第28話



 雪が降る。
 千年の都を覆い尽くすほどに、しんしんと雪が降る。

 帝国気象庁によれば、数十年ぶりの大寒波がきたという。

 その寒風にあおられたかのように、不穏な噂が帝都を駆け巡っていた。
 曰く、軍部の一部にクーデタの動きあり。

 現段階では、唯の噂にすぎない。
 けれども、内容が内容なだけに、到底無視できるものではない。
 帝国情報省、城内省、憲兵隊総司令部は昼夜の別なく、噂の真偽を確かめるために奔走し、軍も独自に内部調査をはじめていた。


 その噂を聞くや、背後に二人のロシア人がいることを、悠陽は確信した。
 このタイミングで仕掛けてくるのは、彼らしかいまい。

 昨晩、大陸派遣軍の構成が御前会議で正式に裁可された。
 彩峰中将ら非主流派が根こそぎ軍中央から切り離されて、大陸に送られることになる。
 当然、非主流派の憤りは凄まじいものがあろう。
 だが、彼らが一丸となってクーデタに踏み切ることはありえない、と悠陽は思う。
 彩峰中将の為人はよく知っている。
 彼は情に流されやすいとはいえ、部下に迫られて体制に弓引くほど軽くはない。
 クーデタ話を持ちかけられたとしても、まず間違いなく拒否するだろう。
 軍や憲兵隊は、彩峰中将を徹底的に洗っていることだろうが、まず何も出てこないはずだ。
 否。
 むしろ、陰謀に長けたロシア人たちは、彩峰中将を煙幕として利用しているのではあるまいか、と悠陽は思う。
 クーデタの噂が飛び交い、非常に追い詰められている軍人グループがいるのである。
 当然、誰もが彼らのことを疑う。
 結果、捜査は初動段階で誤った方向に誘導されることになるのである。
 これは、ロシア人たちが駒として別のグループを用いようとしている場合、格好の隠れ蓑を与えることになる。

 そもそも、クーデタの噂が外に漏れている時点で、作為的なものを感じる。
 KGBの情報工作員ともなれば、第三世界諸国でのクーデタ工作などお手の物であるはずだ。
 情報省に一切尻尾を掴ませずに潜伏している凄腕の情報員二人が、果たして簡単にクーデタ情報を漏らすようなヘマをするだろうか。

 もっとも――。
 クーデタ騒ぎの裏にドクトルとスレーサリがいるにしても、彼らの目的が悠陽には判らない。
 クーデタが成功すれば、当然、日本はスワラージ作戦に参加するどころではなくなる。
 一時的に日本帝国の対外活動がストップすることは間違いない。
 二人のロシア人の目的が、スワラージ作戦失敗にあるとするなら、クーデタは有効な手段である。
 だが、果たして成功する可能性はあるのだろうか。

 状況は、あのときとは根本的に違う。
 あのとき、帝国軍主力は前線に配備され、斯衛軍も大きく数を減らしていた。
 だからこそ、短期間ではあってもクーデタが成功する要素があった。

 しかし、今回はそうではない。
 帝国軍は未だ無傷で、前線に配備されている部隊は存在しない。
 斯衛軍も、帝都周辺に配備されている。
 おまけに、情報が事前に漏れている。
 たとえ彩峰中将が決起に参加したとしても、直ちに鎮圧されるだろう。

「今、決起しても、間違いなく失敗する。なのに、何故――?」
 悠陽は自室の窓際に佇み、声に出して自問した。
 外は吹雪で、昼間だというのに暗かった。

「そこが問題です、悠陽様」
 抑揚のない男の声が、悠陽の耳に飛び込んできた。
 思わず、背筋が凍る。
 ゾクリと、鳥肌がたつ。

 ここは煌武院家の一室で、間違いなく悠陽は一人だった。
 先ほどまでは。

 後ろを振り返ると、鎧衣がいた。
 早朝から吹雪いていたはずなのに、ソフト帽もコートも乾いているようだ。

「一体、いつからいたのです、鎧衣? ノックもせずに乙女の部屋に入るというのは、あまりにデリカシーに欠けるのではないですか?」
 悠陽は鋭く詰問する。
 この男の神出鬼没っぷりは今更だが、今回は独り言を聞かれたという気恥ずかしさがある。

「先ほどからおりました。声をおかけすべきか迷ったのですが、何やらお悩みの様子でしたので――」
「そのまま見ていたと?」
「はい」
「――まあ、いいでしょう。それで、何か判ったのですか、鎧衣? 情報省は今、クーデタの怪情報で忙しいはずでしょう。それなのに、わざわざ私の部屋を訪れたということは、何か掴めたのですね?」
 気をとりなおして、悠陽は問い掛ける。

「そのことですが――今後、重大事を協議する際には、回線は使用しないほうがよろしいでしょう」
 鎧衣の声は淡々としていて、感情をうかがわせない。
「そう――。そうですね。現時点で、こちらの情報が漏れている可能性は?」
「さて。現状、我々は怪情報に踊らされているだけですからね。情報省では、今回の怪情報の裏に何があるのか、一切つかめておりません。困ったことですな」
 相変わらず、ちっとも困っているようには聞こえない。

「例のロシア人の二人組の動向はどうなのです? 彼らが関与している可能性も高いのではないですか?」
 悠陽は、自らの懸念を伝えた。

「ビャーチェノワ女史によれば、彼らはその手の政権転覆工作でも輝かしい業績をあげているようです。どうも、KGBがすでに選りすぐりの工作員を帝国内に送り込んできているようです。KGBの面子にかけて、抜忍は自分たちで始末するといったところでしょうか」
 窓の外では、雪の華が風にあおられて、乱舞している。
 狂狂と。

 その様を目で追いながら、悠陽は頤に右手をあてて、考え込む。
「このクーデタ騒動、いえ、そもそも二人組の工作員自体がKGBの謀略で、追忍を装って潜入したKGB職員が帝国内で良からぬことを企んでいる可能性は?」
「もちろんその可能性もありますが、低いかと」
「では、その追忍が実は反書記長派によって占められている可能性は?」
「ビャーチェノワ女史によれば、KGB本部もその可能性を考慮に入れて、徹底的にKGB内を洗ったようです。現時点では、彼らの言は信用に足ると考えてもよろしいかと」
「彼らはどのくらいの規模の人員を派遣してくるのです?」
「はっきりとは判りませんが、現在のKGBが抱える精鋭を相当数動員しているのではないかと。人員に関するデータは先方からは一切提供されておりませんが、こちらが掴んでいるだけでも可成りの数に上ります」

