かつて銀河帝国をして「イゼルローン回廊は叛乱軍兵士の屍を以って舗装されたり」と豪語させた宇宙最強の人工天体<イゼルローン要塞>は反対勢力たる自由惑星同盟の所有物となり、ここには帝国軍諸将が畏敬してやまない二人の用兵家が存在する。
一人は、イゼルローン要塞司令官兼駐留艦隊総司令官ヤン・ウェンリー大将。
今一人は、イゼルローン要塞駐留艦隊副司令官兼駐留第14艦隊司令官ミスマル・ユリカ中将である。
前者はおさまりの悪い黒髪を無意識のうちにかき回すクセのある、今年30歳になる中肉中背の青年提督であり、後者は腰まで届く艶やかな髪とブルーグリーンの瞳を有するプロポーションも抜群の若干22歳の美人提督だった。
二人は、昨年における同盟軍の軍事作戦において、そのほとんどの中心的役割を担った。
ヤン・ウェンリーは796年の年明け早々に発生した銀河帝国軍との軍事衝突において同盟軍第2艦隊の幕僚として参戦。味方の2個艦隊が遠征軍司令官ローエングラム伯ラインハルトの各個撃破機動戦術によって壊滅するなか、絶対数において劣る第2艦隊の指揮を途中で引継ぎ、艦隊の全滅を防いでいる。
さらに戦後、少将に昇進したヤンは銀河帝国の誇る難攻不落のイゼルローン要塞を味方の血を一滴も流すことなく、たったの半個艦隊で奪取を成し遂げる。
そんな彼を人々は「
しかし、同盟軍に傾きかけた天秤は、その年の8月から実施された帝国への大遠征における歴史的大敗によって逆に傾いてしまう。
遠征軍3100万人に対してその半数が戦死または行方不明になるという惨状で幕を閉じたのだ。
幸いだったのは、同盟軍が帝国軍の激しい反攻に相対しながらも壊走には至らず、逆に不利な戦略的状況の中で善戦し、秩序ある徹底によって一線級の指揮官と多くの将兵たちを生きて帰還させたことだった。
その中心的役割を担ったのがヤン・ウェンリーと同盟軍史上初の女性艦隊司令官ミスマル・ユリカ率いる第14艦隊の奮闘だった。彼女は半個艦隊(およそ7500隻)を率いて数と戦力に勝る帝国軍艦隊と2度交戦の後、決戦場となったアムリッツァ星域ではヤン率いる第13艦隊とともに味方の全面崩壊を防ぎ、友軍からは「幸運の戦姫」「宇宙の戦姫」と賞賛され、帝国軍からは「叛徒の白き魔女」「アムリッツァの魔女」などと恐れられた。
戦後、魔術師と戦姫は揃って防衛の要たるイゼルローン要塞の守備に就くことになった。ヤン・ウェンリーは最高司令官として、ミスマル・ユリカは駐留艦隊の副司令官として、合わせて20,000隻の艦隊と200万を越える将兵たちのNO,1、NO,2となったのである。
闇が深くなる夜明けの前に
機動戦艦ナデシコ×銀河英雄伝説
第九章(前編)
イゼルローン要塞が帝国軍の所有物であった頃、大会議室は2人の大将の意見の対立の場と化していたという。
では現在はどうだろうか?
