「空の境界」

──変わりゆく日常──




──両儀式の章──(後編)




 御上真と私は、切り裂き魔犯を海沿いの丘陵地帯にある無人の別荘に追い詰め、そこで最後の戦いをすることになった。犯人の少年は最後の復讐を果たすまで、私たちに捕まる気などなかったため激しい戦いになった。風の力のすべてを行使して私たちを退けようとしたのだ。

 その攻撃と執念はすさまじく、私も何度も強力な攻撃にさらされたが、そのつど、御上真は私をかばい、傷つき、倒れ、それでも犯人の少年を保護しようとし たのだ。

 「無駄なことは止めろ!」

 私は怒鳴った。私をかばうこと、少年を保護することをやめろ、という二重の意味を含んでいたのだ。少年の執念は、あの浅上藤乃を上回っていた。浅上藤乃 とは違う失った者のための復讐。

 私は少年を殺すつもりでいた。8人の関係者は別として、2人の無実の人間を殺したヤツを許すことはできなかったのだ。その意味ではあの浅上藤乃と同じ理由だったが、私のナイフは少年の瞳を映すたびに殺すことをためらわせてしまっていた。

 笑われても仕方がない。私は少年に「式」の姿を見てしまったのだ。大切なものを失って死すら恐れず暴走する殺戮魔の両儀式を見てしまったのだった。


 こっけいだ。


 私は戦いながら自嘲した。殺人衝動を満たすことこそ望みの一つだったはずなのに、殺人鬼になりきれない「わたし」が必死にそれになりきろうとしている。 本当に殺すのか? 本当に背を向けるのか? 本当に自分を捨てるのか? 本当にさまよいたいのか? 本当にそれでいいのか?

 「本当は、おまえも幸せになりたいのだろう?」

 どうかしていたと思う。少年を追い詰める私は逆に追い詰められていたのだ。間抜けにもいつの間にかガスが部屋に充満していることにも気がつかず、私は 少年の風を殺しながら彼に迫った。爆発はその瞬簡に起こった。

 通常なら私は爆発の直撃を受けているはずだった。そしてさらに少年の攻撃に体を貫かれているはずだった。

 何が起こったのか理解できなかった「無傷のわたし」の前には、私を爆風から守り、右肩を「風」に貫かれたアイツの姿があった。

 がくんと片ひざを突いた御上真のあの言葉をわたしは忘れない。

 「君は、これ以上殺してはだめだ……」

 二度目の爆発。後ろから襲い来る炎の龍を御上は受け止め、少年とわたしを守る。

 「君は、もうここにいてはいけないよ……」


 御上が火の粉の舞う中に倒れ伏す。少年の手が御上の身体に迫る。

 「やめろ!」

 私は怒鳴り、少年を殴り倒した。だが、彼は御上に止めを刺そうとしたのではなかった。御上にかかる火の粉をはらおうとしたのだった。

 「おまえ……」

 私はハっとした。少年は泣いていたのだ。今まで彼を覆っていた凶暴で無慈悲な仮面が剥がれ落ち、悲しみと遠くを見つめるような普通の人間の表情に戻って いたのだ。

 「僕は、人をやめてしまってたんだね、有紀……」

 殺された恋人の名をつぶやき、少年は私を見上げる。おもぐるしい時間が二瞬だけ流れた。

 「僕はもう戻れない、ごめんなさい。さようなら……」

 吹っ切れたような表情で微笑みながら、少年は炎が渦巻く部屋へと消えて行く。

 最後の最期に少年は人の心を取り戻したのだった。

 「……待て、待つんだ……君は死ぬことはない。まだ戻れるんだ 」

 重症を負った御上が少年を追おうとした。私は慌ててこのお人よしを制止する。

 「馬鹿やろう! もう遅い。早く出ないとオレたちも焼け死ぬぞ」

 振り向いた御上の顔に私は二度衝撃を受けた。

 「放せ!両儀式、彼は俺なんだ!」


 泣いていた。きっと今の私には到底起こりえない感情をあらわにして泣いていたのだ。自分のためにではなく、炎に消えた少年のために……

 そう、式の記憶に残る、あのときもこれからも変わることのない黒桐幹也と同じ心を持った青年……

◆◆◆

 もう私の気分は晴れていた。

 「わかった、買い物に付き合ってやるよ。どうせ幹也のヤツは忙しいだろうから、トウコの事務所に居ても最悪“手伝って”とか言われそうだしな。まあ、行 くとなったら妥協はしないからな」

 「本当ですか、やった!」

 やれやれ、ちょっと甘くしてやると元気になるところは幹也と同じだ。案外、単純な性格だったりして。

 それにしても、まさか、こんなに陽気な男だとは思わなかった。私と対峙したとき、猟奇事件の犯人を一緒に追っていたときのシビアでクールな印象とは正反対だ。あのとき見せた悲しみの表情が嘘に思えるくらいだ。トウコの事務所に駆け込んで来たときの様子もどう見ても体育会系のノリだった。日常と非日常で性格をスイッチしているとしたら、少しあぶないんじゃないか? いや、それは通常の変換か。トウコのように眼鏡の掛け外しでジキルとハイドになるものとは違うもの。

