私は生まれた時から絶望していた。
長さ十数cmの実験器具の中で生を受け、幼い頃から戦士としての
生き方を強制され。
同年代の子どもが学校で友達と語らい遊んでいる間、私は誰とも親しくなる
ことを許されず、同年代の子どもとナイフ片手に戯れ、人型の的に銃口を
向けながら、そこから立ち昇る硝煙とのみ語らった。

いつしかその戯れと語らいは私の血となり肉となり、周りにこと戦闘に関することで
私に勝る者はいなくなった。
その時私の体の奥深くで、未だ感じたことのない何かが熱く燃え上がったのを覚えている。
なぜなら今まで私と同じくまるで死んだ魚のような目をしていた者たちが、私に畏怖の念の
こもった視線を向けてくるのだから。

私はその視線の意味が分からず、ある研究者の女にそれが何なのか尋ねに行った。
父も母もない私にとって、その女は私を「生み出した」張本人。
私にとっては親も同然の人間だった。
その女は私に向かって優しく微笑み、柔らかく見つめながら言った。



― それはね、ボーデヴィッヒ。『優越感』という感情よ。
  他者よりも優れた者だけが下を見下ろしながら味わえる至福の感覚。
  貴女は自らの力で他を圧倒し、それを味わえるまでになった。
  それは誇るべきことなのよ、ボーデヴィッヒ。
  私は貴女のような娘を持てて、本当に幸せよボーデヴィッヒ ―



今まで私に過酷な訓練と無慈悲な実験のみを施し、ただの一度も私に笑いかけて
くれなかった女が、その時初めて笑顔を見せて、褒めてくれた。
私は生まれて初めて、「満たされる」ということを実感した。
胸の奥に暖かいものがじわじわと滲み出てきて、全身がポカポカと温かくなるような感覚。
あの冷血な女が、初めて私を見てくれた。そして褒めてくれて、笑いかけてくれた。
それが、私には何よりも嬉しかった。

それからだ。
自らの力で他を蹴散らし、その上に立ち続けること。
それが私の生きる意味なのだと、存在理由なのだと思うようになったのは。

それからの私は自分でも変わったと思う。
今まではただ言われるがままにこなしていた訓練も、より効率の良い方法、戦闘スタイル
を模索し、時間外でも一人特訓に勤しむようになった。
それが「努力」ということなのだと、後日女に教えてもらった。

私は「努力」をし続けた。
その甲斐あってか、施設内ではさらに誰も私に勝てなくなり、その視線に「尊敬」の
念が含まれるようになって、それにより女の笑顔は増えて、私はさらに満たされて。
私は、幸福の絶頂にいた。

だがそんな折、世界中に衝撃的なニュースが駆け巡った。
「宇宙空間活動用マルチスーツ『IS(インフィニット・ストラトス)』の台頭。
篠ノ之束によって発表されたそれは、その当初こそさして注目されていなかったが、
ある事件によって、その存在は一気にバランスブレイカーとして周知されることになる。
…あの忌まわしい事件によって。

「白騎士事件」。
ISの存在が公になってから僅か一ヶ月後のこと。
各国に配備されていたミサイルが謎のハッカーに乗っ取られ、その全てが極東日本に
向けて発射されたのだ。
その時の日本は当然のことだが、まるで大地震にでも見舞われたかのようにパニックに
陥ったようだ。

しかし、それも杞憂に終わることになる。
突如出現したたった一機のISが、各国が撃ち漏らした約半数ものミサイルを
落としてみせたのだ。

さらに話はそれで終わらない。
その圧倒的な力を目の当たりにした各国はそれに畏怖し、そしてその力を欲した。
「突如出現した正体不明の機体を制圧、その脅威を速やかに排除する」との名目で、
大量の戦闘機、戦艦を差し向けた。
そしてその白銀のISは、その全てを一人の死者も出さずに沈黙させてしまったのだ。