魔術師と戦姫の仲は一部の人間が勘違いするほど良好だった。双方の幕僚連中にも「対立」などという不協和音は聞かれず、若干の胃痛を感じる者が存在する以外はすこぶる問題なく融和していた。
まさに、ヤン艦隊とミスマル艦隊がアムリッツァで培ったお互いを信頼する表れであっただろう。将兵たちは自分たちの司令官を尊敬し、また互いの司令官に敬意を払っていた。
どちらも銀河に名声を轟かせた将帥である。帝国領侵攻作戦において痛手を受けた同盟の防衛と立ち直りの時間は2人の将帥の頭脳と手腕にかかっていると言っても過言ではないだろう。
(──過言ではないはずだが……)
と会議室を見渡してムライ少将は思う。直後にあきらめに近いため息が吐き出されたのは、3回目の定例会議にも関わらず2名の英雄と幕僚連中の数人が未だに会議室に姿を現していないという現実だった。開始まで15分をすでに切っている。
「おはようございます」
ムライたちにやや遅れて会議室に姿を現したのはエステバリス隊隊長スバル・リョーコ少佐と、彼女を「姐さん」と慕うミスマル艦隊の宙戦隊長2名にヤン艦隊の第2宙戦隊長イワン・コーネフだった。
この4名は、前回と前々回も同じ時間に揃ってやって来た。仲がいいとか悪いとかそういう問題ではなく、4人とも比較的時間にはまじめだったからだ。当初、ショートカットの美人パイロットにはあまりよい印象を抱かなかったムライだが、彼女の行動や発言からけっこうまともな娘だと知って大いに安心している。できればイツキ・カザマと協力して他の騒がしいパイロットたちを厳しく監督してもらいたいと切に願っていた。
──8時50分──
テンション上がりまくりの挨拶とVサインを引っさげてミスマル・ユリカが登場した。彼女は鼻歌を口ずさみながらフレデリカ・グリーンヒル少佐とアクア・クリストファー大尉とハイタッチをし、颯爽とした足取りで総司令官のすぐ隣の席に着く。
「エッヘン、遅れなかったぞ」
胸を張るユリカをムライは軽い驚きを込めて眺めていた。
というのも、過去に例がないほど来るのが早かったのだ。
一回目 5分21秒の遅刻。制服は着ていたが、上着はなぜかピンクのジャージ。
二回目 6分37秒の遅刻。途中で鉢合わせしたらしいヤンと一緒だった。入り口で頭をぶつけたのはご愛嬌?
そして3回目の定例会議……
ムライには感慨深いものがあった。イゼルローンに来た頃は当初のイメージを覆して懸念ばかりが頭と胃の内側を侵食していたが、「彼女はまだまだ成長が見込めるね」というヤンの言葉通りになったのだ。
2回目の最大オーバー分から数えれば16分近くも早い。
「成長とはかくあるべきかな……」
ムライの胃痛もこれで少なからず緩和されるはず。同盟史上初の女性艦隊司令官には今度こそ偽りのない気持ちで大いに期待したいと切に思った。
ムライは、エールを送るつもりでユリカに訊いた。
「提督、本日は非常にお早いですな」
美人艦隊司令官はにこやかに白状した。
「アキトが起こしてくれましたぁ!」
──ああ、なるほど、テンカワ中尉が尽力してくれたのか。若いながら多忙なパイロットの訓練や軍務の傍らに孤児となった親戚の少女を育て、食堂の手伝いまでしているというあのしっかり者の青年か……ミスマル提督の婚約者らしいが、これまでずい分苦労したのではないだろうか?
ムライは、できれば今日が該当者の自発的行動によって長期間持続することを願わずにはいられなかった。
ベレー帽片手にダスティー・アッテンボロー准将が会議室に駆け込んできた。まさかのユリカを視界に納めて「あれ? なんで」などと口にしてしまったが、ムライと目が合うと、
「申し訳ありません。今後はさらに気を引き締めます」
と一気に言い切った。たぶん、ムライに何か苦言を呈される前に先手を打ったのだろう。アッテンボローは席に着き、持っていたベレー帽を整えて頭に乗せたが、さりげなく正面のムライとは視線を外していた。
アッテンボローに遅れること1分。陽気な緑色の瞳で会議室を見渡しながら「何だ、まだ余裕あるじゃん」と
そして、ヤン艦隊の第1宙戦隊長を務める「撃墜王」が何の罪の意識もなく手に持ったままのスカーフを首に装着しようとした直後、彼の肩を叩いた人物がいた。
余裕の表情でポプランをからかったのは要塞防御指揮官ワルター・フォン・シェーンコップ准将だった。こちらはからかうだけあって身なりはきちんと整えられており、遅刻したことなど臆面もなくユリカにウインクし、悠然と歩を進めて着席した。
ムライ参謀長のまぶた辺りがいつにも増して痙攣した。今日のような事態が過去2回も起っているからだ。常習者の顔ぶれも毎度同じだが、ムライが恥じ入るのは先に設立された第13艦隊の幕僚たちに遅刻者が多いことだ。
本来ならば、後設された第14艦隊の模範となって軍規のなんたるかを示さなければならないはずである。
しかし、現実は1名はギリギリ、2名は遅刻。そして……
ムライはシートからおもむろに立ち上がり、無意識のうちに右拳を握りしめた。一喝されることを想像しつつ、後ろ暗いところのある幾人かは視線を逸らせたものの、二個艦隊分の「困った人たち」を監督する羽目になった不幸な参謀長のお説教は避けられそうにない。
