「空の境界」
──変わりゆく日常──
──両儀式の章──(前編)
1998年 12月21日 20時52分
私たちが橙子の事務所を後にしたのは、すっかり陽も落ちて外の空気がよりいっそう凍える時間帯だった。まったく、一時間で終わるはずの幹也たちの残業が
3時間近くにもなってしまったのだ。あの魔術師が製図に使う道具を一部紛失していて幹也に買いに行かせたのだが、まだ仕事に慣れない御上と(仕方がない ので)私とで資料と日程表を作成、記入することになってしまった。
途中、紆余曲折があり仕事が遅れ、幹也が戻ってきたのが19時15分ごろ。それから(どう いうわけか私もふくめて)三人で、てきぱきと仕事を片つけていったが、どうにも遅れを取り戻せたわけではなかった。
結局、仕事が片ついたのは20時30分を過ぎた頃だった。
「まさか式が仕事を手伝っているとは思わなかったよ」
と、心にもないことを穏やかな顔で幹也が言う。
「同感、同感。俺はおろか橙子さんも驚いていました。何か手伝うことある? と式さんがぼそっとつぶやいたときは天変地異でも起こるんじゃないかと、ありもしない避難場所を思わず探しちゃいましたね」
と、同伴するもう一人の男は、幹也よりも辛らつで臆面のない口調で言い切った。
「まったく、二人とも私のことを小馬鹿にして!」
しかし、現実の私は二対一の不利を悟り、せいぜいおもしろくない態度で「ふんっ」とだけ言うのが精一杯だった。
そんな私を見て「式さん、かわいいなぁ」などと、赤面するような台詞を背の高い男は優しく微笑んで言うものだから、ついつい反撃する気を削がれてしま
う。
確かに言った瞬間、「しまった!」と内心で舌打ちしたものの後の祭りだった。なぜあんなことを口にしたのか、後で考えれば考えるほどわからなくなるのだが、目を輝かせて助けを請う御上の「視線」から逃れられそうになく、言ってしまった限りは責任を取らねばならない。
口は災いの元とはこのことだ。
不愉快だったのは、珍獣か幻獣を見るかのようなトウコの視線だったろう。
日程の記入は幹也の仕事を普段見ているので、わりとすんなり進むことができたが、業者に渡す資料づくりは難航した。
まず、いくつかの指定された資料が見つからず、トウコのヤツが作業場に行っていたため、わざわざ確認せねばならなかった。しかも、指示された資料があるはずの棚に見当たらないから最悪だ。
仕方がないのでトウコを呼びつけ記憶を頼りに探させたのだが、結局見つからないまま時間が過ぎ、幹也が戻ったところでようやく資料の在り処が判明し
た。
トウコの私室だった。しかもベッドの下だ。
「すまん、すまん、資料を持ち込んでそのままだったようだ」
と、反省とは無縁の陽気さと他人事のような口調で魔術師は流す。幹也も御上もトウコのその態度にあきれたのか、まさか「許容範囲」と定めたのか追及しな
い。
まったく男ってヤツは橙子のような女の裏の思惑ってヤツを読めないのだろうか? 幹也のヤツならまだしも、御上! おまえまでトウコの術中に素直に 従ってどうするんだよ。女だからってこの魔術師を甘やかすとろくなことにならないものを……
それとも、やはりお前も幹也と同じかそれ以上のお人好しなのか?
