『みんなとフィッシング』
(総合パート/前編)
◆◆
楽しい昼食が終わり、後片付けもみんなで協力したのでとてもスムーズに運ぶことができた。最も印象的だったといえば、めんどくさがり屋の式もしっかりと手伝いをしたことだと思う。単純にゴミを集めただけだけど、彼女の普段の行動から考えれば極めて自主的で稀なことかもしれない。
式は、相変わらず不機嫌そうな顔をしていたけど、気持ちは違ったようだ。無言でゴミを片付けているときは、その……なんというかとても行動に無駄がなかったと思う。
彼女は、ちょっとめんどくさがりで恥ずかしがりな一面もあるけど、やればできる女の子だ。
「なんだ? 幹也、お前なにをニヤニヤしているんだ?」
「いや、なんでもないんだ。式、後かた付けお疲れ様」
「お前、たまに頭悪そうに見えるから気をつけろよ」
「…………」
たしかに、今日の僕はちょっとほほが緩みっぱなしだ。みんなとこうして揃って出かけているということもあるけど、普段とは違う式の反応が僕にはとても微笑ましいく映っていることも理由だと思う。
「では若人諸君、私はお先に釣り場に戻らせてもらうよ」
あとかた付けが終盤に差し掛かった頃、監督だけしていた橙子さんが準備万端で宣言する。
若干、ほろ酔い気分なのが気にかかるところだけど、このあまりにも颯爽とした(欲深い)雇い主にとってはたぶん小さすぎる問題だろう。
橙子さんがルアーを詰め込んだバックを肩に掛けて、三本のタックルを持って立ち去ろうとしたとき、式がとんでもないことを言った。
「なあトウコ、オレも一緒に行っていいか?」
これを耳にした背の高い親友が青ざめた。僕の顔を見て「ヤバイ、阻止しなければ!」と必死系の目で訴えてくる。
「そうだよね……」
何事もなければ特に止めなかっただろうけど、何事かありすぎる橙子さんの目的があるわけで、なんとか式や鮮花に知られることなく無難に一日を終わらせたい。
また親友から「橙子さんは午後も独占状態で釣りをしたいそうだから邪魔者は排除してくれってさ」と協力を要請されていたし……
獲得した懸賞金の額によっては臨時ボーナスくれるみたいだし、以前のように学人からカンパを募ることは避けたいものだ。
とにかく、あとで橙子さんにどやされるのも嫌なので、僕と親友は全力で式を止めなければならないのだ。
「式、その装備じゃ無理だよ」
「式さん、むこうはそのタックルじゃ無理ですよ」
僕らは同時に諭したけど、効果はあまりなかった。
「これでだめならトウコに借りるさ」
「いや……」
僕がもう一段、突っ込んだ説得を試みようとしたとき、足止めされていることにイラついている──だろう橙子さんが式を一喝した。
「はっきり言って、お前のその未熟すぎる腕で大物エリアに来られても邪魔でしかない。たかだか一匹しか釣っていない殻のついたひよこに大物エリアなんぞ最低でも五年は早い!」
意味もなく前髪を払うしぐさは、なんの効果を狙ったんだろうか?