誰もが覚悟を決めた直後、急にムライは席に着き、咳払いとともに入り口のほうに視線を走らせた。
「ヤン提督、そんなところで室内を窺っていては一向に会議が始められませんぞ」
一斉に視線の集中した先には、最後の遅刻者たるイゼルローン要塞司令官ヤン・ウェンリー大将がすまなそうに納まりの悪い黒髪をかき回していた。
「申し訳ない、遅刻しました」
最高司令官とは思えない弱々しい謝罪に室内から押し殺したような笑い声が漏れるが、幾人かは遠慮なく笑っていた。
ヤンは、着席するまでムライの「睨み」にタップリと追撃されて恐縮した面持ちだった。
しかし、ムライとしては3度も由々しき状況をスルーするわけにはいかない。咳払いをすると、なぜかツクモ大佐が背筋を正す。
「閣下、定例会議は9時開始のはずですが、それは小官の誤りでありましょうか?」
「え……ああ……いや、実はユリアンの体調が思わしくなくてちょと様子を……」
「昨晩会いましたが、すこぶる調子がよさそうでしたが?」
「……き、急に体調を崩してそれで遅くなって……さらに目覚ましが壊れていたんだ」
「たしか小官の記憶が正しければ1回目と2回目の理由が目覚ましのせいでしたな。閣下のお宅ではよく時計が壊れるようです」
「いや、あのう……」
「それからユリアンくんの体調不良ですが、小官は朝訓練に向う彼と通路で出会ったのですが?」
「…………」
勝敗は決し、定例会議は15分遅れで始まった。
イゼルローン要塞の宇宙港7番ゲートには、船の到着時刻を確認する2人の若者と1人の美少女がいた。3名は目的の船の到着時刻を確認し終えると、そろって近くのソファーに腰を下ろした。
「どうやら無事に着きそうだな」
タカスギ・サブロウタ中尉は安心したようにつぶやき、頭上にあるベレー帽を脱いでオールバックの頭髪を整える。隣に座るテンカワ・アキト中尉はラピス・ラズリの頭を撫でながら人々が行き交う宇宙港のロビーを眺めている。
「でも、サブロウタもよくふた従弟を引き取ろうって決意したよね。俺、尊敬するよ」
不意に思わぬ言葉を投げかけられた精悍な顔つきの青年はちょっとはにかんで返答した。
「お前を見ていたら俺にもできるかなーって。あいつをいつまでも施設に預けておくわけにもいかねーし、もう血が繋がっているのは俺だけだしなぁ……」
宇宙港を行き交う人々。軍人もいればその家族もいる。子供や恋人と再会する感動的な光景も少なくない。
「最前線のイゼルローンにアイツを連れて来るのもどうかと思ったけど、ミラクルヤンと戦姫の守る最強の要塞以上に安全な場所はないでしょ? と言われちまったからなぁ」
「へえー、度胸あるね。そのふた従弟……えーと名前はなんだっけ?」
「あれ? 教えてなかったけ?」
「昨日、突然此処に来るって聞いたばかりだし、サブロウタはそこまで話してくれなかったよ」
「そうだったな。まあ、ちょっと頼りなさそうなところもあるけど思いやりのある男の子なんだぜ」
そのふた従弟の名前を「マキビ・ハリ」と言った。年齢は11歳だという。サブロウタと同じく黒髪で年相応の身長らしい。4年前に軍人だった両親を戦闘で失って祖父の家に引きとられていたが、その祖父が2年前に急死してからは施設に移っていた。唯一の親戚であるサブロウタは遠く前線にあったために引き取ることができず、今回、イゼルローン要塞赴任を契機にふた従弟を呼び寄せることにしたのだという。
「あいつも軍人の子らしく、将来は軍人になって帝国軍と戦うって言ってたけどさ、やさしいヤツだからできれば軍人にはしたくないんだよね」
「わかるなぁ、その気持ち」
「テンカワが言うと説得力があるな」
「そう?」
「だってリアルでそうだろ?」
「そうだね」
2人がお互いに笑顔を交わした直後、ラピス・ラズリが保護者の腕を引っ張り、目的の船が到着したことを知らせた。
「よし、迎えにいくか」
タカスギが立ち上がるとアキトとラピスも続き、ふた従弟の到着を待った。
しばらくしてゲートをくぐってきたマキビ・ハリは自分の背丈ほどもある大きなトランクを両手で力いっぱい押していた。まるでその姿は2年前にヤン・ウェンリーの官舎にやってきたユリアン・ミンツのようである。
「おーい、ハーリー!」
サブロウタが少年を見つけて愛称で呼ぶと、ふた従弟は急に破顔してトランクを全力で押して駆け出した。
「サブロウタ兄さーん!」
少年は年長のふた従兄に抱きつき、笑顔で心から再会を喜んだ。
「にいさーん……」
少年の目に急に涙が溢れた。サブロウタはしっかりとふた従弟を抱きしめ、いたわるように背中を二度軽く叩く。
「おいおい、男の子なんだからメソメソするんじゃないぜ」
「だって、ようやく会えたし……」
「そうだな。長くかかっちまってごめんな」
「ううん、約束を守ってくれてありがとう」
「当然だぜ。とりあえず涙を拭け。お前に紹介したい友達がいるんだ」
そう言われて、マキビ・ハリ少年は自分に注目する2人の存在にようやく気がついた。
一人は見慣れない軍服?で自分よりかなり年上。一人は、金色の瞳と長い髪が印象的な女の子!
