第21話
――スワラージ作戦編 プロローグ
闇が広がっていた。
地に灯りはなく、天に月や星々の煌きはない。
あるのは漆黒の闇だけであった。
四方を緞帳で仕切られたかのように、人工的なまでに均質な無明の暗黒。それが、どこまでも広がっていた。
光なくしては、網膜には何も映らない。つまりは、人間の目では何も見えない。
そのはずであった。
しかし、闇に蠢くものの輪郭が、少女の網膜に像を結ぶ。
射し込む光などないというのに、それが作り出す影がゆらめいているのがわかる。
まだ50mほどは離れていようか。
胸部と腕だけを見れば、人間に見えなくもない。
下半身は、新種の蜘蛛と強弁できるかもしれない。
しかし、それらが合わさって一つの個体が形成されているとき、それを形容できる言葉はそう多くはない。
すなわち???化け物。
英語風の表現を好む人ならば、モンスターと呼ぶかもしれない。
古臭い言葉になりつつあるが、妖とか魑魅に違いないと決めつける人もいるかもしれない。
そう呼ばれても仕方ないほど不気味で、吐き気を催すほどに不自然で、どうしようもないほど不快感を掻き立てる存在であった。
もっとも。
彼女は、もっと適切な固有名詞を知っていた。
一般市民には秘匿されていた情報であったが、それは一部の専門家の間では有名であった。
つい先日、存在が確認されたばかりのそれを、戦いを生業とする者たちは、嫌悪感を込めて、こう呼んでいた。
兵士級、と。
BETA、すなわち人類に敵対的な地球外起源種にあっては、最弱のカテゴリーに属する属種である。
運が良ければ、銃火器を持った生身の人間でも対処できるかもしれない、人類の敵である。
だが、彼女は寸鉄さえも身に帯びていなかった。
兵士級は、人間の数倍の膂力、瞬発力を持つ。
つまりは、捕まったら終わり。
逃げるにしても、相手はヒトよりも遥かに素早い。
おまけに、彼女の肉体はどう見ても発育半ばであり、身体能力が高いとは到底言えない。
状況は絶望的と言ってよかった。
なのに、未だ幼さを残す彼女の顔に、怯えの色はない。
澄みきった淡い紫の瞳は、茫洋として、いかなる緊張の影も映し出してはいない。
薄い桃色の唇に張り詰めたような強張りはなく、化粧気のない薄紅色の弧は白い肌によく映えた。
頬を形作る表情筋は適度な張りを残したまま、ふっくらと緩んでいた。
その顔に宿る表情は、母の腕の中で微睡む赤子のあどけない笑みのよう。
それは、絶対的な守護者に護られている者のみが持ちうる、穏かな貌であった。
風が少女を撫でる。
後頭部でポニーテールに纏められた深い紫の髪が風にあおられて、たなびく。うっすらと赤みを帯びた先端が、ふわりと広がりながら持ち上がる。
美しい少女であった。
年のころ、10歳前後といったところか。
あどけない面持ながらも、大人びた表情がちらちらと垣間見える。
体と心がバランスを欠きつつも、最後の一線で踏みとどまっているというような危うさが、少女にはあった。
大人でも子どもでもない者のみが見せる、束の間の奇跡と呼ぶ人もいるかもしれない。
その奇跡のような少女と兵士級というコントラストは、馬鹿馬鹿しいほどにアンバランスであった。美女と野獣を好んでモチーフとする画家といえども、決してこれを自らの作品の題材にはしようとしないであろう。
そんな画は、誰もが見たくない結末を予期させ、みる者を不安に陥れてしまう。
だが、仮にそうした不安を抱いたものがいたとしても、その不気味な予想は現実のものとなりそうになかった。
少なくとも、今のところは。
少女の視線の先にいる兵士級は、彼女に気づくことなく、当てもなく蠢いているようであった。
人間探知に優れているとの評判を考えれば、目と鼻の先にいる少女を察知できないなど、考えられないことであった。
だが、明らかに兵士級は、彼女の存在を認識していなかった。
風が吹く。
闇を見通せる者ならば、紅い朧が少女を護るように揺らめいているのが目に入ったかもしれない。
さらに注意深いものならば、その朧が薄らいでいるのに気づいたかもしれない。