眼鏡の向こうの橙子さんの瞳が鋭さを増して式に向けられた。
「大物エリアは初心のエリアより2倍以上も広く、地形も自然の湖のように形成されている。そこには練磨の大物たちが放流されているのはもちろん、その大物を狙う熟練たちもわんさかいる。お前のようなにわかフィッシャーマンが竿を振りでもしたら真剣に大物と闘い続ける他の方々の気を散らせて迷惑になるだけだ」
それに竿は貸せないと橙子さんはそっけなく言った。式の眉間が歪む。
と言うのも、特にルアーフィッシングではその釣り方からよくあることだが、熟練した釣り人は複数のタックルを状況とルアーの特性に応じて使い分けるからだ。橙子さんは大物エリア攻略のために3本持っている。湖で使うような2.4メートルのタックルが一本と1.8メートルのタックルが二本だ。普通、管理釣り場で使用する竿の長さは1.5メートルくらいだから、通常より長いということがわかるだろう。それにラインやリールも通常よりひとまわりからふたまわりほど強力だ。
式は「なぜそんなに拒否されるんだ」みたいに不服そうにしていたけど、親友も苦戦するエリアだと聞かされると怯んだのか、それとも、それ以上とやかく言われるのが嫌になったのか不本意そうにではあるが、あきらめてくれた。
なんとか危機を脱したかな……
「じゃあ、16時ごろ駐車場で会おう!」
橙子さんは、そう言い残し、軽快すぎる足取りで大物エリアのほうに消えていった。それを見送る式の複雑な雰囲気がちょっと痛ましかったけど……
「あぶなかったな、黒桐」
「うん、そうだね」
僕と親友はお互いに顔を見合わせ、そしてかすかに笑った。
なんというのか、今日を乗り切るための一番の難関だったと思う。橙子さんの目的のための今日というわけではないが、橙子さんが食いついたからこその今日でもある。橙子さんの協力を得られなければ、式をここに連れて来ることはできなかったかもしれない。
橙子さんの目的が達成できるかどうか、そこまでは責任がもてないけど、僕らは主の威厳を守ると同時に、主の要望に沿えるよう最低限の環境作りはするつもりだ。
でも、本当のことを言っても式や鮮花は納得するだけで済むんじゃないかと思う。でも、それはそれで新たな騒動を生むきっかけにもなりうるのだけど……
「いずれにせよ、またこんな場面あるかな?」
「ないことを願いたいな」
「そうだね」
「そうだろう」
僕らは一斉に背筋を正した。式がこちらをじっと見ていたのだ。
「じゃあ、午後の釣り場にレッツゴー!!」
親友がごまかすように音頭をとると、僕も後に続いて復唱したのだった。
「──たかだか一匹しか釣っていない殻のついたひよこに大物エリアなんぞ最低でも5年は早い!」
トウコにそう拒否されたとき、私は心底カチンときたものだった。別にそこで釣りをするのが目的ではなく、その大物エリアとやらを見学してみたかっただけなのだが、思わず竿を貸してくれ、などと口走ってしまったことが状況を悪化させたのか?
結局、私はついていくことをとりやめた。橙子の剣幕がうざかったというのもあるが、大物エリアの空気が私に合いそうにないと感じたからだ。
まあ、51歩譲って御上のヤツでも苦戦すると聞いて意思が弱まった事実はあると思う。
私はキッパリあきらめて、せいぜい腕を上げるつもりで午後の釣り場で時間を潰そう、と考えていた。
「いずれにせよ、またこんな場面あるかな?」
「ないことを願いたいな」
「そうだね」
「そうだろう」
小声で言ったつもりだろうが、男2人の声は私の耳に届いていた。いったいどういうやり取りだ? その前は「あぶなかった」とかなんとか聞こえたが、そっちははっきりしていない。
いずれにせよ、朝から今日の目的が引っかかっていた。私は自分の失態に自己嫌悪したり、釣りをなめていたので途中から反省の意味を込めて、とやかく考えることは自重したが、交流を深めるなどという面倒ごと以外に別の目的が見え隠れしている気がしてならない。
それが何なのか、目下のところ曖昧だ。曖昧になっているのは感じている疑惑が複数あるからだろう。御上の行動、幹也の天然、橙子の強硬……
各それぞれの思惑が絡みつき、私の想像と推理の焦点が定まらないでいる。ちょっと前まで釣りに集中していて何もかも忘れていたのに、幹也と御上の密談を聞いてなんだかイラッときてしまった。
だから、私が不機嫌そうに睨んだら二人とも視線を逸らし、わざとらしく「行くぞ!」と声を上げやかがった。
「何かある」
と勘ぐらずにはいられないが、よくよく考えれば私は気にしすぎだ。無駄な悩みほど疲れることはない。
私は思考を切り替えるべきだと判断した。
「で、次はどこで釣るんだ?」
幹也も御上も実にホッとしたような顔をしやがった。やはり追及してやろうかと一言発しようかと思ったが、後方から痛い視線が突き刺さるのでやっぱりやめた。
「そうだね、式も鮮花も藤乃ちゃんも一通り慣れたことだし、午後からは渓流エリアに行こうと思うよ」
幹也は、つい数秒前の不審な表情を穏かな笑いに変換して説明した。私は素っ気なく応じたのみで、後方からは2人の少女のややはしゃぐような声が上がっていた。
「渓流釣り場というのは、たしかここから5〜6分歩いた場所にある川のことですか?」
凛とした表情の少女がどこか踊りださんばかりに幹也に訊いた。
黒桐鮮花という少女は私と違って何にでも積極的に首を突っ込もうとする類の人間だ。いや、積極的に挑戦する意思をもち、ほとんどのことは器用にこなしてしまう。
私は、時折、この凛とした美少女のことを羨ましく思っている。単純に私より器用という理由だけでなく、素直なところだ。
そんな私は少女のことを嫌ったことはない。むしろ好ましいと思う。
しかし、鮮花の方は私を目の仇にしている節がある。
なぜなら、黒桐鮮花は「ブラコン」だからだ。
「鮮花、よく見ていたね」
「ええ、兄さん。ここに来る途中に案内板を見ていましたから」
実の兄貴に褒められて満面の笑みを浮かべる妹。成績優秀、容姿端麗、運動神経抜群という非の打ちどころがない。妹は兄にアピールしているみたいだが、肝心の兄貴はまったく気が付いていない。
不幸中の幸いというべきなのか?