 人様の庭でよくもそこまで、と悠陽はこぼす。
 とはいえ、話の内容が内容だけに、情報省はKGBの跋扈を大目に見るつもりなのだろう。
 伊賀忍者であれ、CIAであれ、KGBであれ――諜報機関は決して裏切り者を許さない。
 裏切り者には須く死を、というのが、彼らの最低限のルールである。
 逆に、余所の抜忍、すなわち裏切り者は、情報源として高い利用価値がある。したがって、情報省としては、KGBの内部情報を収集するために、是が非でも二人組の身柄を確保したいところだろうが、諜報戦に没頭するあまり、クーデタ勃発を許してしまっては元も子もない。
 積極的にKGBに加担したり協力したりするつもりはないが、厳しく取り締まりもしない、という折衷案に情報省は落ち着いたのであろう。

 鎧衣は、報告を続ける。
「彼らがクーデタを計画する目的ですが、情報省では幾つか可能性を検討しております。第一に、クーデタ騒ぎを起こすことで、斯衛軍のスワラージ作戦参加を阻止するというもの。この場合、クーデタは成功する必要がありません。あくまでも、数日間帝都を混乱に陥れればよい」
「その可能性は、考えました。ですが、それならば、こうもクーデタの怪情報が飛び交うのは奇妙ではありませんか。おそらく、今回の噂は意図的に流されたものでしょう。噂のめぐりが早すぎます。既に帝国軍も斯衛軍も警戒態勢に入っていますから、今クーデタを起こしたとしても、即座に鎮圧されることでしょう」
 悠陽は、鎧衣の指摘を退ける。

「ですが、もし失敗しても構わない場合はどうでしょう?」
 鎧衣の問い掛けに、悠陽は虚を突かれた。
 クーデタが完全に失敗したとして、ソ連の反書記長派は何を得、何を失うだろうか。
 失う可能性があるのは、元KGBの凄腕二人。
 これを大きな痛手と見るかどうかは人それぞれだが、得てして凄惨な権力闘争を好むものは、人命に無頓着である。

 そして、得られるものは何か。
 元KGB職員が帝国内でクーデタを計画したことが明るみに出れば、帝国の世論は反ソ強硬論一辺倒になることは間違いない。軍部や議会も、これ以上の対ソ接近政策には反対するだろう。日ソ関係をうまく操ることで、アメリカの圧迫を躱して日本の国際的な発言力を拡大する、という悠陽の目論見にとって、これは好ましくないことである。そうなれば、対日接近を通じてソ連の声望を高めようとするコルニエンコ書記長も痛手を被ることになる。
 もし反書記長派の目標が、スワラージ作戦失敗ではなく、書記長の政治基盤を掘り崩すことにあるとするなら、これはこれで一応筋が通っていると言えなくもない。
 CIAも、日本の対米依存度が弱まるという事態を回避でき、日本を米国の国益に縛り付けることができる。
 この場合、一番利益を得るのは、明らかに米国だろう。

 だが。

「反書記長派が、スワラージ作戦の成否には関与せずに、現書記長の政策を失敗に導こうとしているだけなら、クーデタの成否などどうでもいいのかもしれませんが――その場合でも、クーデタが失敗するよりは成功するほうが望ましいはずです。敢えてクーデタ情報を漏らす理由がありません」

 悠陽は、鎧衣の指摘を否定する。

 この悠陽の指摘を、鎧衣は、仰るとおりでしょう、とあっさりと肯定した。
「第二に、このクーデタ騒動自体が陽動であるという可能性があります。つまり、今回の騒ぎに情報機関の注意が集中している間に、何か別の企みを実行に移す意図が彼らにはある、ということです。問題は――」
「その真の目的が何か、という点につきますね。何か判っていることはありますか?」
 悠陽の問いに、いいえ、と鎧衣は返す。

 いずれにせよ、黒幕はソ連の反書記長派に間違いないのだから、彼らを強引に逮捕してしまえば話は簡単なのだが、それができぬほどに書記長派と反書記長派の権力が拮抗しているらしい。

「どうやら、現状では後手に回るしかないようですね。ですが、兎に角、スワラージ作戦への参加が困難になるような事態だけは避けなければなりません」
「はい。仮に何が起ころうとも、即座に対応できるだけの準備はできております」

 スワラージ作戦開始まで、あと四日。
 48時間前には、衛星軌道上に集結する必要があるので、出立まで二日である。
 その間に何も起こらなければ、とりあえずは大丈夫だ、と悠陽はため息をつく。

 自分に何かあった場合は、冥夜に仕えるように、と言い含めて、真那と唯依を冥夜のもとに送り込むことにした。巌谷は未だ渋っているが、もう少しで説得できるだろう。

 決戦前にやり残したことは、もうないと言って良い。

 冬の嵐は止む気配を見せず、暗灰色の雲は、稜線の彼方まで漠として広がっていた。









 煌びやかな装いの軍人たちが、宙に旅立つものたちを見送る。
 天翔けんとする者たちの代表は、一人の少女。
 紫の長髪に群青色の瞳。
 青い服を纏い、静かに立つ。
 左右に赤を従えて。
 寒空にも負けずに、凛として。
 雪雲に隠れる太陽の名代のごとく。
 人々の希望を背負う灯火として。