それほど注意深くない者でも、朧がなくなるにつれ、少女の顔が強張るのをはっきりみることができただろう。
また風が吹く。
今度は、少し強めに。
少女の綺麗な長い髪がふわり。
いつの間にか、先端まで髪の毛は艶やかな紫一色になっていた。
紅い朧は拡散しきってしまったのか、少女を取り巻くのは黒一色となった。
風が止む。
突然、兵士級が動きを止め、少女の方に顔を向けた。
目と鼻の先に獲物がいるのに突然気づいたようであった。
一呼吸の後に、兵士級は猛然と駆け出す。
少女は、煌武院悠陽は、信じられないという表情をしていた。
兵士級に発見されたことがショックというわけではなかった。
いや、もちろん武器もなく生身で兵士級と対峙するというのは、彼女にだって怖い。
だが、そんな直接的な脅威よりも、紅い気配が空気に溶け込むかのように薄らいでいくのが、たまらなく彼女には恐ろしかった。
兵士級の輪郭が今やはっきりと見える。
恐ろしいエネルギーを秘めて躍動する筋肉の動きまで見極められる。
不気味な顔にいかなる表情も浮かべることなく、兵士級は迫ってきた。
もはや、逃げられない。
兵士級は、生身の人間よりはるかに速い。
だが、逃げようという気すら、悠陽には起こらなかった。
10年にわたって、彼女の一部であり続けた、紅。それは、彼女にとっての生の象徴、温かい血潮そのものであった。
血がなくては、肉体は維持できない。
たとえ、骨に欠損がなくても。
たとえ、皮膚がどこも破れていなくとも。
――ハマーン……どうして……。
絶望を湛えた瞳から、涙が溢れる。
――どこに行ったというのです……。私を……私を見捨てるというのですか……。
二人で希望を忘れたこの世界に光をもたらそう。そう誓ったというのに。
それなのに、なぜ何も言わずに消えるのか。
覆いかぶさるように襲い掛かってきた兵士級が、闇よりも昏い影を作り出す。
見上げれば、ヒトそっくりの、グロテスクなまでに大きい口が勢いよく迫ってくる。
この兵士級が、人体をもとに作り出されたものであることを、彼女は知っていた。
死ぬのは怖い。
誰に知られることもなく、生きたままBETAに喰われるのは恐ろしい。
だが、何も成し遂げることなく、無為に三度目の生を閉じることが、何よりも悲しかった。
一滴の涙が頬をつたって、幼さの残る顔に一本の透明な線を引く。
――どう……し…て……。
掠れた声で呟こうとしたとき、腰を鋭い痛みが襲った。
声ならぬ悲鳴を上げて、悠陽は飛び起きた。
肺の要求に応えるためか、小さな口から空気が勢いよく飛び込んでは吐き出される。
呼吸と呼ばれる、ほとんどの生物にとって生命を維持するために必要な当たり前の行為。
激しい運動を行ったわけでもないのに、肺は限度を知らないかのように、もっと酸素を取り込めと小さな口に求める。
息が荒い。
酸素を全身に行き渡らせるためだろうか、心臓も早いテンポで勢いよく血を送り出す。
全力疾走をしたかのように、頬はうっすらと薔薇色に色づき、額は湿っていた。
いや、額だけではない。
体中、汗をかいたのだろう。
水分を吸った寝間着が幼い肢体に張り付く。
かすかに膨らみだした胸が、呼吸にあわせて前後に動くのが遠くからでもはっきりと見える。
外気を吸い込んだ寝間着は、急速に温かさを失っていった。
腰から下はまだ布団の中だからいいが、上半身が冷たく、気持ちが悪い。
最近は、めっきりと秋めいてきて、朝晩は冷え込む。
寝間着を脱いで、汗を拭おう。
そう思って、布団から起き上がろうとすると、
――どうした。息が荒いぞ。
と問い掛ける声がある。
冷たい声色ながらも、聞き慣れた者ならば、そこに気遣うような機微をかすかに感じ取ったかもしれない。
不安という名の形定かならぬ魍魎を吹き飛ばすだけの魔力を秘めた声であった。
ほんの先ほどまで脳裏を埋め尽くしていた恐れが、退いていく。
――いえ……。少し悪い夢にうなされただけです。
声なき声に応えながら、布団から立ち上がって、わきに置かれた手ぬぐいをとる。
額に張り付いた前髪をかき分けながら、顔の汗を拭きとると、気分が落ち着いてきた。