「さっすが鮮花ちゃん、入門書といい、なかなか抜かりがないね」
兄と同じように鮮花を褒めたのは御上真という青年だ。190を越える長身に赤みのかかるややクセのある頭髪と、左耳を飾る碧玉のイヤリングがなぜか違和感がないという男だ。つい一ヶ月前に発生した「連続猟奇切り裂き魔事件」において私と一緒に犯人を追った魔眼を持つ元同級生だ。
なんとなくシリアスな部分とそうでない部分が混同したとりとめのない性格をしている。
だから私は、この男に調子を狂わされることが多くなっている。ただでさえ「黒桐幹也」という「天然のお調子者」が存在して私の身辺をかき回すのに、「お調子者で油断のならない狐」が加わったものだから日々の日常が極めて騒がしくなっている。
まあ、おかげで退屈はしていない。騒がしいのはいただけないが、私も引っ張りまわしているからおあいこか?
「では行きましょう。楽しみですね」
鮮花とお互いに微笑んだ少女は浅上藤乃という。切りそろえられた前髪と背中まで伸ばした漆黒の黒髪が印象的な儚げな美の少女だ。
この女は、つい数ヶ月前に私と文字通り「死闘」を演じた因縁を持つ。浅上藤乃を暴走させた原因の一つである消えない痛みを殺し、その後、彼女は病院に運ばれて一命を取り留めた。私は、力を消した浅上藤乃にトドメはささなかった。
余興が削がれたからではあるが、「生きていたい」という浅上の願いを信じる気になったからだろう。私も、その日を境に二度と少女と会うこともないだろうと思っていた。
思っていたが、それは黒桐幹也と御上真という二大お調子者どものおせっかいであっさりと崩壊した。
2人は、切り裂き魔事件終息直後に浅上藤乃をトウコの事務所に呼びよせたのだ。その時の衝撃は余りあるが、以後、幾度も顔をあわせることになってしまった。25日のクリマスパーティー然り、今日の釣り然りだ。
まあ、別にいい。私はもう浅上藤乃に興味はない。あいつがどこにいようと此処にいようと私はまともに相手にする気はない。
──はずだが、現実はそうはいかず、そこに在るから会話を交わす羽目になっている。人間の排除できない意識とやらは厄介だと思った。
ただ、浅上に残る「狂気」はしっかりとお調子者どもに責任をとってもらおう。特に浅上を「守る」と宣言した御上真とやらには。
私は、一番後尾を歩きながら、浅上の様子を窺った。道が狭いために縦列になるが、鮮花のやや後方にいて、御上と会話を交わすことの方が多い。その会話を交わす表情は年相応に無邪気であり、心から楽しそうだった。
浅上藤乃は変わってきていると思う。自分の異常を隠すために普通を装い、そのタガが外れたときに殺人鬼と化した見ため弱々しい深窓の美少女。
少女はその異能ゆえに義理の父親から忌み嫌われ、全寮制の礼園学園に隔離されたようなものだった。
「救われないな」
トウコはそういった。父親から依頼を受けたとき、浅上藤乃を殺すこともいとわない内容だったからだ。理由があるとはいえ、関係のない人物を含めて7人を惨殺し、親にも見捨てられ、病に蝕まれていた少女は孤立し、あとは命を絶つことしか残されていないとトウコは断言したのだ。
だが、少女は私との闘いでボロボロになりながらも「生きる」ことを選択した。
「死んだほうがマシだったかもな……」
トウコは素っ気なかった。浅上を助けることにこだわった幹也のお人好しを皮肉ったりもした。嵐が過ぎ去ろうという激闘のあと、私は救急車で搬送されていく浅上を見送った。
浅上藤乃は生き残った。ただ、限界を超えた力の行使がたたってほとんど視力を失った。生きていることの代償だとトウコは説明したという。脳を酷使した状態でそれだけで済んだのが幸いらしい。
また一つ、生きていることの代償として重い罪が課せられたのだろう。命は拾ったが実家には帰れず、心に大きな傷を残し、視力が回復しない状態で礼園という監獄の中で日常を生きねばならなかった──
──「生きたい」と願った浅上藤乃にとっては酷であっても受け入れるしかなかったはずだ。
