第29話



 ――1994年2月14日、ニューデリー時間午前6時
 娯楽の存在を忘れてしまったかのようなこの世界においても、ヴァレンタインデーを祝うという習慣は、一部の地域に残っていた。

 もっとも、前線のキリスト教国では、せいぜい食堂で甘いデザートが一品振る舞われる程度に過ぎない。

 ましてやここインドでは、ヴァレンタインデーの存在すらも知らない兵士がほとんどであろう。

 国連軍ライプル基地の東部軍集団総司令部で作戦開始を固唾を呑んで待つ将校とて、例外ではない。
 キリスト教国から出向してきた参謀も、さすがにヴァレンタインデーを祝おうという気分にはなれなかった。
 もっとも、彼らは祝祭を放棄したわけではない。
 作戦が無事に成功した暁には、祝勝会を兼ねて盛大にパーティーを開けばよいだけだ、と考えを変えたのである。

 ヒンズー教徒の参謀も、シーク教徒の参謀も、彼らのパーティー計画に積極的に関心を示した。

 そうすることで、精神が参ってしまいそうなほどに張り詰めた雰囲気を、多少なりとも緩和しようとしているのであった。

 東部軍集団総司令官マハトマ・シン大将は、部下たちのそうした軽口を窘めようとはしなかった。
 窘めないどころか、作戦が成功したならシヴァ神が司る破壊のことは一先ず忘れて、異教の祭典を楽しんでもいい、とさえ思っていた。

 作戦名スワラージは、ヒンディー語で自治や独立を意味する。
 イギリスの植民地支配に対する独立闘争のなかで、掲げられたスローガンであり、この言葉ほどインド人の誇りを刺激するものはないと言って良い。

 雑多な宗教や言語が入り乱れるインドでは、共通の大義を掲げることは非常に難しい。
 だが、このスワラージという言葉は、宗教や文化の違いを乗り越えて、多くのインド人の共感を集めた。

 すでにマハトマ・ガンジーもジャワハラル・ネルーもいない。
 だが、第二のスワラージが今まさに必要とされているのであった。

 そのための軍事行動が間もなくはじまる。

 一度目のスワラージは、イギリスからの独立を目指したものであった。
 そして、二度目は――。
 BETAからのインドの自由と独立。
 否、人類全体の自由のための狼煙となるはずであった。

 胃に穴が開きそうなほどに張り詰めた空気のなかで、シン大将はあえてとりとめのない思考に埋没する。
 そうでもしなければ、作戦開始前に倒れてしまいそうだった。

 息子も娘も、既に戦火に倒れた。
 妻は行方不明で、故郷はBETAの胃袋の中である。

 仮に作戦が成功したとしても、シン個人が取り戻せるものは、何もない。
 だが、それでも――。
 それでも、故国が解放されるのを瞼に焼き付けるまでは死ねない。
 初老を迎えつつあるシン大将は、その思いだけを糧にここまで這い上がってきた。

 そして、今まさに、BETAに対する反撃の火蓋が切られようとしている。
 インド一国でも、直接間接にBETAの犠牲となった者は、数億ではきかない。
 大陸は人の血で染まり、血の臭いがしない場所はないと言って良い。

 それほどまでに、血塗られた敗北を重ねながら、それでもなお人類は生きようと足掻いている。
 それは理屈ではない。
 高尚な大義のためですらない。

 それは、唯々生き延びたいという原初的な欲望、本能のなせる業である。

 人は下らない主義主張を抛って、生の飽くなき欲望に従ったときに、何よりも手強い。
 地球上で最も繁殖した恒温動物という名は伊達ではない。
 それほどまでに生き汚い人類が持つ生への執着が、BETAの無個性な貪欲に負けるなどとは考えられない。

 BETAは地球上の資源をひたすらに食い尽くしているようだが、それは無機的な行為であり、人類の強欲には及びもつかない。
 それは、人が作り出した神々の造形を見れば明らかだと、シンは思う。
 彼らの多くは、自らの欲望に忠実で、思うがままに他人を略奪している。
 だからこそ、彼らは――強い。

 こうした神々の性質は、集団としての人類に受け継がれている。
 ならば、人がBETAに負ける謂われはない。
 そう思いながら、シンはでっぷりと太った腹をさすった。

「閣下、二分後に作戦が開始されます。すでに国連宇宙総軍の低軌道爆撃艦隊は突入弾分離シークエンスに入っております」
 なおも想像の翼を羽ばたかせようとしたシンは、部下の声で現実に引き戻された。
「――うむ、了解した。突入弾投下後に予定されている砲撃の準備はどうか?」
「ハッ。各砲兵軍団ともに準備完了しております。西部軍集団も砲撃準備を完了しているようです」

 今回のBETA地上群に対する作戦思想は、単純の一言につきる。
 すなわち、光線級の迎撃能力を上回る密度の飽和爆撃。
 ハイヴ周辺のBETA群殲滅のために必要とされる砲弾総量は信じられないほど莫大であるが、どれほど光線級がいようとも、迎撃能力を上回る量の砲弾を投入すれば、BETAは殲滅できる。
 ――あくまでも理論上は。

 現実には、全戦闘で飽和砲撃を実施しうるだけの砲弾を生産することは、人類の総力をもってしても不可能である。
 だからこそ、戦術機による光線級排除が必要となる。
 地上戦の主役は、あくまでも砲兵部隊と爆撃部隊である。
 戦術機は、そのための露払いをするに過ぎない。

「ニューデリー時間2月14日6時00分をもって、スワラージ作戦開始が国連インド洋総軍幕僚本部より通達されました。国連宇宙総軍低軌道爆撃艦隊の突入弾分離を確認」
 通信参謀が声を張り上げる。
 総司令部内の空気は、一気に沸騰した。

 戦域スクリーンには、突入弾を意味する無数の蒼白い光点が映し出されている。

 その光点が――。
 参謀たちが見守るなか、一瞬にして消滅した。

「ハイヴ周辺の光線級群よりレーザー照射を確認。高度3000m付近に高濃度の重金属雲の発生を確認しました」

 BETAが高度何m地点で対レーザー弾頭を迎撃するかは、作戦序盤の重要事項である。
 あまりにも高い高度で迎撃されると、重金属雲がジェット気流に流されて拡散してしまう。
 可能な限り低高度で迎撃されることが望ましい。
 今回の高度3000mというのは、十分に許容範囲内であった。

「全軍、砲撃を開始せよ!」
 シン大将の濁声が総司令部に響き渡る。

 兵站部は、スワデーシー作戦以後、BETAに補給路を寸断されながらも十分な量の砲弾を前線陣地に運び込んでいた。
 この作戦のためだけにかき集められた榴弾砲が火を噴く。
 多連装ロケット弾が次々と白煙をたなびかせながら、空へと駆け上がる。
 あまりの砲撃密度のために、無数のロケットの白い軌跡が混じり合い、一枚の白い絨毯を上空に作り出す。
 光線級といえども、撃墜対象物を確認してからレーザー照射を実行するまでに数秒のタイムラグが生じる。したがって、軌道爆撃によって生じた重金属雲を隠れ蓑にして、地表からの対レーザー弾頭は低空域にまで進出する。

 この作戦序盤の準備砲撃の段階で、対レーザー弾頭の7割を消費することになる。
 以後、対レーザー弾頭は、重金属雲が薄くなるたびに適宜発射されることになるが、長期にわたって戦域全体で現在の重金属濃度を維持することは不可能。
 したがって、ハイヴ攻略戦といえども、速戦速決が基本である。

「対レーザー弾の消失を確認。重金属雲は――高度400m付近で観測されましたっ」
「上出来だっ。全軍、砲弾をサーモバリック弾に切り替えろっ」
「了解」
 シンの命令に、砲兵参謀が冷静に応じる。
「低軌道爆撃艦隊による突入弾の第二派分離を確認」
 通信参謀が伝える。

 高濃度の重金属雲のために、戦域上空ではレーダーが機能しない。そのため、戦域スクリーンに投影される突入弾の光点は、あくまでも予想に基づくもの。

 戦域上空は今や、重金属雲とロケット弾の白煙が入り交じって、太陽を完全に隠している。
 砲弾の雨は、地表からのレーザー照射を浴びて、次々と融解していく。

 だが、爆撃艦隊が全突入弾を一斉に分離し、それに呼応するように地上の砲撃部隊が一斉射を敢行したために、一時的に砲弾の総量が光線級の迎撃能力を超えた。

 突入弾がばらまいた子機が地表で次々と爆ぜる。
 榴弾は、甲高い鳴き声を上げながら、地表に降り注ぎ、爆風で土砂を巻き上げる。
 重金属雲にまぎれてBETA群の直上に進出したロケット弾は垂直に急降下し、BETA群に突き刺さる。

 爆炎は地表を舐め尽くし、BETAの体液を焦がす。
 サーモバリック弾の爆風で、小型種が根こそぎ爆散する。

 火煙。
 黒煙。
 土煙。
 白煙。

 種々の煙が入り交じり、戦域全体を暗灰色に塗りつぶす。

 今やBETA群周辺の視界はゼロに等しく、戦果を確認することすら困難であった。

 だがそれでも――。
 積年の鬱憤を晴らすかのように、地上からの砲撃は続く。

 大気は熱を持って鳴動する。
 空気は攪拌され、強烈な上昇気流が巻き起こる。
 灼熱の大気は上空へ逃れようとするが、その酸素すらも奪おうと火炎が長い舌を伸ばす。
 はるか上空にまで、貪欲な炎が舞い上がる。
 炎の竜巻――火炎旋風である。

 炎は倦むことを知らず、新たな酸素を求めて爆心地から周辺へと食らいつく。
 煙で太陽光が完全に遮られているにもかかわらず、空を舞う炎が大気を赤く染める。
 鉄の沸点をも軽く越える高温のガスが、無傷のBETAを溶かす。
 地表の土砂は、すでに飴のように滑らかだ。