 私は、それ以上の考え事を止めた。第一、御上真が御上真であるのは変わらない事実だし、彼の考察をしてしまうと私の考察に及びかねないからだ。

 私は頭を切り替える。

 「シン、あした行くのはいいけど、オレは午前中、ガッコーだぜ」

 私は、予定の変更を告げたが、この男は迷うということを知らないらしい。

 「その点は問題ありません、午後からの予定です。式さん、学校が終るのは何時くらいですか? 集合はわかりやすく橙子さんのビルの前にしますが」

 私は少しだけ考え込んだ。

 「そうだな、補習が一時間ばかりあるから、12時30分ってところだ」

 私は答える。想えば2年間の昏睡状態から今年の5月に目覚めたばかり。その後、元の高校に復学したのだが、ほとんど通学していなかった。

 理由は単純、

 「学校という気分じゃなかった」

 本当にそうだ。

 夏休みが終わり、幹也のヤツがうるさいので多少は学校に顔を出すようになったが、幹也はおろか元同級生もすでに卒業している「学びの場」など「空の場」 にすぎなかったのだ。

 それでも、どういう心境の変化か、11月になってからは真面目に学校に通っている。午前中で早退した日もあったが、マンションの件で入院した期間を除 き、今のところ12月の事件中を含め、サボったのは3〜7日くらいだろう。

 しかし、前半のツケが冬休みを直前に回ってきたらしく、期末の終わった後は通常2時限で帰れるのだが、出席日数を補完するため学校が指定する1日、1時間 から2時間の補修を受ける羽目になっている。


 「それはお疲れ様ですね。けれど、がんばって学校に行かないと進級できなかったら格好悪いですよ。俺は、式さんが出席日数で落第なんて現実、いやです よ」

 「だから、まじめに補修も受けているんだ」

 私は、すこしだけ語気を強めて受け返す。御上はまったく意に介した様子もなく、幹也と同じく穏やかな笑顔で、私のそれ以上の反論を封じ込めてしまう。

 「えーと、それじゃあ、集合時間ですが……」

 13時30分に決まった。学校からトウコの事務所までさしたる時間もかからないので、「もう少し早くてもいいぜ」と言ったら、御上はまず養子先の実家に 車を取りに行くのだという。

 「へえ、おまえ、車の免許持っているんだ」

 「どういう反応ですか! 大の男が車の免許持っているなんて当たり前ですよ。黒桐も10月に合宿で免許取ったでしょう? 俺も同じです。夏ですが、さらっ と取ってやりましたよ、二輪と同じでね。まあ、実家の庭先で密かに練習とかしましたけど。」

 さりげなく自慢がブレンドされていたが、私は無視することにした。聞くところによると、免許を取った後は度々実家の車を借りて実際の道路を運転している との事だった。

 「免許は証明書になるんだよね」

 などと、情けないことを口にしている幹也より、かなりマシなようだ。アイツ、取得後の運転は橙子のスポーツカーを十メートル動かしただけだったはず。最近は親の車に乗っているようだが、いかんせん経験不足で危なかっしい。

◆◆◆

 「じゃあ、時間に遅れるなよ。オレ、うるさいからな」

 「ええっ! 黒桐が言うにはいつも30分か1時間は遅れるか、すっぽかされるとか……」

 「ああ、幹也のヤツが早く来すぎるからそう感じるだけだろう。すっぽかしたんじゃない。急用ができるんだ」

 「あいつの苦労が忍ばれるなぁ……」

 そんなくだらないやり取りを続けていたら、いつの間にか「互いの分かれ道」に差しかかっていた。私は左へ、御上は真っすぐだ。この男が近所だったという事実は事件中に知った。犯人を追っている過程でわたしのアパートに泊めることになり、そのときに世の中の狭さというものに大笑いをした。一人暮らしをするようになった時期もほぼ同じだった。よく交差しなかったものだと今でも不思議に思う。

 わたしたちは分かれ道で立ち止まった。周りは街灯の光のみで人通りもなく、二つの影だけが師走の寒空の下にある。

 「じゃあ式さん、明日はよろしく」

 御上は、右手を挙げて私に告げると、去り際に微笑んで歩き出す。その後姿は幹也とはかけ離れていたと思う。温かいでもなく、力強いでもなく、頼もしいで もなく、堂々とでもなく、例えるなら、

 「いたずらっぽい後ろ姿」

 私は、一ヶ月間だけの同居人がかつていた。華奢な体で髪を赤く染めた少年だった。そいつはいつも私に向かって自分の心中を吐露していた。私もいつの間にか正直な同居人が気にいったのか、毎日の生活が徐々に楽しいものに変わっていった。


 ……なのに、そいつは私を助けようとして永遠に消えてしまった。いや、すでに消えていたのだ。最初から存在しなかった同居人。

 でも、目の前で去り行く男は、あいつが居なくなってから私の前に現れた。もしかしたら、どこかそいつにも似ている「御上真」という目の離せない男を私に 引き合わせたのは、ほんの一ヶ月だけ同居した男なのかもしれない。

