──変わりゆく日常──
『忘却の行方』
(一)
私こと
事務所のドアをくぐると、まず最初に目に飛び込んできたのは、この部屋とビルの主にして魔術師というキャリアウーマン風の女だった。名前をアオザキ トウコ(蒼崎橙子)という。
トウコは、「今日は比較的早かったな」と私を一瞥もせずにタバコをくわえたまま素っ気なく言った。私も素っ気なく言い返しただけで部屋の右奥にあるソファーに向かった。
途中、この事務所の唯一の社員にコーヒーでも用意させようかと声を掛けようとしたが、それよりも隣に机を並べる唯一のアルバイトの突っ伏した姿が先に目に入ってしまった。
この男は
──だった、というのは、深く関わるようになったのはごく最近のことだからだ。190を超える長身と淡い癖のある赤みの頭髪が印象的な男だった。
「幹也、こいつどうしたんだ?」
私が質問すると、ごく平和そうな男は戸惑ったように言った。
「そうだねぇ……」
答えになっていない。
私が強く訊き返すと、幹也は何か遠慮しているのかごまかすように笑っただけだった。
「なあに、ちょっと落ちこんでいるだけだ。きわめて個人的な感傷とやらでな」
口を挟んだのはトウコだった。私と視線が合うと魔術師は珍しくニヤついた顔をした。
私は怪訝な顔をした。
「落ち込んでいる?」
「そうさ、彼は落ち込んでいるんだ」
トウコはカラカラと笑い出す。この女は他人の不幸を喜ぶ悪魔だった。
「意味がわからないな」
「ほら、冬休み中に礼園であった妖精騒ぎの件。あれに関われなかったことで落ち込んでいるんだよ」
私はあきれた。そんなどうでもいいことで落ち込んでいたというのか? 別に関わる、関われない以前に御上真という男は町にいなかったのだ。
「本当か?」
と本人に訊いたら小声で肯定した。
「お前、そんな小さいヤツだったけ?」
御上は、何かがグサリと刺さったような顔をしていた。そしてまたうなだれてしまう。なんかイラっとくる。
私はジャケットを脱いでソファーに座った。
「どうせお前がこっちにいたって何もできなかったさ」
それは事実だけど、この男の実力が問題じゃない。私だって御上真という能力者が代わってくれていたら、偽装転入などという面倒な手続きをしてまで礼園に潜入する必要もなかっただろう。
しかし、「礼園女学院」という地域でも屈指のお嬢様学校──隔離された男子禁制の学校で御上の活躍の場があるはずがない。もしそんな事になったらそれこそ面倒なことが増えただろう。
「でも、幹也のヤツはゴドワードの過去とか調べて事件解決に貢献したよね?」
くどいな、殴りたい。
ゴドワードの過去が幾分明らかになり、事件解決に結びついたのは、幹也の異常なまでの探索能力によるところが大きい。御上のヤツに同じことができたとは思わない。
「まあ、そういじめないでやってくれ。御上はせっかく正式な依頼で我々の力になれると思ったのに、その機会を逃してしまったことをすまなく感じてくれているんだ」
とさんざんからかっておいてトウコは御上を慰める。
しかし、本人には効果がなかったようだ。おいおい、意外に女々しいところがあるんだな。
「とりあえずもう終わったことだろ? いつまでも落ち込んでいたって事件が復活するわけじゃない。あきらめろ」
「まあ、それはそうなんですが……」
と答えつつ、その声は暗い。そこまで落ち込む理由があるのかとあきれる。役に立つとか立たないとかの問題以前に、こいつは正月の間実家に帰っていて事件に関われなかった。それ以上でも以下でもないだろうに。
「実はゴトワードに興味があったんですよねぇ、話をしてみたかったなぁ……」
「お前が女装しても無理があったろうな……」
「俺にそんな趣味はありませんよ。でも橙子さんの口ぞえでカウンセラーとしてもぐりこめなかったかと……」
なるほど。御上が目指しているのはたしか心理カウンセラーだった。人と会話することによってその人物の精神状態を分析し、的確なアドバイスで導くという仕事だ。
礼園での事件の発端は、学園に二人しか存在しない男性教師のうちの一人が引き起こしていた売春あっせんだった。そこに一年四組の生徒が深く関わったのだ。一人が焼身自殺を図り、元締めの教師は旧校舎の火災のあと行方不明になっていた。
学園のシスターたちは真相までは知らなくても、生徒たちがストレスを溜め込んでいたことくらいは感じていたはずだ。学園はキリスト教系列だが本気で宗教とやらを信じていなければどこにも救いを求められないだろう。
確かに、そこに御上の介入の余地があった。
しかし、冬休み中だけというのは違和感がないだろうか?