「上空の重金属濃度はどうか?」
 シンは問う。
「火炎旋風に巻き上げられたため、所々に穴が開いております。第35砲兵軍団が重金属濃度維持のために砲撃を継続しておりますので、間もなく塞がるかと」
「軌道降下兵団投下までに完了させておけ」
「ハッ」
「戦術機甲群の準備状況はどうか?」
 砲兵参謀の答えに満足したシンは、続けて戦術参謀に確認する。
「全戦術機甲連隊の発進準備は完了しております。ご命令があり次第いつでも発進可能です」
「火炎旋風が収まり次第、直ちに出撃させる。わかったな?」
「ハッ」
「BETA群の状況はまだ掴めんか?」
「砲撃および重金属雲のために、音響・レーダーともに回復しておりません」
「そうか――」
 BETAにどの程度の打撃を与えたのか、確認できないというのは心許ない。

「火炎旋風はあとどれ位で収まる?」
 観測データを元に解析にあたっていた参謀が、顔をあげて、
「20分ほどで戦闘可能レベルになります」
 と答えた。

「よし。20分後に戦術機甲群を出撃させる」
「了解。直ちに通達します」
 戦術機担当参謀が、戦術機甲群の部隊長に向けて通信回線を開く。

 幕僚たちが忙しなく動き回るのを見ながら、ここまでは作戦通りに進んでいる、とシンは少し安堵する。

「解析結果出ましたっ。無人偵察機およびレーダー観測の結果を総合しますと、残存BETA個体数は2割弱と推定!」
 情報参謀が威勢の良い声を上げる。

 国連軍の予想よりも1割程度よい。
 軌道爆撃の効果が想定以上だったということなのかもしれない。

 だが、これはまだ序盤。
 過去のハイヴ攻略作戦でも、地表のBETAを一掃できたことはあった。
 砲撃や爆撃によって、航空優勢を取り戻すことができたこともあった。
 だが――。
 過去のあらゆるハイヴ攻略戦において、人類の優勢が続いたのは、わずか数時間のことであった。
 ハイヴの地下坑を伝って地表に溢れ出たBETAは、瞬く間にハイヴ周辺の支配権を取り戻し、人類のハイヴ攻略戦は惨敗におわった。



 今回のハイヴ攻略戦が、従来の作戦と決定的に異なる点は、戦史上初めてとなる軌道降下兵団の投入である。
 この作戦が成功すれば、蟻の巣のごとく地下に根を張っているBETAのハイヴを征服できるかもしれない。

 シン大将率いる東部軍集団に出来ることは、軌道降下兵団がハイヴに突入できるように、突入の障害となるBETA地上群の排除および地下茎内に潜むBETA群の誘引。

 地上のBETA群は間もなく排除できるだろう。
 次の一手は、戦術機甲群を投入し、ハイヴ内のBETAを引きずり出すこと。

「火炎旋風、収束しましたっ。戦術機部隊投入可能です」
 待ちに待った報告が入る。

「戦術機甲群、出撃。死に損ないのBETAどもを一掃しつつ、地下に潜む残存戦力を誘引せよ」
「了解っ!戦術機甲群、出撃させます!」
 戦術参謀が威勢良く復唱する。

 スワラージ作戦は、第二段階に移行しつつあった。









 地球が近い。
 気を引き締めていないと、地表に引きずり込まれそうなほどである。
 眼下に広がるのは、変わり栄えのしない地球。
 ただし――先刻よりも大きい。

 スワラージ作戦が開始されてから、既に2時間経つ。
 間もなく、作戦の最重要段階である軌道降下兵団の投下がはじまるはずである。
 搭載している戦術機を最適地点で切り離すために、艦隊は高度をぎりぎりまで下げている。
 これ以上高度を下げては、地球の引力に捕まって、母艦ごと地球に呑み込まれてしまうというギリギリのラインで、艦隊は踏みとどまっていた。
 そのため、悠陽の目に飛び込んでくる地球は、宇宙に漂いながら見たものよりも、はるかに大きく圧迫感がある。

 操縦桿を握る手が汗ばみ、強ばっている。
 強化装備が直ちに汗を吸収し、蒸散させているので、不快感はない。
 だが、操縦桿を握る手は、まるで自分のものではないかのように、言うことを聞かない。
 大体、母艦接続中は、コントロールは悠陽にはない。
 母艦で一括管理されている。
 だから、操縦桿を握るという動作そのものが無意味。

 それでも、緊張を紛らわすために、悠陽は何か手に取れるものを求めた。
 悠陽自身に機体の管理権がないから、操縦桿をどれほど握りしめようが、機体はピクリとも動かない。
 そのことが分かっているからこそ、こうして安心して操縦桿を痛いほどに強く握りしめていられる。
 機体コントロールが自分にあったら、無闇に操縦桿をいじったりはしなかっただろう。

 現在、悠陽が搭乗する機体は、母艦からの電力供給により、生命維持系統と通信系統のみを駆動させている。
 それすらも、母艦のエネルギーを浪費しないように、最低限度のものである。

 コックピット内は照明もなく、薄暗い。
 いくつかのランプが、仄かに青い光を放っている。

 ――もうすぐ降下が始まるはず。
 悠陽の脳は、出来の悪いラジカセのごとく、何度も何度も同じ言葉を反芻する。
 思考が硬直していて、それ以外のことはまるで考えられない。

 ――もうすぐ。もうすぐのはず。
 先ほどから、首も肩も全く動かしていないせいで、筋肉が強ばっている。
 心臓は忙しなく脈打ち、呼吸も速い。
 瞳孔も心なし開いている。

 過度の緊張が、はっきりと身体に反映されている。

 過度の緊張が良くないなどということは、悠陽とて分かっている。
 だが、それをどうにかしようという気すら起こらない。
 これは、悠陽の初陣なのである。
 ハマーンが演出した戦場を特等席から観覧した経験はあっても、重要作戦で自ら操縦した経験はない。
 いざとなれば、頼りになるエースがフォローに入ってくれるとはいえ、できるかぎり悠陽自身が操縦し、部下を引き連れてハイヴという未知の坑道を突破しなければならない。

 大きく息を吸い込み、吐き出す。

 悠陽のバイタルは、母艦でもチェックしているはずである。
 彼らが何も言ってこないということは、悠陽のバイタルデータは降下兵としての許容範囲内ということなのだろう。
 何せ、降下兵の実戦投入は今回が初めてなのである。
 その意味では、誰もがルーキーであり、悠陽と同じように緊張しているハズなのである。

 ――大気圏降下中に摩擦熱で燃え尽きないだろうか。
 ――降下中の無防備な状態でレーザー照射を浴びて焼け焦げてしまわないだろうか。
 ――降下後の大減速中に失神して大地に特攻してしまいはしないだろうか。
 ――降下の衝撃で戦術機が操縦不能になりはしないだろうか。
 ――ハイヴ内はどうなっているだろうか。

 誰しもが、同じような不安を胸に抱き、操縦桿を握りしめているはず。

 悠陽が再度深呼吸をしようと小さな口を開けたとき、母艦から通信要請が入った。

 ――きた。いよいよ。
 悠陽は口をきつく閉じ、心を落ち着けるように目を閉じる。
 すぐに、通信要請を受諾し、目を開いた。

 帝国宇宙軍の宇宙用強化装備を身につけた、若い女性士官の顔が、網膜に映し出される。
「マザーより、クリムゾン各機。本艦は10分後に再突入殻分離シークエンスに入ります。クリムゾン各機はメインコンピュータを起動し、降下準備を整えてください。オール・ステート・グリーン?」
 女性にしては低くて落ち着いた声が聞こえる。
「クリムゾン01よりマザー。全て異常なし。全装備固定完了」
 悠陽はすぐさま電気系統を立ち上げ、答える。
 緊張のあまり声が震えるのではないかと恐れたが、思ったよりも落ち着いた声が出せた。

「クリムゾン02、異常なし。全装備固定完了」
 網膜に神野副長の顔が映し出される。
 長髪を肩の下で束ね、黒縁のメガネをかけている。
 相変わらず、落ち着き払った声である。

「クリムゾン03、同じく全て正常。全装備固定完了」
 同じくメガネをかけた真耶が、同じように落ち着いた声で答える。
 悠陽と数歳しか違わないのに、既に大人びた容姿をしている。
 真耶の声を聞いていると、少しだけ悠陽にも余裕が生まれる。

「クリムゾン09、全て正常です。全装備固定完了」
 鈴木少尉の強ばった顔が網膜に広がる。
 黒づくめの強化装備に黒髪というのは、死に神のような印象を見るものに与える。
 悠陽が知る限り、鈴木は無口な衛士だが、与えられた任務はきっちりとこなす。

「マザー了解。降下後の集結予定地点は、H-21エリア。A-13ゲートからハイヴ内に進入し、第一層B-12で麾下の大隊との合流を果たしてください。米軍ウォーケン中隊ならびにソ連特殊情報部隊とは第三層で合流予定です」

「了解です」
 悠陽は操縦桿を握り直す。
 いよいよ、はじまる。
 100kmの大ジャンプ。
 少しでも失敗すれば、待ち受けるているのは死。

 この作戦のためにどれほどの労力を費やしてきたことか。
 絶対に失敗できない。

 悠陽の双眸は、決意を秘めて蒼い煌めきを放つ。
 紫紺の長髪は汗を吸って、コンソールの光を撥ね返す。

「国連宇宙総軍艦隊司令部より再突入開始の命令を確認、本艦の軌道離脱噴射まで300。本艦からの切り離しに備え、クリムゾン各機は全系統確認」
 悠陽は、マニュアル通り再突入殻の内蔵電源を起動する。
「クリムゾン01、全系統切替確認」
「了解。クリムゾン01、ユー・ハヴ・コントロール」
 マザーの言葉とともに、再突入殻の操縦権が悠陽にあることを示すランプが点灯する。
「クリムゾン01、アイ・ハヴ・コントロール」
 再突入殻からの電源供給を受けた管制ユニットは、全機能を回復し、暗闇を拭い去る。
「再突入殻分離まで60」
 マザーからの通信が入る。
 これが、マザーとの最後の通信。
 切り離しの瞬間は、悠長な通信のやりとりなど、していられない。
 高度120km。