これが、一夜にして世界の軍事バランスがひっくり返った「白騎士事件」の概要だ。
そして…私の支え続けてきた世界がひっくり返ったのも、まさしくこの日からだった。

ISが各国の新たな軍事力として注目され、挙ってその配備を急ぐ中、私の部隊で
ある実験が行われようとしていた。
ISの補佐をする専用ナノマシンの肉眼への移植。
それを移植された瞳は『越界の瞳(ヴォーダン・オージェ)』と呼ばれるらしいが、
私はそんなことは知らない。

何故か女にしか扱えないISの操作は従来の銃火器や戦闘機とは全く異なる。
組み込まれたPICなる基本システムが浮遊・加減速等を司り、ハイパーセンサーが
全方位目視という突出した能力を可ならしめている。
しかしそれを扱うのは人間で、いくらISに操縦補佐機能が搭載されているからといって、
その能力を100%引き出すことはできないのだ。
例えばいくら全方位を目視できるといっても、自分を360度取り囲むビームを回避
することははたしてできるだろうか?
答えは、否だ。
人間はどうしたって目に見える攻撃に意識を向けてしまう。
生まれてこの方荒事ばかりに身をやつしている私でさえ、全方位に気を配り続ける
などできないのだ。
後ろで銃口を突きつけられていることが分かっていても、目の前にて向けられる
銃口に意識が向かうのは、人間ならば仕方ないこと。

そんなジレンマを解消するのがドイツ軍が、あの女のチームが開発した
IS補佐用ナノマシン。
その効果はISの適合性向上の為の「擬似ハイパーセンサー」であり、通常のハイパーセンサー
を補佐することで、よりハイレベルの戦闘を行うことができるとされている。
具体的に言えば脳への視覚信号伝達の爆発的速度向上と、超高速戦闘状況下における動体反射の強化。
ISを展開していなくても、最高で2キロ先の目標を狙うことが可能になるなど、その効果は目覚しい。

しかし『越界の瞳』にはもう一つの特筆した機能があった。
あの女曰く、移植された者は体の筋構造そのものが人為的に強化され、その人間を超越した
力で操縦できるようになるのだと。
表向きはISの適合性向上とハイパーセンサーのより完全なコントロールのための実験
だったが、その実あの女の人体強化実験も兼ねていた、というわけだ。
「ISの能力を一切殺さず、その能力を100%引き出す」。
それがこの実験のコンセプトであり、あの女の目指したものでもあった。

誰もが僅かながらも躊躇する中、私は真っ先にその実験に名乗りを上げた。
その説明を聞いても、私に躊躇いはなかった。
だってそれによって私の能力は飛躍的に向上すると女は断言していたし、何より
私がそれを受けることによって女は喜ぶ。
だから、迷いはなかった。
でも、今だからこそ思うが、やめておけばよかった。
何故ならその実験によって、私は悪夢を見ることになったのだから。



― あ……うああぁ!?あ、頭が……左目が、痛いっ!?痛いぃぃ!!?
  目が……世界が、回っている!?何なのだこれはぁ!!? ―

― な……『越界の瞳』が暴走している!?そんな、シミュレーションでは何も……!
  とにかく、実験を中止!すぐに『越界の瞳』の除去を――! ―



……あの実験を受けたのは私を含めて10名。
その中で私だけがナノマシンに適合できなかった。
既に私の左目に不完全な状態で定着してしまった『越界の瞳』は眼球の色を金色に
変色させ、様々な形で私の体を蝕んだ。
眼帯をつけていなければ『越界の瞳』は常に稼動を続ける。
…眼帯をつけていてもほんの気休めにしかならなかったが。
本来ならナノマシンにより制御できるはずの力が、全くコントロールできなくなっていた。
御することができないのなら擬似ハイパーセンサーも超越した身体能力もただの足枷に過ぎず、
私は以降のIS搭乗を想定した訓練で、平均以下の点数しか出せなくなっていた。

そして、それだけのことで周囲の私を見る目は180℃変わっていった。
今までのそれとは正反対の、侮蔑するような眼差し、私は落ちこぼれと影で、また公然と
囁かれ、居場所を無くしていった。