 彼女を見送るのは、色とりどりの高官たち。
 白、橙、赤、青。
 そして紫。


 その光景をブラウン管越しに見詰めるのは、一人の少女。
 紫の髪に、蒼眼。
 面影は、凛として出立式に臨む蒼衣の少女に似ている。
 驚くほどに。

 間断なく炊かれるフラッシュの嵐。
 曇天のなか、煌武院悠陽は、その閃光の嵐に負けぬほどに輝いている。
 煌めく武門の家。その太陽。

 この夏以来、彼女のことが新聞で取り上げられない日はない。
 自分に似過ぎるほどよく似た少女。
 いや、自分が彼女に似ているというべきなのか。

 しかし、容姿以外は何もかもが正反対。
 真昼と闇夜。
 光と影。

 一方には全てが与えられ、もう一方は影として世界から忘れ去られる。
 光が強ければつよいほど、影は濃くなる。

 一方が救国の美姫として宣伝されればされるほど、もう一方は自分は何なのかと悩みを深くする。
 広大な御剣別邸の奥深く。
 外出もままならずに、自室にて講義を受ける日々。
 深窓の令嬢として大事にされている。
 だがそれは、鳥籠のなかの小鳥が大切に扱われるのと同じこと。


 屋敷のなかでもよく耳にする、悠陽様という言葉。
 廊下で口さがない者たちが時折口にする「悠陽様と冥夜様」、「御姉妹」、「煌武院家から当家」、「保険」、「影」といった言葉。

 それらを耳にするたびに、冥夜の苦悩は深まる。
 まだ10年しか生きていないとはいえ、それらが意味することは朧気ながらも理解できる。
 自分は何のために生きているのか。
 陽のあたる道を行くあの人の代用品に過ぎないのか。

 誰にも聞くことができない問いが幼い少女の心を苛む。


 最近、御剣邸にやってきた月詠真那という専属護衛。
 何でも、もとは煌武院悠陽の護衛をつとめていたそうで、よく悠陽の話をしてくれる。
 10歳の少女とは思えぬほどに理知的で、雅量が深く、威厳に満ちているという。
 真那の言葉の節々から、彼女が悠陽を深く敬愛している様がうかがわれる。

 ここだけの話ですがと前置きして、真那は悠陽の秘密を教えてくれる。
 雷電や斯衛の面々、榊首相などを相手に帝国の戦略を説き、ソ連の書記長と堂々と交渉し、BETA相手に指揮官として卓越した手腕を見せつけたという。
 その上、煌武院邸内で新技術開発の指揮をとり、帝国の技術水準を信じられないほどに高めたという。

 その話を聞くたびに、似ているのは容姿だけなのだな、と冥夜は自嘲する。
「姉妹」という部分だけは与太話にすぎないのではないだろうかと思う。
 自分とあまりにも隔絶した異能を見せつける悠陽をみて、血のつながった姉妹とは到底信じられない。
 他人の空似に過ぎないのか、妾の子か。
 いずれにせよ、自分とあの人は違うのだろうと、漠然と思っていた。
 そう思うたびに、寂寞とした想いが込み上げる。


 ブラウン管のなかで、悠陽が笑みを浮かべた。
 気がつけば、雪は止み。
 雲間から太陽が顔をのぞかせていた。
 陽光を一杯に浴びた悠陽は、まるで太陽神の巫女のようだった。
 紫の髪は眩いばかりの光を放ち、青い衣は晴れた空を想起させる。

 自分と同じ髪のはずなのに、なぜこうも違うのだろうと、冥夜は苦悩する。
 自分の髪は陽光を浴びてもあそこまでの輝きを放ちはしない。
 むしろ、宵闇を吸って漆黒に近づく。
 どこまでも夜を想わせる紫。

 瞳の色も同じはずなのに、ああも穏やかな笑みを浮かべるなど、自分にはできない。
 鏡に映る自分の顔は、いつも険しい表情をしていて、まるで抜き身の刀のよう。
 最後に笑顔を浮かべたのは、一体いつのことだろう。
 そもそも、笑ったことなどあったのだろうか。
 冥夜には思い出せない。

 屋敷での生活に不満があるわけではない。
 ブラウン管を通して伝わる庶民の日常から比べれば、御剣邸での暮らしは恵まれている。
 父は仕事で忙しいらしく、滅多に顔を合わせることはないが、それでも、自分のことを優しく気遣ってくれる。ときおり、親戚だという変わった髪をした老人が訪ねに来るが、彼もまた優しい。
 自分は子どもらしい笑みなど浮かべられないというのに。



 テレビ画面は、式を終えて再突入駆逐艦に乗り込もうとする悠陽をクローズアップする。
 その悠陽が、かすかに顔を曇らせたのに、冥夜は気づいた。
 自分と全く同じ顔立ちをしているせいかもしれない。
 たぶん、他には誰も気づいてはいないだろうと思う。

 それは、悠陽が将軍殿下に最敬礼したのちに、駆逐艦に乗り込むために体の向きを変えた、ほんの一瞬のことであった。
 分厚い冬の雪雲が一瞬、太陽を隠し、地表を陰で覆った。
 悠陽の顔を明るく照らしていた光が途絶え、深い影ができる。
 蒼い双眸が曇る。

 冬の陽射しが生み出した幻かもしれない。だが、悠陽には心配事があるのだろうと、冥夜には判った。

 再び、冬の弱々しい太陽が顔をのぞかせる。
 テレビカメラは、去りゆく悠陽の後ろ姿を映し出す。



 ここは、御剣別邸二階の洋間。
 御剣本邸は、明治維新の際にどこかの大名から買い取ったという立派な武家屋敷だが、この別邸は文明開化の折りに建築されたもの。
 ドイツの高名な建築士を招いて建てられた、洋風の館である。

 昔は、御剣の当主が自ら住んでいたらしいが、今の主人は冥夜ただ一人。
 賓客がひっきりなしに訪れる本邸に冥夜を置くのは政治的に好ましくないと判断されたらしい。
 面と向かって冥夜にそう言ったものはいないが、そういうことなのだろうと子供心に悟った。

 この瀟洒な洋館を訪れる客は、ほとんどいない。
 最近、紅蓮が稽古と称して遊びにくるが、彼以外に冥夜のもとを訪れるのは、近しい親類と講師だけ。
 もちろん、悠陽と直に顔を合わせたことはない。

 冬の陽射しが重々しい雰囲気の室内にうっすらと入り込む。
 床一面に敷き詰められたカーペット。部屋の中央にはダークブラウンのソファーが三つ、コの字型に置かれ、壁面に40インチの大型テレビが安置されている。
 部屋の真ん中に置かれた黒檀のテーブルに、光が窓の形をして差し込む。
 メイドが毎朝掃除しているはずなのに、テーブルを舞う埃がよくわかる。