 分離準備を示す警告文が、網膜一杯に広がる。

 次の瞬間、衝撃が悠陽を襲う。
 髪が勢いよく舞い上がる。
 視界上方には、先ほどまで悠陽たちを運んできた駆逐艦の噴射炎。
 地球に引きずり落とされないように、低軌道を離脱していく。
 速度を上げる艦隊とは対照的に、再突入カーゴは短時間の逆噴射により減速する。
 低軌道上を時速三万キロという高速で周回していたカーゴは、減速により周回軌道を離脱、降下軌道に入る。

「再突入殻の周回軌道離脱確認」
 神野副長から無線で通信が入る。

 間もなく、高度80000。
 再突入殻のロケットブースター点火地点である。
 レーザー照射を浴びる確率を少しでも下げるために、大気との摩擦によって生じる減速幅を減らす必要があるからである。
 普通、大気圏突入時には進行方向に対する投影面積を最大にすることで、機体を減速させる。
 だが、ハイヴへの軌道降下戦術の場合は、大気との摩擦が最小になるように、降下軌道と降下姿勢を調整し、その上でブースターによって落下速度の低減を抑える。
 かつては、大気との摩擦熱で再突入殻が燃え尽きるという事故もあったらしいが、現行モデルでそれはない。

「高度80000、再突入殻のブースター点火」
 悠陽が点火スイッチを押すと同時に、全身をGが襲い、体をシートに縫い付ける。
 口が、意図せずして呻き声を発する。
 手は操縦桿にしがみつき、歯はしっかりと噛み合わさって固定される。
 現在の対地速度はマッハ15。

 無数の再突入殻が、隕石のように光を放ちながら落下していく。

 加速はまだよい。
 そこまで厳しいGではない。
 問題は、高度2万メートル付近での大減速。
 通常の降下と異なり、8万メートル地点から減速をかけていないため、この地点での減速は信じられないほどに強烈なものとなる。
 実に、8.2Gの負荷が、悠陽の成長しきっていない体を襲うことになる。
 大の大人とても失神しかねない、過酷な重圧である。

 すでに高度6万。
 間もなく、減速域に達する。

 リニアシートは、Gを受け止めるべく、緩やかに位置を調整する。
 地表を正面に見据えたままの姿勢で減速しては、減速時のGで骨折する。
 柔らかいシートが悠陽の躰を包み込むように、Gを緩和させる必要がある。
 強化装備の対G機能とシートと根性で、降下兵は減速に耐える。
 耐えきれなかった者を待ち受けるのは、大地との激烈な抱擁。

 高度3万。
 もうすぐ大減速である。
 僚機との通信は、減速終了後までは不可能。
 神野や真耶がどうなっているのか、様子を知ることはできない。
 二人とも、悠陽よりは躰ができあがっているので、問題ないはずである。
 今は、それを信じるしかない。

 戦術コンピュータが、高度2万メートルを知らせる。
 減速を求める警告が網膜一杯に広がる。
 最大出力で逆噴射。
 再突入殻が、地表に向かって炎を吐く。

 今度こそ、悠陽はシートにたたきつけられた。
 息をすることもできない。
 血が後背部に流れ、視界が狭まり、暗くなる。
 目から色彩が失われ、世界が灰色に塗りつぶされる。
 グレイアウト。

 バイタル・データを監視していた強化装備が、直ちに反応する。
 下半身を締め付け、無理矢理、血を脳に送る。

 ここで持ちこたえられなければ――脳溢血で失神する。
 そうなっては、待ち受けるのは死。

 それは厭、と悠陽は歯を砕けんばかりに噛みしめる。
 もう、ほとんど何も見えない。

 意識が遠のく。
 いけない、と心が悲鳴をあげる。
 瞬間、躰をシートに縫い留めていた力が弱まる。
 息ができる。
 肺は貪るように酸素を求め、米神は強く脈動する。
 強烈なGの後遺症のせいか、頭痛がひどい。

 高度4000メートル。
 データリンクが回復し、僚機の位置を悠陽に伝える。
 細胞という細胞が、骨という骨が不調を訴え、鈍い痛みを発する。

 だが、痛みが治まるまで寝ているわけにはいかない。
 中隊全機に異常は見当たらない。
 降下予測地点も、誤差の範囲内。
 このままいけば、予定通りA-13ゲートから突入できる。
 第25大隊を構成する他の二個中隊も、悠陽たちから少し離れた降下ポイントに無事降り立つことだろう。
 彼らの様子まで気を配る余裕はない。

 大減速終了と同時に、重金属雲に突っ込む。
 当然、その中ではレーダーもデータリンクも機能しない。
 視界を暗雲が覆う。

 最初の重金属雲を抜けると同時に、これまで悠陽を運んでくれた再突入殻を切り離す。
 中身のなくなった殻は、そのままの速度を保ったまま、地表に突き刺さり、運動エネルギーを破壊に転換させる。

 悠陽は機体を音速域にまで減速させながら、重金属と水蒸気が混じり合った第二の暗雲に突っ込む。
 雷光が煌めき、大気が鳴動する。
 火炎旋風によって熱せられた大気が、急速に冷却し、雷雲を発生させたのだった。
 雷に誘導されるように、悠陽は雲を抜ける。


 地上は――雨だった。
 雷を伴った黒い雨が降る。

 太陽は完全に遮られ、午前中だというのに薄暗い。
 それでも、ハイヴ中心から聳え立つ、奇っ怪なモニュメントが厭でも目に飛び込んでくる。
 その真下が主従坑。

 再び、データリンクが回復。
「クリムゾン01より各機。予定どおりA-13番ゲートよりハイヴ内に突入する」
 陸上兵力は与えられた役目を十分に果たしているようで、光線級はまばらである。
 レーザー被照射警告が点滅するが、光線が収束するまえに、悠陽は地表に降り立つ。
 腰部メインスラスターを水平方向に噴射。
 同時に、脚部ジェットエンジンを起動。
 迅雷の太い両脚が、地表すれすれで浮揚し、降下の衝撃を逃がす。

 軌道降下戦術の最大の難関はクリアできた。
 悠陽は、ほっと一息つく。

 ――よくやった。上出来だ。
 労うハマーンの声がくすぐったい。

 周囲にたむろする要撃級が、悠陽に反応して群がってくる。
 だが悠陽は、地表のBETAを相手にしない。

 一々倒していたら、いつまで経ってもゲートに辿り着けないし、貴重な弾薬をいたずらに消耗してしまう。
 地上の敵に用はない。

 悠陽はスラスターの角度を水平方向に調整し、ホバリングしながら、クレーターだらけの地表を滑る。
 足の遅い要撃級が、置物のように後背に流れ去る。
 脚部ジェットエンジン二基も快調。

 地表を滑ることに関しては、脚部ジェットエンジンを備える重戦術機――迅雷は、他の戦術機の追随を許さない。
 スマートで洗練されたフォルムの第二、第三世代戦術機と比べ、迅雷の外見は見栄えがしない。
 第三世代機というよりはA-6イントルーダーの姉妹機とでも言ったほうが、ふさわしい――それほどまでに、鈍重そうな形をしている。
 だが――その外見に反して、迅雷の動きはシャープで切れがある。
 熟練のスピードスケーターのように優雅に、鋭く、滑らかに突き進む。
 地面すれすれを飛ぶ燕のように、軽やかで重量を感じさせない。

 悠陽は、この最新鋭機を手足のごとく操り、時速400km近い速度で滑空する。

 飽和攻撃が想定以上の成功を収めたおかげで、周辺のBETAは疎らで、突破は難しくない。
 BETAや友軍の情報が、視覚を介さずに、立体的に、頭のなかに飛び込んでくる。
「このまま突入――」

 そう言いかけて、悠陽は目も眩むような頭痛に、意識を失いかけた。
 頭が割れるように痛む。

 断末魔の絶叫が、空気の振動を介さずに、脳裏に飛び込んでくる。
 死にたくない、という強烈な思念の渦に呑み込まれそうになる。
 視界は現実から遊離し、鈍色の霧しか見えない。
 死の瞬間が、次々と悠陽の魂に襲いかかる。

 レーザーを浴びて蒸発するのは、最上の死。
 生きながら兵士級に食われ。
 半壊した戦術機内で、管制ユニットごと戦車級に咀嚼され。
 時速170kmで突進してくる突撃級に跳ね飛ばされ。
 要塞級の鋭い脚で踏みつぶされる。

 悲鳴を上げることすら、できない。
 死ぬという恐怖で、全てが埋め尽くされる。
 霧は濃度を増し、粘性の黒い気体が悠陽を拘束する。

 さらに――。
 ――どうせ今回の攻略戦も失敗するに決まっている。
 ――やっぱりBETAには勝てなかったか。
 ――何をしたって、無駄なのになあ。
 死者が今際に呟く、諦めの言葉が悠陽を底なしの深淵に引きずり込む。

 逃げようともがいても、指一本動かない。
 助けを求めようとしても、誰もいない。
 ハイヴ攻略も、BETAのことも、悠陽の頭からすっぽりと抜け落ちた。
 悠陽を嬲り、苛み、窒息させるのは、戦場という名の狂気。
 躰の芯から、地獄の業火が悠陽の魂を焼く。
 何をやっても所詮は無意味という虚無感が、抵抗する意志を奪う。
 人の精神は、死を何度も追体験できるほどには、勁くない。
 