そして、あの日。
精神的に追い詰められていた私は、女の元へと向かっていた。
女に、笑いかけてほしかった。
「貴女は良くやっている」と、一言でいいからそう言ってほしかった。
女の研究室の前まで来て、気付く。
中からなにやら話し声が聞こえる。
それも、私が今まで聞いたことのないような喜色を含んだ女の声。
怪訝に思いながら扉を少し開けて中を覗き見る。
そこにいたのは女と、部隊に最近配属された影の薄い娘。
長い金髪をなびかせた娘は終始無表情だったが、女はそれを気にせず、一方的に喋りかけていた。
熱のこもった瞳を向けて。
私にも見せたことのない笑顔を湛えながら。


― ネム!ああ、私のネムレス!貴女は凄い、素晴らしいわ!今週も『越界の瞳』との
  適合率、訓練成績ともに一位よ!
  ああ、何て優秀な子!もっと早く貴女と出逢えていれば良かったのに!
  あの出来損ないのボーデヴィッヒとは雲泥の差!
  あんな役立たずのために費やした時間がとても惜しく感じる!
  さあ、一分一秒たりとも無駄にはできないわ!
  ネム、こっちへいらっしゃい!また貴女の脳波、筋組織、構造に至るまでじっくりと
  観察させてもらいますからね! ―


そんな事を話しながら奥へと消えていく二人の姿を、私は床にへたり込みながら聞いていた。
最初は女が言っていることが信じられなくて、それを理解していくと同時、双眸からは
熱い液体が止め処なく溢れ出ていた。
私が今までどんな辛いことにも耐えてきたのは、全て女に喜んでもらうためだったのに。
常に一番でい続けることで、私が皆から畏敬の対象でい続けることで、女は満足する。
優越感を感じたのは最初だけ、後は女の笑顔のため、だったのに……。
女は、私のことを全く見ていなかった。
むしろ出来の悪い私を疎ましくさえ思っていたんだ。
私が信じて守ろうとした世界は、あまりにもあっけなく崩壊した。

私は絶望した。
この世の全てに、絶望した。
いつしか私は日々の訓練にさえ身が入らなくなり、さらに成績を下げていった。
もう私の周りには、誰もいなかった。
部隊内にも施設内にも居場所はなくなって、私は一日の訓練を終えると、IS模擬戦用の
訓練場のベンチでただ座って過ごすことが多くなった。
……ここで佇んでいれば、女が、


― あら、感心ねボーデヴィッヒ。訓練での成績が最下位なのにも関わらず、
  健気にこんな時間まで自主訓練とはね。
  …やっぱり貴女が一番、私の傍にいるのに相応しいわ。
  例え『越界の瞳』に不適合だったからって、貴女は私の最高の娘よ ―


なんて。
そんなことがあるはずないって分かっているのに。
女は自分にとって有益か否か、研究する価値があるかないかで人を判断する。
『越界の瞳』に適合できず落ちこぼれた私に何の興味も抱かないのは明白なのに。
なのに……どうして………。
うっく……ふ、うぅ…………。
何で、どうして私に冷たくするんだ…?
私、良い子にしていたじゃないか?
結果だって出してきたじゃないか?
こんな簡単に切り捨てて、どうしてなんだ、母さん………?

顔を伏せて膝を丸めながらメソメソと一人泣き続けた。
もしこんな情けない姿を女に見られたら完全に見限られると恐々としながらも、
でも止め処ない涙を止める術を知らなくて。
どれくらいそうしていただろう。
もはや涙も枯れ果てた頃、ふいに声をかけられた。
もしかして女かと硬直したが、それにしては随分と引き締まった透き通るような声。
その力強い響きを肌で感じながら、私は恐る恐る顔を上げた。

月明かりが照らすそこに立っていたのは、セミロングの黒髪を見事になびかせた黒スーツの女。
ただそこにいるだけなのに妙な存在感を放つ彼女の顔は、確かどこかで見たことがあった。
それを思い出そうと頭をフル回転させるが、それを遮るように彼女が口を開いた。


「君がラウラ・ボーデヴィッヒだな」

「……何故私の名を?それに貴様は、誰だ?
 何故関係者でない人間がここに……」

「確かに昨日までは無関係な人間だったがな。しかし今日から正式に配属になった私は、
 所以ここの関係者だ。
 私の名は織斑千冬。明日からの一年間、君たちのIS訓練の指導官としてドイツ軍に
 協力することになった。よろしく頼むぞ、ラウラ」