 今日は講師が個人指導に訪れることもない。
 同世代の友達など、いるはずもない。

 さて今日は何をしたものだろう、と冥夜はしばし黙考する。
 素振りは早朝に済ませてしまったが、また離れの練習室で型の稽古でもしようか。
 もとはダンスの練習室として作られた部屋らしいが、天井が高く、かなり広いので、冥夜は剣の稽古に使っていた。

 そんなことをつらつらと考えていると、コンコンとドアを叩く者がいる。

「入るがよい」
 と、冥夜が応じると、軋み声をあげながら、扉が重々しく開く。
「失礼いたします、冥夜様」
 後ろを振り返るまでもなく、声で真那だとわかった。
 だが、
「失礼いたします」
 と、聞き覚えのない声で続く者がいる。
 声の震えが、微かな緊張を伝える。
 少女のようだった。

 誰だろうと思い、冥夜はソファーから立ち上がって扉のほうを振り向いた。
 二人分のティーカップをトレイにのせて、真那がテーブルのほうに歩み寄ってくる。
 その後ろに、見たことのない一人の少女が緊張した面持ちで佇んでいた。
 腰まで届こうかという墨を溶かしたような、長い黒髪が印象的だ。
 左頬のあたりで、髪を一房、白い髪留めで束ねている。

「そなたは何ものです?」
 同年代の少年少女と話をした経験を持たない冥夜は、誰何の声を上げる。

 トレイをテーブルの上に置いた真那が、後ろを振り返り、
「篁、こちらへ来なさい」
 と、命じた。

 紅茶の香りが、洋間を満たす。
 護衛なのだから、メイドのように給仕をする必要はないのだが、真那は自ら給仕役を買って出ている。
 冥夜は知らぬことだが、冥夜のことをくれぐれも頼みます、と悠陽が真那に念を押したのだった。


「冥夜様、この者は篁唯依と申します。今後は、当館にて、冥夜様とともに学ぶことになります――篁」
 真那は、唯依を促す。
「お初にお目もじつかまつります、御剣冥夜様。私は篁家の長女、唯依と申します。今後は冥夜様にお仕えすることに相成りました。何卒よろしくお願い申し上げます」
 唯依は、深々と頭を下げる。

 詰まるところ、唯依は冥夜の学友として御剣別邸に招かれたのであった。

 本当はもう少し早く越してくる予定だったのだが、数日の遅れが生じた。巌谷を説得するのに悠陽が手間取ったからに他ならなかった。
 冥夜は公には存在しないことになっている。
 その彼女の学友として、唯依を送り込むというのは、唯依を溺愛している巌谷からすれば、軽々しく容認できることではなかった。下手をすれば、要らぬ政争に巻き込まれることになるのは必至である。
 スワラージ作戦準備に追われた悠陽が何とか巌谷から同意を取り付けたのが、昨晩のこと。実に、出発前夜であった。


 だが、そもそも、冥夜の学友選びという点では、悠陽に咎がある。
 冥夜のことを大事に想い、彼女のために最高の講師陣、おまけに相談役として紅蓮を附けた悠陽であったが、年頃の少女に何よりも必要なものを失念していた。
 実年齢と精神年齢が著しく乖離していた悠陽には、子どもには遊び相手が必要だという常識が頭になかったのである。
 そもそも、その必要性を理解すらしていなかった。
 悠陽自身、子どものころから友人などと呼べる者は存在せず、将軍候補としての勉学に追われる日々を送っていた。それが普通なのだろうと、心のどこかで思い込んでいたのである。

 冥夜に元気がないことに気づいた紅蓮が、悠陽に要請してようやく、今回の唯依学友計画が練られたというわけだった。

「そうか。よろしく頼む」
 と頷いて、冥夜は再びソファーに腰を下ろそうとする。
 所在なさげに立ち尽くす唯依の姿が、視界の端に映る。


「そんなところに立っていないで、そなたも座るがよい」
 冥夜が右手でソファーを指し示すと、唯依は礼を言いながら、ソファーに歩み寄って腰を下ろした。端のほうにちょこんと。


 テレビでは、悠陽たちの乗る駆逐艦の離陸準備完了を報じていた。
 間もなく、カウントダウンに入るとのことだった。

 冥夜は、紅茶を啜りながら、テレビに映しだされた光景を見ている。
 唯依は、自らの新たな主の横顔を見ながら、冥夜様、と呼びかけた。

「なんだ?」
 必要以上に武士らしく振る舞おうとする少女は、唯依のほうを振り向いて、問い返した。

「いえ――勘違いかもしれないのですが、私が当邸の門をくぐったときに、こちらのほうをじっと見つめる影がおりました。私が見返すと、少し慌てたように立ち去ったのですが、少し気になりまして――」
 スワラージ作戦開始を前にして、帝都の空気は張り詰められた弦のようにピリピリしていた。政治には一切関与していない唯依にも感じられるほどに。
 だから、ひょっとしたら裏に何かあるのではないか、と唯依なりに気遣ったのである。

 クーデタの噂を真耶から聞いていた真那は、
「なぜそれを早く言わない、篁? どんな男だった?」
 と矢継ぎ早に唯依に問い詰めた。

 唯依は、真那の剣幕に吃驚しながら、
「す、すみません。冥夜様にお会いすることで頭がいっぱいで――。このお屋敷の向かいの家の脇の路地のほうにいました。ちょうど電柱の影からこちらを覗いているような感じで――長いコートを着て帽子を被っていたと思いますが、それ以上は――」
 と慌ててこたえた。

「他には何かないか? 男は一人だったのか? 身長が高かったか、太っていたか、瘠せていたか?」
「そんなに問い詰めては、篁とて答えにくかろう」
 真那の鋭い眼差しを浴びて萎縮する唯依を見かねて、冥夜が割って入る。

「申し訳ありません、冥夜様。ですが――事は重大かもしれぬのです」
「男は、一人でした。間違いありません。ひょろっと細長かったように思います。たぶん、背も結構ありました」
 まさかそこまで重大な話だとは思いもしなかった唯依は、必至になって思い出そうとする。