それでもけっこう入院中に荒れたらしい。視力が極端に低下したとはいえ、「歪曲」の能力が喪失したわけではない。病室をまるまる破壊したこともあったらしい。
トウコは、浅上の父親に依頼されて彼女に視力の回復方法を教えて見えるようにしたとはいえ、浅上藤乃は罪に苛まれながら以前よりつらい日常を生きていくはずだった。
しかし、私の目の前でとある人物に愛しい視線を向ける浅上藤乃という異能の能力をもった儚げな少女は、生きることへの大きな目的を見出しているように映った。一歩だけ踏み出した何かが呼び込んだ邂逅とでも言うのだろう。もう一人のお人好しと出会ったことが浅上藤乃のこれからを塗り替えようとしている。
「正直、そういう出会いがあるとは私も予想外だった」
トウコはいつだったかそう言った。魔術師の女は浅上藤乃をほぼ見捨てていたのだ。浅上はいくところまでいってしまい、助けるのは不可能だと確信していたという。
それがどうだろう。思わぬ助け舟が出現したことにトウコは驚きを隠さなかった。
「御上真という青年が荒耶の死から一歩を踏み出したからこそ、我々は彼と邂逅できたんだろうな」
もし、そうでなければアイツは私たちや浅上に関わることはなかったかも知れないという。
「青年にとっての浅上藤乃への支援は、自分の罪滅ぼしによるところが大きい。同情したと言ってしまうと誤解をうけそうだが、もっと誠実な感情が御上をして浅上藤乃の支えになりたいという理由だろうな」
トウコの言い回しは複雑だった。私も、よく耳を傾けていなければ解釈に苦しむことさえある。ときどき、重要な形容詞を省くときがあるから厄介といえば厄介だ。
「つまり、御上のヤツの浅上に対する感情はあくまでも誠意か善意によるものだということか?」
「と言えるかな、今の所はな……」
いずれにせよ、浅上藤乃は人としての日常を取り戻そうとしている。自分を理解し、受け入れてくれる存在に心を寄せているわけだ。
「浅上藤乃に残留する狂気は、これからも君の殺人衝動と同じように一生まとわり付くだろう。それを抑えることができる人間は黒桐を含めてごく稀なんだよ。御上が浅上藤乃に対して責任以上の感情を抱くようになればきっと何もかも丸く収まるさ」
どうだろう? 責任以上の感情というと「好意」とか「恋愛」とか?
なんとなく私には、御上のヤツがその感情で浅上藤乃に接しつつあるように思える。トウコには別の解釈があるかもしれない。なぜならアイツは自分を偽るのが上手い。
「さあ、到着ですよ!」
御上の声で私は我に返った。いろいろと考えていたらいつの間にか目的の場所に着いていたらしい。少しだけ開けた先には谷らしき岩山をなめるように流れる川があった。岩山によって陽が翳り、周囲の空気は冷たく感じられる。
吐く息もより白い。他よりも複雑な地形を形成する渓流は、私が思っているより攻略が難しそうに見えた。
「じゃあ下に降りますね。この階段ちょっと急ですから気をつけてくださいね」
御上が先頭になって、まず河原に下り立った。次に幹也が降り、鮮花・浅上と続く。その際、鮮花は幹也、浅上は御上が手をとって降りるのをサポートした。特に浅上の嬉しそうな表情が印象的を通り越して妙に腹ただしかった。
「式さーん! 早く降りてください。時間ありませんから」
うるさいやつに催促されたので私も階段を降りる。降り切る直前に幹也が手を差し出したけど、私は素っ気なく断ってちょっとだけ跳んだ。
ブーツが河原に触れた瞬間、ジャリッと乾いた音がした。意外だったのは、その音に新鮮さを感じたことだろう。都会の河川敷にある汚された河原とは違う無垢であり続ける音だ。
いや、私の立った場所は巨大な岩そのものだったのだ。その上に上流から運ばれてきた砂利や小石が堆積し、たいして広くもない河原の一部を形成していたのだ。
「フフ……」
私はなぜか笑ってしまった。それは愉しい笑いに分類されるだろう。そのことを数秒後に理解して不機嫌になったのだが、「もう少し素直に感じてみてもいいかな?」と思えるようになっていた。
