空の境界
式が休憩するといってルアーエリアから離れてから10分くらい過ぎただろうか。僕が一人で竿を振っていたら背の高い友人に不意に声をかけられた。
「おい黒桐、そろそろ昼ごはんの準備をするから俺は行くぜ。式さんが戻ってきたら伝えておいてくれないかな?」
「えっ? もうそんな時間なんだ」
なるほど。腕時計を見ると11時半を過ぎていた。僕もけっこうルアーフィッシングに集中していたらしい。時間的にもお昼ごはんにするにはちょうどいい頃合だろう。
式や鮮花たちも朝早くから楽しそうに釣りをしていたから、きっとお腹もすいているに違いない。彼女も浅上さんとも打ち解けてきたみたいだし、昼食の席でさらに親交を深めてもらいたいと僕は強く思う。
「えーと、じゃあどうしようか?」
僕が質問すると、御上真は人懐っこい笑みを浮かべてすっきりとした声で言った。
「俺や鮮花ちゃんたちで一緒に準備するよ。黒桐はまだ釣っててもいいよ」
気を遣ってくれるのはありがたいが、こういうことはみんなで和気あいあいと準備するのが楽しいのだ。にぎやかな中で会話も弾むだろうし、浅上さんや式も周囲に触発されてお互いに声を掛けずにはいられなくなるだろう。
そこから二人の友情物語が進展するかもしれないし……
ああ、考えただけでも嬉しくなってくる!
「いや、僕も手伝うよ。午前中に十分楽しませてもらったしね、皆で準備をしよう」
「そういうことならそうしよう。俺は車に戻って家から持ってきたクーラーとか取りに行って来る。じゃあ」
きびすを返しかけた友人は立ち止まって僕に言った。
「そうそう、ついでだから式さんは俺が声を掛けるよ。たぶん販売機のほうだよな?」
「うん。悪いね」
「いや気にするな、ついでだからね。黒桐は鮮花ちゃんたちと一緒にバーベキューの準備頼む。と言ってもほとんど準備することなんてないと思うけどね」
「そうなの?」
「まあね、行けばわかるさ。バーべキュー棟の12番っていうところが俺たちの場所さ」
「OK。あと橙子さんを呼びに行かないと行けないと思うけど、僕が行って来ようか?」
それに対する友人の返答は「NO」だった。携帯で橙子さんに連絡を入れるとのこと。
「黒桐はたぶん気づいていると思うけど、橙子さんは大物エリアで集中していたいはずだから直接行くと嫌がれると思うんだ。久々に有事に関わらず羽をのばしたいだろうしね」
僕は相槌を打ちつつ、御上真の遠まわしながら橙子さんに対する思いやりに感謝した。たぶんそれは橙子さんがどうして人一倍今日に乗り気だったか、その理由を少し前に知ってしまったからだろう。
橙子さんは節操のない人だし、意外にいい加減だし、給料くれないし、雑なところはあるけど、まあ根はいい人だ。(うん、そう思っておこう)
現実、橙子さんの本当の目的を知っているのは、最初からもちかけた人物以外ではおそらく僕だけだろう。この「真の理由」は絶対に式や鮮花たちに知られてはいけない。なるべく穏便かつ隠密に一日が終わるようにしたい。
ただでさえ、橙子さんは式には微妙に信用されていない気もするしなぁ……
御上真は、それを十分承知した上で橙子さんを仲間に引き入れつつ彼女の威厳を保ち、浅上さんを元気付け、式と仲直りさせようと図っているに違いない。
だから今日一日、みんなの記憶に「楽しい思い出」を残そうと努力してくれる友人に協力を惜しまないつもりだ。
「じゃあ、準備しているよ」
僕が言うと、御上真は笑って手を振りきびすを返したが、何かを思い出したように急に振り返った。
「ああ、黒桐。忘れていたけどさっきキープしていたニジマスをさばいておいてくれないかなぁ」
そういえば食べごろサイズを何匹かキープしてたっけ?