「いや、それこそ常駐させるより期間を限定したほうがシスターたちも安心するだろうよ」
トウコは、私の考えを否定した。礼園では冬休み中であっても多くの生徒がとどまっていた。それは一年四組の生徒も例外ではない。
ともすれば、トウコの口添えで冬休み中のみもぐりこめた可能性はあった。ずっとではなくても三日間くらいでもよかっただろう。
──というのがトウコの見解だった。
「いや残念だったな御上くん。君がこちらにいればどうにか潜入できたかもしれないが、すべては君がいなかったことで実現不可能だったのだよ」
はい、おしまい、とトウコは実にあっさりと話題を切り上げた。もう「
私もトウコと同意見だ。ゴドワードの関わった事件は解決した。私はそいつに一本とられたわけだが、不思議と悔しくはなかった。
幹也に似ていた──
しかし、あの男が求めた「記憶」と私が求めた「再戦」は永遠に失われてしまった。
玄霧皐月の「死」とともに……
(二)
──らしいというのは、私も幹也もトウコも事の結果だけ聞いただけだったからだ。
もちろん、事件に深く関わった私や鮮花は、ゴドワードが自殺したなど到底信じられなかった。
全ては礼園という外から隔離された陸の孤島の内側でうやむやになってしまったのだ。
あまりにも素っ気ない幕引きを申し渡された御上は呆然としていた。その隣では幹也がどう声を掛けるべきか視線を泳がせている。
「おい御上、紅茶淹れてくれよ」
私は頼んだ。そのまま呆けられるよりましだ。私がこの時間に事務所に現れれば進んで紅茶を淹れてくれるものだが、当初から落ち込んでいたのでその「日常」が忘れ去られていた。
「ああ、ええ、紅茶ですね」
妙な反応とともに御上は動きだした。まあ、話題から離れるきっかけにはなるだろう。紅茶を淹れているあいだに冷静になるにちがいない。
──と思っていたら、
「もし俺が彼と相対したら、彼のなくしたものを探してあげられたんじゃないかと思うんですよ」
私にティーカップを渡しながら見事に蒸し返した。
「ほほう、それはどういうことかな?」
しかもトウコが食いついた。お前はつい先刻、話を終わらせた張本人だろ! とんでもない変わり身に私はつくづく唖然とした。
「君が視ることによって判るというのかね?」
トウコは、過去の発言を確実に忘れるタイプだろう。自分の嗜好とする話題は徹底的に持ち上げる。
その該当者の目は明らかに輝いていた。
私はもうなんと言っていいか……
「全てはどうかと思いますが、彼を視た瞬間に無くしたものの手がかりが得られたでしょう」
「ほほう、君の目はいろいろ見通せるものだねぇ」
「よほど記憶が風化していなければ視えるはずですが……」
「ふうーん、面白いことを言うねぇ」
トウコの目の色が変わった。御上の言葉に探求心を刺激でもされたのだろう。
御上の魔眼は「真眼」という。それはまさに読んで字のごとく「真実を視る能力」だと言われている。
予測になってしまうのは、真眼にまで発展する能力者が極めて稀であるために、本当のところはその性質がはっきりしていないためだ。私の「直死の魔眼」も一系統としてはかなりのレアらしい。その使い方を教わったのがトウコだが、「真眼」に関してははっきりと指導できないという。
なぜなら、前述と矛盾するが、あらゆるモノの真実を視るだけにとどまらないと言うのだ。
ひとつ能力が下の「心眼」とちがって深く真実を追究する「真眼」は読み取るだけではなく「暴く」という性質を色濃くしているらしい。
トウコは、吸っていたタバコを灰皿でもみ消して言った。
「ゴドワードの記憶は無くしたものというより、再認できないという妖精の呪いだったわけだが、君は呪いの真実を視ることができた、というんだね」
御上は黙って頷いた。「真実を視る」と、トウコは形式的な手法を口にしたが、それ以外うまい表現方法が見つからなかったのだと思う。
「私は何も望まない。ただ解決する手段がほしい」
ゴドワードは鮮花にそう語ったそうだ。この場合の「手段」とは玄霧皐月が失った過去の自分の記憶のことだ。トウコさえ未だ到達できない「アカシックレコード」にゴドワードは到達しながら、そこに彼の「過去」は存在しなかった。
因果な皮肉だ。魔術を極めた者が最後に追求する真理の先に答えがなかったとしたら?