「ええっ!」
マキビ・ハリは顔を真っ赤にして思わず叫んでしまった。ロビーを行き交う人々の幾人かが何事かと一瞬注目する。
「ちょ、ちょっとサブロウタ兄さん! なんで友達が来てるって言ってくれないんだよぉ!」
感動の再会は一転、ハリは急にふた従兄に食ってかかった。泣き顔を自分と同じ年くらいの少女に見られたのが無性に恥ずかしかったのだ。
「と言われてもなぁ、お前が勝手に泣いたわけだし……」
「酷いよ! 兄さんのばかばかばかぁ!」
しばらくの間、ふた従兄に抗議していた少年は気が済むと落ち着きを取り戻し、サブロウタに謝罪してから恥ずかしそうに自己紹介をした。
「よろしく、ハリくん。俺はテンカワ・アキト、エステバリスのパイロットやっているんだ」
笑顔でアキトは言い、自分に寄り添う少女を紹介した。
「俺の被保護者のラピス・ラズリだよ」
アキトに促されてラピスは一礼した。
「ラピス・ラズリです。よろしく」
以前のぎこちなさを思えば大きな前進だった。視線こそややずらしたが、しっかりとした口調で少女は自分の名前を初対面の人物に対して言えたのだ。ポプランに出会い、学校に通い始めてから対人関係が向上しつつあることを育ての親は実感したことだろう。
「おい、ハーリー」
美少女に戸惑う少年の肩に手を回し、サブロウタは悪戯っぽくささやいた。
「また今度、かわいい子を紹介するぜ。なにせイゼルローンには美少女も多いんだ」
動揺を隠さない少年を見て、アキトは「けっこうシャイなのかな?」と思いつつ、4人は揃って宇宙港を後にした。
ユリカ率いる第14艦隊がイゼルローン要塞の守備に就いてからおよそ1ヵ月。ナデシコの主なメンバー達は要塞での生活にも慣れ始め、それぞれの職務に励んでいた。
ミスマル・ユリカは、ヤンから実質的に艦隊運用の全般を任され、訓練日程の作成や実施、他の提督たちと艦隊フォーメーションについて議論を交わしたり、帝国軍が攻めてきた場合の迎撃方法の立案、艦隊運用に絡む事務的な作業等に日々を費やしている。
ユリカは、自ら率先して艦隊運用のノウハウを吸収しようと貪欲に行動していた。帝国領侵攻作戦おける一連の戦闘の中で己の甘さと未熟さを思い知ったが故だった。
「今のままじゃ、私はみんなを守っていけない」
普段と変わらない穏かな表情の裏で同盟軍史上初の女性艦隊司令官の心は燃え上がっていた。
「私にできることはなにか? 私がやるべきことは何か?」
ユリカは、それまで以上に自問自答するようになっていた。
連合大学時代には戦略シミュレーションで無敗を誇り、蜥蜴戦争でも抜群の判断力と指揮能力で幾度となくピンチを切り抜け敵を圧倒した彼女だったが、銀河をまたに駆けた争いの只中ではひよっこの指揮官でしかなかった。
ユリカは全力で艦隊を指揮し、全力で知力を尽くしたが、彼女の能力を凌ぐ強敵たちはユリカの全力を巧に払いのけ、幾度となく窮地へ追い込まれることとなった。
最初に対峙したミュラー提督然り、ウランフと共同戦線を張りながらも一個艦隊の帝国軍を相手に苦戦させられた黒色槍騎兵艦隊然り、アムリッツァにおいて砲火を交えた何人もの提督たち然りである。
そしてその最もたるがラインハルト・フォン・ローエングラムだった。政戦略に秀でる黄金の獅子の存在は、ヤンと同様にユリカを深く戦慄させた。
「凄い、こんな人がいるんだ……」
しかし、ユリカは父親以上に目標となる人物二人を同時に得たのだった。
2人の稀代の名将への畏敬がユリカをさらなる成長へと駆り立てていた。
非常に残念ながら料理の進捗は足踏み状態が続き、密かな師匠となったユリアン・ミンツの苦労は当分続きそうではあったが。
***
他のナデシコメンバーもいつもと変わらないようで、どこかアムリッツァ以前とは違っていた。
アオイ・ジュンの日常は、ついに己の影の薄さを嘆く暇さえなくなった。ナデシコ艦長と副参謀を兼任することになったけっこう美形の青年は、テンカワ・アキトに負けられないという思いよりも、急激な成長を遂げたミスマル・ユリカという片思いの女性司令官の期待に応えようと熱意を傾け始めていた。
そもそも、ユリカが目立ちすぎて影が薄いが、彼も地球連合大学を優秀な成績で卒業したエリートである。そのまま連合軍に所属していれば若くして高い地位を得ていただろう。
