とある一室でその男はウイスキーボトルを流し込むようにあおっていた。
ちょうど数分前にラインハルト・フォン・ローエングラム候なる金髪の帝国元帥とその腹心である赤毛の上級大将が部屋から退出したばかりだった。
男は、任務を承諾した後も強い酒をあおっていた。口元からこぼれたアルコールが粗末な囚人服に流れ落ちてしみこむが、どうやら飲まずにはいられないようだった。
──数日前、突然辺境の矯正区から拉致された男は、首都星オーディンに連行されるないなや、この薄暗い部屋に連れて来られ、そのまま待っていると現れたのは豪奢な金髪の若者と長身で赤毛の若者だった。
帝国元帥ラインハルト・フォン・ローエングラムと名乗った金髪の若者は、戸惑う男を無視して唐突に一冊のファイルを机に放り投げた。
「何だこれは?」
ややろれつの回らない口調で男は尋ねた。金髪の元帥が向けた視線は冷たい。
「これは同盟でクーデターを起こすための計画書だ」
男がその意味を理解するのに数秒間が必要だった。
「クーデターだと? なにを言い出すかと思えば……無理だ、無理に決まっている」
「いや可能だ。この計画書通りに実行すれば必ずクーデターは起る」
「はんっ! もし失敗したら俺の命はない」
なら死んでしまえっ!
とラインハルトの言葉は容赦がなかった。
8年前、エル・ファシルの民間人300万人を見捨てて逃亡した挙句に帝国軍の捕虜になった卑怯者のお前に存在価値があると思うか、とラインハルトは吐き捨てた。
「そうさ、俺は卑怯者の卑劣漢さ……」
男には何も残っていなかった。罵られ、侮辱され、差別され、名誉などとっくに下水に流されている。人間性さえも否定されていた。同盟にあった家族や親族は離散したという……
俺はここまで辱められる存在なのか……
どうしてここまで辱められた!
男は最終的にラインハルトの任務を受諾した。作戦成功の後は帝国軍少将の地位と引き換えである。
アルコールでぼやけた視界の向こうに復讐めいた闇が広がっていた。
「いいだろう、俺はどこまでも卑怯に生きてやるさ」
乱れた白髪と無精ひげにまみれた酒気漂う男の名を元同盟軍少将アーサー・リンチといった。
T
帝国歴488年の新年は、双方における対立と思惑の進捗にかかわらず、表面的には何事もなく準平和的に過ぎ去った。官舎で部署で元帥府、または自宅、またはそれぞれの邸宅において幸福な「乾杯!」を連呼したのである。
その余韻が一通り冷めると、銀河帝国において二つの勢力たるローエングラム候ラインハルト・帝国宰相リヒテンラーデ公の新体制と旧体制支配にこだわる門閥貴族たちによる、それぞれを打倒する動きが激しく蠢動し始めていた。ある者は作戦を練り、ある者は艦隊整備に力を注ぎ、ある者は諜報活動に従事し、またあるものは高級ブランデーを片手に決起日を話し合ったのである。
──1月──
帝国軍宇宙艦隊司令長官ラインハルト・フォン・ローエングラム候の腹心にして無二の盟友ジークフリード・キルヒアイス上級大将のオフィスには「重大な用件があります」との呼び出しを受け、3名の高級幕僚が勢揃いしていた。
3名は赤毛の上官を待っていたのだが、開始10分前に副官であるジンツァー大佐が現れ、元帥府への用で15分ほど遅れることが伝えられると、話題は以前のように現状におけるそれぞれの意見交換となった。
「もっとも大きな懸念は同盟軍の動きであろうな」
まず最初に発言したのは年長者たるハンス・エドアルド・ベルゲングリューン少将だった。風貌は山男のような赤茶色の髭に顔の大半を覆われた30代半ばの帝国軍人である。見事な髭を蓄えているが、これにはちょっとした「噂」があって、彼が髭を蓄えているのは「新兵と間違われるほどの童顔らしいから」というのである。