「そうか――何か思い出したら、すぐに私に知らせよ、よいな篁」
「は、はいっ」
「冥夜様、失礼いたします。その男について、しかるべく手配して参ります」
 真那は、冥夜に一礼すると、早足で退出した。

 おそらく、城内省か煌武院家に連絡するのだろう、と冥夜は思う。
 自分は影。
 そんなものを見張ったところで、何も得るものはないだろうに。
 そう思いながら。

 再びテレビ画面を見ると、次々と駆逐艦が離陸していくところだった。
 双子の姉とされる悠陽は、人類の太陽たらんとして宇宙に向かう。
 その影にすぎぬ自分は、こうして薄暗い地上にへばりついて、旅立つ者に羨望の眼差しを向けるしかない。
 そのことが切なかった。








「あれほど日本帝国に人員を派遣したのに、未だに何も掴めないのか?」
 苛立ちを露わにしながら、クリュチコフKGB議長は、トリーを問い詰める。
「申し訳ありません。あの二人の足取りは、全くつかめておりません」
 トリーとしては、頭を下げるしかない。
「全く――我々が利用できるあらゆるルートを使って、追跡人員をギリギリまで動員したのだぞ? それなのに、調査は全く進んでいないというのはどういうことだ!」
「ここでは、我々は目立ちすぎます。水面下では帝国の情報省職員も牽制してきますし、諜報活動は困難を極めます」
「そんなことは分かっている。だが、何としても帝国よりも先に、二人の身柄を確保せねばならんのだ! 帝国情報省に二人を捕らえられてみろ! 我々の機密情報が大量にCIAに流れ込むぞ」
 一向に調査が進展しないことに、クリュチコフは憤慨している。

「帝国側の情報網にも、二人の足取りは全く引っかかっていないようです。クーデタ計画についても、噂ばかりが囁かれておりますが、実態が全くつかめません」

 調査にあたる人員が大幅に増強されたのは結構なことだが、果たしてこれが正しい方針なのか、トリーには自信がない。
 そもそも、クーデタ計画など本当にあるのだろうか、と疑いたくなる。スワラージ作戦を妨害するためにクーデタを決行するなら、煌武院悠陽が出陣する前に起こすはずである。それなのに、今までのところ、具体的な動きは全く見られない。
 警戒が厳重すぎて、クーデタを実行に移せなかったというのなら問題ないが、クーデタ計画自体が陽動の可能性も高いのではないか、という気がする。
 あの二人組が日本で良からぬことを企んでいるのは間違いない。
 だが、クーデタ以外に真の目的があると仮定しても、それが何なのかが一向にはっきりしない。
 そのような状況で、いたずらに追跡人員ばかりを増やしても埒があかない。
 目星をつけずに虱潰しに調査していくというのでは、帝国の情報省に先を越されるのは確実である。
 だからといって、よい代案があるというわけでもない。

 ソ連にとっても、状況は八方塞がりであった。

「兎に角、帝国よりも早くあの二人を確保するのだ。煌武院悠陽が既に衛星軌道上に到達した以上、万一帝国でクーデタが起こったとしても、彼らはそのままハイヴ突入に参加するだろうが――油断はできん」
 ブツリと音を立てるようにして、通信が切られた。

 トリーは大きくため息をついて、右の頬にかかる白銀の髪を掻き上げる。
 どれほど上から急かされようとも、できないものはできない。
 とはいえ、できないと言ってしまっては、書記長から捨てられてしまう。
 それは――それだけは、絶対に避けたい。
 研究所に逆戻りするくらいならば、BETAに食われたほうがマシだと思う。

 とはいえ――。
 どうしても現在の方針がどこか間違っているように思えてならない。
 何か根本的な見落としがあるのではないか。
 だが何を。
 どれほど考えようとも、思考は堂々巡りするばかりである。

 再度大きくため息をつくと、潜入して情報収集にあたっている職員からの報告に目を通すために、トリーは通信室を出た。
 今頃、悠陽は衛星軌道上で最終チェックに忙しいのだろうと思いながら。









 星が近い。
 大気という曇ガラスなしに見る天の川は、闇色のキャンバスに鮮やかな光芒を放つ。
 馴染み深い幾多の一等星が、手に掴めそうなくらいの距離にある。

 海面からの高度は約1400km。
 低軌道の宇宙空間にその身を委ねながら、悠陽は漂う。

 周囲では、大気圏離脱の衝撃で再突入殻に異常がありはしないか、と技術士官たちがチェックを行っている。
 作戦開始まで、あと10時間。

「危険ですから、宇宙遊泳などお止めください」
 という艦長の諫言に耳を貸すことなく、悠陽は船外服を着て、ハッチを開いたのだった。

 寝返りをうつようにして、体を反転させると、眼下に地球が飛び込んできた。
 宙から見た地球は美しいというのは、あまりにも使い古された言葉である。
 たしかにその通りだろう、と悠陽はおもう。
 だが、今の悠陽にとっては、地球は美しいという以上に恐ろしかった。

 駆逐艦の小さな窓から見る地球と、宇宙を漂いながら見る地球とでは、受ける印象が根本的に異なる。

 怖い、と悠陽は素直に思う。
 足を支える物が何もないのだ。
 油断しては、地球に引きずり込まれるのではないか、という妄想にとらわれそうになる。
 底なし沼に足を取られそうになる感覚に似ているのかもしれない。
 重力井戸とは、よくぞ言ったものだと思う。

 宇宙空間で暮らすものにとっては、地球は麻薬に似ているのだろう。
 地球を離れて暮らさなければならない、暮らすべきなのだと頭では理解していても――。
 それでもなお、地球に後ろ髪を引かれる。
 だからこそ、愛憎入り交じった屈折した想いを地球にぶつけるのだろう。


 だが――。
 悠陽はスペースノイドではない。
 あくまでも地球人である。
 足元に確固とした大地がない空間で長期間生活するなど、決してできない。
 肉体的には可能かもしれないが、恐らく精神が保たないだろうと思う。