「とりあえず、トウコにへたくそ呼ばわりされない程度にはなってやるかな……」
再び、私の挑戦が始まる。
◆◆
河原に至る階段を降りる途中、御上さんが差し出してくれた手に触れて、これほど嬉しいことはなかった。そっと差し出されたいたわりの手と優しい言葉。
「はい、ふじのちゃん」
私は、彼の手に左手を乗せて階段を降りる。その間、ずっと繋がっていた手と手の温もりが心地よくて、河原に降り立ったあともしばらく彼の手を握っていた。
「ふじのちゃん、手が冷たいね。手袋は?」
御上さんは、気遣うように私の冷たくなった手を優しく握ってくれた。とても気分が熱くなってしまう。
「ありますけど、池でぬらしてしまって……」
「ああ、そうなんだ」
今度ははにかむように笑って上着のポケットから手袋を取り出す。私はキョトンとしてしまう。
「これは予備なんだ。フリーサイズだからふじのちゃんでも大丈夫だよ」
私は頷いて新しい手袋を受け取った。そのときに繋がっていた手を離すしかなかったけど、その温かさと安心感はずっとずっと私の心に残るだろう。
私は、御上さんに好意を寄せている──と思う。黒桐先輩とは違うもっともっと深くて熱い感情。
私は、人を愛せないと思う。
私は、人を愛していけないと思う。
私は、幸せになってはいけないと思う。
「そんなことはないよ。幸せになる権利は誰にでもある。浅上さんにだって権利はあるよ」
師走の公園のベンチで御上真という男の人は真顔で私に言った。私を励ますように、それでいて説得するように。時折、頬を染めて歯の浮くような台詞まで口にして「浅上藤乃」に未来はあると教えてくれていた。
私は正直、同情を押し付けられているようで気分が悪かった。私自身が犯した罪が消えるわけではない。今更、何を謝罪されてもあの時が戻ってくるわけではない。何よりこの人に謝罪される理由がなかった。
「あなたは何も悪くありません。悪いのは全て私です。心と意志の弱い私自身です」
彼の胸中にある罪の意識を消すために私ははっきりと言った。彼は私の目を見たままとても驚いた表情をしていた。意表を突かれたとでも言うのだろうか? 私がお礼を言うとでも思っていたのだろうか? それとも私が反論するとは予想していなかったのだろうか?
否、彼は私の心が閉ざされたままであることに衝撃を受けていたのだ。
「ごめん」
彼は、私にまた謝った。何を言ってもその時の私を変えられないと思ったのだろう。
でも──
「君を心から心配している一人の人間がいる。そのことだけは憶えていてほしいんだ」
私の心は揺さぶられた。どんな装飾された言葉より、なんの装飾もされていない彼の本音が私の心に届いたのだ。
──君を心配している一人の人間がいる
それが嬉しかった。まだ誰かが気に掛けてくれる存在であることが、とてもとても嬉しかった。
浅上藤乃と言う人外の能力をもった一人の人間が、まだ生き続ける意味があるということを教えてくれたのだ。
あの日から、私の変わりゆく日常がスタートした。華麗でも劇的でも、センセーショナルでもなく、ごく自然に、ごくごくひっそりと……
それでいい。それがよかったと思う。
だから私は自分を認めて「私」を想ってくれる人を支えにして生きていこうと前向きになれたのだと……
「ふじのちゃん、足元に気をつけてね。竿もとうか?」
「いいえ、大丈夫です。ありがとうございます」
私は自然と笑顔になった。彼も笑顔を返してくれる。
その笑顔は誰にでも優しい黒桐先輩と同質のもの……
私は、彼に好意を寄せている──
それはとてもとても熱いもの。それはとてもかけがえのない感情。
私は一つの恋をあきらめ、もう一つの恋に出会った。まだ曖昧で臆病な自分に嫌悪感を抱くけれど、鮮花は応援してくれる。
私の想いと親友に背中を押され、ちょっとずつ近づく?二人の距離……
けれど、彼は私に特別な感情はまだ抱いていないように思う。決して好意をもたれていないわけではないけど、感情が微妙にすれ違う距離感……