その鋭い目を柔らかく細めて微笑む彼女の顔を穴が開くほど見つめて、ようやく思い出す。
IS対戦の世界大会モンド・グロッソ。
その第一回総合優勝者『ブリュンヒルデ』だ。
IS乗りの間では憧れと羨望の的である人物だが、あいにく私はそんな感情は抱いておらず、
ただ知識として「最強のIS乗り」だと頭の片隅に置いていた。
そんな有名人が何故ドイツ軍の教官に?
もちろんただの一兵士である私に雲の上の奴らの考えていることなど分からない。
しかし、それでも疑問が一つあった。


「……織斑、教官ですか?貴女が我が国の軍に招かれたのは理解しました。
 しかし何故貴女は私のところに?
 どうせ明日になれば皆への紹介をされるのでしょうに。
 もう夜も更けているのに、何故……?」

「何、正式に挨拶をする前にどうしてもお前と話しておきたくてな、ラウラ」


私と話を?
彼女と私は今日が初対面だし、何を話しておきたかったと?
首を捻る私を他所に、彼女はじっと私を見据えてくる。
その瞳はまるで薄っぺらな私の事など全て見透かしてしまいそうで、思わす目を逸らしてしまう。
と、彼女は尚も私に話しかけてくる。
たださっきまでよりも幾分真剣味が帯びていたが。


「そういえば、ラウラ。
 私は先ほどまでこの基地のIS研究主任の女性と話をしていた。
 …ヘクセン研究主任。IS研究では有名な方だな。
 彼女は明日から特に力を入れて訓練を施してほしい人物がいると私に言ってきた」


っ!私は逸らしていた目線を再び彼女に向ける。
ヘクセン……私の母さんの名前。
母さんが彼女に重点的に特訓して欲しい人間について話したと?
それは誰だ?や、やはり今いち成績が芳しくない私か!?
身を乗り出して続きを待つ私を、何故か憐れみのこもった目で見つめる織斑教官。
興奮していた私は、そんな表情の変化にすら気付かない。


「その娘は確か、ネムレスと言ったな。
 彼女はISとの適正も訓練成績も優秀であるその娘を、より重きを置いて特訓してほしいと
 言っていたな」


私の体に帯びていた熱が急速に冷めていく。
緊張していた体が弛緩し、その場に崩れ落ちた。
母さん、またネムレスの事を……。
私を気に掛けてくれたんじゃなかったのか…。
…そうだ、もしかしたら母さんは私についても何か言っているかもしれない。
「気に掛けてやってくれ」の一言でも伝えていてくれたら、私は……。
多分1%もないだろう可能性に縋りつくように、私は教官に尋ねた。
限りなく涙声になってしまっているのは、大目に見てほしい。


「き、教官……。
 かあ……ヘクセン主任は、他に何か言っていませんでしたか?
 その…わ、私のこと、とか……?」

「……ああ、一言言っていた。
 『あれは失敗作だから、放っておいて構わない』と。
 何なら訓練に参加自体させなくてもいいと言っていたな」


彼女がそう言うと同時、私はとうとう地面に手をつき、嗚咽を上げてしまう。
信じたくなかった。
直接本人から言われたわけではないから、嘘だと断じることもできた。でも、できなかった。
私は、分かっていたじゃないか。
母さんは、あの女は、そういう人だと、分かって、いたじゃないか……。
何をくどくどと、同じ……ことを……。
今にも声を上げて泣き出したい衝動を必死に押さえ込んで、歯を食いしばる。
だって目の前には教官がいる。
明日から自分の上官となる人間の前で、取り乱すわけには……。
と、今まで黙って私を見つめていた教官は、ふいに私に語りかけてくる。
さっきまでのそれとはうって変わった、優しげな声で。


「ラウラ、お前は、ISが憎いか?」


質問の意図が分からなかった。
でもその質問に対して、私は明確な答えを持っている。
しかしそれを唇の外に出すと、一緒に腹の中の全てが出てきてしまいそうだったので、
何とか理性でそれを堪える。