 唯々、涙が頬を伝う。

 魂が生の輝きを失い、次第に鈍色に同化する。
 考えることさえも億劫になってくる。

 何百、何千もの死の瞬間が、ひたすらに再現される。
 死にゆく者たちの無念が、痛みが、苦しみが、恐怖が、蘇る。

 それらがもたらす精神的な痛苦は、物理的な拷問の比ではない。
 そんなものを、さらに何万回と追体験しなければならないというなら――。
 この地獄から抜け出すためなら――。
 ――安らかなる死を。

 悠陽は、思念の災禍に完全に取り込まれようとしていた。



 そのとき。

 ――呑まれるな、この愚か者が!
 力強い怒声が、消えかけた心を揺り動かす。
 暗い霧は、動揺したかのように、打ち震え。
 死は赤光に畏れをなしたかのように、痙攣する。

 瞋恚の炎が、淀んだ澱を浄化するかのように、燃えさかる。

 ――戦場に渦巻く想念に取り込まれては、抜け出せなくなる。しっかりしろ!
 叱咤の声が、傷ついた悠陽の心を揺さぶる。
 ――所詮、あれらは亡霊にすぎん。心弱き者を死の淵に引きずり込む亡者よ。煌武院悠陽、貴様は何のためにここにいる? 弱者の嘆きに取り込まれ、自ら死を選ぶためなのか? 滅びの定めに反逆し、人類を導かんとして戦場に降り立ったのではなかったのか? 他者を率い、己が理想を追い求めんとするものが、敗者の怨念に取り込まれてどうする! そもそも、貴様はまだ戦ってすらいない。敗者とは、戦い抜いた末に武運拙く敗れ去ったもの。戦ってすらいない貴様に、敗者に同調して嘆く資格があるとでも思っているのか? 答えろ、悠陽!

 ハマーンの感情に煽られるようにして、紅炎が不死鳥の形をなし、闇夜に甲高い鳳鳴が響き渡る。


 その瞋恚の炎は、電気ショックのごとく悠陽の精神を無理矢理に覚醒させる。
 魂が灼かれるような痛みに軋み声を上げる。

 発せられる一語一語が、容赦なく悠陽を現実に引き戻す。

 ――私は何のために戦場に?
 睡眠薬服用後にたたき起こされたかのように、思考は焦点を結ばずにぼんやりとしている。
 だがそれは――。
 思考ができないということではない。

 否。
 社会良識、義務感、しがらみ。
 人の根源的な欲動を抑えつける理性が一切機能しない状況では、それらの言葉は何の意味も持たない。

 重要なのは、悠陽自身が何をしたいのかという、ただそれだけ。
 本能的な欲求が剥き出しのままの状態で、何のために闘うのかと問われても――。
 人類のためなどという抽象的な謳い文句は全く出てこない。
 そんな具体性を欠くもののために我が身を犠牲にできるほど、悠陽は聖人ではない。
 

 ならば、帝国のためか?
 それは慥かにあるだろう。
 だが、悠陽がいなくとも、香月夕乎がいれば、日本は解放される。
 それどころか、悠陽が何もしないほうが帝国にとって良い結果をもたらす可能性すらある。
 

 では、なんのために?
 心のなかでそう自問しながらも、悠陽は既に答えを得ていた。

 それは――。
 唯一人の妹のため。
 人生を何度繰り返しても、冥夜の苦しみを和らげることさえできなかった、という苦い思いがある。
 今度こそ冥夜に幸せになってほしいという思いは強い。
 武家に、そして世間に、冥夜の存在を認めさせるために、力を蓄えてきたと言って良い。
 今回のハイヴ攻略とて、そのための布石。

 ――戦ってすらいない貴様に、敗者に同調して嘆く資格があるとでも思っているのか?
 ハマーンの痛罵が、悠陽の魂を揺さぶる。

 二度の人生では、才無き身なりに奮闘したと言ってもいいかもしれない。
 それでも、己の望む結末を得られなかった。
 だからこそ、敗者たるの資格を持ち合わせていた。

 だが、今回はどうだろう。
 今の自分は、力の限りを尽くして闘ったと冥夜に胸を張って言えるだろうか、と悠陽は自問する。

 答えは――否。
 まだ己の戦いは始まってすらいない。
 今までの10年間は、これからの10年間の戦のための下準備にすぎない。
 今逃げてしまっては、戦の準備をしたものの、本番間際に恐れをなして逃亡した臆病者になる。
 それでは――。
 前の人生よりもなおひどい。

 そんなザマでは、姉として冥夜に接することなど、できはしない。

 ならば――。
 己のなすべきことは決まっている。

 蒼い輝きが、双眸に蘇る。


 決意を胸に前を向くと、死の霧の影はなく、眼下にはBETAが群れていた。
 永劫とも思える時が経っていたように感じられたが、実際にはほんの一瞬であったようだ。
 網膜上の情報からは、僚機がA-13番ゲート目指して疾走している様子が分かる。

「どうかされましたか、悠陽様。一瞬、バイタルが著しく乱れましたが?」
 神野副長が、心配そうに問い掛けてくる。
「いえ、何でもありません。心配を掛けましたね、神野」
 さらに、悠陽は心の中で呟く。
 ――感謝します、ハマーン。危うく、己を見失うところでした。
 ――愚か者めが。戦場で自失しては、待っているのは死のみだ。今回は私がいたから何とかなったが、次もこう上手くいくと思うなよ?
 ハマーンの声は憤りを秘めていながら、優しい。
 ――安心してください。もうこのようなことは二度と起きません。
 押し寄せてくる頭痛に顔をしかめながらも、悠陽の瞳に迷いはない。
 己を取り戻すや、戦場の情報が再び脳内に流れ込む。
 死者の今際の痛苦が伝わってくる。

 同時に――。
 戦場が分かる。
 どれほど科学技術が進歩しようとも、戦場を覆う不確実性という名の霧が晴れることはない。
 そのはずなのに――。
 その霧すらも見通すほどに、悠陽の心眼は戦場を俯瞰する。

 計測機器がもたらしたデータを分析する必要はない。
 論理的な状況認識力とは凡そ無縁。

 どこまでも直感的で、刹那的で、原始的。
 そんなものを元に戦場で指揮を執るなど、本来ならば言語道断。
 根拠のない直感に従って戦に敗れた将のなんと多いことか。
 そんな軍事的常識は悠陽とて百も承知。

 だがそれでも――。
 今回ばかりは、自分の直感は無条件で信頼できる。
 悠陽にとってそれは、確信というよりも確固たる現実であった。

 ハマーンを激しい紅炎とすれば、悠陽は穏やかな蒼河。
 激することなく常に静謐でありながら、堤防の僅かな綻びすらも見逃さずに浸透し、ついには堤防を決壊に至らしめる。
 どれほどBETAが行く手を遮ろうとも、わずかな間隙から当然のように浸透し、突破する。
 ましてや、今のBETAは飽和攻撃の影響で十分な地上戦力を有していない。


 要塞級と要撃級の混合集団が進路を塞ぐ。
 距離わずかに1000。
 悠陽は脚部エンジンの出力を上げる。
 機体が僅かばかり上昇する。

 瞬く間に、BETAが眼前に迫る。
 戦術機の装甲を軽く引き裂く要撃級の上腕が勢いよく振り下ろされる。
 だが。
 鋭い斬撃は、浮き上がった悠陽機の足元すれすれの空間を無為に薙ぎ払うだけだった。

 要撃級を躱した悠陽を、今度は、左斜め前方から要塞級が襲う。
 要塞級の下腹部から、衝角がワイヤーガンのごとく射出される。
 先端から強力な酸を分泌する要塞級の衝角は、戦術機の正面装甲を容易く貫く。
 しかし悠陽は、衝角が射出される前に逆噴射をかけて速度を落としていた。

 狙いを誤った衝角が悠陽機の前方を右斜め後方に向けて飛んでいく。
 伸びきったワイヤー部に相当する触手を、ヒートソードで右下から左上に向けて、すくい上げるように切り飛ばす。
 そのまま悠陽は、ヒートソードの先端を左斜め前に向ける。

 すると――。
 要塞級の体表に貼り付いていた戦車級が悠陽機に向けて跳躍し、突き出された長剣に吸い込まれるようにして貫かれた。
 悠陽は、戦車級の質量が加わって重くなったソードを右下に向けて振り払う。
 剣からすっぽ抜けた戦車級の残骸は、右斜め前方の要撃級の頭部に突き刺さり、要撃級の動きが一瞬鈍る。
 悠陽は、再度加速し、要撃級を抜き去る。

 一つ一つの所作が、舞のごとく滑らかで、一切の無駄がない。
 それもそのはず。
 悠陽は上腕マニピュレータに一切無理をかけていない。
 あくまでもBETAとの相対速度を利用して、しかるべき空間にヒートソードを移動させただけ。
 剣戟とさえ言いがたい動作。
 それなのに。
 BETAは、火に惹き寄せられる夏虫のごとく、切っ先に自ら飛び込んでいった。

 悠陽は、無人の野を進むが如く、前進する。
 跳躍軌道は全くぶれない。
 BETAがいようがいまいが、ただひたすらに直進する。
 BETAに加える攻撃も最小限度のもので、緩急をつけながらBETAの攻撃をいなし、躱す。
 交戦中でもほとんど減速をかけないため、BETAは飛ぶようにして後方に流れ去る。
 BETAを避けてジグザグの軌道をとりながら、ゲートを目指す僚機との距離は、開く一方だ。