その真理の裏にある「真実」を視れる者が存在していたとしたら?
「なるほど。たしかに君は今回の事件に関わるべきだったろうね。そうすればゴドワードは映像のない世界から解放されるだけではなく、世の汚れを解決する記憶の収集からも手を引いたことだろうね」
トウコの語り口は、どことなく皮肉にあふれていた。現実がすれ違った歪みに自嘲気味に笑ったのもそのためだろう。
ふと私が考えるのは、記憶が曖昧になった玄霧皐月は自分を捜すために忘却を採集し、それがむだだとわかると、今度は人間でいることの証として人の記憶を採集した。それも無駄だったのになぜ玄霧皐月は収集を続けたのだろうか?
すでに周知のとおり、魔術師の記憶は忘却されたものではなく、妖精の呪いによる
御上はこともなげに言ったが、全ての根源である「アカシックレコード」からもほしいものを得られなかったのに、真実を視る魔眼で根源にも存在しなかった──簒奪された記憶の真実を視ることなど本当に可能なのだだろうか?
それも妖精の呪いなどと言う曖昧な事象を……
(三)
思わず訊いていたのは私だった。私自身が驚いてしまったが、まさか質問されるとは思わなかったのか該当者は怪訝な顔をした。
しかし、それも一瞬のことだ。すぐにもとの気楽そうな顔にもどった。
御上は、自分のティーカップをもって席に戻るなり、
「たぶん、途中までは可能だと思います」
わずかに口元をほころばせるしぐさは曲者だった。
「まずは玄霧皐月の記憶が曖昧になる起点に到達することになるでしょう。そこからその記憶がいずこに飛んだのか軌跡に触れ、最終的に過去が妖精によってどのように簒奪されていったのか辿り、その終着に達することは可能です」
「途中までというのはどういうことだ?」
御上は、「視える」といいつつ矛盾した過程を私たちに語っているのだ。その理由を明らかにしなければならない。
「実に単純なことです。真眼では根源を超えて視ることには限界があるからです。式さんの魔眼が形のないものに対して死線をなすことに限度があるのと同じことです」
そういって御上は紅茶を一口ふくんだ。
「俺の真眼は視覚化するだけではありません。あたかも思念のように漂う存在にもその先があるわけでして、それを脳で感じることができます。感覚によって深層の先を視ることができるわけです」
しかし、と御上は反語する。
「根源の集合という概念に存在しない記憶を感じることは難しいでしょう。呪いによって簒奪された記憶がそこになかったのならば、どこに消えたのでしょう? 所在そのものが根源の選択から抹消されてしまうわけです。そうなると所在となる場所はどこになるか、それはおそらく別の空間に囚われている可能性が高い。そうなると神眼にまで達しないと見つけることはできないでしょう」
私とトウコは驚いていた。根源以外の概念があるとは予想すらしていなかったのだ。根源とはそういう存在だ。だからそれ以上の答えがあるとは普通は思わない。
「具体的になんだと問われると困るんですが、それを解き明かすことができるのが神眼だと思います。もし俺がそこまで到達できれば、きっと彼の言葉だけで根源の先を視ることができたはずです」
私の御上の「視る」という概念に決定的な違いがあるとすれば、それは「カタチ」をなさぬモノに対して「視る」以外のことができるかできないかだろう。
だから、私は玄霧皐月の「言葉」そのものを殺すことはできなかった。
そう「言葉」そのものに「カタチ」はない。発して意味をなすだけだ。発する「言葉」が私に概念として向けられたものならばカタチになりえる可能性もあるが、御上は発する「言葉」からさえ「神眼」に達すればその真実と真理を視る事が可能だといっているのだ。
今、御上は謎の多い能力の一端を口にしている。それも極めて興味深い語り口で。トウコが熱心になるのも無理もない。
「私は常々、君の魔眼について大いに興味を抱いていたが、よくも悪くもとらえどころが広いようだね。それこそが進化する魔眼の魅力ではあるんだけど……」
トウコは言葉を切った。その紅玉の瞳が思考するようにきらめいて見える。何か重大なことを言い出そうとしていることがわかった。
「だからこそ私は聞きたい。君の話は仮定の域をさもありそうに語っているだけにも聞こえる。かといって全く外れたことを言っているわけではない。つまり……」
つまり、何だって言うんだろうか? あまり遠回りしてほしくない話題だ。
「トウコ、もったいぶらずに言えよ」
私はついせかしてしまった。トウコがニヤリと意地悪く笑ったときは「しまった」と舌打ちしたものだが、さすがの横着な魔術師もその結論だけは曖昧にすることはなかった。
「つまり、君はある可能性に達して言い出せないことがある。そうだろう?」
前言を撤回したい。御上を見ると、肯定するように肩をすくめていた。
「さすがは橙子さんですね、そこまで読み解いてくれるとは細かい説明をこれ以上する必要がなくなります」
私と幹也はわかっていないんだけど?