「別に……別に、そんな事は…。何故そういう話になる?
 私は訓練成績も隊の中で最下位で、ISも人並みに動かせず…。
 だから彼女がそういう厳しい言葉を浴びせかけるのはと……当然のこと、で……」


もう最後の方はまともに話すことすらできず、声を詰まらせながら必死にそこまで
紡いで、顔を伏せた。
会って間もない人間にこんな事を話して、しかも半べそをかきながら、なんて。
もう情けなくてどうにかなってしまいそうだった。
しかし彼女はそんな私を見ても笑いもせず、一度目を閉じたかと思うと、次に
開いた時には鋭い光がそこに宿っていた。
そして彼女はゆっくりと、口を開いた。


「……ラウラ、『白騎士事件』を知っているか?」


……?い、いきなり何を?
突然の質問の意図はやはり分からず、顔を上げて首を傾げる。
もちろん、知っているけれども。
私にとっては今まで生きてきた短い人生の中でも、一番のターニングポイントであるのだから。
私の顔をじっと見ていた教官は、小さく頷いて、続ける。


「あの事件の中で圧倒的な力を見せつけたIS『白騎士』。
 世界で初めて製造されたISであり、第一世代機だ。
 だがその名前は有名だが、操縦者については全く明かされていない。
 知っている者はISの製作者と、操縦者である当人だけだ。
 誰なのだろうな、それは?
 あの凄まじいまでの力を世に知らしめた、その人間とは……」


な、何だ彼女の口ぶりは?
まるで『白騎士』の操縦者を知っているかのような含みのある言葉は?
冗談を言っているようには見えない。
彼女の目は全く笑っていないのだから。
と、彼女は一息だけついて、私を見据えて、言った。


「私だ」

「なっ………………」

「あの『白騎士』を駆って、無数のミサイル、群がる近代兵器の数々を打ち落としてみせたのは
 この私、織斑千冬だ。
 ISをこの世界に根付かせたあの事件の、張本人の一人というわけだな」


な、何を……言っているんだこの人は?
嘘……に決まっているじゃないか。
いきなりそんな事を言われて、証拠もないのに、信じることなどできるはずが……。


「……うわあああああああっ!!!!!」


ゴキッという鈍い音が鳴り響く。
気が付くと私は彼女の頬を思い切り殴りつけていて、右拳には僅かに血がこべりついていた。
嘘だと思うのに、そんな事あるはずがないと思うのに。
『白騎士』を操っていたのが彼女だと聞かされて、私の残った理性は跡形もなく消し飛んだ。
この身を焦がすのは溢れ出る憎悪。
私の全てを奪うきっかけとなったISの、それを知らしめたあの事件の当事者がここに!
しかもあろうことか私に!この私に!そんな事を言うなんてっ!!
その事実を知って、私が驚くとでも!?光栄だと喜ぶとでも!!?
違うっ!私がっ!!私が抱いた想いはっ………!!!


「私がっ!!ISを憎んでいるかと言ったなっ!?
 ああ憎いさ!私からっ!全てを!奪った!ISがっ!!
 そして、あの事件の操縦者!!憎くないはずが、ないだろう!?
 何だ、何でなんだ!?
 『越界の瞳』に適合できなかったのは私のせいではないのに!!
 何で皆、母さんまでもが!私の事をいらない子扱いする!?
 私が、私が今までどれだけ努力してきたと思っている!?
 私は、私はただ、認めてもらいたくて!!
 母さんに、良い子だって、褒めて、もらいたく、て………………」


喚き続けて、泣きじゃくりながら彼女の胸を叩き続ける。
…分かってる、彼女には何の罪もない。
ただ私の出来が悪かったから見限られただけ。それだけの、シンプルな話なんだけど。
頭で分かっていても、止められなかった。
思いつく限りの罵詈雑言を吐き続け、ついに喉も潰れて私は彼女の胸に顔を埋めて、涙を流した。
一方彼女は殴られたにも関わらずそれを咎めようとはせず、未だ呻く私の頭を、ただ黙って
撫でてくれて。
私が落ち着くまでの間、ずっと傍にいてくれた。
ようやっと私が胸から顔を離すと、静かに口を開いた。