「いい、藤乃。御上真という人はどこかの誰かさんと違って恐ろしく鈍感じゃないわ。といってあからさまに感情を表に出す人でもないわ。あの人は、あえて人に本心を見せない部分があるのよ。それって表面上は冷静でもハートは熱いってことね」
朝、車の中で黒桐さんは熱心に私にアドバイスをしてくれた。
「私の見解だけど、御上さんは藤乃のことをけっこう気にしてくれていると思う。たしかに恋愛感情とはいえないけど、あなたに前向きに生きてもらいたいという気持ちはウソじゃないよ。その中立に近い感情をどう変化させてどう向けさせるかは藤乃次第よ」
そう、わたし次第……
正直、考えるだけ億劫だ。私の心中は実は不安で一杯なのだから。
彼との心の距離を縮めたいという欲求、自分の片思いで終わって惨めになりたくないという恐怖。
私は、二度とあんなつらい思いはしたくない。絶対に……
たとえ父が私の存在を認めないとしても、私は存在しているし、私の周りには浅上藤乃を認めてくれる大勢の人がいる。
もちろん、御上さんもその一人。彼は私の罪を知っている、私の恥を知っている。私の狂気の部分を知っている。
そんな私に彼は手を差し伸べてくれた。
「幸せになる権利は誰にでもある」
私は、彼の言葉を何度か反芻したと思う。まるで魔法にかけられたように心の不安が薄れ、暗闇に閉ざされたような明日しか見えなかったのに、光に照らされた道筋が見えてくるのだ。他の誰でもない、彼の言葉だから。
「だから私はあなたに振り向いてほしい」
浅上藤乃は自分の力で幸せを掴みたい。本当はふさわしくなくても、私も幸せになってみたいから……
「よし、釣り場に到着!」
御上さんの声がした。いろいろと考え事をしていたらいつの間にか目的に場所に着いていたらしい。私は周囲を見渡したけれど、最初に降り立った場所に比べるとずいぶんと開けた感じがする。
「ここは……」
どんな午後になるのか、私の気持ちは不安より大きな期待で溢れていた。
◇◇
最初に降り立った場所から5分以上は歩いただろうか? 大小の岩が複雑な川の流れを形成する上流域から徐々に川を下り、足場の整理された人工的な風景に変わっていったのが経過といえば経過だ。
けれど、わたし、黒桐鮮花が気にしていたのは、すぐ隣を歩く我が兄のことでもなく、もちろん最後尾をやる気のなさそうな足取りでついてくる両儀式でもなかった。
気にするレベルが日常とさほどの差がなければ、いっそよかったと思う。
私がずっと気にしていたのは、私の親友と兄の親友の動向だ。今日を迎えるにあたり、私は事前に藤乃にアドバイスをしたけれど、本人の気持ちと目標人物の気持ちは微妙なすれ違いを生じさせているように映る。
否、御上真という一部天然素材で構成された人間の本音は曖昧だ。兄と同じように誰にでも公平に接することのできる彼の性格は、特定の人間に対して「好意」を向けているという感情表現に確信というものを簡単には抱かせない。
それでも、藤乃を気遣う御上さんの姿は私を不安にはさせない。
私は、はっきりと意思を表明すれば御上真という人は兄よりはるかに感性が高いはずであることを親友にアドバイスしていた。
釣り場に到着する前、
「藤乃をかまってあげてください」
という私のお願いに、「なんで?」などという鈍感極まりない返事はしてこなかった。
「任せな!」
と実に明確に答えてくれたものだった。
それは、もちろん彼の性格から察すると藤乃を立ち直らせたいという誠意から来る「返答」とも受け取れる。
けれど、だからこそ私が兄の親友に期待する根拠でもある。あの人は人嫌いではない。誠意や善意で人と接しているといっても、異性に関して恋愛感情はある。以前、式を好きだったと告白すらしているのだ。
だから私は不安ではない。藤乃と同じように御上さんは「一つの恋をあきらめた」と言っていた。式に対しての未練はないように思える。藤乃と御上さんはある過程においてはまったく同種だ。それぞれに恋をあきらめた同士が何の因果か出会った。そして2人はお互いを嫌ってはいない。