でも僕って包丁とか全然だめなんだよなぁ……
「それは大丈夫だろ。優秀な礼園女学院の才女が二人もいるんだからね」
そうだ、そうだった。僕が二人の美少女を交互に見ると、どちらも同時に軽くガッツポーズしてくれた。
「兄さん、任せてください! Aクラスの礼園生徒として魚くらい軽くさばいてさしあげますわ」
いやはや、麺料理しかできない小生には頼もしいかぎりだ。
鮮花は元気だよなぁ……
今日、妹はとても気分が乗っているように思えるけど、こうしてみんなと外出することなんてなかったし、新しいことにも挑戦してわくわくしているからだろう。こんなに目を輝かせる鮮花は珍しい。
「はい、先輩。お任せください」
もう一人、元気よく応じてくれたのは浅上さんだ。鮮花と同じようににこにこしている表情がじつにいい。
重い過去を抱えてしまった浅上さんだけど、御上真や鮮花の「彼女を元気づけたい」「彼女には生きる希望をもってもらいたい」という想いは確実に届いていると思う。思い切って橙子さんの事務所に浅上さんを招いた友人の決断は功を奏したといえるだろう。
もがきながら自分の居場所を必死に探していた妹の親友は異能者の集う空間できっとほっとしたことだろう。人外の能力を持ったがゆえに身内から忌み嫌われている自分をすんなりと受け入れてくれた人たちと、全てを知った上で手を差し伸べた一人の青年の想いが浅上さんの心を少しづつ癒し、その日常を変えているのだから。
あの雨の日に出会った今にも散ってしまいそうな浅上さんの悲痛な顔より、僕らと一緒に笑顔でいる浅上藤乃のほうがとても素敵だし、とてもホッとする。
それにしても僕は自分が恥ずかしい。いや、友人の想いに嫉妬さえしていないか? 浅上藤乃の苦しみをわかっていながら力に慣れなかった僕……
藤乃ちゃんは「救われた」と言ってくれたけど、僕は結局、彼女とすれ違い、式との衝突も殺人も止められなかった。彼女は深く傷つき、心に浅くないトラウマを抱えたまま日常に戻っていくしかなかった。
僕は「生きてさえいれば」という心境でその事件後は藤乃ちゃんと関わることがなく──実際、男子禁制の管理も厳しい礼園にそう簡単に連絡が取れるはずもなく、心配は募っても「行動」を起こすことはなかった。
だから、12月の始め頃に「アーネンエルベ」で偶然にも浅上さんと再会したとき、彼女は自分の犯した罪におびえていたし、僕はただその罪に対してフォローするくらいしかできなかった。
「こうしてまた先輩と話せてとても嬉しかったです」
はかない笑顔でそう言ってくれた浅上さんは何かを我慢するように緊張していた。自分の罪が清算されないまま僕と再び会ったことを彼女は後悔していたのだ。
でも僕ははっきりと言った。
「藤乃ちゃんだけが悪いわけじゃないよ。君は自分を守っただけなんだから……」
精一杯励ましたつもりだ。でも浅上さんは頷くことこそすれ、その表情は暗く落ち込んだままだった。膝においた手がぎゅっと握りしめられていたことを僕は知っていた。
僕は、鮮花から浅上さんの様子を聞く都度に何度彼女に連絡を取ろうと考えたことだろうか。そのたびに橙子さんや式に止められて思いとどまってしまったし……
そして、ついに直接出会う機会が巡ってきたにも関わらず、僕は浅上さんを慰める以外の言葉が見つからないでいた。
そんな微妙な状況を一変させたのが他ならぬ「御上真」だった。浅上さんと再会したその日、橙子さんの事務所でバイトすることになった彼とアーネンエルベでお茶をする約束をしていたのだ。
ちょっとだけ所用で遅れてきた彼は、浅上さんを見るや信じられない行動に出た。
「俺を許してくれ……」
そう、彼は土下座をしたのだ。僕らはとても驚いたけど、その理由はすぐに判明した。
友人は式と浅上さんの「対決」をある程度「予知」していたのだ。