さすがに「新兵」とは言い過ぎと思われるが、長年付き合いがある親友も「そういえば会った時はすでに髭面だったな」という証言をしており、疑惑は深まりつつあった。
しかし、貫禄を得るために軍隊では髭を蓄えるものは多く、なにもベルゲングリューンだけではないのだが……
その噂について本人は何も語らない。
「耳に入っていない可能性がありますね」
とは、闇のゴシップの究明委員長らしい砂色の髪と瞳をもつ青年提督の独り言だったりする。
「ベルゲングリューンの懸念はローエングラム候もすでにお考えの事と思うが、侵攻作戦に挫折して大きな損害を被った同盟が我々の内乱に介入してくるなどありえるだろうか?」
フォルカー・アクセル・フォン・ビューロー少将が親友の提示した問題に意見を述べる。きれいに撫で付けられた頭髪と二重に割れたあご、胸板も肩幅も広い帝国軍人だ。彼は親友に掛けられた「噂」については知っていたが、たった一度のうっかり証言以外は沈黙を守り通している。
熟考するようなしぐさで答えた人物はヴェルター・エアハルト・ベルトマン少将だった。短く整えられた金髪と時折鋭光する青紫色の瞳を有する今年30歳になろうという青年提督である。
ベルトマンは、イゼルローン要塞が同盟軍の智将ヤン・ウェンリーによって奪取されたとき、敗北した駐留艦隊の残存兵力をまとめてオーディンに帰還。後にキルヒアイスの幕僚となって帝国領に大挙して侵攻した同盟軍への反攻作戦で分艦隊を指揮し、決戦の地となったアムリッツァ星域において味方の窮地を抜群の戦術眼で救って勝利に貢献している。
そして、<戦艦ナデシコ>と最初に接触をした人物でもあった。
「貴官のみるところは小官も正しいと思う。問題はその確率と可能性にいたる条件だが」
と言って腕を組んで考え始めたのはベルゲングリューンだった。ビューローも同意見なのか頷いている。
同盟軍の戦力は半減したとはいえ、なお五個艦隊が首都星に控えているという。だが、その艦隊の他に最も注目される二個艦隊がイゼルローン要塞に駐留している。
帝国にとって「鬼門」の代名詞になりつつある2人の名将が率いているのだ。
「魔術師ヤン・ウェンリー」と「アムリッツアの魔女ミスマル・ユリカ」である。
帝国軍はこの2人が指揮する艦隊の奮闘によって同盟軍に決定的な打撃を加えることができなかった。
逆に帝国軍は戦略的な優位を生かしきれず予想を上回る損害を被ってしまった。ビッテンフェルト提督率いる黒色槍騎兵艦隊は壊滅的な被害を受けて現在は再建途上にある。完全に陣容を整えるにはあと数ヶ月を要すだろう。第14艦隊と第13艦隊に挟撃された形のメックリンガー艦隊も痛撃を被り、麾下の3割強を失った。そのほかの艦隊も予想を上回る損害を出したのだった。
「たしかに我が軍は予想を上回る損害を被ったが、運用と実戦行動に支障をきたすレベルではない。同盟側の方がより損害が大きかったのは揺るぎようのない事実だ」
ベルゲングリューンが言うように、実際問題として同盟軍が帝国の起るべき内乱に乗じて「再侵攻」は国力と損害の大きさからありえないだろう。
「ただ、ちょっかいを出されるのは厄介ですね」
ベルトマン少将の問題提示は、ラインハルト陣営が門閥貴族と気兼ねなく戦う上で最重要課題と言ってもいい。内乱に乗じて同盟が戦術レベルではなく戦略レベルで介入してくると戦火が長引くばかりか、同盟側の手腕によっては帝国の戦力を疲弊させ、漁夫の利を占めることが可能なのだ。