そう、それははるか未来──次元は異なるが実現していた。青年は同盟軍内において22歳という若さで「大佐」の階級を得ている。
これはミスマル・ユリカには及ばないが、一般的な昇級速度と彼の過去の武勲やナデシコにおける立ち位置を考慮すれば驚異的な出世だった。
「自分には相応しくないのかもしれない」
ジュンは、優秀な頭脳を持ちながらある種のコンプレックスを抱いていた。士官学校を卒業していながら、テンカワ・アキトやアカツキ・ナガレのような素人にお株を奪われ、いつの間にか頼りない男の烙印を押されてしまっていた。
「そんなことないよ。ジュンくんはユリカをいつも助けてくれるもん!」
ユリカの激励は嘘偽りのないものだったが、それだけでは青年が失った自信を取り戻すことはできなかった。
そのコンプレックスはアムリッツァ後も続いたが、不遇ともいえる青年の気持ちを前向きにリセットさせたのはヤン艦隊の幕僚たちとの交流だった。
アッテンボローやオリビエ・ポプラン、フレデリカ・グリーンヒルといった年齢の近い彼らとのやり取りを重ねるうち、自分の悩みがいかに小さいことであるか大いに気づかされることになったのである。
エステバリスのパイロット4人娘は、スバル・リョーコを中心にして愛機の整備やシミュレーションマシンによる訓練、第13艦隊、第14艦隊の宙戦隊長たちと宙戦技術や隊形の確認など、日夜議論と検討を重ねていた。
エステバリス隊は、ファンベルグ星域における戦闘で、それまでの戦術のあり方を再度見直さなければならないほど苦戦に立たされてしまった。緒戦では大きな戦果を獲得したが、敵の素早い戦術の変更とエース部隊の投入によってほとんど後半は活躍する機会を与えられなかった。
圧倒的な強さを誇ったエステバリス隊最強の4人娘は帝国軍の高度な戦術の前に敗れ去った現実が相当堪えていた。
あのアマノ・ヒカルでさえ、あまりの疲労感のため、帰還した直後にコクピットの中で眠ってしまったほどだ。
とはいえ、努力を積み重ねる日々を送りつつも、あまりシリアスにならないところが彼女たちらしかった。ポプランからのアタックを幾度となくかわしつつ、充実した日々にも恵まれていたのである。
ただし、あえて大きな変化があったとするならば、それは勤務上ではなく「プライベート」な一面においてだった。
それは、「マキ・イズミ限定」だ。
きっかけは誰にも分からない。確実なことはマキ・イズミがコーネフに惚れてしまったらしいということだ。二人の婚約者に先立たれ、自身を「不幸を呼ぶ女」と自虐めいて口にしていた(黙っていれば)美人のパイロットは周囲が意外と思うくらいコーネフの近くにいる時間が増えていた。
今のところは「押しかけ女房的」な範囲に留まっているが、コーネフが特に避けるわけでもないので「まあ良好」という見方が有力である。
もっとも、2人の会話がずれている件について「しばらくの経過観察が必要である」とは、大半の関係者の見解を等しくするものだった。
「なんで俺がダメで何もしていないアイツが成功するんだよ! 世の中、不平等、不均衡、不十分、不完全、不条理、不可解すぎるだろ!」
自分の努力が実らないことを嘆いた同盟士官が誰であったか、あえて個人名を挙げる事はしない。
ナデシコの通信士メグミ・レイナードと操舵士兼砲撃手であるハルカ・ミナトは、自分たちでも意外と思うくらい「軍人」としての職務をこなしていた。
メグミは、艦隊勤務がない日はイゼルローン要塞の司令部でオペレーターとして勤務している。主な仕事は要塞内部の案内オペレーターと通信業務だった。最近では、プロスペクターが中心となって企画した「イゼルローン情報局」といういわゆるラジオ放送(というと語弊があるが)のメーンパーソナリティーを務め、人気が急上昇している。
美声の持ち主である彼女にはうってつけの仕事である。ハーミット・パープル基地で得た経験がそのままイゼルローン要塞に規模を拡大して役立っていた。
ハルカ・ミナトは、ナデシコ時代を通して艦隊勤務以外では時間が有り余っているという誤解を受けがちだが、第14艦隊の設立以降、ガイ・ツクモの補佐をすることが多くなっている。ナデシコの幕僚組織は一般的な同盟軍の体制と比べると少なく、むやみに増やせない理由もある。それはそのまま司令部運営に直結するため、必然的に誰かが複数の肩書きを持つことになってしまうのである。