すると、今度は熱を奪う湿った寝間着が気になる。
冷たくて、寒い。
悠陽はするりと帯をほどいた。脱いだ寝間着は重力にしたがって、足元にぱさりと落ちる。
肌に残った水滴が、熱を奪って空気中に溶け込む。
寒さが身に沁みる。
気温自体は、まだそこまで低くないはずだが、汗というのは躰を冷やすために滲み出るものだ。運動によって体内に熱が籠もっているわけでもないのに、大量の汗をかいたのだ。皮膚の温度は自然の摂理に従って下がり、脳に寒いとシグナルが送られる。
悠陽は慌てて手ぬぐいで体の汗を拭いた後、急いで枕元に畳まれた斯衛軍の正装に袖を通した。帝都レイヨンが開発したという、防水透湿性に優れた人工繊維を撚り合わせて織られた軍服は、悠陽の体に残った水分を吸い取り、大気に放出する一方で、熱は適度に内部に閉じ込めようとする。肌触りも滑らかで、気持ちがよい一着だ。
やっと人心地ついたとでもいうように、悠陽はふうと息を吐く。その呼気に合わせて、束ねられていない紫の髪がたゆたい、はらりと耳の脇からこぼれて、顔にかかった。紫のビロードのごとく、光沢を放つしなやかな髪を左手でまとめながら、頭の後ろできつく縛り上げる。
紫の緞帳で覆われて見えなかった肩章が、存在感を放つ。少将の階級章であった。
先の北欧戦線での活躍を評価されてのことであった。
だが、これは悠陽が求め、周囲が彼女に協力したためでもあった。
いかに五摂家筆頭の煌武院家の次期当主とはいえ、現状では名門の子女にすぎない。
祖父雷電をはじめとする理解者に支えられて、御剣財閥の後援のもとにかなりの権勢を誇っているとはいえ、実権はない。
齢10歳で何の実績もなく斯衛軍大佐に就けたのも、煌武院の名あってこそ。
だからこそ、悠陽は公式の権力を求める。
自らの意志を、帝国政府の政策として反映させるために。
いかに戦功著しいとはいえ、斯衛軍本来の任務とは一切関係のない北欧での成果だけでは、左官から将官への昇進は本来あり得ない。称賛に満ちた北極海方面国連第3軍司令官ロンメルの感謝状を片手に、根回しを繰り返した結果であった。
縁故採用に慣れた名門武家からも、なぜそこまで昇進を急ぐのだと訝る声が上がっているという。
斉御寺の嫡男が将軍位に全く関心を示していないことからしても、いずれ悠陽が政威大将軍になるのは確実視されていた。
別に焦る必要などないのだ。せっかくの貴重な子供時代を血と汗と泥にまみれて過ごすなど、あまりにも勿体ない。お飾りの将軍位を得るのに、なぜそこまで煌武院は必死なのだ、と首を傾げるものも多かった。
だが、悠陽に言わせれば、座して将軍位が転がり込んでくるのを待っているのでは、遅い。それでは、すべてがあまりに遅すぎるのだ。
将軍位につくのが数年後のことであるにしても、それまでに成しておかねばならないことは、あまりにも多かった。旧弊一つ改めるだけでも、慣習という壁が立ちはだかり、これを乗り越えるために時が徒に費やされる。
オリジナル・ハイヴ攻略という途方もない最終目標を前に、足を止めて休むいとまは悠陽にはなかった。
だからこそ、貪欲なまでに権力を求めるのである。
布団をたたみ、寝間着を女中に渡した悠陽は、洗面所に向かって廊下を進む。
庭から秋の穏かな日差しが射し込んでくる。時刻は朝の6時といったところだろうか。見事な日本庭園では、楓の葉がうっすらと赤みを帯びている。もう少したつと、紅葉が見頃だ。
その庭を見ながら廊下をしずしずと進んでいると、
――今日は、北欧戦線の戦訓に基づく新たな戦術教義について、参謀本部で講演するのであったな。
ハマーンがそう問いかけてくる。
――ええ……。今のままでBETAと対峙しても、被害を徒に大きくするだけです。せっかく新技術のおかげで、取り得る選択肢が増えているのですから、新たなドクトリンを開拓すべきなのに、参謀本部は一世代前の教義を変えようとしません。他国では、活発に討議されているというのに……。
――たしかに、従来よりも格段に機動性と柔軟性を増した戦術機の運用法をめぐって、新たな動きがみられるな。目新しさはないが、イスラエルの全戦術機ドクトリンなどは、今後の方向性を指し示すものと言えるだろう。