「ラウラ、私はヘクセン主任からお前の事を聞かされたとき、何故かとてもお前のことが気になった。
 そして実際に会ってみて、お前を見て、その原因が分かった。
 お前は、かつての私によく似ている」

「私が……貴女に?どんなところが……?」


涙を袖で拭いつつ尋ねてみるが、彼女は何も言わず、ただ微笑んでみせた。
……微かに悲しそうに。
そして私の頬に手を添えて、まるで私が思い描いた理想の母親のような笑みを向けてくれた。


「ラウラ、明日からお前には通常の訓練の他に特別メニューを用意してやる。 
 私の言う通りにメニューをこなせば、部隊内の頂点に返り咲くことも容易だ。
 …ラウラ、お前はISを憎んでいるだろうが、ここまで努力して積み上げてきたものを
 放棄してしまえば、お前はただの負け犬に成り下がる。
 しかしお前が憎い私を信じてくれるのであれば、もうお前が誰からも後ろ指を
 刺されないようにしてやる。
 …どうか私を信じてほしい。ラウラ、私は決してお前を『いらない子』扱いしないから」


…彼女の言葉には何の根拠もなかったが、それでも信じてみようとこの時思えたのは、
きっと彼女が言ってくれたあの台詞のお蔭。
「いらない子扱いはしない」と、面と向かってそう言ってくれたから。
私は何とか前を向こうと思えたんだ。
感傷を心の底にしまいこみ、決意も新たに顔を上げる。
そんな私に彼女、織斑教官は悪戯っぽく、こう言った。


「それから、『白騎士』の操縦者が私だとは誰にも言わないでくれよ。
 それはこの世界にとって最重要な事柄なのだから」






          ・





          ・





          ・





          ・





……これが、私と教官の出会いだ。
私は翌日から教官の苛烈な訓練に身を投じ、それを忠実にこなし続けた。
そしてその結果私は部隊内で頂点に返り咲き、さらにその隊長にまで抜擢された。

私は教官のお蔭でここまでこれた。
女のことを辛くても思い出として心の奥にしまいこめたのも、あれ程憎かったISを
自身の力として受け入れることができたのも、全ては教官が私のことを戦士として、
…一人の人間として接してくれたから。
私は教官に何一つ恩返しができていない。
それに憧れた彼女のような人間にもなれていない。
私にはまだやらなければならないことがたくさんある。

…でも、もういいんだ。
私は最低な女だ。
友を一方的に傷つけ、その罪からも逃げ出した。
私が今この場所にいるのも、一筋の光すら存在しない闇の中で、そこに鎮座する
牢獄の中で蹲っているのも、その報いなんだ。

…もう一人の私の笑い声が聞こえる。
奴が外で何かしているのだろうか?
でも、気にしてもしょうがない。
私はここから出られないし、出る権利もない。
外のことを気にする権利さえ、私にはない。
だってこんな汚れ切った私が、光の中のことなど気にしていいはずがないのだから。
全てを闇に溶かし込んで……、もう、それでいいんだ………。
































「俺が参加するのを許可してくれよ織斑先生!俺は奴と戦わないといけないんだ!だから……!」

「さっきから何度も言っているだろうアスカ。参加することなどまかりならん。
 許可できん。自分の体のことを考えろ」


さっきから五分以上に渡り続いている押し問答。
シンと織斑先生の一触即発のやり取りを僕と篠ノ之さんは固唾を呑んで見守っている。

時は昼休み、場所は職員室。
今朝のラウラさんとのやり取りの後、ラウラさんは教室から出て行ったきり戻ってこず。
シンはずっと普段とは違うしかめ面で授業を受けていて、篠ノ之さんでさえ話しづらそうにしていた。
休み時間はじっとしていたけど、昼休みになるやサッと教室を出て行ったので、僕と篠ノ之さんが
慌てて追いかけた先がここだったってわけ。
いきなりシンに食ってかかられた織斑先生は、しかし全く冷静に詰め寄ってきたシンと
真正面から対峙していた。