 会敵からわずか10秒で、悠陽は一気にBETA集団を抜ける。


 警告サインが点灯し、突入ゲートまで指呼の間に迫ったことを悠陽に告げる。
 麾下の中隊が悠陽に追いつけるよう、速度を弱める。
 減速にともなって、躰を浮遊感が襲う。
 悠陽が突破したBETA集団を大きく迂回するようにして、神野が、真耶が、鈴木が追いついてくる。
 中隊全機が集結したのを確認すると、悠陽は上空に向けて跳躍する。
 視界一杯に、暗雲が垂れ込め、地上からのレーザー照射が稲妻のごとく暗闇を引き裂く。
 一瞬の跳躍の後、悠陽は突入角を調整しながら、ハイヴの地下縦坑につながるA-13ゲートに飛び込んだ。
 通信用の有線ケーブルを射出するのを忘れない。
 ハイヴの壁面は、電磁波を吸収する特殊粒子を混ぜ合わせてあるらしく、地上との無線交信は不可能だ。
 したがって、通信アンテナを地表部に射出した上で、有線ケーブルを背部から垂らしながら、悠陽機はハイヴ内を落下する。
 もちろん、途中でケーブルが切断されるリスクは織り込み済みだ。
 複雑なハイヴ内でケーブルが絡まるかもしれないし、BETAがケーブルを噛み切るかもしれない。
 大隊の他のメンバーや米ソ部隊と合流するまで保ってくれればそれでいい、というのが悠陽の考えであった。
 そもそも、それ以後は地上との通信は必要ない。
 地下で困難に遭遇しても、支援を要請できるはずもないし、地下で一々司令部の指示をあおぐ暇はない。



 悠陽が飛び込んだ縦坑は、青い燐光を放ちながら、大地から垂直に地下に向かって伸びている。
 直径100m弱といったところか。
 戦術機が二機、余裕をもって並んで前進できる。
 スラスターが生み出す運動エネルギーに、重力エネルギーが加わり、機体は速度を上げながら大地の中を落ちるように降下する。
 ハイヴ壁面が電磁波を吸収してしまうせいで、レーダーは全く役に立たない。
 当てに出来る計測手段は、音響探査のみ。
 戦術機に内蔵されたソナーが、地下茎の内部構造や移動中のBETAの有無を探知する。

「02よりクリムゾン各機。アクティヴ・ソナーに反応なし、BETAの存在は確認できません」
「01了解」
 神野の報告に、悠陽は微かに眉を顰める。
 これまでの例を踏まえれば、入り口付近で抵抗に遭遇しないというのは、あまりよい兆候ではない。
 理想は、序盤から断続的にBETAの小集団を突破していくこと。
 これは、ハイヴ内でBETAを各個撃破するのに等しく、それだけに大深度地下でBETAの大群に包囲される可能性が減る。
 反対に、入り口付近が無防備ということは、地下のどこかで大群が温存されているということを意味する。
 ハイヴの中核たる反応炉が置かれた大広間付近に戦力を集中されては、非常に厄介だ。

 もっとも、本当に低深度帯にBETAが潜んでいないかは、疑わしい。
 噴射音を轟かせながら高速で移動する戦術機のソナーの感度は良くない。
 ハイヴ内では音が複雑に反響するだけに、なおさらである。
 突然、偽装坑道内に潜むBETAが戦術機に反応して飛び出してくることもよくある。
 一瞬たりとて、気は抜けない。

 深度300mで縦坑道は急カーブを描き、横抗と言ってもよいくらいに傾斜度が緩くなる。
 標準的なハイヴなら、そろそろ最初の広間にぶつかるはずだ。
 この広間を制圧して、斯衛大隊の残りのメンバーと合流することになる。
 地表とのデータリンクは問題なく機能している。
 HQからの情報によれば、他の部隊も問題なくハイヴを侵攻している。

 ソナーが前方1000の空間が開けていることを伝える。
 相変わらず、BETAの影も形もない。

 半径300m程度の広間には、兵士級一匹すらいなかった。
「クリムゾン01よりCP。合流予定広間に到達。周囲にBETAの反応なし」
「CP了解。クリムゾン大隊の第二及び第三中隊も数分以内に到着する」
 有線ケーブルを経由した通信にノイズは混じらない。

 警戒態勢のまま広間に待機すること数分、低い駆動音が坑道の空気を震わせる。
 広間に繋がる坑道は全部で4つ。
 そのうち3つは地表からの縦坑で、残る1つが地下へと繋がる横抗である。

 悠陽たちが侵入してきたのとは別の縦坑から、斯衛部隊が広間に突入してきた。
「ホワイト01よりクリムゾン01。ホワイト全機、合流ポイントに到達」
「オレンジ01よりクリムゾン01。オレンジ中隊全機、合流完了」
 第25大隊を構成する二個中隊の指揮官が落ち着いた声で到着を知らせる。
「クリムゾン01了解。これより、米ソ部隊との合流ポイントまで進出する。大隊、楔壱型」
 戦闘らしい戦闘がないだけに、麾下の衛士にはまだ余裕がある。
 念のために全員のバイタルをチェックするも、異常な数値を示すものはいない。
 推進剤、バッテリー等の消耗も想定よりも少ないくらいだ。

 CPに合流成功を伝えた悠陽は、脚部エンジンを稼働させる。

 蒼白く発光する広間に36機分の重低音がこだまする。
 悠陽が下へと繋がる横抗に向けて緩やかに前進すると、各機が悠陽を中心に隊形を整える。
 そのまま、徐々に速度を上げながら、悠陽以下斯衛大隊36機は、次の合流ポイントを目指して突き進んだ。










「そうだ――。予定通り降下部隊のハイヴ突入が完了した。――ああ、計画に変更はない。直ちに作戦を開始せよ」
 そう言うや、彼は受話器をおろした。
 すでに時刻は22時を回っている。
 アラスカを覆う寒気は容赦なく大地を凍らせ、強風が窓を揺さぶっている。
 だが、彼の執務室は暖房が効いていて、薄着でも問題ないほど暖かい。

「閣下、いよいよですな」
 彼の執務室に詰めていた将官が、緊張した面持ちで話しかけてくる。
「そのとおりだ」
 彼の声は緊張でかすれていたが、それでも震えてはいなかった。
「長かった――実に長かった。だが、いよいよ我々の時代がくる。帝国主義者の走狗と成り果てたウスチーノフめ。軍事のイロハも知らぬ軍産複合体の管理人風情が、元帥だと! だが、奴の専横も今日までだ」
 反書記長派の急先鋒、グレチコ元帥の声は、次第に奇妙な熱を帯びていった。
「まずは、日本だ。極東のBETA戦線を一手に担う我々の足元を見おって、技術を高値で売りつけてくるとは、許せん! 勤労人民に群がる独占資本のハイエナどもめが! 我らがソ連勤労人民を代表して、独占資本と結託した反動ファシストどもに正義の鉄槌を下してくれる」
「書記長もウスチーノフめも、我らを止めること、かないますまい。現に、KGBも人員を大量に動員していながら、全く成果を上げておりませぬ。ましてや、今はスワラージ作戦中。書記局の主要メンバーはノヴォクレムリで、作戦の推移に一喜一憂しているだけでございましょう」
 ノヴォクレムリとは、新しいクレムリンを意味する。
 アラスカに建設された、ソ連共産党指導部の建物である。
「我らが悲願がかなったときのきゃつらの顔が見物でございましょうな」
 胸に勲章をぶら下げた将官たちが、次々に追従の言葉を吐く。
 彼らの阿諛を聞いて、気持ち良さそうに目を細めたグレチコ元帥は、
「そのためにも、作戦は完璧に遂行されねばならないのだ、同志諸君! 第二局面の準備はどうなっている、ロトミストロフ中将?」
 と、問い掛けた。
「問題ありません。むしろ、書記長が予想よりも無様な采配を見せたせいで、やりやすくなっております」
「だろうな。今の党首脳部に、戦略を理解できる者はおらん。人造の化け物をハイヴに突っ込ませるのがせいぜいだろうが」
 政治局員候補ですらないグレチコは、政治局内の動向にそれほど詳しいわけではなかったが、それでも彼に近いイリイチョフ書記などが色々と内部情報を流してくれる。
 肝心のウスチーノフ国防相が軍事の素人であるため、書記長をはじめとする首脳部は、ソ連軍参謀本部の提案を吟味する能力を欠いているのである。
 トップがそんな状態で、まともな戦略を描くことなどできるはずもない。
 グレチコはそう確信していた。
「実際、クリュチコフKGB議長がKGB職員を大量に日本に送り込んだおかげで、我々の準備も信じられないほど容易になりました。まさかこれほどまでにKGBが無分別な行動をするとは――」
 別の少将がつぶやく。
「ふん。クリュチコフも、あの化け物の小娘を側近にして以来、まともな思考力を失ったようだな。聞くところによれば、あの小娘に一々相談しているというではないか。そんな状態で、冷静な諜報活動など遂行できるものか」
 グレチコは居丈高に言い切った。
 なおも彼が現首脳部に対する罵倒の言葉を吐こうとしたとき、デスクに置かれた電話が鳴った。
 グレチコは勢いよく受話器を掴んだ。
 彼を取り巻くようにして立っていた将官たちは、固唾を呑んで、通話するグレチコを見守っている。
「わたしだ。首尾はどうだ? そうか。――ああ、そこは想定どおりだな。――ほう、そこまで鎮圧準備が整っているのか。ならば、上手くいきそうだな? ――ああ、期待している」
 グレチコは上機嫌で受話器を置いた。
「閣下、日本の状況は――?」
「喜べ。KGBも、帝国軍も、帝国情報省も、よほど帝都のことが気になるようだ。初動段階で完全に鎮圧準備を整え、帝都城は難攻不落の城塞と化しているらしい」
「おお。では――」
「そうだ。オペラーツィア・プラートーの第一局面は、成功裏に終わる。同志諸君! 第二局面に向けた準備に移るときがきた」
「ハッ」
 グレチコの周囲に集った将官たちが、一斉に敬礼をして退出する。