 ――地球は外から眺めるものではなく、その内にあって生きるもの。
 悠陽はそっと呟く。

 ――今はそうかもしれぬが、いずれ人類は地球から離れていくだろう。
 ハマーンにしては珍しい、茫洋とした音なき声が脳裏に響く。

 ――それは、増大する人口を地球が養いきれなくなるからですか?
 ――それもある。BETAがユーラシア大陸の資源を根こそぎ奪ってしまった以上、BETA大戦終結後の復興は困難を極めるだろう。当然、人類は地球外の資源も活用しようとするだろう。だが、決してそれだけではない。
 ――他にも何かあるのですか?
 ――今日、久方ぶりにこうして宇宙を漂って、思い出したことだ。
 そう呟いたきり、ハマーンは口を噤む。

 過去を思い出しているのだろうか、と悠陽は想像をめぐらせる。
 そういえば、宇宙空間に出てから、ハマーンは心ここにあらずという感じだった。
 久しぶりの無重力空間を懐かしんでいるのかもしれない、と想う。

 悠陽にとって、日本がかけがえのない故郷であるのと同じように、この漆黒の宇宙空間はハマーンにとっての故郷なのだ。
 スペースノイドとて、出身コロニーに愛着を持つだろう。その意味では、生まれたコロニーこそが彼らにとっての故郷であると言えなくもない。
 だが、それでも――。
 彼らにとっての真の故郷は広大な宇宙空間それ自体なのだろう。
 彼らは宇宙空間を開拓することで、生活の糧を得ている。
 その意味で、彼らは紛れもなく宇宙人類なのだ。

 ――別に宇宙空間を懐かしんでいるというわけではない。
 宇宙は、懐かしむにはあまりにも過酷だからな、とハマーンはつぶやく。
 ――それはそうでしょうね。
 ――だが、過酷であろうが何であろうが、人は未知の世界があれば探求に乗り出し、住みにくい場所であれば住みやすいように改造するものだ。それが人類の進歩の歴史であったと言ってよい。太古の昔、火を熾す術を学んだ人類は、四方八方に散らばっていった。その一部は、北極圏や砂漠などの厳しい環境のもとでも暮らせるよう、長いときをかけて適応していった。宇宙空間とて、その延長に過ぎぬ。未知の空間に生活圏を広げるというのは、人類全体の本能であるといってもよい。
 ――ですが、宇宙空間は生物が生存するための場所ではありません。
 ――はじめてヨーロッパへ渡った者も、同様の思いを抱いたことだろう。ここは寒すぎる、人が棲む場所ではない、とな。ホモ・サピエンスはアフリカのエチオピアを起源とする。温暖なアフリカから比べれば、寒冷なヨーロッパなど、とても人が住める場所とは思えなかっただろう。だがそれでも、世代を経るにつれてヨーロッパの人口は増え、19世紀にいたって世界の最先進地域へと成り上がった。そう考えれば、人類が新たなフロンティアたる宇宙に進出し、地球上の高度資本主義文明に続く新たな文明を生み出したとしても、それほど不思議ではあるまい。
 ――それでも、宇宙で暮らそうなどという者は、冒険心溢れる一部の人間に限られるのではないですか? 聞けば、スペースコロニーでは空気すらも有料だとか。そんな不自由な暮らしを強いられてもなお、宇宙にとどまることを選ぶものでしょうか。
 ――選ぶだろうな。日本の北海道を例に考えてみるとよい。江戸時代まで、北海道で生活していたのは一部の商人などを例外とすれば、アイヌだけであった。だが、維新後、本州から大量の移民が北海道に流れ込んだ。彼らの多くは、本州では生活できなくなったから移り住んだと言われているが――最初の移住世代の苦労は想像を絶するものがあったはずだ。帰れるものなら本州に帰りたいと思った者も多かっただろう。だがそれでも、最低限のインフラが整備されてくると、北海道を故郷と感じる者が増えてきた。第二世代、第三世代の住人にとっては、北海道の暖房費用が本州よりも高いことなど、大した問題ではないだろう。空気税を払う宇宙暮らしとて、本質的には同じ事だ。世代を経るごとに、宇宙で生まれ、宇宙で死ぬことが自明になってゆく。

 もっとも最低でも月を取り戻さぬことには、安心して宇宙に進出できないだろうがな、とハマーンは静かに息を吐いた。

 ――ならば、こうして宇宙に漂っていると、故郷に帰ってきた気がするのではないですか?
 宇宙人類が、宇宙を故郷と見なすようになるというのなら、ハマーンとてそうなのだろう、と悠陽は思う。
 ハマーン自身は否定しているが、それは故郷を懐かしむということなのではないだろうか、と。

 ――いや、そうではない。
 ハマーンは苦笑しつつ、再度否定する。

 ――宇宙空間とは、何よりもまず五感で感じるものだ。視覚は果てなき闇を見、全身の細胞は無重力状態を感じ取る。空気の臭いとて、地球とは異なり独特だ。なにより、宙は寒い。だから、宇宙人類とて、常に心のどこかで地球を求めている。一方で地球を嫌悪しながら、他方でそれに惹かれる。どこまでも矛盾している。だが――それらは、本質的に感覚に由来するものだ。それは――今の私にはないものだ。

 その言葉に、悠陽はハッとさせられる。
 ハマーンと知り合って早10年というところか。
 どういう形で二人が繋がっているのか、本当のところは誰にもわからない。
 ある程度、五感も共有しているらしいということは、朧気にわかる。
 そうでなければ、悠陽に代わって戦術機を操縦することなど、到底できないだろう。
 だが、完全に五感を共有できることはない。
 それは間違いない。

 00ユニットについて香月博士が解説してくれたときに、似たような話がなかったか、と悠陽は記憶を探る。
 00ユニットを、生前の体型に完全に合わせないと、00ユニットの精神が仮初めの肉体に拒絶反応を引き起こすという話だったはずだ。
 これは言い換えれば、精神が他者の肉体に宿ることがあったとしても、完全にその肉体を己のものとすることはできない、ということになる。
 完全に他人の肉体をコントロールするためには、その肉体の感覚情報をダイレクトに受け取ることが絶対条件となる。だが、その情報が以前の身体のものと著しく乖離する場合、精神は無意識的に拒絶反応を示す。
 したがって、憑依先の身体を完全にコントロールするためには、その身体が生前のモノと完全に同質である必要がある。
 一卵性双生児を例外とすれば、そのような肉体など自然には存在しえない。