とはいえ、私が兄に受ける感情の裏返しのように2人を見ていると歯がゆくなることはある。親友は特にはっきりとした態度はみせないけれど、御上さんに惹かれていることは確か。
私もおせっかいを焼きたいところだけど、直接の関係を築くためには私があまりでしゃばってはいけないのだ。
無論、一日だけで2人が真の恋人同士になれるわけではない。藤乃が自分の意志を御上さんに少しでも示し、つながりを重ねることが肝心なのだ。
私は、親友の背中を押してきっかけを作っただけ。
藤乃は、過去の過ちを背負いながらではあるけど、本当にそばにいてほしいと願う人の愛情を得るために前向きに目的をもって生きてゆこうとしてくれるはずだ。
「よし、釣り場に到着!」
御上さんの声で私は立ち止まり、周囲を見た。その場所はさきほどの場所からさらに下流らしく、道幅がより広く、より歩きやすいように整備されていた。川は少し上流に比べると平坦かつ穏やかであり、一定の区画で岩によって仕切られていた。
午前中、奮闘していた池よりも人は多いと思う。ざっと見たところ若い人が目立ち、私たちのように女性の姿もチラほら確認できる。
「なんだ、ここで釣るのか?」
意外そうな口調で質問したのはにっくき両儀式だった。御上さんから借りた赤いジャケットをお気に入りの一重の上に羽織った特徴的な装いの女だ。式はポケットに左手だけ突っ込んで、無表情のまま周囲を見渡している。
「最初のほうで釣るんじゃなかったのか?」
私もてっきり式と同じように考えていたので、彼女の質問に疑問を差し挟む余地はない。
質問されたほうは「予想済み」という顔だった。
「実は、わざと上流域から入渓したんですよ。自然の川を利用したエリアの全体を知ってほしくてね」
つまり、川の釣り場は上級者向けの上流域と中・初心者向きの中・下流域があるということだった。初挑戦する私たちに「こういう変化がある」ことを見てもらい、挑戦するときの参考のためにわざわざ歩いてきたのだという。
「では、私たちはまず下流域から午後の釣りを開始ということですね」
私が納得して言うと、御上さんはやわらかく頷いた。
「そうだね。池のほうであるていど基本を学んだといっても、川になるとまた違った難しさと楽しさがあるんだ。あえて挑戦してもらおうってことだけど、上流にしなかったのは下流なら足場が整備されていて釣りやすいし、プール上に岩によって仕切られているので池のような感覚で釣ることもできるからだね」
なるほど。たしかに上流域のようにごつごつした大きな岩もないし、流れも複雑じゃない。川幅も深さも一定という感じがする。もちろん区画ごとに多少の差というものは存在するみたいだけど。
「よし、じゃあオレは釣るぜ」
なんか知らないけど式がやる気満々だ。まったくそう見えないから信じがたいけど、この女には珍しく肩慣らしのつもりなのか竿を数回鋭く振る。
「ちょっと式さん、まあ、待ってください。始める前にアドバイスすることがありますから」
呼び止められた式は場違いなほど不快そうな顔をした。普段からナイフを振り回すイカれた女とは思えないほど、正常に機能したやる気に待ったを掛けられたのが気にいらなかったらしい。
「あの両儀式が釣りに燃えるって……」
ついに数日前を思うと、これは本当に信じられない驚きだ。午前中もよく考えれば式は笑ってしまうほど真剣に釣りをしていたと思う。血なまぐさいことにしか興味がないアブない女だとばかり思ってたけど、今日の反応は新鮮な怪異の類に仕分けできるだろう。
私は、日常の出来事にまったく興味のない式があっさりとやる気を無くし、そこらへんで昼寝でもしてしまうと予想していたから、意表を突いた反応は想わぬ獲物を得て舌なめずりする猛獣みたいにも映る。
うーん、もしかしてそれこそが反応した要因かもしれない。
式は、「釣り」というハンティングに擬似的に闘争本能をかき立てられているのではないか?
納得できるといえばそうだけど、あの女も人並みにはまることがあるみたいね。ちょっと幼稚なはまり方がかわゆくはあるのが腹立つけど!