 アラスカを覆う暗雲は、重く、低く立ちこめ、嵐は収まる気配を見せていなかった。










 最初の爆発音が冬の帝都を揺さぶったのは、午後3時のことであった。
 相変わらずの曇天とはいえ、雪は既に止んでおり、路上でもアスファルトが顔を覗かせていた。
 大型輸送トラックが、帝都郊外の軍の通信施設に突入した。数名の守衛は、いずれもトラックの通過を、奇妙なまでに意思を感じさせない茫洋とした表情のまま、見守った。
 通信施設のゲートを難なく突破したトラックは、アクセルを全開にして、大型アンテナを備えた施設の一階部分にのめり込むようにして突っ込んだ。
 雷管が起動し、コンテナに満載された6tものC-4が凶悪な爆発の衝撃を撒き散らす。
 一階にいた職員は、何が起こったのか気づく間もなく、爆発に巻き込まれてミンチになった。
 衝撃波は一瞬のうちに壁ごと窓ガラスを吹き飛ばし、室内の機材を屋外へと跳ね飛ばす。
 頑丈なはずの軍用施設の鉄骨も、爆発の衝撃で揺らぎ、支柱としての機能を失う。
 爆風は、鉄筋コンクリート製の天井を吹き飛ばし、もうもうたる煙を生じさせる。
 衝撃を吸収しきれなかった2階の天井がひび割れ、コンクリートの破片が降り注ぐ。
 崩落がはじまった。
 上層階にいたおかげで、即死を免れた職員も、無傷では済まなかった。
 ある者は壁に叩きつけられ、ある者は窓ガラスの破片で顔を血だらけにし、ある者は飛んできた大型パソコンの筐体に肋骨を砕かれた。
 ただちに黒煙が生存者の目と鼻を奪う。
 ふらふらしながら逃げようとしても、階段は瓦礫で埋まり、黒煙で何も見通せない。
 崩落の轟音に、呻き声が混ざり合う。

 自爆テロ――。
 中東では珍しくもない。
 だが、ここは日本の首都。
 先進国で政争の果てにクーデタ騒ぎが起こるにせよ、守るべきルールというものがあった。
 ここまで野蛮な手段は、想定されていなかった。
 しかも、この爆発騒ぎは一件ではない。

 実に、帝都の5カ所で、同時に大型トラックによる自爆テロが発生した。
 狙われたのは、いずれも通信施設。
 軍用、民間用を問わず、通信のキー局が襲われた。

 もちろん、クーデタ勢力が通信設備を押さえることは予想されていた。
 警備は厳重で、本来ならば不審なトラックが見咎められることなくゲートを突破することなど、あるはずもない。
 だが――。
 なぜかいずれのケースでも、トラックが守衛に止められた形跡は見当たらなかった。


 このクーデタ同時多発テロにより、帝都の通信は一時的に麻痺した。
 もちろん、帝都城や国防省本部の通信施設は無傷――。
 しかし、テロを受けて跳ね上がった通信量に対応できるほどの余力はない。
 結果として、貧弱な通信回線は、本丸防衛のために費やされることになった。

「敵対勢力の狙いは、政府中枢機能の制圧にあると想定される。帝都防衛隊の各連隊は、プランXに従って、帝都城、首相官邸、帝国議会、国防省、参謀本部に展開せよ」
 クーデタ阻止のために想定されていたプランにしたがって、直ちに帝国軍に命令が下された。
 各師団は臨戦態勢にはいり、斯衛軍も帝都城周辺に戦術機を重点配備した。
 帝都全域にわたり、一般の通行・外出は禁止されたが、平日の昼間ということもあり、統制は行き届かない。
 帰宅しようとする者、帝都の外に逃げだそうとする者で車道は溢れ、部隊の展開が遅れる。
 通信網が十分に機能しないため、軍や警察の末端まで情報が行き届かず、随所で混乱が生じた。

 それでも、帝国軍は、兵員輸送用のヘリコプターを動員することで、重要施設に守備兵を配置することに成功した。






 ――やはり、食い止められなかったか。
 帝都で同時多発テロが発生したとの第一報を耳にしたトリーは、慨嘆した。
 その一方で、少し妙だとも感じる。
 テロ自体は、通信網の寸断と陽動を兼ねてのもので、本隊が政府中枢を急襲するのだろう。
 だが、このテロはあまりにも陽動であることが明白すぎる。
 帝国軍も、通信施設防衛のために、守備隊の兵力をこれ以上割こうとはしないだろう。
 テロの混乱に乗じて帝都城や国防省を制圧するとはいっても、難しいはずだ。
 まして、今は昼過ぎ。
 不審な輸送車両の移動は極めて目立つ。
 奇襲を行うなら、深夜から早朝にかけての時間帯を狙うのが常道であるはずだ。
 その常識を敢えて破るからには、相応の理由があるはずだが、それが何なのかが分からない。

 既に書記長には緊急電を打った。
 間もなく、折り返し連絡が入るだろう。
 トリーは、憂鬱そうに顔を横に振った。
 白銀の髪が、持ち主の表情を無視するかのように、軽やかに舞う。

 通信機が、アラスカのノヴォクレムリからの通話要請を伝える着信音を鳴らす。
 ――来た。
 トリーは、一度深呼吸をして、沈みがちになる気持ちを鼓舞する。
 通信回線を開くと、
「一体君は何をやっていたのだね、同志ビャーチェノワ!」
 書記長の怒声が飛び込んできた。
 ひどく興奮しているらしく、普段は不健康なまでに蒼白い顔が真っ赤に染まっている。
「申し訳ありません、同志書記長。大使館の人員を動員して追跡にあたったのですが――」
「君のくだらん言い訳など、どうでもいいのだよ、同志ビャーチェノワ!」
 トリーに最後まで言わせずに、書記長が早口にまくし立てる。
「今となっては、君がどれだけ無能で役立たずだったかなど、一々議論してもはじまらない。何をボーッと突っ立っている! さっさと状況を報告しろ。これから緊急の政治局会議が開催される。それまでに、帝都内の状況を知らねばならん。まったく、オルタネイティヴ計画の行く末を決める一大決戦の最中だというのに、こんな下らないことに煩わされるとはなっ!」
 コルニエンコ書記長は吐き捨てるように罵声を浴びせかける。
「申し訳ありません――。帝都の通信施設数カ所が、同時に自爆テロ攻撃を受けたようです。現在、帝都は準戒厳令状態にあり、帝国軍全軍が臨戦態勢にはいっております」
「そんなことは既に分かっている。首謀者が誰か掴めたのか。元KGB員の動向はどうなっている。全く――。KGB本部の職員を大量に動員していながら、この有様とはな」
「首謀者と目される集団からの犯行声明等は一切出ておりません。また、例の元KGB職員が関与していたかどうかも不明です」
「要するに、まだ何も分かっていないということではないか」
「申し訳ありません」
 恩人たる書記長の非難が、耳に痛い。
 トリーとて日本でやれることは全てやってきたつもりだ。
 けれども、何もできていないではないか、と責められても、反論はできない。
 書記長を失望させたのではないか、という恐怖が神経を揺さぶる。
「いいか。クーデタ騒動それ自体はどうでもいい。問題は、例の二人が関与していたかどうかだ。もし参加していたなら、これは我が国の安全保障戦略の根幹に関わるゆゆしき問題だ。その点を徹底的に洗え! 全く――。これからすぐに首脳部を集めた政治局会議がはじまるというのに、何も分かっていないとは――」
「はい。現在、最優先で調査にあたらせております。同志書記長、申し訳ありませんが、今しばらくお待ちください」
「ふん。ならば、さっさと情報を洗え」
 そう言い捨てて、コルニエンコ書記長は、通信を一方的に打ち切る。

 コルニエンコ書記長の痛罵がトリーの心を苛む。
 書記長にどれほどの欠点があろうと、彼がトリーにとって命の恩人であることに変わりは無い。
 気味が悪いほどに清潔で無機的なリノリウムの床。繰り返される薬物注入。精神調整。死んだような目をした、銀髪の子どもたち。モルモットを観察するかのような、どこまでも冷え切った研究者たちの眼差し。
 あの永久凍土からトリーを解放してくれたのが、現書記長だ。
 その恩に報いるために、これまで彼が求めるままに頑張ってきた。

 それなのに、自分は何もできていない。
 今まで、優れた分析力を以て、幾度も書記長の片腕として役立ってきたという自負がある。
 悠陽との交渉をとりまとめて、日ソ関係を好転させたのも自分だ。他の外交官に任せては、交渉妥結まで半年は余計にかかったことだろう。
 その自分をもってしても、今回のクーデタ騒動の本質が掴めない。

 トリーは大きく息を吐き、通信室の窓から外を眺めた。都市の排煙を吸い込んで灰色に汚れた残雪が、道のそこここに小さな塊をつくっている。
 ソ連大使館付近は、治安部隊が出動しているため、人の動きはまばらで、いつも以上に静かだ。
 もっとも――盗聴対策に特殊な防音ガラスを填めこんでいる通信室の窓ガラスは、外の音を完全に遮断しているので、通信室は電子機器が放つ微かなノイズを別にすれば、いつもほぼ完全に無音である。

 その静寂を破るかのように、突如通信機が鳴る。
 発信元は、帝国情報省。
 鎧衣が何か新しい情報をつかんだのだろうか。
 頭を振り、両頬を手のひらで軽く叩いて、気分を入れ替えようとする。
 このまま、落ち込んでいてもはじまらない。これ以上、書記長を失望させないように、頑張らなくては。
 さもないと、今度こそ自分の居場所がなくなってしまう。