御上真(みがみ しん)
私こと両儀式と一度戦った男だ。いや、戦ったという表現はいささか間違いだ。あの男は一度も刃を向けなかったのだから。それでも、4人目の被害者の横たわる繁華街の裏路地で再度にわたる攻撃をかわし、私の名前を口にして悠然と去った油断のならない男。暗がりで顔は判別できず、対峙のさなか、去り際に目に
飛び込んできた碧玉色のイヤリングだけがはっきりと脳裏に焼き付けられたのだ。
次に遭遇したのは、5人目の被害者の殺害現場だった。だが、この男は前回よりもはるかに拍子抜けした普通の状態で堂々と私の前に現れ、事件に関し一緒に犯人を捜して欲しいと協力を求めてきたのだった。
私はすぐに「認める」ことができなかった。あの時、あの浅上藤乃以来の高揚を告げた男が、荒耶宗蓮を上回る背筋が凍るほどの戦慄を覚えた男が「敵ではな
い」と認められなかったのだ。すでに本能が敵として「否定」しているにもかかわらず、目の前で協力を求める明らかに既視感をもつ男の現実がにわかに信じられないでいた。
「あの時は大変失礼しました。どうやらあなたに会えて調子に乗ってしまったようです」
やや頭髪に赤みがかかり、左耳に女のような碧玉のイヤリングをした臙条巴に雰囲気が似た長身の男は、驚くことに深々と頭を下げてきたのだった。
結局、私はその態度に戸惑いつつも、彼の協力要請を受け入れた。あのとき感じた「殺人衝動」は本物だった。自分の直感が外れたのは信じがたかったが、今のような状態では完全に戦う理由をなくしてしまい、「勝手にしろ」と負け惜しみのような台詞を言うしかなかった。協力を許したのは、途中で偽りの仮面がは
がれるのではないか、自分でも煮え切らないというか、浅はかというか、願望に近い想像をしただけだ。
しかし、最初は望まない共闘だったのに、いつの間にかこの男のペースに乗せられ、気がつけば風使いの犯人との戦いの中で彼を信頼するまでになっていたの
だ。
そんな男が、私とは元同級生だと知るのは事件が終幕してからになる。御上も幹也のやつも、もっと早く話してくれれば多少はましに付き合えただろう に……
◆◆◆
そして今、駅へと向かう三つの影はいつもより愉しそうだった。「二人」とは違う感覚。たった一人連れが増えただけで、こんなに世界は広がるのだろうか。
「あっ、あれ見てください。あそこのビルの前、きれいに飾っていますね」
御上が指し示す方向にはイベント用なのか、ビルの敷地と思われる公園のような空間にひときわ大きいクリスマスツリーが多様な飾り付けとともに、まるで
リズムでも奏でるかのように光彩を輝かせている。きっと一人だったら、何の興味も示さずにすぐに通り過ぎただろう。幹也と二人だったら多少は見たかもしれ
ない。
だけど、私は自分でもびっくりするくらい長く、師走の夜の下を彩るクリスマスツリーを幹也と御上と一緒に眺めていたのだ。
「行こう」
幹也の一言で歩き出した私たちは、駅へと続くデパート群の大通りをまっすぐ歩いていく。クリスマスが近いということもあり、かなりの人でごった返している。少々、私の目には毒だ。つい一週間前は例の事件の影響で、同じ時間帯でも人の行き来はほとんどなかったのだ。
「あはは、そうなんだ」
と前を歩く幹也から笑い声が聞こえる。ここ数日、幹也のそんな声が多くなった。その隣には必ず「あいつ」がいる。私は最初、幹也があいつとばかり話をし
ていることになんともいえない苛立ちを覚えたものだが、それが嫉妬とは別の感情だと判ると気にならなくなった。私は幹也をとられたと錯覚を起こしただけ
で、彼はただ友人と親しい話をしているだけだと理解できたのだ。
もっとも、同じように考えた少女がもう一名いたようだけれど……
さらに笑い声は続く。一体何を話しているのか? と興味が湧いて聞き耳を立ててみたのだが、あまりにもくだらない内容なので、私はもう三メートル離れて
歩くことにした。
「コーヒーと紅茶による効能と考察、および美味しく飲むタイミングについて」
それって、なんだよ! こいつら、よくそんなくだらない話題で真面目な議論なんかできるものだ。
私は、とてもあきれて毒舌のひとつくらいは浴びせてやろうとタイミングを計ったのだが、逆にタイミングよく二人の笑い声に邪魔されて結局やめてしまっ
た。
しばらく歩いて駅の入り口まで来ると、ちょうど大勢の乗客が改札を出て、大通りに向かって歩いていくところだった。
「じゃあね。式、冬休みもすぐなんだから、ちゃんと学校に行かないとダメだよ」
まったく、途中で大学を辞めたやつの台詞とは思えない。
「大きなお世話だ。それよりも幹也、この間みたいにヘンな連中に絡まれるんじゃないぜ」
「ああ、肝に銘じておくよ……御上さん、明日もよろしく……」
「よろしく。絡まれたって? なぜ?」
御上のさりげない追及の直後、ちょうど電車の来る時間なのか幹也は引き際よろしく「じゃあ」と短い別れを告げて改札を足早に通っていった。
「さて、俺たちも家に帰りますか」
御上がのびをしながら告げる。私も「そうだな」と伝えて、元来た道へと足を返す。静けさの戻った駅前は人通りが一時的にまばらになり、客待ちをする多く
のタクシーの灯火だけが目に入る。
通常なら、駅まで幹也を送った後、私は夜の街へ消えて行くのが常態だった。何をするのでもなく、ただ静寂に塗り替えられていく街の中に身を置くのが好き
なだけなのだ。月明かりだけを頼りに、ただ自分の意思の赴くままに……
そして、生きている実感を得るために殺したい相手を探して……
だけど今夜は違う。幹也が去っても、私には連れがいる。そいつと話しながら家路に着くのも悪くないと思えるほど、御上真はたったの二週間あまりで私の心に棲みついたのだ。
もしかしたらそれは……そう、きっとあの臙条巴に似ているからだろう。
途中、御上があたたかい缶コーヒーを買ってくれた。
「ええと、俺はこれ」
当人は迷わず「ココア」を買って飲む。自販機には紅茶もあるのに、どうして違うものを買うのだろう? 私の疑問の視線に気づいたのか、御上はく すくす笑って理由を教えてくれた。
「紅茶は自分が淹れたものしか飲みません。だから冬の時期、外ではよほどのことがない限り、もっぱらコーヒーかココアです」
「こだわりっていうヤツ?」
私は尋ねる。たずねられた方は「妥協できないだけです」ときっぱり。
どうも似ている。私は他人が作る料理には妥協するが、自分が作るとなると決して妥協しない。納得するまで「味」を追及する。想えば、両儀の実家にいた頃、
何時間も調理場に陣取り、世話係の秋隆をあきれさせたことが幾度もあったけ?