「じゃあ、ある程度間隔をあけてスタートしよう」
兄が見守る中、私はにっくき両儀式と一緒に竿を振る。本当は御上さんが約束どおり兄と私だけにしてくれやのだが、藤乃のためにあえて断った。
「私と式と兄とのグループでお願いします。御上さんは藤乃をお願いします!」
おせっかいと思いつつも、つい助力してしまう。藤乃がもっと積極的ならいらないお世話なんだけど、彼女はうぶだ。今は少しでも助け舟を出してあげることで親友の積極性を引き出せればと思うのだ。
でも、「藤乃をおねがいしますっ!」と言えばたいてい照れるものだけど、「OK!」とかさわやかすぎる返事が返ってきたしなぁ……
なんかちょっと自分の鑑定眼に自信がなくなってきた……
午前中と違って私は調子がよくなかった。御上さんと親友のことを気にしすぎたと思う。逆に我が師にダメだしされた両儀式がなぜか絶好調……
あんなに子供みたいに笑う式を見たのは初めてかもしれない。それを我が兄が嬉しそうに眺めているものだから、なんとなくめちゃくちゃにしたい気分になったけど……自重自重。
「鮮花、どうしたの? なんか調子が悪そうだけど、気分でも悪いのかな」
兄が、私の様子が変だと感じたのか声を掛けてくれた。嬉しいと思う反面、なんか気分を切り替えられない。
「いえ、どこも悪くありません。なんというか池と違って川は難しいなぁ、って思って……」
我ながらへたくそな理由だ。兄は気遣うような言葉を掛けてくれたけど、次に思いがけない言葉を投げかけられた。
「集中力が途切れているようだね。なにか気になることでもあるのかな?」
まったくその通り。集中できないことが不調の原因だと思う。実際、気を散らしてしまうとルアーの操作がいい加減で魚に見切られてしまうのだ。
私自身のことならどこかで割り切って集中力を取り戻すこともできたかもしれないが、親友の未来がかかっているのでついつい気が散ってしまう。
そういえば、兄は2人のことをどう見ているんだろうか?
藤乃の方をチラ見すると、ちょうど御上さんがなにやらアドバイスをしているらしく、時折2人の笑い声が聞こえてくる。
上手くいっているのは喜ばしいことだけど……
私は、今の自分に落胆して藤乃から視線を逸らし、ため息を一つして現状を打ち消すように頭を振った。
「ははーん」
なんだろう? この兄のいかにも分かりました的な声は?
「どうやら鮮花は御上さんのことが気になるようだね。鮮花って彼から特訓受けているし、もしかしていろいろ思うところがあるのかな?」
私は絶句した。だめだ……一瞬でも兄に藤乃のことを相談しようとした私が残念すぎた。それに、あのにっくき両儀式がいなければ、余計なことに悩まずに済むのに! なんか殺気がこみ上げてきたわ!
うん、一生懸命自重しました。なんか自分が惨めになってきたから……
もう、こういうときは開き直って気分を変えるしかない! うん、それしかない。
「兄さん、私、調子が上がらないのでいろいろアドバイスしてくれます?」
甘えることにした。そうしたほうがきっと私は立ち直る事ができると思う。藤乃のほうは大丈夫そうだし、懸念する事態に発展することはまずないだろう。
藤乃のほうを見るとまた目が合い、今度は笑顔を向けた。親友も微笑で応じてくれた。お互いに励ましたり励まされたり、乙女同士の友情は助け合いかな?
「じゃあ鮮花、午前中の調子を取り戻そう!」
なんとも呑気な兄の言葉だったが、その笑顔は私に癒しをもたらしてくれる。
「はい兄さん!」
兄がつきっきりで私に指導してくれたので、あまりにも幸せすぎてさらに調子を落としてしまいましたとさ……
……後編に続く
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あとがき
涼です。間が空いてしまうらっきょのSSです(汗
なんとも読んでいただいている読者さんには毎度申し訳ないです。
「総合パート」ということで複数の視点になっております。原作っぽくしてみました?
ちなみに、個人的にふじのんパートに歯が浮きます……
このSSを上げた時点で、空の境界最終章がリリースされています。BDのBOXも登場。JDCDのラストも1月26日に発売され、ちょっとしたらっきょ祭りとなっていますね。
来月の頭には、ついに劇場版のサウンドトラック版が発売ということで、いまから楽しみです。
あと、更新が不能になっていた「心情交差」のほうは削除しました。このシリーズが終わったら、こちらに改訂版として掲載する予定です。一応、あれって三部作なんだよなぁ……
はやく「忘却録音」ネタやらんと時間が過ぎ去っていく……
次話は、あまり間が空かない予定です。
2011年2月5日 ──涼──
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WEBメッセージの返信コーナー
投稿日:2011年01月14日0:50:49
面白かったです!
更新お待ちしております。
>>>大変遅れて申し訳ありません! 今のシリーズも次の投稿で最後です。今回も楽しんでいただければと思います。
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