 無理矢理、気を奮い立たせて、トリーは通信要請を受諾した。
 ただちに、モニター一杯に鎧衣の姿が映し出される。
 緊急事態だというのに、ひどく落ち着いた表情をしている。
「ごぎげんよう、鎧衣」
 意志を総動員して、冷静な声を作る。
 鎧衣相手に、そうした演技がどこまで有効かはわからないが、動揺を暴露してしまっては、情報員失格だ。
「ドーブリィ・ヂェーン。ここ数日、上司よりも貴女と会話しているような気がしますよ」
 低くゆっくりとした声で鎧衣が挨拶を返す。
「こちらも似たようなものよ。でも、私たち二人の仲が親密なことを確認するために、わざわざ連絡をくれたのではないのでしょう? 日本でよく言われるように、時は金よりも貴重です。どんなご用件です?」
「ふむ。何、大したことではありません。今回のクーデタ計画ですが、我々はあまりにもスワラージ作戦との関係を重視しすぎたのではないかと思いましてね」
「どういうことです? クーデタの首謀者が、わざわざ日中という不利なタイミングで仕掛けてきたのは、スワラージ作戦と時を同じくしてクーデタを進めたかったからではないのですか? 作戦開始前ならともかく、作戦開始中に事を起こすことが、そこまで重要なのか、やや理解に苦しむところではありますが」
「もちろん、彼らが午後3時過ぎというタイミングで仕掛けてきたのは、スワラージ作戦実施中に事を起こしたかったからでしょう。インドとの時差は3時間ですから、作戦遂行中に動くとなれば、どうしても昼間に行動することになります」
「そのとおりです。相手は、それほどまでにスワラージ作戦を意識している勢力なのです。それなのに、今回の騒動とスワラージ作戦が関係していないというのは、どういうわけです?」
 鎧衣が何か、重大なヒントをくれようとしている、という確信めいた予感がある。
 例のKGBの二人組の追跡をはじめてから、常に違和感がつきまとっていた。
 どこか根本的なところで、勘違いをしているのではないかという茫漠とした思いはいつも抱いていた。
 トリーの紅い瞳を見つめながら、鎧衣はお前の言いたいことは分かっている、という風に笑みを浮かべた。
「私はずっと不思議に思っているのです。今回のクーデタについての情報が出回った当初、われわれはこれをスワラージ作戦を中止に追い込もうとする勢力の陰謀であると捉えました。ですが、それならば作戦開始後にクーデタを起こしてもまるで意味がありません。今、事を起こしても、作戦に何の影響も及ぼせはしません。ならば、スワラージ作戦と一切関係のない目的を、彼らは追い求めているといってよいのではないでしょうか」

 鎧衣の言わんとするところは、トリーにもよく分かる。
 敢えてスワラージ作戦に被せるようにして行動している以上は、スワラージ作戦と無関係というわけではない。だが、その目的は作戦中止ではないかもしれない。
「だとすれば――彼らは何を目的としているのでしょう?」
 半ば自問するように、トリーは問い掛けた。
 自分と同程度の洞察力を持つ鎧衣。
 彼と会話していると、脳細胞が次々と活性化していくのが分かる。

「さて、それが分かりません。特に、ソ連の方々が何を考えているのかは――。ですが、帝国の一部が何を考えているかは、朧気ながら分かったような気がします。もっとも、これは武家にとって醜聞に属する類のものですから、残念ながらお伝えできませんが。一つ言えるとすれば、彼らはスワラージ作戦の成否などどうでもよいのです。ただ、スワラージ作戦が、彼らの目的を達成するまたとない好機を提供してくれた。それだけのことなのです」
「その日本の勢力は、スワラージ作戦によってチャンスが生まれたから、作戦実施中に事を起こしたに過ぎない、と?」
 この事件を読み解く鍵を得た、という確信がトリーのなかに芽生えた。
 この際、武家同士の権力闘争は脇に置いておこう。
 あの二人組を操る黒幕がグレチコ元帥であると仮定した上で、彼の目的がスワラージ作戦の失敗ではないと想定するとどうなるだろうか。
 何のために彼は、わざわざ日本の内政に介入しようとしたのか。
 現書記長の外交を破綻させることで、書記長の権威を揺るがそうとした?
 いや――それもあるかもしれないが、そんなことのためだけに、こんな大がかりな準備をしたりはしないだろう。
 では、逆に考えてみるとどうなるだろうか。クーデタ騒ぎによって、ソ連にどんな影響が出たか。

 トリーは今や完全に思考に埋没し、鎧衣の存在を完全に忘れていた。
 紅の瞳は、何も見逃すまいと鋭い光を放っている。

 書記長は、日ソ関係が一気に悪化することを恐れている。ソ連が対BETA戦線を維持し、アメリカと互する超大国としての地位を保つためには、日本との協力はどうしても必要だからだ。少なくとも、現時点では、日本での事件によってスワラージ作戦が失敗するとは考えていない。むしろ、作戦実行中に余計な心配をしなければならないことに、憤っていた。
 ――余計な心配。
 考えてみれば、このクーデタ騒ぎのせいで、ソ連外務省やKGBは随分と苦労した。
 本来の職務をそっちのけで、二人の元KGB職員の追跡にあたっていた。
 この騒動さえなければ、普段の業務をもっと的確にこなすことができただろう。
 そう考えて、思わず苦笑しかけたトリーは、雷に打たれたように身を震わせた。

 今、自分は何を考えた?
 クーデタ騒動のせいでKGBは余計な任務をかかえ、日常業務がおろそかになったかもしれない?
 厭な予感がふつふつと腹の底から涌き上がってくる。
 滑らかな肌が毛羽立つ。

 KGBは元KGB職員の追跡・確保のために、防諜の専門家を大量に日本に送り込んだ。
 そのことによって、どんな日常業務がおろそかになったのだろうか。
 そして、もしもグレチコの狙いが、そこにあるとしたらどうだろうか。

 そこまで考えたとき、トリーは背筋が凍りつくような恐怖を味わった。
 不味いと思う。

 挨拶もせずに、鎧衣との通信を一方的に切断する。
 焦りが精神を揺さぶる。
 どうか間に合って。
 書記長との直通回線を開く。
 5秒。
 書記長を呼び出しているのに、誰も出ない。
 書記長本人がいなくとも、秘書官が必ず通信に出るはずなのに――。
 10秒。
 まだ、出ない。
 時が過ぎるのがものすごく遅い。
 通信室の壁にかかるアナログ時計の秒針が、止まっているように見える。
 20秒。
 誰も出ない。
 機械の故障であって欲しい。
 祈るような気持ちで、トリーは通信機にしがみつく。
 
 けれども――。
 30秒たっても反応がなく。
 一分たっても音沙汰なかった。
 
 ほんの少し前に通信したばかりだというのに――。
 間に合わなかった。
 もう少し早く、自分が鎧衣と会話していたら。
 書記長に警告できたかもしれない。

 機械の不調にすぎないという可能性にすがるには、トリーはあまりにも聡明であった。


 別の通信機が、鳴り響く。
 発信元は鎧衣。
 出るべきか否か、トリーは一瞬迷った。
 だが、出たところでデメリットはないし、出なかったときのメリットもない。

 のろのろとした動作で、通信受諾のキーを押した。
「どうしました? いきなり通信を切るなど、貴女にしては珍しい。お顔も優れないようですが?」
 相変わらず、低く落ち着いた声が聞こえる。
 トリーは、どこか茫洋とした表情のまま、しばらく沈黙した。
 双眸に先ほどまでの煌めきはなく、顔全体から焦慮の念が滲み出ていた。
「今回のクーデタ騒ぎが、スワラージ作戦と直接関係しているわけではないと、ようやく認識しました」
 トリーにしては珍しく、惚けたような口調で、トリーは語り出した。
「ふむ。それはどういうことですかな?」
「我が国の黒幕であるグレチコにとっては、スワラージ作戦そのものはどうでもよかったのです。重要なのは、作戦がまたとないチャンスをもたらしたという、その一点です」
「と言うと?」
「スワラージ作戦実施にあたって、書記長は信頼できる最精鋭をインドに派遣しました。当然ですよね。書記長が自らの威信をかけて進めた作戦なのですから。ですが、それは書記長にとっても諸刃の剣だったのです。ソ連軍内の書記長派が国外に出てしまうということを意味するのですから」
「しかし、そんなことは貴女とて承知していたことでしょう?」
 何を今更という口調の鎧衣。
 トリーは、わずかに苦笑した。
「そのとおりです。普通であれば、それは大した問題ではありません。ソ連軍は、党が二重に監視していますから。ご存じのように、赤軍政治総本部は絶えず赤軍将校の動向をチェックしています。ですから、普通の国とくらべて、シビリアン・コントロールは非常に厳格です。これこそが、革命直後の内戦期を勝ち抜くために、レーニンやトロツキーが考え出した仕組み。革命直後のロシアには、革命に心から賛同する将校はほとんどいませんでした。したがって、内戦に勝ち抜くためには、ロマノフ朝の将校を雇用する必要がありました。ですが、彼らはマルクス主義者ではありませんから、政治的に全く信用できません。そこで、トロツキーは、旧軍将校を監視し、場合によっては射殺するために、政治委員を各部隊に配属させたのです。この仕組みは、今日でも有効です。――政治委員と軍人が結託しない限りは」
「つまり、政治委員がグレチコ元帥に寝返ったということですか?」
 鎧衣の問い掛けに、トリーは曖昧に首を振った。
「それもあるかもしれません。実際の野戦部隊では、政治委員と指揮官が親しい関係になることも珍しくありませんから。ですが、恐らくは、問題はもっと深刻です。赤軍政治総本部に強い影響力を持つのは、党のイデオロギー担当書記――今はイリイチョフです。彼は、イデオロギー面で現書記長に賛同しておりません」
 それは、前から分かっていたこと。
 だが、イリイチョフは肝の小さい男で、大それた計画などたてることができるはずもない。
 KGBがきっちりと監視しているのだから、なおさらだ。
 ――KGBが普段どおりであれば。
「今更隠すまでもないことですが、書記長は、作戦成功の暁には、彼らを皆排除するつもりでした。おそらくは、それを逆に察知されたのでしょう」
「そのソ連指導部内の権力闘争と、今回の事件はどう関係するのです?」
 今までのトリーの言葉で、おおよその推測はついているだろうに、鎧衣はあくまでも静かに問い掛ける。