つまり、ラインハルト軍と門閥貴族軍を五分五分で戦わせ、いずれかが疲弊、または双方が疲弊したところを待ってまとめて撃つ、という策略で介入されるのが一番恐ろしいのである。
そうなるとベルゲングリューンたちの話は自然と同盟に介入させないための手段に移る。
どちらかというと、豪奢な金髪の元帥がいかなる策を立てているのかという話になるのだが、3名ともその有効な手段に想像が及ばない。
唯一、「外交」という方法が意見の一致をみたものの、これは後々問題になりかねず、同盟が大人しくしているか大いに疑問だった。
もう一つ、イゼルローン回廊の帝国側出口を艦隊によって塞ぎ、同盟の軍事行動を防ぐという手段も考えられるだろう。
残念ながら机上の案である。貴族側の戦力は推定ながら帝国に侵攻した同盟軍に匹敵するか上回るとされている。ラインハルトの保有する戦力も同じくらいだから戦力を割くことなどできはしない。
もし可能だったとしても、貴族側が割いた戦力に釣られて出撃し、より状況を混乱させる可能性がある。
いずれにせよ「大穴」がありすぎるのである。
「まったくだ。戦術レベルではなく戦略レベルで同盟の出鼻をくじかねばならないわけだが……」
三人が三人とも思考の停滞に陥りかけたところで司令部オフィスのドアが開いた。
「みなさん、お待たせして申しわけありませんでした」
感じのよい声と穏かな顔をした上官が丁寧に一礼して現れたのだった。
驚いてやや身を乗り出す高級幕僚たちに、ジークフリード・キルヒアスはやわらかく頷いた。
「双方が抱えるそれぞれ200万人以上の捕虜交換です。帝国国内の矯正区にある捕虜全てが対象です」
3名は意表を突かれたように説明を聞いている。
「ローエングラム候は非公式に帝国宰相より許可を得ており、近日中に軍使がイゼルーローンに派遣されることでしょう」
キルヒアスは幕僚たちのさらなる驚きを眺めつつ、説明を続けた。
「決定後、一部の矯正区からはすでに捕虜の移動を始めております。我々は各星系に散らばる収容所から捕虜を輸送・護衛する任務につくことになります」
淡々と説明するキルヒアイスに比べ、ベルゲングリューンらはまだどこか虚をつかれた様子だった。なぜこの時期に? という疑問は当然ながら、特に次に発せられた上官の言葉は彼らの興味と興奮を際立たせた。
「捕虜交換における全権は私に委ねられています。交換式の際は私が代表として調印式に臨むことになるでしょう。その地はおそらくイゼルローン要塞になるかと」
ベルゲングリューン、ビューロー、ベルトマンは、自分でもよくわからない高揚感に戸惑いながらお互いに視線を交わしあった。
キルヒアイスの言うことが現実になれば、幕僚として彼らはイゼルローン要塞を守備する2人の名将を目の当たりにすることになるのだ。
一人は、イゼルローン要塞司令官兼駐留艦隊総司令官ヤン・ウェンリー大将。
一人は、駐留艦隊副司令官兼第14艦隊司令官ミスマル・ユリカ中将。
前者については、もはや語るまでもないだろう。容姿についてもフェザーンの高等弁務官事務所を通じておおよそ伝わっている。軍人らしくない学者のような風貌だという。
問題は後者だ。前哨戦とその後に続いたアムリッツァ星域会戦での手腕から帝国軍に強烈な印象を残すに至っていた。その容姿は20代の女性としか伝わっていない。
イゼルローン要塞に赴けば謎のヴェールに包まれた女性艦隊司令官の素顔をより知ることができるのだ。
──と同時に、ベルゲングリューンたちは赤毛の上官の説明が奇妙であることに気がついていた。これから軍使を派遣するというのに、すでに同盟が了承したかのように話しているではないか?