もちろん、ガイ・ツクモ大佐に対する私的な感情がないわけではないだろう。ハルカ・ミナトは、完全には開き直れない感情を秘めつつ、自分なりの答えを探し続けていた。
その男は、同盟軍服姿のゴート・ホーリーから手渡された書類に素早く目を通し、流麗にペンを走らせてサインを終えた。
「お疲れ様です事務総監代理殿。今日の仕事はこれで終わりです」
「いやはや、ペースが上がってきましたな」
心地よい疲労感を胸に要塞事務総監のイスに深々と背中を預けた男の名を「プロスペクター」という。名前と言うにはいささか語弊があるように、かつての上司であるアカツキ・ナガレでさえ男の本当の氏名を知らないでいた。
ナデシコ時代からやや後方にあってユリカたちを支えてきた謎多き男だ。トレードマークの黄色い縁の眼鏡と派手なベストは相変わらずであり、同盟から給料をもらうことになっても軍属の身分を貫いている。
「やあ、ありがとう」
プロスペクターは、ゴートから癒しのコーヒーカップを受け取ると、その満たされた香りを楽しんでから一口含んだ。
「実に美味しいですなぁ」
プロスペクターのゆったりとしている姿を見て、ゴーとはふと尋ねたい気持ちになった。
「事務総監代理の居心地はいかがでしょうか?」
一瞬、動きを止めたプロスペクターはゆっくりとした動作でコーヒーカップを机に戻し、右手で口ひげを撫でながらこそばゆそうに言った。
「私には荷が重いですねぇ……」
ある程度の予想はついていたとはいえ、ゴートには多少なりとも意外だった。
「ネルガル時代とは違って伸び伸び職務に打ち込んでいるように見えましたから、てっきりやりがいを感じているものかと……」
会計兼監査役として戦艦ナデシコに乗り込んだ四十代の男の過去の私生活を知る者は多くない。アカツキの父親は知っていたかもしれないがすでに故人である。プロスペクターのボディーガード役としてもナデシコに乗船したゴートも会社以外での付き合いはそう多くはなかった。
ノリは軽く、会計士としての腕も一流。それ以前に先を見通せる鋭い頭脳を持ちながら中間管理職に甘んじていたのが不思議なほどだった。
ゴートは、プロスペクターの有能さゆえに出世から外されたのでは? と当初は考えていた。
しかし、一見組織に忠実であるかのようで道義に反する物事になると巨大な組織であろうと反旗を翻したり、なぜなにナデシコに見られるオタ的な嗜好と意外な一面に情熱を傾ける自由な気質ゆえの「使いづらさ」ではないかと感じるようになっていた。
「この人が欲するのは上司でも部下でもなく、より自分の興味を満足させてくれる日々の出来事と友人なのだろう」
それらは絶対ではない。これまでの付き合いの中で積み重ねた情報を統合してゴートがたどり着いた一つの結論である。
そのプロスペクターはゴートの疑問に対して曖昧に返答した。
「どちらとも言えませんねぇ……」
プロスペクターはゴートとともにヤンのオフィスに呼ばれ、なんとなく嬉しそうにしている黒髪の最高司令官にそう要望された。
「キャゼルヌ少将が着任するまでの間、ぜひ要塞事務総監代理を引き受けていただけないでしょうか?」
実は、アレックス・キャゼルヌがハイネセンを発つ直前に(宇宙港で)ヤン・ウェンリーに推挙していたのである。
キャゼルヌは、ヤンから事務総監の話が出た時点でめんどくさがり屋の後輩の意図を感知し、有益な先手を打ったのだ。ナデシコ乗員の詳細なデーターを作成したのが「プロスペクター」と呼ばれる人物だとシトレから聞いていた優秀な軍官僚は、彼こそ代理として相応しいと直感していた。
着任早々、オフィスに山積みされた書類群と苦情の数々にさすがに埋没したくないというのが本音である。
プロスペクターはその場で承諾した。10歳近くも年下とはいえ、同盟軍最高の知将に頭を下げられては断ることもできなかった。ヤンが破願してプロスペクターの手をとったときはさすがに苦笑いを禁じえなかったが……