しかし、彼は二人の戦いに「介入」しなかった。荒耶宗蓮の思惑に乗りたくなかったこと、逆に式たちを傷つけてしまうのではないかという不安要素を払拭できなかったからだという。
「まったく、俺の能力が安定しない理由を荒耶宗蓮に見透かされるなんて、心の弱い男だったよ」
僕らに当時の心境を打ち明けてくれた友人は、橙子さんや式から浅上さんがどんな目に遭わされて「殺人」に及んだか知ることになった。彼女の尊厳が不良グループに傷つけられた事実まで彼は未来視できていなかったのだ。
「俺が荒耶の脅迫に屈しなければ……」
そうすれば浅上さんを早い段階で止めることができていたかもしれないと、それはそれはとても悔やんでいた。
けれど、式はそっけなく否定した。
「残念だが、もしお前が介入してきたとしたら浅上藤乃の病気を殺せなかったぶん、殺人嗜好に陥ったあの女を殺すことになっただろうさ」
だから大人しくしていたのは正解だった、と式の意見は厳しい。それでも友人は浅上さんのことをずっと心配していたらしい。僕と同じように自分の不甲斐なさに怒りすら覚えていたのだ。
アーネンエルベで浅上さんに土下座したのは御上真という青年のせめてもの一つのけじめだったのだと思う。
そして、そこから僕とはちがう行動を御上真はとる。僕が言うべき言葉に詰まって浅上さんを励ますだけだったとしたら、彼は彼女に自分の困難に満ちた生い立ちを話し、前向きに生きてもらいたいと積極的に浅上さんを世間に関わらせようとした。
「過去の出来事をなかったことにはできない。でも明日はまだずっと続くんだ。藤乃ちゃんの本当の心情を簡単には理解できないかもしれないけど、ここに君の事を心から心配している人間が存在するということを覚えていてほしんだ」
浅上さんとの別れ際、彼が口にした真摯な想いだ。それは彼女の心にたしかに響いたと思う。
なぜなら、浅上さんは前向きな元気をもらったように晴れ晴れとした笑顔を僕らに残して帰っていったからだ。
そしてそれで終わりではなかった。御上真は鮮花と協力して浅上さんを橙子さんの事務所に招くという思い切ったことを実行したのだ。初めは不安と戸惑いを感じていた彼女も式やみんなと何気ない会話を交わすことによって次第に打ち解けていった。
今ではもう、三回くらい事務所を鮮花と一緒に訪れているだろうか。自分の居場所が隔離された礼園の中しかないと思いつめていた浅上さんはたった一人の導きによって新たな居場所を見つけたのだ。
◆◆◆
「兄さん?」
「先輩?」
「黒桐?」
みんなに呼ばれて僕は我に返った。自分で考えているよりも長い時間、物思いにふけっていたようだ。
「いや、なんでもないんだ。さあ、行こうか」
僕は、三人の怪訝そうな顔を一瞥し、内心で愉快そうに笑った。だって少し前にはとても想像できなかった光景だから。奇妙な縁のあったもの同士がこうして揃って一つのことに笑ったり、疑問に思ったりするなんて思いもよらなかったんだ。
本当に未来派は予測がつかない。ちょっとした縁ときっかけで良くも悪くもなる。式も橙子さんも鮮花も浅上さんも僕も、そして御上真さえも一つのきっかけから新しい日常を生きようとしているのだ。
「そうそう黒桐、藤乃ちゃんを連れて行ってもいいかな? 実は他に荷物があるかもしれないんだ」
そう言われて僕は快く承諾した。今の浅上さんに誰が必要か理解しているつもりだからだ。彼女の「生きる自信」と「前向きな心」を呼び起こすことができるのは彼しか居ないだろう。
「はっ、そうか!」
これは御上真の考えによるものだろう。彼にはもう一つ策があるのだ。
きっと式と藤乃ちゃんを彼に手伝わせることによって2人の敵対心というか、お互いが抱くマイナス意識を何気なく協力関係へと繋げていこうとしているのではないだろうか?