キルヒアイスは、部下たちの疑問の視線に気がついていた。
「同盟にはこちらからの申し出を断る理由がありません」
同盟の政治体制は共和制だ。市民から選ばれた人物が代表として国家を運営する仕組みである。
「同盟はアムリッツァ後に帝国と同様に政権が交代し、今は暫定政権が樹立しています」
その暫定政権が正式な政府になるための「選挙」が近々行われる予定だという。
「帝国軍の捕虜に参政権はありませんが、同盟軍の捕虜には参政権があります。200万以上の票を得るために同盟政府は喜んで捕虜交換に応じるでしょう」
だから同盟の権力者たちは「人道主義」を持ち出して捕虜たちの帰還に躍起になるだろうと。あくまでも軍隊同士のやり取りということになるが……
「理由はまだありますが、以上のことが挙げられるでしょう。ですが、私としては多くの将兵たちを生きて故郷や家族に帰してあげられるという一点おいても、捕虜交換には大きな意義があると思います」
まさしくそれこそがジークフリード・キルヒアイスという若き提督の本音であろうことをベルゲングリューンたちは感じていた。
──感じた上で、彼らは近い未来に実行されるであろう人道的な交渉の裏に何事かがあると読み取っていた。
尋ねるべきか?
三人が迷っていると、それを察したようにキルヒアイスが口を開く。
「今はまだ詳細を話すことはできませんが、その成功の後、私たちは来るべき国内有事に全力を投じることになるでしょう」
幕僚たちはわずかに息を飲んだ。赤毛の上官が示唆する内容を大筋で予想したのである。
「それから、捕虜交換については数日のうちに正式に司令長官より通達されることになっています。それまでは口外なきよう」
幕僚たちがうなずくと、キルヒアイスは持参していた書類をそれぞれに渡した。
「これは捕虜交換を円滑に進めるための計画書です。今すぐにでも帝国中にある矯正区から捕虜を迅速に集めねばなりません。まず、大筋の流れから説明したいと思います。一時間ほどお時間をいただきます」
ベルトマンたちは書類に目を通す。キルヒアイスの説明が始まる中で、彼らは上官の暗示した策略に内心で疑問に駆られていた。
本当に同盟で内乱を起こすことなど可能なのか、と……
V
帝国軍が同盟軍に捕虜交換を申し出たという情報はすぐにフェザーンに伝わった。フェザーンの独立商人たちは儲けの臭いをかぎつけて早々に行動に移る者も少なくない。
「ったく、こういうときこそチャンスだっていうのに、よりによって別の用件でハイネセン行きだぜ」
「酒保ドラクール」のカウンターで一人のフェザーン商人が面白くもなさそうに事務長に愚痴をこぼしていた。ボリス・コーネフである。やや薄めの金髪といかにも度胸のありそうな顔をしている。
「まあ、それは仕方がありませんよ。二回目の調査結果を直接アカツキ社長に届けに行くわけですからね。報酬もいただけるんですから文句言うスジじゃないでしょう。こう言うのも何ですが、これってチャンスだ私は思いますけどね」
マリネスクが雇い主をなだめるように建設的な意見を述べたが、なかなか芽の出ない若きフェザーン商人は実に不愉快そうに顔を背けた。
「アカツキ社長か……まさかあんな若造がエリオル社のトップになるとは予想外だったぜ」
「おや、そうでしたっけ? 彼を船に乗せたときは、出世するやつだと褒めてましたよね?」
「はんっ! ヤツが苦労して手に入れた地位なら文句は言わんねえよ。いきなり社長だぞ、ええっ!?」
完全に嫉妬だなとマリネスクは思った。主は度胸とか気概とか向上心は十分あると思うのだが、計画性と野心がいま一つ不足気味だ。姑息な手段が嫌いという側面も商人としての資質に問題があるかもしれなかった。
とはいえ、スジを通す主をマリネスクは気に入っていた。
「まあ、いずれにせよ仕事を選べる立場でもないでしょうに。しっかりと明日には出発できるように船の点検でもしておいてくださいよ」
