 それはある意味、“自分の利益を守る“という一点においては正しいのだろうが、時として、そんな小さな事象がつながって大きな真実をもたらすように、さ さやかな与太話が点と点を結ぶ線になることもあるんだ。
 世の中の大半の人間は必要以上のことは話さないし、必要以外のことを聞こうともしない。それが、そもそもコミュニケーション力の瓦解と相互不信を招く根 本になっているんだよ。情報を専門に扱うプロほど、人がしまいこんだ小さな事実に敏感なのさ」


 「……はあ、なんとなく解りました。それで、彼は一体何をしに橙子さんの前に現れたのでしょうか?」

  我ながら下手な転換だと思ったが、橙子さんの難しい哲学のような話をずっと聞いているわけにもいかない。幸いにも、彼女は僕に早く伝えた方がよいと判 断したのか、難しい解説を止めて「確証」を口にした。

 「御上真は『犯人』ではないよ。この事実は信じていい。御上真は『犯人』ではないんだ」

 僕の体から、どっと見えない不安やら懸念やらが放出された。と同時に、橙子さんが強調した部分がとてもひっかかった。

 「どういう意味でしょうか?」

 僕が問うと、橙子さんはまずタバコを吹かす。

 「なかなか察しがいいな。まずは御上真が事務所にやって来た理由を言う前に、彼は犯人ではないが、この事件には深く関わっている──ああ、そんな心配 そうな顔をするな。彼の立場は『式と警察の間』といってもいいだろう」

 僕はドキリとした。

 「つまり、彼は犯人を捕まえるか、殺すかが目的だということですか!」

 安心が一瞬にして不安に覆われる。

 「どういうことですか? 彼にも式のような殺人衝動があるというのですか? よく全体が見えないんですが」

 僕はむきになって質問するが、冷静な橙子さんは首を横にゆっくり振って否定する。

 「そうじゃない。御上真は、彼の一族に連なるだろう人物が犯した事件を追っているということだ。事務所に来たのは、事件にちょっかいを出している式はも とより、私や黒桐を巻き込みたくないという切実な訴えだったんだ。まあ、能力のある遠い血族の者が恋人の復讐のために引き起こした事件を、本家に依頼され て追っているのが“御上真”という青年なのだよ」

 「血族? じゃあ、やはり彼は式や浅上藤乃と同じように特殊な家系で魔眼か何かの所有者なのですか?」

 橙子さんは大きくうなずいたが、詳しく聞き忘れた、と無責任な付け足しをした。

 僕は信じられない気持ちでいっぱいだった。御上真が犯人ではないのは本当にうれしかったのだが、特殊な能力の持ち主で、まさか猟奇事件の犯人を追ってい るなんて。そしてあの日、同じように犯人を追っていた式と対峙していたなんて!

 「あっ、式はこの事実を知っているんでしょうか?」

 これは重大且つ、早急に手を打たなければいけない事項に思えるのだが、その重要度に反比例する返答が返ってきた。


 「知らないよ。おととい出て行ったきり、事務所にも顔を出していないし、電話もかかってこない。もちろんアパートにも戻ってきていないようだね」

 橙子さんは、無責任にも両手を広げて降参する。僕は何か抗議しかけたが、確かに式のほうから連絡がなければ、彼女の居所がつかめないこちらも手の打ちよう がない。そうかと言って、そのままにしておいたら事情を知らない式は彼を犯人だと(なぜか)誤解しているから、遭遇すれば戦ってしまうかもしれないのだ。

 「橙子さん、僕、やはり御上さんか式を探しに行ってきます」

 再び、僕の足は外へと向けられたのだった。




◆◆◆

 「……おい、幹也、コクトー、おいったらおいっ!」

 ハッとして僕は我に返った。視界にある明るい紅色の飲み物から視線を外して周囲を見ると、そこはよく見知った一室にあるソファーの上だった。

 「まったく、さっきから何を考え込んでいやがる。人が意見を聞こうとずっと呼んでいるのに何も反応しないなんて!」

 すぐ隣では、藍色の一重姿の少女が腕組みをしてそっぽを向いていた。僕はどうやらしばらくの間、あのときの出来事を思い起こしていたらしい。

 「まあまあ、式さん。黒桐はきっと何か深い考え事をしていたんじゃないでしょうか。だからほんの少しだけぼんやりしていただけですよ」

 と見事に言い当て、式をなだめてくれたのは僕の前にいる新しい友人、「御上真」という頼もしい元同級生。僕より背が高くて、とても楽しくてずっと強く て、何よりも美味しい紅茶を淹れるのが上手くて、左耳を飾る碧玉のイヤリングが似合う青年。

 御上真の起源は「真実」だという。その魔眼は偽りを暴き、万物のすべてを明らかにし、心を開く者には内に秘める未来と過去の「真の姿」を見せるのだとい う。もしかしたら彼が淹れた紅茶には、その起源と能力に起因する不思議な効果があるのかもしれない。
 
 きっと、だからこそ、僕はあのときの記憶を鮮明に思い出していたに違いないのだ。

 僕は残りの紅茶を一気に美味しく飲み干すと、察してすでに用意の整った友人に告げた。

 「御上さん、おかわり、いただけますか?」


 少しずつ少しずつ、僕の日常も新たに変わろうとしている。




─黒桐の章─(後編)おわ り


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  あとがき

 空乃涼です。黒桐幹也の章、いかがだったでしょう? 黒桐にも頼もしい味方ができたということで、今後、伽藍の堂の勢力図が変化することは間違いありま せん。別のエピソードでは、御上と黒桐VS女性陣との攻防も描く予定です。
 たった一人加わっただけで、しかもその人物が「只者じゃない」から、橙子や式、鮮花らが気にしないわけにはいきません。
ええ、ですが「たった一人」でも、オリキャラを動かすのは大変です。

 次回は、いよいよ「式」が登場します。彼女は何を語ってくれるのでしょう。


 2008年5月10日  ──涼──

 投稿から時間も経ちましたので、いろいろな意味で修正です。

 2010年1月17日 ──涼──


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