車には大きなクーラーBOXがあったし、その他にも「あれ?」というようなものがいくつか積み込まれていた。
「黒桐、これ全部役に立つぜ」
彼が朝言っていた事を僕は思い出した。式と浅上さんの組み合わせといい、今までは全てここに繋がる布石だったんだ。それもまだ第一段階の布石だ。
通常の状況では決してわかり合えない2人をまず解放的な空間の中に一緒に放り込むことによって「存在」を「認知」させ、2人を「協力へと誘導」させることによって「意識」を呼び覚まし、双方の理解と友情を芽生えさせようとしているにちがいないのだ。
僕が思うに、「荷物」とやらはたぶん2人の協力なしでは運べないものだろう。まさか争うはずはないから、この作戦は大いに意味のあるものとなるだろう。
そう、成功しなくてもいいのだ。二人の間にお互いを認めるきっかけが作れればよいのだから……
「さすがだ」
いけない。また深く考え込んでしまうところだった。
僕と鮮花は御上真と浅上さんと別れ、魚をさばいてからバーべキュー棟に向った。そこは三角形の屋根がついたちょっと山小屋風の建物だった。すでに何組かが銀板の上で美味しそうな匂いをあたりに漂わせ、僕らの食欲を軽く煽ってくれる。
「へぇー、これがバーベキューをする場所ですかぁ……ちょっと想像と違いましたね」
鮮花に僕も同意見だ。立派な屋根がついているのもそうだが、バーベキューをする場所が左右合計30席はある。大きめのテーブルとその中央に鉄板がはめ込まれている。さらに木を真っ二つにしたような長いすが二つも設けられていた。そして驚いたことにここでは薪や炭を使うのではなく「ガス」を用いるということだった。
「けっこう意表を突かれたなぁ……」
だからこそ気楽に楽しめるのだろう。12月の寒い時期にも関わらず大勢の釣り人が来ているのも、その気軽さゆえだろう。薪や炭だと火を起こすのも大変だし、煙も大量に出る。安定した火力を得られずに薪を足しすぎて「大火」なんてこともある。小さい子供のいる家族連れはきっと安心していられないだろう。
でも「ガス」だと薪や炭はいらず、火を熾すのも比較的簡単だし、火力の調整も難しくない。
もちろん、隣の棟にはバーべキューらしく火を熾して楽しむ場所も設けられている。
僕らの使用するテーブルは12番だ。その場所に行くと、なんと食材とか箸とかソースとか鉄板返しとか──とにかく必要なものが全部発泡スチロールの箱に中に揃っていた。
「うわあ、本当に手ぶらで来られるんですね」
「これは手軽で嬉しいサービスだね」
「いい施設ですね、兄さん」
「そうだね」
ここの常連だという友人の選択は間違っていなかったわけだ。
とすると、彼は一体何を取りに戻ったんだろうか? ここまで揃っていると特に何も必要がない気がする。たしか大きなクーラーが積まれていたっけ? 飲み物かな? それにしては大きすぎだった。
または浅上さんと式に運ばせるためのアイテムなのかもしれない。
◆◆◆
僕は、鮮花とさばいたニジマスを袋ごと発泡クーラーの上に置いた。人数分の6匹だけど、僕がさばいた魚は少し身くずれしている。包丁なんて滅多に使わないし、残りを鮮花に任せて正解だった。
鮮花は「礼園女学院」なんていうお嬢様学校に通っているけど料理が上手い。浅上さんもけっこう上手いらしいから、お嬢学校とはいえ礼園は家庭科にも厳しいようだ。
「そういえば兄さん、さばいたニジマスをどうお料理するか聞いてます?」
「うーん、聞いてないなぁ……」
これは迂闊としか言いようがないかも。
「そうですか。お塩をまぶしておこうと思ったんですけど、余計な事はしないほうがいいですよね?」
「そうだね。彼のことだからきっと美味しい料理方法があると思う。ここはアウトドアの達人に任せよう」
「ええ、そうですね」
鮮花は答えると、軽く伸びをして僕の隣にすとんと座った。