「ああ、そういえば……」
再び歩き出した矢先、御上が思い出したようにつぶやく。前を行く私は立ち止まって彼に振り返った。
「式さん、日もないので例のパーティーの準備を早く進めようと思います。さっき黒桐と話をしていたのですが──といっても彼は仕事が忙しいだろうから
メインで手伝えるわけじゃありません。そこで、明日、式さんに買い物に付き合ってもらいたいのですよ」
「オレがおまえと買い物に行く!?」
けっこう唐突な要請だった。御上は私の驚きを無視した。
「残念ですが、俺一人じゃとても無理そうです。あと、どういった物を買うべきか意見とか聞きたいんですよ。それに俺、祭日だけど明後日は大学に行かないといけないので、どうしても明日中にある程度必要な買い物を終わらせて、できれば軽く飾りつけもする予定なんです。だから買い物だけでも手伝っていただけ
ませんか?」
どうやら本気らしい。どこかゆるい口調とは裏腹に顔は真剣だった。それにしても、あんなくだらない話題の中で、いつのまに相談をしていたのかと不気味に思えてくる。
「黒桐は“いいんじゃない”と許可してくれましたよ」
何がいいのだろう、幹也のやつ。私が、たかが二週間ばかり行動をともにした男と「買い物」なんか行くとでも本気で想像できたのか? まあ、お 人好しの考えそうなことだけれど。あの男の思考はどこか緩みがあるようだ。
とあきれたものの、不思議と不快でないことに気がつく。
「黒桐は、俺なら式さんも買い物に付き合ってくれるだろう。まあ、多少は難儀するかもしれないけれど、と言っていました。いつもの笑顔でね」
「難儀」は余計だ。御上が達観したように話す。私は、いまさら一瞬だけ「どきり」とした。この男の油断のならない能力で頭の中を覗かれたのではないか!
私は、御上を鋭く睨みつけた。彼は慌てた素振りで両手をふって否定する。
「ええと、誤解です。心を読んでなんかいません。本当です。それ以上、にらまないでください。俺はこれでもカウンセラーの卵です。その人の言動、表
情、しぐさや日常生活の行動から、どういった心境や考えであるのか、それらを基に分析して予測するくらいできます。それに能力を使うべき状況はわきまえているつもりです」
左耳に碧玉のイヤリングを着けた背の高い男は、まるで幼い子供が泣き出して右往左往する若い父親のような態度で必死に無実を訴える。私は、あまりにその光景が面白いので、思わず吹きだしてしまった。
御上の訴えていることが嘘ではないくらい、私も解っている。御上真は嘘をつけない。というより「下手」というべきだろう。黒桐幹也という青年と同じくら
い、自分に嘘がつけない男なのだ。
起源ではない。御上真は、私が無視をしても話しかけてくる。私が怒っても笑顔で返してくる。私が呼べば気軽に返事を返してくる。私が独りだと、きっと見つけ出して声をかけてくれるだろう。
御上真とはそういう男だ。
──後編につづく──
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あとがき
涼です。やっと式さんまできました。「これは式じゃない」とか言われないようにがんばったつもりです。なんというのか主要登場人物一人一人のの描写なん
てやらなきゃよかったと、いまさらながら思います。
が、おかげでキャラが解かってきました。次回作では、キャラの性格や台詞にあまり困らずに書けそうです。
今回より、物語が動いています。式たちは事務所を出て、家路を目指すわけですが、クリスマスパーティーの話が出ていました。
まあ、どうなるんだか……まだ後半があります。お待ちを。
2008年5月24日 ──涼──
投稿から時間も経ちましたので、誤字や脱字を修正しました。
手抜き挿絵を削除しました(エ
2010年1月24日 ──涼──
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