 つまり――。
 こうして宙を漂流していても、ハマーンは宇宙をほとんど感じ取れていない。

 それでは、懐古の情があるにしても、かなり中途半端なものにならざるをえないだろう。
 懐かしんでいるわけではないというのは、そういうことか。
 ハマーンの言わんとするところが理解できた、と悠陽はおもう。
 もっとも、理解できたとして悠陽にはどうすることもできないのであるが。

 ――詮無いことを言った。忘れろ。
 相変わらず、ハマーンの声色は冷たい。
 だが、一抹の寂寥感がその裏に潜んでいるように、悠陽には感じられた。

 自分の躰でこの宙を飛びたいのだろう。
 地球にいるあいだは、それほど強い想いではなかったのだろう。
 けれども、こうして宇宙から地球を見下ろしてしまっては――。

 同情とは違う。
 だが、自分に何とかできるものなら、何とかしたいというおもいはある。

 ハマーンとの会話は途絶え、二人はただただ茫然と地球を眺めていた。

 どのくらいの間、そうしていただろうか。
「悠陽様、もう十分でございましょう。どうかお戻りください」
 もう何度目になるか、艦長の懇願が聞こえる。

 さすがに、そろそろ艦に戻らないと不味い。
 悠陽は地球に背を向け、繋留紐を手繰って駆逐艦のデッキに降りた。

 与圧室に入り、室内に空気が充満されるのを待つ。
 この後、仮眠をとったのちに艦内での最終ブリーフィング。
 その後、戦術機に搭乗する。

 船外服を脱ぎ、敬礼してくる乗員に答礼しながら、ベッドに向かう。

 駆逐艦の居住スペースは狭い。
 居住環境に配慮するぐらいなら、その分のスペースに爆弾を積む。
 それが再突入駆逐艦というものである。

 ベッド区画にたどり着いた悠陽は、寝袋を狭い四段ベッドに固定し、潜り込む。
 艦の駆動音が安眠を妨げるため、耳栓は必須だ。

 戦闘直前の昂揚した気分のなか、果たして眠れるだろうか。
 悠陽が横になっているのは四段ベッドの最上段。
 仰向けになっても、目に入るのは白く塗りつぶされた駆逐艦の天井だけ。
 二段目と三段目は窓から外を眺めることもできるらしいが――。
 もう宙も地球も十分に堪能したので、不満はない。

 眠れないときは、望めば軍医に睡眠導入剤を処方してもらうこともできる。
 衛士の睡眠不足が作戦の成否に直結するだけに、眠れない場合に軍医を訪れるのは、衛士の義務といってよい。


 この数年間、悠陽はこの作戦の成功のためにひたすら準備してきた。
 絶望の淵に追い詰められた人類に希望の光を取り戻すため。
 ハイヴ内の特殊元素を獲得するため。
 G弾運用を阻止するため。
 冥夜を取り戻すため。

 特に冥夜のために、自分は生きて還らなければならない、と悠陽は決意を新たにする。
 悠陽が作戦中に死んだ場合、その死は決して公表されずに、冥夜が悠陽として入れ替わるだろう。
 作戦の成否にかかわらず、悠陽が生還しなかった場合は確実にそうなる。

 そもそも、ハイヴ突入部隊への参加という悠陽の我が儘が城内省で通ったのも、冥夜という保険があるからに他ならない。
 城内省に跋扈する長老連中からすれば、10歳の一卵性双生児同士がいつの間にか入れ替わることなど、大した問題ではないのだろう。
 隠然たる影響力を持つ悠陽よりも、政に疎い冥夜のほうが好ましいとすら考えているかもしれない。
 陰で悠陽の戦死を願っているものとているだろう。

 だから――。
 今回の作戦、悠陽は必ず生きて還らなければならない。
 反応炉への自爆特攻など、決して許されない。

 ただでさえ通常兵力によるハイヴ攻略は困難を極めるというのに、それに輪をかけるようにして、制約がつきまとう。

 身体は疲労を訴えているというのに、思考がぐるぐると高速で回転し、とても眠れそうにない。

 あと10分待ってみて、それでも寝付けないようなら軍医に睡眠導入剤を処方してもらおう。
 悠陽はそっと瞼を閉じた。

 作戦開始まであと9時間。
 目を閉じて無理にでも眠ろうとする。
 だが、耳栓で聴覚を遮断し、目を閉じることで視覚を遮断すると、それだけ一層ほかの感覚が鋭敏になる。
 寝袋自体がふわふわと浮いていて、寝るという基本的な営為に違和感を覚える。

 あまりにも普段と異なる環境下では、人間そうそう眠れるものではない。
 まして、悠陽は正式な軍人や消防士のように、睡眠訓練を受けたわけではないから、なおさらである。

 10分後、自力での睡眠を諦めた悠陽は、寝袋を抜けだし、軍医のもとを訪れたのだった。




 そして6時間後。
 薬を用いても安眠を貪れるはずもなく、悠陽は目を覚ました。
 寝袋を抜け出し、軍用レーションで栄養を補給していると、
「おはようございます、悠陽様」
 と、既に強化装備への着替えを済ませた月詠真耶が収納袋を手に挨拶してきた。

「おはよう、真耶。皆、もう準備を済ませたのですか?」
「はい。神野副長も、間もなくこちらに。ですが、時間はまだ十分にございます。ごゆるりと召し上がってください」
「ゆっくりと味わうような食事でもないですよ」
 レーションのチューブを見つめながら、悠陽は応じた。

「それは、そのとおりでございます。ですが、艦内とあってはそれも致し方ございません」
「誤解しないでください、真耶。別に文句を言っているわけではありません。私は専用コックを引き連れて旗艦に乗り込むような艦隊司令官とは違います。駆逐艦内での特別な配慮を要求しているわけではありません」
 朝食を終えた悠陽は、空になったチューブをゴミ収納箱に入れた。

「もちろん、存じ上げております」
 好ましいものでも見るかのように、真耶はメガネ越しに目を細めて笑みを浮かべた。
「では、私も強化装備に着替えてまいります」
「そう仰ると思いまして、悠陽様の強化装備をお持ちいたしました」
 と言って、真耶は手に持っていた収納袋を差し出した。