「なんか冬なんですけど穏かですよねぇ……こうしてみんなと揃って外出するなんて初めてですし」
やっぱり妹も同じように感じていたんだなぁ……
「僕はけっこう楽しんでいるよ。鮮花は?」
「もちろん楽しいです。こうして兄さんと2人でゆっくり話すのも久しぶりだし」
「そうだっけ?」
妹は答えず、小さなあくびをして僕の肩に寄りかかった。
「どうしたの鮮花、気分でも悪いのかい?」
「いえ、なんか暖かさが心地よくて眠くなっちゃいました」
「そう……」
12月の午後。街角の日常ならこの冬の日差しの下であっても身を震わせていたにちがいない。だけど身が縮むような寒さの朝から自然の中に身を委ねていたからか、それとも釣りというスポーツにはしゃぎすぎたのか、身体の火照りとともに空の天頂に達した陽の光を浴びると、とても温かくて心地よくてありがたくて、ついうたた寝をしてしまいそうになる。
「兄さん、みんなが来るまでちょっとだけ寝ていてもいいですか?」
「ん? いいよ」
「よかったぁ……」
それからほんの五分くらい、僕は妹孝行ができたと思う。
「五分間だけ」というのは、その直後に名前を呼ばれたからだ。
「おーい、黒桐!」
御上真だった。僕は鮮花をそっと起こして振り向くと、大きなクーラーを持った彼が建物の入り口にいて、案の定、式と浅上さんがもう一つ大きめのクーラーを2人で持っていた。
「やっぱりそういうことだったか……」
「えっ?」
なんでもないよ、と僕は鮮花に答え、笑顔で三人に手を振った。御上真と浅上さんは僕に手を振り返してくれたけど、なぜ式は機嫌が悪そうなんだ?
その理由はすぐにわかった。式と藤乃ちゃんが持っていたクーラーはそれなりに重かったのだ。中身は飲み物だった。式のことだから「こんなだるいことさせやがって」と不満そうにしていたに違いない。
でも「役割」を放棄しなかっただけ成長しているw
「式、お疲れさま」
僕は彼女の機嫌を良くしようといたわるように言ったんだけど……
「ふう……幹也、お前はあれだな、あれ」
「えっ?」
「いや、いいんだ。お前が鈍いことは承知している……」
「えっ? えっ?」
何のことだろう? 本当に何のことかわからなかった。式は答えてくれず、ややそっぽを向くように向かいの席に座ってしまう。浅上さんは鮮花の隣。友人は大きいクーラーを広い通路側に置いて長身をしずめる。
「あれ? 何でそっちに座るの?」
僕の疑問に御上真ははにかんで答えてくれた。
「俺は幹事だからね。こっちに必要なものがあるからサポートに徹するためだよ。このでかい横長のクーラーもそのためさ」
なるほど。彼のサービス精神は本当に頭が下がる。僕があれこれ手をだす必要もない。
「おーい、お前たち、どうやらタイミングは良かったようだな」
声の主は橙子さんだった。なんだかやたらと機嫌がいい。軽快に歩み寄って御上真にロッドを渡し、式のとなりにすとんと座る。おもむろにジャケットのポケットからタバコを取り出したけどさすがに非難されて仕舞い、ちょっと不満を漏らしただけで機嫌はそのまま。この様子だと「かなり収獲」はあったとみるべきだろう。
──みるべきだろう、と言うのは、まさか大物エリアに懸賞金の掛けられた魚が放流されているとはねぇ……
どうりで橙子さんが一番張り切って行く気満々だったわけだ。
けれど、ばれたら少なくとも式や鮮花はあきれ返るだろうし、人形師の威厳が丸つぶれだと思う。
まあ、今更という気もなくはない。
そんな橙子さんも来たので場は騒がしくなる。
「橙子さん、遅いですよぉー、お腹ぺこぺこなんですからねっ!」
「トウコ、なんか楽しそうだなぁ……」
「蒼崎さん、大きいお魚釣れました?」
「はは、それなりに稼がせてもらったよ」
ちょっとぉぉぉぉ!! 言っちゃったよ! 絶対気分が良すぎてつい口が滑ったにちがいないよ!!