「ふんっ!」
とだけ吐き捨てるように言うとボリス・コーネフは飲み代を珍しく払い、颯爽とは言い難い足取りで酒場を後にした。
◆◆◆
フェザーン自治領主アドリアン・ルビンスキーの関心ごとは目下のところ二つある。銀河帝国の情勢とイゼルローン要塞の守備に就いた2人の提督の動向だ。前者はほぼ毎日のようにその様子が伝えられている。その国内は水面下の緊張が表面にも漏れ出しており、片時も目が離せないでいた。ローエングラム候勢力と門閥貴族の対立は決定的だ。
門閥貴族の中心人物であるブラウンシュバイク公やリッテンハイム候は、フリードリヒ四世の急死にともなう帝位継承が自分たちの野心通りに進まなかったことで、大いなる不満を抱いている。
野心が崩壊したことで両者は手を結び、ローエングラ候とリヒテンラーデ公の枢軸新体制を打倒しようと動きを強めていることだろう。
そんな情勢下で捕虜交換を同盟に申し出たローエングラム候の思惑について、ルビンスキーは激しく知的好奇心を刺激された。
もっとも、アスターテ会戦時にラインハルトのとった戦法を見事に言い当てた男にとって、その狙いを読むことは比較的容易だった。
容易ではあったが、それを成功させるプロセスをいかにするか……
そうなるとルビンスキーにも簡単に察しがたい。策略などというのは思いつくよりも、それを現実レベルで実現させるほうがはるかに困難なのである。
イゼルローン要塞が奪取されていない以前ならば、同盟に張り巡らされたスパイ網を駆使してあれこれ工作も可能だったろうが、ヤン・ウェンリーによって要塞が陥落したときにスパイ網も同盟に知られてしまい、ほとんど壊滅してしまっている。
捕虜交換を隠れ蓑にして工作員を同盟に送ることまでは想像できる。ただ潜入させたあと、どうやって内乱を起こさせるのか。
同盟内部が一枚岩であるなどルビンスキーは当然考えていない。いくらでも火種はある。その火種を短い時間でいかに発火させ拡大させるのか、そこが現実レベルで簡単ではないのだ。
W
ルビンスキーは、40代とは思えないたくましい身体を揺らして椅子から立ち上がり、端末を通してしばらく誰も室内に入れないよう警備員に厳命した。そのまま後方にある本棚の一部に手を掛けると、それが自動的に左にスライドして隠された空間を出現させる。
ルビンスキーが空間に足を踏み入れると同時に後方の入り口が塞がって暗闇に包まれるが、すぐ目の前の空間に光が差したかと思うと、そこには黒い長衣に全身をすっぽりと覆れたしわも深い老人が杖に両手を乗せた姿で立っていた。
ルビンスキーは立体ホログラムに向かってうやうやしく一礼した。
「総大主教猊下、ご機嫌うるわしくなによりでございます」
言ったほうの本心もさることながら、言われたほうの老人も感銘を受けている様子はカケラもなかった。
「形式的な挨拶などよい」
老人らしいしゃがれた声ながら、威圧的な威厳に満ちていた。
「帝国のほうから同盟に捕虜交換の申し出があったそうだな……」
早い、とルビンスキーは内心で唸った。
「さすがは総大主教猊下、すでにご存知とは恐れ入りましてございます」
ルビンスキーの賞賛にも老人は一切の感情を表に出すことはなく、ただ一回頷いただけだった。
「ルビンスキー……」
ルビンスキーに何かを問うように、フェザーンの黒幕の主である老人の腕が伸びる。
「ルビンスキーよ。帝国の捕虜交換、そなたはどう見る?」
「と申しますと、ローエングラム候の意図ということでございましょうか?」
「そうじゃ。あの金髪の孺子が国内の騒乱前になぜ捕虜交換など悠長な申し出を行ったのか、そなたの意見を聞きたい」
大主教の質問にルビンスキーは曖昧に答え、同盟の出方については言及を避けた。
「まあ、よい。そなたの言うようにしばらくは様子を見るとしよう。我らが母なる地球が主権を回復するためには両陣営の弱体化ほど望ましいことはない」