アレックス・キャゼルヌの予想通り、ヤンは着任からずっと要塞に関する事務処理には手着かず状態だった。プロスペクターは引き受けた当日から書類の整理をはじめ、3日後には山積みされた書類群を片付け終わるという辣腕ぶりでキャゼルヌの推挙が正しかったことをヤン艦隊の幕僚に示したのだった。
「いやあ、優秀な将帥の下には優秀な人材も多いという典型例みたいなものだね。おかげで私はずい分と楽ができるというわけだ、うんうん」
「てーとく、自慢げに言うことじゃありませんよ」
ヤン・ウェンリーとユリアン・ミンツの間で以上のような心温まる会話が交わされたかどうかは不明だが、「プロスペクター」という事務処理の達人の存在のおかげもあり、アレックス・キャゼルヌが着任するまで要塞事務関連の業務が滞ることはなかった。
「さて……」
一杯のコーヒーに至福の時を見出した44歳になる男は眼鏡の角度を調えて整然と立ち上がった。
「ではゴートくん、夕食にでも参りましょうか」
後ろ手を組んで歩く中年男の背中に「哀愁」という二文字はまだ早いようにゴートには思えたのである。
「この人は、また何か面白いことを探しているな?」
ゴートの予想通り、謎めいた男は広大なる銀河の一角にて新しい何かを求めていたのである。
そして、ともに数字と格闘することになる「友」との邂逅が一人の中間管理職の男の人生を再び燃え上がらせる事になる。
ホウメイの合図とともに5名の麗しき料理人たちが、それぞれが任された仕込みの準備を始めたのは標準時で10時のことである。
地球時代と変わらず実に手際よく食材の下ごしらえを整えていくホウメイ食堂「日々平穏」の一員たちだったが、その量はハーミット・パープル基地滞在時よりも格段に増加していた。何せ宇宙最強の要塞が抱える人口は将兵だけで200万人を越える規模なのだ。もちろん要塞には軍経営の食堂もあれば民間のレストランも多数存在する。
しかし、「日々平穏」は時間を限定して営業しているとはいえ、その殺到ぶりはハーミット・パープル基地の規模ではなかった。250ある席は午後5時〜10時まで常に満席状態である。嬉しい悲鳴と言うわけにもいかず、さすがに人が多すぎるので営業時間中は民間の従業員を雇い、ユキナやユリアン・ミンツが手伝うことも多い。
「またかよ……」
と嘆くのは元祖ナデシコ乗員たちだった。今や艦隊勤務時のみホウメイの料理を味わえる寂しい状況に置かれていた。
同盟軍最高の知将と同盟軍初の女性艦隊司令官と共に宇宙最強の要塞に赴任して鼻息を荒げていたプロフェッショナルたちに不満があるとすれば、ホウメイの料理をなかなか食べられなくなったことだった。
「いちいち小さいことを言うんじゃないよ!」
ホウメイには一喝されてしまった。彼女はナデシコ艦内ならまだしも、要塞内では平等であるべきだと考えていた。
「200万人の思い描く料理って考えただけでもぞくぞくするね」
自分の仕事は料理を通して軍人たちに生きる意義を見出してもらうことだと確信していた。かつての後悔をしないためにホウメイに妥協という二文字は存在しない。
「そら、よっと」
ホウメイは、野菜ベースのスープをお玉でぐるぐるかき混ぜながらホウメイガールズたちに指示を飛ばし、開店準備を着々と整えていった。
「テンカワが来るまでに大体終わりそうだね」
ホウメイは、今頃は訓練に明け暮れているだろう青年の姿を想像しながらなべに鶏肉を豪快に放り込んだ。これから数時間をかけてじっくりと煮込み、食材のうまみを引き出すのだ。
それはあたかも一個人の成長に例えられるようである。
「今日はどんな顔をして戻ってくるかねぇ……」
ホウメイは面白半分、迷惑半分にくすりと笑ったのだった。
***
ナデシコ乗員の中で最も生活スタイルに変化のあった人物はテンカワ・アキトだろう。何かと巻き込まれる都度に成長してきた今年21歳になろうというエステバリスパイロットは、新たな赴任地イゼルローン要塞にて彼自身の決意と直結する二つの出会いを経験した。
一つは、第13艦隊の宙戦隊長オリビエ・ポプランとイワン・コーネフ。
もう一つは、要塞防指揮官ワルター・フォン・シェーンコップ准将である。
「ほう、お前さんがあのテンカワ・アキトか。噂は聞いている」
自分との初対面時(実際は二度目)の問答より忌々しそうな口調になっているかな?