絶対そうだ。
当然ながら式たちは不審そうな顔をした。僕はなんてフォローしたらいいのかわからない。ほぼ固まっていたと思う。
僕が冷や汗をかいていると、橙子さんも失言だと気づいたのか、
「ああ、稼ぐって言うのは釣りの専門用語で“バンバン釣った”という意味なんだよ」
うん、デタラメです。式や鮮花が初心者でよかったと思う。鮮花が読んでいた入門書にもさすがに詳細な専門用語は書いていなかったようだ。御上真が橙子さんのアイコンタクトで(強制的に)頷いていなかったらどうなったか怪しい……
◆◆◆
「じゃあ、橙子さんも来た事だし、バーべキューを始めよう」
不審が増大する前に友人が声高く宣言した。
さすがだ。みんなの関心が一気に切り替わった。あぶない、あぶない……
「よし、では諸君、まずは乾杯といこう」
橙子さんの音頭でバーベキューはスタート。ビールとジュースが豪快に弾け飛ぶ!
紙皿と割り箸がそれぞれ行き渡り、鉄板に油が敷かれ、ガスが点火されて熱が上がってきたところで野菜が投入された。キャベツやタマネギ、モヤシ、しいたけが程よく切られている。僕らが全く手を加える必要はない。実に便利なサービスだ。
浅上さんと鮮花が積極的に御上真をお手伝い。鉄板返しで野菜をぎこちないながらもひっくり返したり混ぜたり、釣り以上に楽しそうだ。どっさり盛った野菜がみるみるうちに意外に小さくなっていく。
ある程度野菜が焼けてきたらメインデッシュだ。
「じゃあ、お肉を焼きますね」
「鮮花、こっちに多く頼むぞ」
「ボソ…欲深い女だなぁ……」
「何か言ったか? 式」
「ふふん」
「藤乃ちゃん、鮮花ちゃん、俺がやるからどんどん食べて」
「ええ、でも……」
「いいからいいから、遠慮しないで」
「でも楽しいんですよぉー」
いい具合に会話が弾んでいる。友人は鮮花たちの意表を突かれた返答に戸惑ったようだけど、はしゃぐ2人を見てやりたいようにやらせるのがいいと判断したようだ。
「じゃあ、任せるよ」
と一言。僕の出番もないだろう。
なんか場のテンションが上がってきた。橙子さんはビール片手に食べまくり。式は──マイペースだけど意外に箸の運びは速い。まだ不機嫌そうなのが気になるけど、どんどん食材は減っていく。
「なあ御上、やっぱり四人分じゃ足りなかったんじゃないの?」
橙子さんが尋ねると、彼は人差し指を立てて左右に振り、クーラーBOXの中から何かをさっと取り出した。
「あらびきそーせーじぃ!!」
ド〇えもん風に言われてもなぁ……藤乃ちゃん以外みんなちょっと引いていた。彼自身も「外した」と思ったらしい。わざとらしく咳き込んで僕にSOSサインを送ってきたよ。
「それって?」
フォローした。彼は一瞬だけほっとした表情をした。「外す」なんてことは彼にしては珍しいことだが、本当はわざとではないかと僕は思う。
「……みたまんま食材だよ。けっこういろいろ持って来たんだぜ。まずはこれだな」
と言って友人は真空パックされた三袋のソーセージを豪快に鉄板に放り込んだ。
「ジュッ」という音とともに鉄板上を飛び跳ねた大量のソーセージはすぐに美味しそうに焼けてくる。
育ち盛りの鮮花や藤乃ちゃんはこの誘惑に勝てなかったのか早々に箸が伸びた。
「うーん、このパリッっとした食感がたまりませんねぇ」
「野菜と一緒にいただくとさらに美味しいですね。サバイバル料理なんて食べたことがなかったのでとても新鮮ですね」
浅上さん、それちょっと間違った認識です。まあ、とても楽しそうで何よりではある。