「お前ら二人でなに悦に入っているんだよ。とっとと言えよ!」
つい怒鳴ってしまった。
そして結論はあまりにも残酷だった……のだろう。
「玄霧皐月の記憶は簒奪されて架空世界に飛ばされたのではなく、消滅していたとしたら」
それは考えなかった。ずっと捜している「記憶」が簒奪された挙句にどの概念の中にも見つからないのではなく、存在すらしていなかったとしたら……
「それは極論かもしれませんが、根源にいたっても彼の記憶は見つからず、再認が不可能になった理由になるんですよ。この世に起こる事象の全てがアカシックレコードに記憶されるならば、妖精の呪いによって簒奪された彼の過去はあってよかったはず。それがなかったというこては、思念としても存在せず消滅していると推察することができます。それに……」
急に御上は熱く語るのをやめて首を左右に振り、これ以上は堂々巡りなんで切りましょうと言った。そしておもむろに私たちに訊いた。
「紅茶、淹れなおしましょうか?」
私を含めたその場の全員が「YES」と応じた。御上は頷き、なぜか寂しそうな目をしたまま台所に消える。
「さてと……」
トウコは何事もなかったように資料をめくりだす。幹也はなにやら電卓片手に計算を始めた。
私は、ソファーに深くもたれかかり、顔を天井に向ける。
「つまらないな……」
無機質な冷たいコンクリートの天井がそこに存在している。魔眼を発動させると、面白いくらいたくさんの死線が視えていた。
御上も私たちも気が付いてしまったのだろう。今さら存在しなくなった一人の魔術師が捜していた解決への糸口をあれこれ語ろうとも虚しくなってしまうことを。
それ以上に、方法を見つけたあとに何が残るのか自分で結論を出せなくなってしまったんだと……
「でも玄霧皐月に対する手向けかな……」
私はそう感じた。遠くに在る者、失った者を偲び、忘れないために人はその人間の生前やエピソードを語らずにはいられない。
「なんて感傷的な……」
と私が一方的に思えないのは、もう一人の「私」を失っているからだろう。忘れようとしても決して忘れられず、もう一人を思い出してしまうからだ。
両儀式が、自分の内に存在した「識」を忘れたくないのと同じこと。
御上は、自分の存在が曖昧になって記憶を収集した稀代の魔術師の終焉ならざる葛藤を
私は、そっとティーカップを受けとった。その白い陶磁器のなかは透明なオレンジ色のの飲み物で満たされていてほんのりと甘い香りがする。
一口飲む。
申し分ない。今日は少し苦味を強くしてあるだろうか? 御上の淹れる紅茶は私を飽きさせない。
理由はある。アイツは時々微妙にアレンジを加えてくるからだ。それはまるでその日の私の気分に合わせたように絶妙だった。
もう最初の一杯を口にしてから一ヶ月は経っただろうか。私の午後は紅茶で始まって紅茶で終わるようになっていた。
それは口に出すのも恥ずかしいけれど、決して忘却したくない私にとって得がたいひと時だった。