 トリーは大きく息を吐いて、ミネラルウォーターの瓶を掴み、口を潤す。
「話を少し戻します。党がソ連軍を監視するための第二の機構として整備したのが、KGBでした。もちろん、KGBは軍を監視するために創設されたわけではありませんが、現在では各級司令部に最低一人はKGB職員が潜入して、軍内部の査察にあたっています。ですから、仮に政治委員が軍人と癒着したとしても、党の監視の目は機能し続けます」
 あくまでも今回のような事態が生じなければの話ですが、とトリーは嘆くように言った。
「今回のクーデタ騒動は、最低でも三つの組織が関与しているせいで、非常に分かりにくくなっています。今でも、CIAの意図については、はっきりとは分かりません。ですが、グレチコの視点から見ると話は非常に単純です。イリイチョフ書記を抱き込んだグレチコが事を起こすために、最後にして最大の障害となったのがKGBなのは間違いありません。そのための諜報機関ですから。ですが、世界屈指の情報収集能力を誇るKGBとて全能ではありません。KGBは今まで、CIAや他の機関からのスワラージ作戦妨害工作を阻止するために注意を集中していました。スワラージ作戦成功のために、両手が塞がっている状態だったといってもいいでしょう。そこに、今回のクーデタ騒ぎが加わりました。既に情報員が出払っている状態で、日本に逃れた二人組を追跡しようとしたら、どこからか職員を引っ張ってこなければなりません」
 もうお分かりでしょう、とトリーは呟いた。
「普段は軍の監視に当たっていた人員を、二人組追跡のために回した、ということですか?」
「その通りです。繰り返しになりますが、党機構が普段通り機能していれば、それでも全く問題はないはずでした。ですが、党内からも離反者が出た場合は、軍に対する党の二重のチェック機構が機能しないという異常事態が発生することになります。まさに、これを狙って、グレチコは日本帝国内で騒動を起こそうとしたのでしょう。だからこそ、書記長やKGB議長以下、首脳部の注意がスワラージ作戦に集中するこの時間に、彼らは事を起こしたのです」
 トリーは、ぐったりと疲れたように、通信室のアームチェアに腰を下ろした。

 鎧衣は、顎に手を当てて考え込んでいたが、
「アラスカとの通信は繋がらないのですか?」
 と、思い出したようにトリーに問い掛けた。

 トリーは、呆れたように鎧衣を見た。
「私が試さなかったとでも思うのですか? 直通回線はもちろんのこと、駐米大使館などを経由した通信も試みましたが――結果はいずれもネガティヴ。これが何を意味するか、貴方にも分かるでしょう?」

 トリーは虚ろな微笑を浮かべて、鎧衣を見上げた。
 アラスカで何が起きているにせよ、通信手段がないのでは如何ともしがたい。
 いつの間にか、陽は落ちて、薄闇が広がっていた。

「そちらのほうこそ、何も新しい情報は入っていないのですか? 最初の爆発からすでに3時間が経ちます。そろそろ新しい動きがあるはずでしょう?」
 無理矢理に気持ちを切り替えて、可憐な喉を振り絞るようにして言葉を紡ぐ。
 普段通りの冷徹な声音。
 鎧衣相手に、この仮面が通じるはずもないだろうが、トリーにも意地がある。
「そちらのほうは既に手を打ってあります。情報省として正式に関与するわけにはいきませんが、色々と融通できましたから。こと対人戦に関しては、人類最強とも謳われた、あの方にご出馬願いました。弟子を救うために、喜び勇んで飛び出していきましたよ」
 何がおかしいのか。
 鎧衣にしては珍しく、笑っているように見える。
「その弟子とやらが、首謀者たちの次のターゲットだということですか?」
「おそらくは」
「それは一体どういう人物なのです? クーデタ騒動の真っ最中に最優先で狙うとは、ただ事ではありません。政府要人ならば情報省や内務省も厳重に警備するでしょう。情報省が公式には関与できないということは、公人ではないが、重大な影響力を持つ人物ということになります」
 優れた頭脳をフル稼働させながら、トリーは問い掛けた。
 重要なのは、その重要人物ではない。

「ふむ。繰り返しになりますが、彼女は武家の暗部というか恥部でしてね。そうそう他国の密偵に情報を漏らすわけにはいきませんよ」
 まあ、そうだろうとは思う。
 動揺して、思わずソ連の内情について暴露してしまったトリーがむしろおかしいのだ。
 自嘲の笑みを浮かべながら、それでもトリーは畳みかける。
「その女性が何者であるかは、私にとってはさほど重要ではありません。重要なのは、その標的を得ようとして、二人組が現れる可能性があるのかどうか、ということです。対人戦で人類最強という人物は、紅蓮醍三郎のことでしょうが、彼は裏からの諜報戦には疎いでしょう。もしあの二人が現れるようなことになれば、紅蓮大将とて出し抜かれるやもしれません」
 失意、自失、自嘲、絶望。
 人の意志を削ぐ精神の奈落がとぐろを巻いているなかで、トリーの精神をつなぎ止めているのは、二人組に一矢報いたいという思い。
 せめて、彼らだけでも仕留めたいという暗い怨念が、沈みがちな精神を無理矢理に奮い立てる。
 そうすることで、当面の目標が見える。
 陽は既に完全に暮れ、闇があたりを覆っていた。
 モニターから視線を外に転じたトリーは、ちょうどいいと思った。
 これからは、闇に潜む者たちが蠢動する時間だ。

 考え込んでいる様子の鎧衣に、なおも畳みかけるように語りかける。
「彼らのやり口は、帝国の城内省や情報省よりも、我々のほうがよく知っています。情報省とて、他にやることは沢山あって手が足りていないはずでしょう? 我々に情報を提供してもらえれば、今回の騒動を煽った者たちを捕らえる手懸かりを得られます。これは、帝国にとっても十分に有益なことだと思いますが?」
 鎧衣を説得するために口を開けば開くほど、気分が高揚し、精神が新たなる戦いに備えていく。人工EPS能力者の例に漏れず、トリーも肉体は脆弱で、直接戦闘能力はゼロに等しい。
 だからこそ、彼女の戦場は、言葉を武器とする。

 珍しく、鎧衣が迷ったような表情をしている。
 他にもなすべきことが沢山あるのだろう。
 これだけ大がかりなテロを実行したグループが、人一人狙うだけで満足するはずがない。
 必ずや、水面下で本格的な第二次攻撃のための準備をしていることだろう。
 情報省の任務は、そのための情報を収集すること。
 そのための最良の手段は、重要人物の周囲で網を張ることだが、帝国内の暗闘が理由なのか、情報省が介入することは禁じられているらしい。
 とすれば、KGBを利用することは、帝国情報省にとっても意味がなくもない。
 あとは――鎧衣とトリーの信頼問題だ。

 当分、本国との通信回復が見込めない以上、トリーの自由裁量はかなり広範なものとなる。本国の意向を気にせずに動き回れるし、鎧衣とも比較的自由に情報交換ができる。

 時計の秒針がゆっくりと10周した。
 一刻を争う大事件の最中だというのに、時の流れは非常に緩慢だ。
「いいでしょう。問題の人物の邸宅は、帝都郊外にあります。邸内への立ち入りは許可できませんが、その周囲を外国人が観光で訪れることまでは、禁止されていません」
 迷いに迷った末の言葉なのだろう。
 平時であれば、まず間違いなく聞く機会のない、鎧衣の声音だった。
 情報省も、よほど人員が払底しているらしい。

 だら、鎧衣の言葉は、間違いなく朗報。
 トリーは、寒蘭が咲き誇るかのような艶やかな笑みを浮かべた。
 紅の双眸は生気を取り戻し、銀髪は蛍光灯の無機的な光を反射して滑らかに輝く。
「ふふ。感謝します」
 そう言うや、挨拶もそこそこにトリーは通信を切り、大使館に待機しているKGBの防諜専門家を招集した。
 いよいよ反撃のときだ、と猛々しい思いを胸に秘めながら。



 トリーの姿がモニターから消えた。
 暗転したモニターを見ながら、鎧衣はしばし佇む。
「こちらの意図通り動くとは――。トリー・ビャーチェノワ、貴女もまだまだ若い」
 周囲に聞こえないほどの小声で、呟いた。

 混乱に乗じて冥夜を襲う勢力があるかもしれない、というのは本当だ。
 御剣邸の防衛のために、紅蓮がいそいそと乗り込んでいったのも事実。
 だが、紅蓮では闇に生きる工作員の蠢動を完全に抑えることはできないだろう。
 情報省の関与が禁じられている状態で、鎧衣が打てる手は限られている。

 帝都城や国防省周辺で、不審な車両が目立つようになってきただけに、鎧衣自身が独断で動くわけにもいかない。
 だからこそ、今回の騒動の本筋とは無関係と思われる冥夜のもとに、トリーを行かせた。

 庇護者たる書記長の安否を気に掛けながらも、今自分にできる精一杯のことを為そうとして、孤軍奮闘するトリーの健気な姿が、少しだけ――ほんの少しだけ眩しかった。
 娘は今どこで何をしているのだろうか。
 そんな思いがふっと脳裏をよぎる。

 だが。
「国防省内で小規模な爆発!」
 そんな怒声が情報省に響き渡る。
 鎧衣は、あらたな情報を検討するために、モニターを背に早足で同僚たちのもとへと引き返した。



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