あっというまに鉄板の上は空になってしまった。その状態とみんなの食欲を確認して友人は鉄板にこびりついたかすをきれいに取り除き、再び油を敷くと鮮花に残りの野菜を投入するように依頼した。
まだ食べたりなそうな橙子さんが言った。
「ほほう、この様子だと次はヤキソバをするつもりだな?」
その推理はズバリ当たっていた。
「正解です。野菜とソーセージを少し残しておいたのはそのためです」
ニンマリと笑った友人はクーラーからヤキソバの入った袋を五つ分開いて鉄板に放り、鉄板返しを巧に操って「ヤキソバ」を手馴れた感じで作っていく。
鮮花も浅上さんも妙に感心したようにその手さばきをじっと見つめている。向かいの席に座る式は無表情だけれど華麗に調理されるヤキソバをガン見しているのはちょっと笑ってしまった。
「式さん、よだれ垂れてますよ」
突然の突っ込みだった。誰が言ったかあえて指摘する必要もないと思う。
式は我に帰って慌てて口を拭ったけど、もちろん「よだれ」は嘘だ。式はだまされた相手に顔を真っ赤にして食ってかかっていたけど、僕にはその怒りすら楽しそうに見えていた。
式が誰かに感情をぶつけるって滅多にないことだと思う。それが負の感情であったとしても「彼女」が一人の人間なんだと認識させてくれる。そういうささやかな「感覚」こそが彼女には大切なんだと思う。
式が意外に長く絡むので御上真もすこし苦戦した。僕と浅上さんがさりげなく止めたから彼女も不満たらたらだったけど矛を収めてくれた。
危うく忘れられそうになったマスとともに電光石火のごとくヤキソバはなくなってしまった。僕もみんなの食欲には驚いたけど、式がまさか御代わりするとは予想外だった。彼女の舌をそれだけ唸らせたのだろう。彼が知り合いのお店から分けてもらったというソースが効いたのかもしれない。
みんな満足したように一息ついたけど、友人はまだとんでもない食材を隠し持っていた。
「じゃあ、スペシャルメニューといきましょう」
「「「「「えっ?」」」」」
僕らが首を傾ける中、御上真がクーラーから取り出したのは、
「松坂牛です」
と控えめに分厚い肉を披露した。さすがの橙子さんの目も点だ。
「松坂……牛だと?」
「ええ、なんか実家の冷凍庫に大量にあったんで持ってきました」
さらっと言い切るところが彼らしい。嫌味に聞こえないのも「御上真」という人間の持ち味だろう。
「で、そんなものがなんで大量にあるんだ?」
冷静すぎる口調で訊いたのは式だった。彼女も「両儀家」という旧家のお嬢様だ。一般の人とは違う感覚がある。そのせいか僕のような一般庶民のように驚いた様子はない。
肝心の高級和牛だけど、彼の実家──本家である千里家が筆頭株主になっているブランド農場からの「お歳暮」とのこと。
そうそう、御上真も名家の出だってことをすっかり忘れていた。その歴史は両儀家よりも500年も古い陰陽師の血筋なのだ。その「実力」には橙子さんはおろか式さえも戦慄したというから相当な力なのだろう。式は「殺したい相手」とか物騒な事言うし……
松坂牛は信じられない食感と味覚を僕の全身に残して完食された。ほんとうに僕のような貧乏社会人には滅多に食べられない高級食材だった。友人の焼き加減と味付けも絶妙だった。式が思わず目を丸く丸くして「降参」したくらいだ。
恥ずかしながら僕と橙子さんが一番至福の時だった。もう死んでもいいと感じてしまうほどに──だってねぇ……
お腹が満腹になったところでしば休憩。しばらく動けそうにない。橙子さんはビール飲んでるし──どうやら別腹らしい。