頃合いだな、とルビンスキーは相槌を打っておいて本題に入った。
「して、総大主教猊下、例のナデシコの件はいかがでしたでしょうか?」
しばらく、ルビンスキーの姿をじっと眺めていた老人のホログラムは不意に言葉をつむぐ。
「その姿は間違いなく、かつて地球政府に逆らった戦艦ナデシコであろう」
ルビンスキーがことさら頭を下げたのは表情を悟られないためだった。
「ほほう、実に奇怪なものでございますな。1000年以上も前に消息を絶った戦艦であると猊下はおっしゃりますか?」
「そうとは言っておらぬ」
老人の声は低い。
「あれがなぜあの姿で存在するのか、その答えにたどり着くための資料はこちらでもまだ見つかってはおらぬ。あるいは同盟が過去の技術を現代に模倣したとも考えられる」
「たしかに仰るとおりですな」
嘘だ。少なくともルビンスキーは技術は別として、同盟がわざわざ被弾しやすい艦型で効率を無視した戦艦を建造するとは考えていなかった。ナデシコの伝説を
知っていたとしても──である。
ルビンスキーが得たナデシコの情報は、今存在する──あくまでも諜報活動の結果であって、その真実にたどり着けるものではなかった。
彼自身はナデシコの姿とそれまでの経緯を含め、その存在に疑問を持ってはいたが、疑問が晴れるほどの資料はフェザーンのデーターベースにも存在していなかった。
そこでルビンスキーは、ナデシコの情報をその始まりである地球──すなわち地球教に伝え、より真実に近づく情報を求めたのだった。
もちろん、ナデシコがいまだ秘匿された存在であったならば、彼はこのカードを切ることはなかったであろう。
しかし、アムリッツァ星域会戦においてナデシコ率いる第14艦隊が活躍したことでそれが公になり、隠すこと自体が意味を成さなくなったのだ。
より確信と真実に触れる資料が地球教本部に眠っていることをフェザーンの黒狐は期待していたが、どうやらそれは外れたようだった。
いや、それとも……
黒衣の老人と黒狐の視線がお互いの腹の内を探るように絡み合ったが、総大主教のホログラムがブレたと同時にそれは終わりを告げる。
ルビンスキーは、これで通信を打ち切ろうと頭を下げたが、別の話題を総大主教が持ち出した。
「ルビンスキーよ。最近、地球圏で頻繁に目撃されている黄金の箱については耳にしているか?」
ほんの一瞬だけルビンスキーの眉がわずかに折れる。
「商人たちがなにやら騒いでいることは知っております。ただ、異星人の偵察機だのハルマゲドンが近づいているなどと、無責任な風説を立てる輩もおりまして対応に苦慮しているところです」
ルビンスキーの演技は完璧だった。
「そうか、知っておったか」
「なにかよからぬ事でも?」
「いや、我らも調査中じゃ。今は何もわからぬ」
総大主教の表情もまったく内が伺いしれなかった。
総大主教は、引き続き調査を行うことを約束し、通信の最後に不気味な視線を投げつけて念を押した。
「銀河は大きく動きつつある。ルビンスキーよ準備を怠るでないぞ」
直後に立体ホログラムが消滅し、空間が暗闇になった。
一礼したまま、ルビンスキーの口の端は狐のように吊り上っていた。
惑星フェザーンには、帝国の捕虜交換の報に単純ならざる好奇心を抱いている元門閥貴族出身の少女が存在した。陽光に映える腰まで届く金髪、思わず覗き込んでしまうほどの宝石のような深碧の瞳、肢体はみずみずしいまでの若い生気にみなぎっていた。
その少女の名をマルガレータ・フォン・ヘルクスマイヤーといった。
少女は冬でも四季の花々に囲まれた温室の中でお茶を楽しんでいたが、円卓の周りをくるくると踊るように回る姿は天使かお姫様が浮かれているようにしか映らなかっただろう。
「お嬢様……」