――あの国は、もともと北・東・南の三方面をアラブ諸国に囲まれ、戦力面で圧倒的に劣勢でしたから、少ない兵で効果的に戦う術の研究に余念がないのでしょう。BETA台頭以前に一時、オール・タンク・ドクトリンを採用しておりましたし。イスラエル軍では、対BETA戦で死傷率が突出して高い歩兵を投入することに、根強い反対論が存在すると聞いています。
イスラエルは、砂漠や平地に囲まれた地形もあって、もともと戦車を中心とした戦術をとっていた。対BETA戦でも、他兵科を切り離して戦術機中心のドクトリンを採用したかったに違いない。だが、イスラエルがどれほど技術力を持ち、国防に投入できる予算が大きかったとしても、戦術機適性という壁はクリアできなかった。兵士のうち、戦術機を操縦できるのは、一握りにすぎない。だから、仕方なく、戦術機と対BETA用に改良された戦車を中心とする戦術教義を採用していたのであった。
ところが、御剣製の新技術によって、パイロットにかかる負荷や振動が大幅に軽減されると、状況は一変する。戦術機適性が低い兵士でも、戦術機を操縦できるようになったのだ。
これは、イスラエル軍の編成に革命的な変化をもたらした。御剣から技術を購入し、情報機関モサドを駆使して技術提供を渋るフランスやソ連からも技術を拝借したうえで、最新鋭機ラビを一気に完成させたのである。YF-22やYF-23の技術も一部取り入れているという噂さえもある。
こうして制式配備がはじまったラビは、戦術機適性が低い兵士でも操縦しやすく、脱出機構にも改良が加えられており、衛士の生命に最大限の配慮が払われた、砂漠における機動戦に優れる世界屈指の名機に仕上がっていた。
このラビを中核とするイスラエル戦術機甲師団は、3個連隊324機に歩兵や戦車を始めとする各種支援兵科を加えた一般的な師団とは異なり、2個戦術機甲旅団648機を基本とし、場合によっては3個戦術機甲旅団1072機編成をとることもあるという。このように増強された戦術機甲部隊をもって、イスラエルは中東連合と協同して甲9号目標アンバール・ハイヴから侵出してくるBETAの大軍を10年近くに渡り、食い止めていた。
北欧戦線は言わずもがな、各地で戦術やドクトリンの見直しが急速に進められているなかで、後方国家としての余裕からか、日本軍には新戦術研究の機運は乏しかった。
このままBETAと対峙することになったら、甚大な損害を出すことは避けられない。しかるべき対策を講じていれば、被らなくてもよいかもしれない損害を、だ。
悠陽の懸念は大きい。
だからこそ、動かざるをえない。
幸いというべきか、陸軍内でも、前線国家への駐在武官や彼らと親しい中堅幹部を中心に、新しい戦術ドクトリンを積極的に採用すべきだとする声は少なからず存在する。
悠陽としては、彼らと連携することで、硬直したままの軍部に新鮮な風を吹き込みたかった。
そして今日。
雷電や紅蓮が動き回ったくれたおかげで、その好機が訪れた。
前線国に派遣された駐在武官がまとめた対BETA戦争の現状に関する報告を検討するために、帝国軍と斯衛軍の主立った参謀を集めた合同会議が開催されるはこびとなったのだ。北欧派遣部隊長として、悠陽にも報告の機会が回ってきた。
おそらく、少なからぬ駐在武官が、各国で試されている戦術について報告するだろう。彼らと協力して、軍首脳部の方針を転換させる。これこそが、悠陽の目標であった。
廊下の端にある洗面所の戸を開け、中に入る。蛇口から勢いよく迸る水は、晩秋の冷たさを伝える。白い繊手が水をすくい、顔に残る汗の名残を流す。飛沫が髪にも飛び、吸収されることなく、水滴としてとどまっている。なおも脳から去ろうとしない眠りの残滓を冷水で洗い流したのち、悠陽は顔を拭って準備を整えた。
時は1993年10月、悠陽がスウェーデンから帰国してから3ヶ月が過ぎようとしていた。
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