「ありがとう、真耶。では、速やかに着替えてまいります」
 悠陽は、駆逐艦の狭い化粧ルームへと向かった。
 ここ数年で、再突入駆逐艦も大きく様変わりした。
 以前は、アメリカのスペースシャトルを改良したような、積載量の小さいシャトルを駆逐艦として利用していた。
 しかし、これでは軌道爆撃用に積める突入弾の量が限られ、効率的とは言いがたい。

 そこで、宇宙世紀に入り著しく進化した宇宙貨物船の技術を取り入れる形で、悠陽は傘下の企業に駆逐艦の大幅改修を命じたのだった。
 一艦につき、わずか二機の戦術機しか搭載できなかった以前の駆逐艦とは異なり、新駆逐艦では最大4機分の再突入殻を搭載して大気圏を離脱することができる。

 大型化した駆逐艦の居住スペースは以前よりも少し広い。
 おかげで、化粧ルームで着替えることもできる。
 手早く蒼い強化装備に袖を通し、髪を再度しばり直す。

 大気圏突入後、地表二万メートルあたりで、8G近い大減速をかけることになるので、しっかりと留めておかないと髪がひどいことになるのである。

 準備を整えて化粧室を出ると、赤い強化装備姿で神野副長と真耶が待機していた。その後ろに、黒い強化装備姿の鈴木少尉が控えている。
「おはようございます。準備はお済みですか、悠陽様」
 神野が敬礼しながら、問い掛けてきた。

「おはようございます、神野。ええ、準備は済んでおります。作戦開始の2時間前ですから、ちょうどよい頃合いです。機内に搭乗して、再突入のための最終チェックを行いましょう」
「了解いたしました」
 悠陽は艦内の手すりを伝って、連絡通路を浮かびながら進む。
 狭い通路の脇にあるパネルを押して、密閉されていた再突入殻のハッチを開き、中に入り込む。
 狭い再突入殻の内部には、戦術機が一機、収納されていた。

 戦術機のハッチを開き、管制ユニットに搭乗する。
 ハッチを閉じて、機体および再突入殻の最終チェックをする。

 悠陽自身のバイタルデータが、網膜に投影される。
 心拍数がやや高い。
 それ以外のデータからも、悠陽が軽い興奮状態にあることが判る。
 だが、それ以外は至って健康で問題は見当たらない。

 駆逐艦に接続されている間は、戦術機は母艦からの電力で電気系統を稼働させている。
 その母艦とて、余剰エネルギーなどほとんどないから、管制ユニット内は薄暗く、いくつかのランプが細々と光を放っているだけであった。
 コンソールがその僅かな光を吸って、出来の悪い鏡面のごとく、悠陽の姿を映し出す。

 体幹部のみ黒地で、それ以外は青地に染められた強化装備。
 それを纏っているせいか、普段よりも少しばかり大人びた顔をした自分。
 かすかな緊張で強ばった顔つきをしているのが、よくわかる。
 蒼い双眸は、落ち着かずに揺れ動いている。

 ここまでの緊張を強いられたのも久しぶりだ、と大きく息を吐く。
 今までは、操縦は全てハマーンに丸投げだったので、悠陽本人は観戦気分で気楽なものであった。
 だが、今回は違う。
 いざとなれば緊急時にはハマーンに委ねることになるが、それまでは自力でいけるところまでいく。

 公務で緊張を強いられる局面ももちろんあった。
 だが、悠陽は、公務の緊張をコントロールする術をきちんと心得ていた。

 それに対して、戦術機での軌道降下戦闘はこれが初めて。
 事前のシミュレーションや演習での成績は良好だが、悠陽は言ってみればルーキーに過ぎない。

 本番で緊張するなというほうが無理であった。

 狭いコックピット内で大きく伸びをしたり、軽く腕を振り回して、強ばった筋肉を解そうとする。

 悠陽の体が小さいのが幸いして、コックピット内でも多少の運動は問題なくこなせる。

「悠陽様、第25大隊全機、準備完了です。ステータス異常ありません」
 神野副長から通信がはいる。
「了解いたしました。作戦開始まで後一時間、私たちの出番まで後3-4時間程度といったところでしょうか」
「はい。作戦が予定どおりに推移すれば、そうなります」
 搭乗するのが少し早すぎたかとも思うが、予定を繰り上げて降下を開始する可能性もある。
「他の軌道降下部隊の状況はどうです?」
「はい。ソ連の特殊情報部隊からは連絡がありませんが、ウォーケン隊は準備が完了しているようです」
「そうですか――。ソ連軍部隊の秘密主義は今にはじまったことではありませんし、何も連絡がないということは、問題ないと理解してもよろしいでしょう」
「はい」
「また何かわかりましたら、連絡してください」
「了解いたしました」

 外部カメラから地球の映像を取り込む。
 網膜に映し出される地球は、相変わらず青い海、白い雲、赤茶けた大地の三層に分離して見える。
 今ごろは、爆撃艦隊が突入弾投下のために高度をギリギリまで下げていることだろう。

 帝国内の様子はどうなのだろう、と悠陽は地球を眺めながらおもう。
 クーデタの噂が流れ、帝都には不穏な空気が漂っている。
 だが、今のところ具体的な動きは見られない。

 宇宙基地にも宇宙軍にも細工が施された形跡はない。

 米ソ内の一部勢力が、帝国内で何をしようとしているのか、最後まで掴めなかったが、ことここに至っては、悠陽にできることは何もない。

 この作戦が終わるまでは、妙な動きはとらないでほしい、と切実に願う。
 もっとも――。
 作戦開始が間近に迫る状況では、仮に本国で何かあったとしても、誰も悠陽に伝えないだろうと思う。
 そんなことで悠陽を動揺させても、得るところが何もないからだ。

 帝国内のことは鎧衣に任せて、自分は目前の任務に集中するしかない。
 雑念を振り払おうとするかのように、悠陽は顔を軽く振り、両手で頬を軽くはたいた。
 ひんやりとした強化装備のグラブが、緊張で火照った頬を冷ますようで気持ちがよい。

 作戦開始まで、あと30分。

 帝都ではまだ雪が降っているのだろうか、と悠陽は思った。



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