そんな最中にうっかり足を踏み入れてしまった人物がいた。4年前の亡命時は少女の後見人として、現在は執事と秘書を兼任しているような元帝国軍少佐ランツ・フォン・ベンドリングである。中肉中背の尋常そうな容姿をした男爵家の三男坊出身であり、亡命後はマルガレータを助けてその地歩固めに奔走し、彼が感じているよりも大きな信頼を抱かれていた。
「お嬢様……」
二度目の呼びかけでマルガレーターはベンドリングの存在に気がつくと、踊るのをやめて一瞬にして硬質の美貌に表情を変化させる。少女はフリルの付いた黒っぽい服をひるがえし、何事もなかったかのように円卓を囲むイスの一つに腰を下ろした。
「何の用じゃ?」
ベンドリングがありがたかったのは、マルガレータが「見たな!」などという古典的な台詞で脅してこないことだった。
とはいえ、実に微笑ましい光景に遭遇したにも関わらず、罪の意識を感じてしまうのだから少女の平然さが逆に恐ろしくもあった。
無言の圧力というやつだ。ベンドリングが呼吸を整えるのに10秒ほど必要だった。
「実は、帝国軍が同盟に捕虜交換を申し出たという報せがつい先ほど入ってきました」
ベンドリングが報告するまでの間にマルガレータは紅茶を注ぎ終わっていた。
少女は優雅に腕を伸ばしてティーカップを手に取る。
「そのことならすでに知っておる。ついさっきグレーシェルから聞いたぞ」
「はぁ……」
そういえばここに来る途中で彼とすれ違ったな、とベンドリングは思い出し、黙っていれば色男の工作員が嬉しそうに外に出て行った姿が気になった。
「まあ座れ」
尋ねるより先に席を勧められたのでベンドリングも腰をおろす。
「さすが中佐ですね。情報が早い」
「ふむ、優秀……な工作員……じゃな」
間が空いたのはグレーシェル大尉が妙な部分でうっかりするからだろう。
「それで、私がなぜ騒いでいたのか気になるじゃろう」
先手を打ったのはマルガレータだった。はずかしい場面をベンドリングにそれとなく訊かれる前に自分から白状しようというのだ。ただしベンドリングはマルガレータの淹れた紅茶を飲んでいる最中であり、すぐには声がだせない。相手に発言させないタイミングを少女は計っていたようだった。
「それは捕虜交換をするローエングラム候が、いよいよ貴族たちと武力闘争に乗り出す覚悟を決めたからじゃ」
「!!!!」
ベンドリングの無言の驚きは、予想された事態に対してではなく、「捕虜交換」というカードが武力闘争への決意の表れだと読み取った少女の聡明さだった。
もともと4年前の出来事や亡命後の度胸と利発な面からただの令嬢ではないと思っていたが、その優秀な視野もさることながら神秘的な第六感のようなものを備えてるのではないかと本気で信じたくなる。
「ですが、なぜあえてこの時期に捕虜交換なのでしょう。まだ貴族たちは決起していません。私のような非才の身にはローエングラム候の意図は計りきれません。お嬢様はおわかりになるのですか?」
「まあな」
と実にあっさりすぎる返答が返ってきた。ベンドリングは内心で降参していた。
「ローエングラム候の考えは国内事情に照らし合わせただけでも三つほどあるな」
(一) ローエングラム候の戦力は貴族たちと戦うだけで一杯一杯である。
(二) 一から、まず不確定要素となりうる捕虜を国外に退去させる必要がある。
(三) 二によって不確定要素の煩わされず、かつ200万という戦力を手に入れて貴族連合と存分に戦うことができる
「──まあ以上じゃな」
銀河帝国で勃発しようとしている有事──内戦は旧体制派と新興勢力派による権力闘争だ。勢力を二分する帝国最大の内戦になることは必至であり、全土を巻き込むことになるだろう。
そうなると捕虜たちに関わっている場合ではなくなる。もちろん殺すわけにもいかないし、放置しておけるほど捕虜たちが大人しくしているはずがない。放置すれば内乱を引き金に各矯正区で暴動が発生するだろう。
特に捕虜たちが各矯正区ごとに連合してあちこちで騒がれれば、混乱が拡大するばかりか同盟軍を無条件に呼び込む口実を与えかねない。