 「御上! 明日も美味しい紅茶を淹れてくれるか」

 私は、遠のく後姿に向かって強く望んだ。声は聞こえなかったけれど、後ろを向いたまま右手を大きく振って応えてくれた「あいつ」の姿は確かにあり、その 姿を夜の中に溶け込むまで見送ったのだった。



 御上真の淹れる紅茶は、私のそれまでの認識を変えた。

 私は、少なくとも5月に目覚めて以降、食べ物や飲み物で「感動する」などとは絶対にありえないと確信していた。もう一人の自分を失って以来、私は今の自分の存在自体があいまいになっていたから、生きる目的さえも見出せずにいた。


 ──色も匂いも味も目に映る風景さえもモノクロの世界──


 それが今までよりずっと改善されたと感じたのは、先月の事件後だった。一つの決着が私の心に変化をもたらしたことは確かだった。それとも、黒桐幹也とい うお人よしの同級生が少しずつ少しずつ、私を明るい世界へ導いた成果なのだろうか?

 もっとも、私が「 」を取り戻す日々が終わったわけではないのだけれど……

 そして12月の事件終結後、それはやってきた。

 最初の紅茶、私は首をひねっただけだった。幹也やトウコが見たような幻や感動には縁遠かったのだ。もちろん味に感動などしなかった。

 一昨日の紅茶、「まずくはない」と一気に飛躍したものの、私の感情まで刺激するにはいたらず、もちろん、幻想さえ見ることがなかった。

 悩む御上を見て、「私には所詮、望むべくもないことなのだ」とあきらめていた。荒耶を倒し、その因果を断ち切ったとしても、今だ心の中に隙間を抱え、見 守ってくれる瞳に背を向けつつ、染まりきらない風景の中をさまよっているのだから……

 ──今日の紅茶

 「!!!!」

 信じられないことにほのかな高揚が体に起こり、意識が流れた。

 私にも視えたのだ。それまで度々見ていた深淵に沈んでいく夢とは違い、どこまでも青い空と真っ白な雲海の間をふわふわと浮かぶ幻想を確かに私は見たの だった。鮮やかな色彩と光にあふれたその幻を、暖かな日差しと晴天にそよぐ柔らかな風の唄を、確かにこの目の奥で感じ、聴いたのだった。


 私が目を開けたとき、傍らには御上真がいた。見守るような、心配するような顔で私の答えを聴きたそうにしていた。三度目にしてついに完敗したのだが、素直に認めたくないのから、

 「ああ、これはいい。今までで最高だぜ」

 と控えめに褒めたものの、幹也にも一度しか見せていない「本当の笑顔」を御上に向けていたと思う。


 残された私の周囲はさらに静寂に満ちていた。ふと、帰路に向きかけた足を止め、夜空を見上げる。首筋に冷気が入り込むが、冬の空気は澄んでいる。こんな都会に近い住宅街でも条件さえ合えば、これほどの無数の星々のきらめきを目にすることができる。

挿絵

 「えーと、あの星はなんていったか?」


 吐く息は白く、その先にはひときわ目立って瞬く星がいくつもあった。たしか有名な星座だったと、私の記憶はかすかに告げていたが、凍えそうなくらいその 場で見上げていても、その名をいっこうに思い出せなかった。

 でも気分はわるくない。心も体も寒くない。

 私は、自分の住処にむけて再び歩き出す。ゆっくり、ゆっくりと。明日に訪れるだろう退屈しない時間を想像して楽しみながら……



(後編)終わり

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 あとがき

 これで「変わりゆく日常」はひとまず終わりです。話が「矛盾螺旋」後なので、多少、ネタばれがあります。原作小説を読んで思ったことは、式は荒耶との戦 い以降、かなり感情が豊かになってきているということです。(礼園の制服着たり、礼園の生活もいいかなと、以前では考えもしないことを考えているし)
 
 原作小説を読んだのは第一章公開直前の12月でした。それから映画を観て、映像があまりにも素晴らしく、かつ世界観を短い時間の中で上手くまとめていた ので、SSにしたくなったのです。好き勝手に書かせてもらいました。まだまだ努力を必要とするようです。ある意味、オリキャラがいるので、こいつに関わる ことなら「変わりゆく日常」に分類されるかな?

 一応、新シリーズというか、第三章のメインキャラを押し出した話を書いています。まあ、ひとつ彼女の闇とその後にせまってみようと思うわけです。けっこ う気にしているファンは多いようですからね。一つの見解、解釈として読んでいただければと思うわけです。話に出てきた「クリスマスパーティーネタ」もあり ます。これは、藤乃を書いてからかな?

 別の新作を進めている関係で、ちょいと「空の境界」関係は少しお休みします。(変わりゆく日常)で二作ほどは出来上がっているんですが、あまり長々とい うのも締りが悪いので、気分が向いたら掲載します。

 第四章も公開が始まり、ますます盛り上がってくれれば! と切に願うこの頃です。

 2008年5月31日 ──涼──

 投稿から時間が経過し、誤字および脱字、一部加筆を行いました。

 手抜き挿絵を削除し、挿絵を新たに描きおこしました。

 2010年1月24日 ──涼──


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