しかし、本当に僕に愛車のアストン・マーティンを運転させる気なんだろうか? それはちょっと勘弁してほしいと言うのが本音だ。普通免許はたしかに取ったけど、マニュアル車を運転しているわけじゃない。
無駄だよね、橙子さんに言い訳しても無駄だよね? ま、僕が友人の車を運転すればいいだけかもしれないけど、それを彼に相談していないのが玉にキズだ。
僕が食べ過ぎて唸っている傍らで御上真と鮮花たちはてきぱきと後片付けを始める。
「ええっ!?」
僕は小さく驚きの声を上げた。式がみんなと一緒に後片付けを手伝っているのだ。わりとゴミとか洗濯物とか溜めて「秋隆さん」に掃除してもらっているに違いない──はずの式が無言のまま手際よくゴミをそれぞれの専用の袋にまとめていく。
「うーん」
今日は、本当に式の鮮烈な姿を多く目撃する。普段は殺人衝動以外に興味がなさそうな彼女が「釣り」や「人との交流」に取り組んでいるのだ。人との関わりを静かに拒絶している彼女がだ。
嫌々ながら?
僕はそうは思わない。確かに式はちょっと物事に無関心なところはあるけど、決して興味がないわけじゃない。ただ彼女は素直になれない一面があって、それを上手く感情や言葉にできないだけなんだ。
それが今日は逆に積極的ですらある。「不思議だ」と言うよりも、この「両儀式」の姿こそ彼女が欲している本当の欲求の一つなんじゃないかと僕は思うのだ。
「なあ、黒桐、式さんを説得するのは無理だ。そうじゃなくて何かを感じずにはいられない環境に放り込むんだよ」
友人の言ったとおりになった。何もかも計算ずくで今日を演出したのだとしたら、僕はその「深い心遣い」に惜しみない感謝の拍手を送りたい。彼の目指す心理カウンセラーとしての能力が今日の出来事の全てを物語っている。
「おい幹也、なにニヤニヤしてんだ?」
式の不審そうな顔も、今日の僕には「笑顔」に見えていた。
時間は13時40分。冬の太陽は空の頂にあり、なお青い空の下で貴重な時間を楽しませてくれそうだった。
……TO BE CONTINUED
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
あとがき
空乃涼です。久しぶりの「らっきょSS」です。このシリーズも一応、次回で最終の予定。間に「橙子編其の二」を書こうと想ったけど内容がマニアックすぎるので省きます(オイ
今回は黒桐幹也視点です。彼のお気楽な一面を書いたつもり。
らっきょSSの間隔をみると三ヶ月くらいかな? クロスの方が主流になってます(汗
今回初めて読んだ方、「なにこれ?」と思ったら最初から読むか、空の境界劇場版をご鑑賞ください。
駄作に感想や要望いただけると作者も妄想が広がります。
2010年10月7日 ──涼──
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メッセージ返信コーナー
めちゃくちゃ遅くなってすみません!!
2010年06月13日22:33:28
楽しい時間をありがとうございました!
>>>そう言っていただけるとは嬉しい限りです。今回もようやっと投入したので読んで楽しんでいただければ幸いです。
以上です。今話にもメッセージがあればぜひお願いします。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
押して頂けると作者の励みになりますm(__)m
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