「侵攻作戦で痛手を受けておいてまさかと思うじゃろ? じゃが歴史とやらの紐を解けばありえんことではない」
内戦に第三国が介入して漁夫の利を占めることである。
マルガレータは鋭い洞察を示したが、ベンドリングは少女の言葉の中にもう一つ非常に重大な課題を示していることに気が付いた。
「お嬢様、たしか国内事情とおっしゃったように思いましたが、捕虜たちが帝国からいなくなっても同盟が介入してくる可能性は高いのではありませんか?」
もしイゼルローン要塞にある2人の提督が乗り込んでくれば厄介という二文字では片付けられなくなるだろう。少女の言ったように帝国は第三者によって共倒れさせられてしまう。
マルガレータは、その問いを予想していたのか実に余裕のある表情をしていた。
「ふむ。捕虜交換は外的要因に対抗する謀略も兼ねておるはずじゃ」
外的要因=同盟の介入であることは間違いない。
ベンドリングは、唾を飲み込んで数秒間、自分を落ち着かせることに集中した。
「いったいローエングラム候はなにを仕掛けようというのです?」
少女は、本気で尋ねる元帝国軍人に悪戯っぽい微笑をひらめかせた。
「教えてやってもよいが大きな声を出すでないぞ」
「ええ約束します」
「ならちょっと耳を貸せ」
美少女の魅惑に満ちた唇がベンドリングの耳元でささやいた。
数秒後……
「ええっ!……ぐぅ……」
ベンドリングは両手で口を塞いだが、ほとんど約束を破ったようなものだった。
たわけ、と言いたそうに深碧色の瞳がベンドリングを見据えている。
「それほど驚くことでもあるまい」
大げさだとマルガレータはあきれた。
「ですがお嬢様、本当にそのようなことが可能なのですか?」
ベンドリングが疑問を口に出したとき、少女の凛然とした美貌がさらに硬質化したように思われた。
「本当にそう思うか? 同盟の現実がどうなっているか、それはお前と私が実際に見てきたではないか」
立ち上がってベンドリングに背を向けたその後姿は、何も知らないも者が見れば年相応の華奢な肢体だと感じたことだろう。
しかし、少女が生きてきた14年間は決して「華麗」とか「豪華」とか華やかさだけで語られるものではなかった。両親親族を政争と事故で失い、暗殺の脅威に直面して故郷を脱出し、それまでの政治体制とは間逆の社会体制に亡命したのだ。憎悪、妬み、悪意、偏見と戦いながら、時には挫折や失望を味わって亡命後の4年間を生きてきたのだ。
ベンドリングの見た少女の背中は、華奢ながら強固な意志の結晶と単純ならざる感情を背負っていた。
「お嬢様……」
ベンドリングがそれ以上言葉に詰まっていると、場違いなほど陽気そうな声が温室の入り口から聞こえてきた。
「ベンドリングさん、抜けがけはいけませんねぇ」
ベンドリングは、気取りながら歩み寄ってくる金髪碧眼の青年に「心外だ」とばかりに顔をしかめてみせた。
「お嬢様、あなたの忠実なる騎士カルパス・グレーシェルが役目を果たしてまいりました」
工作員でありながら貴公子然とした青年は、マルガレータの前で演出過剰な一礼をすると、手に持っていた白箱を円卓に置く。それはフェザーンでも有名なスィーツショップの箱だった。
「ご苦労じゃったのう」
「いえ、お嬢様のためならこのくらいのことは喜んで」
どさくさにまぎれてマルガレータの手をとろうとしたが、少女は直前に手を引いて代わりにケーキ皿とフォークを持ってくるよう、一向に帝国軍人らしくない青年に命じた。
「不肖グレーシェル、喜んで行ってまいります!!」
ベンドリングは、投げキッスをする青年を見送りながら、すまし顔で椅子に座る少女に訊いた。
「彼にケーキを買って来させたのですか?」
そうじゃ、とマルガレータは遠慮なく断言した。
それに続く氷のような微笑がベンドリングに一抹の不安を抱かせた。
「ささやかな前祝いじゃよ。貴族体制の終わる第一歩が示されたのだからな……」