とユリアン・ミンツが感じたのは決して感性の欠如ではないだろう。珍しくらしくない態度をとってしまったシェーンコップも自分の失態に気がついたのか、その場を仕切り直すように軽く咳払いをし、ひよっこが自分を訪ねてきた理由を訊いた。
「俺を……いや、小官に白兵戦技術を教えてください!!」
防御指揮官は、深々と頭を下げる青年を十数秒間、まるで品定めでもするかのように顎に手を当て、思考する素振りをしてから承諾した。
「ありがとうございます!」
「なに、いいさ。お前さんは見た目より鍛え甲斐がありそうだからな」
ニヤリ、と笑ったシェーンコップの「真意」を理解したのはアキトを連れて来たユリアン・ミンツだけだったろう。なにせ稀代のモテ男はナデシコの美女連中を口説き落とせ
ただし、少年が「真意」と理解したように、シェーンコップが嫉妬したのはほんの短い時間であり、青年が深々と頭を下げた後はガラリと評価そのものを変えたようだった。
「言っておくが俺は甘くないぞ」
「はい、全力でがんばります!」
こうして、アキトはよき教官を得、自分の成長をさらに促すため、白兵戦術と宙戦技術の訓練にユリアンと一緒に励むことになる。
日々模索を繰り返し、自分自身を成長させようと課題に取り組む者もいれば、多忙な日々さえも「エクスタシー」に変えている人物も不謹慎ながら存在する。
ポプランやアッテンボローから見て「ナデシコの連中はちょっと力みすぎなんじゃないか?」という印象を抱いていたので、その人物のノリの軽さは彼らにとって貴重な同類となっていた。
「よーし、てめえら! 2時間以内に此処の電気配線を修復するぞぉ!」
ウリバタケ・セイヤだ。
今年、32歳になる機械屋一筋の男は、「某撃墜王」とは違った意味でイゼルローンの日常を最も堪能している一人だろう。メカの開発や改造に特異な能力を発揮するマッドな機械屋はエステバリス改良の傍ら、要塞設備の修理や改良などなど、次から次へと発生する「活躍の場」に笑いが止まらないようだった。
ウリバタケの部下たちもすっかり上司色に染まったのか、存在そのものが技術の塊であるイゼルローン要塞での生活を大いに気に入っていた。
ここ最近の取り組みは、実験的に同盟艦隊に装備予定になっているディストーションブロックシステムの開発だった。
恐ろしいことに現時点で完成品が複数出来上がっており、あとは同盟艦艇に実際に設置して試験運用する段階にまで至っている。
「最初はなにかと不安に駆られたものですが、凄いメカニックマンがいたものですなぁ」
「小官も同意します。ありきたりの材料で故障箇所をあっというまに修理するなんて神業ですよ」
規律にうるさい参謀長と巨漢でモミアゲの長い副参謀長に見直されたナデシコ整備班班長だったが、マッドマンは胸に秘めた「野望」を虎視眈々と狙っていた。
「イゼルローン要塞トランスフォーマープロジェクト」
「男のロマン」とウリバタケは宇宙に向って呟いた。うっかり公言してしまってからは周囲に注意を払われているが、ウリバタケはまるでその気もなくなったかのように振舞いつつ、イゼルローン要塞の設計図をどこからともなく手に入れ、夜な夜な部下とともに計画を練っている──らしい。
なんといっても彼は忙しいのだから……
しかし、イゼルローン要塞の「ロボット化」など、タカスギのスパルタニアンを勝手に改造(タカスギは3日間ほど立ち直れなかったらしい)することなどより、かなりの非実現性がともなう──
──はずだが?
「ふふふふふ、それはどうかな?」
マッドにほくそえむ男の野望を阻もうとする者は、今のところまともに存在すらしていなかった。