「体の事なんてどうでもいいだろ!?現に俺は今両の足で立っている!
 それで十分だ!俺は普通に戦える、その証拠じゃないかよ!」

「ほぅ…………?」


一瞬織斑先生の瞳に鋭い光が宿る。
彼女はおもむろに立ち上がるとシンの肩をギュッと掴む。
そして僕たちのいる方へシンを体ごとグイッと押した。
シンはそれだけで盛大にバランスを崩し、背中から倒れ込む。
それを間一髪二人で支えて、ゾッとした。

か、軽い………。
前々から体が細っているとは思っていたけど、彼の全体重を受け止めて、実感する。
この不自然なまでの軽さ。
まるで風船か何かを支えているのかと勘違いしてしまいそうになる。
篠ノ之さんを見る。
彼女は僕みたいに驚いてはいない。多分彼女は日頃シンの体を支えてあげているからだと思うけど…。
でも、そんな彼女の顔もやはり青ざめている。体も微かに震えている…。
シンは驚愕に満ちた表情で固まっていたが、その表情が見る見るうちに険しくなってくる。
それを見下ろしながら、先生は冷ややかに言い放つ。


「分かったかアスカ、自身の体の状態が。いや、分かっているとは思うがな。
 私は今お前を軽く押しただけだが、それでもお前の足はもつれた。
 お前はさっき『両足で立っている、それで十分だ』と言ったな?
 まさに立っている「だけ」のお前に一体何ができる?
 …それを理解できないお前ではないはずだが」

「くっ………!」


ギリギリとシンが歯軋りする音がここまで聞こえてくる。
固く拳を握り締めて俯くシンは、今までで一番小さく見える。
今にも消えてしまいそうなその姿に胸を締め付けられ、僕はシンの肩にそっと手を添える。
篠ノ之さんもシンの頭を優しく撫でている。
と、織斑先生が小さく息をつく音が聞こえてきて、顔を上げる。
先生は片手で顔を覆い、微かにかぶりを振った。
その姿はシンと同じく、いつもより小さく見えた。


「……アスカ、冷静になれ。
 仮に今お前が一週間後の学年別トーナメントに出たとする。
 しかしその組み合わせは抽選で決められる、一回戦からラウラと戦えるわけではない。
 それに今回のトーナメントはツーマンセル形式だ。
 今のお前に仲間をフォローしながら戦えるのか?
 …何より仮にラウラと当たったとして、戦えたとして、ラウラを元に戻せるわけではない。
 アイツが何故あそこまでの変貌を遂げたのか、その原因が分からない限りはな」


そう、ラウラさんが突如あれ程粗暴で野蛮な性格になった原因は、未だ分かっていない。
単に機嫌が悪かった?ううん、それはない。
彼女はそんな理由で友達である布仏さんに手を上げたりはしないだろう。
じゃあ、どういった理由?
でも簡単に思いつくはずもない、まさに雲を掴むような話だ。
だって僕は未だに『彼女』がラウラさんであると、心の中で認められないでいるんだから。
彼女の豹変振りはもはや「本性を隠していた」なんて生易しいレベルじゃない。
むしろ「変身」って言った方がまだしっくりくる。

ラウラさんは今朝言っていた。
「私を倒さないとお前様は戻ってこない」と。
言葉の意味はまるで分からないけど、シンはそれを確信しているようだった。
でも本当にラウラさんとISバトルをして勝つことで、元のラウラさんに戻るの?
本当にそんな単純な話なのかな?


「…ボーデヴィッヒがおかしくなった原因は分かってる。
 ボーデヴィッヒの専用機、それがアイツを狂わせているんだ。
 だからボーデヴィッヒがそれを纏っている時に破壊すれば、何とかなるはずなんだ…」


悄然としながらもそう呟くシンを、僕も篠ノ之さんも呆けた目で見つめる。
あ、ISが原因?何を突拍子もないことを?
ISが搭乗者の人格に影響を及ぼすなんて、聞いたことないけど…。
そんなこと教科書にも載ってないし、過去の戦闘データを見ても見つからない。
と、ふと織斑先生を見ると、彼女も怪訝な表情をしているけど、僕らのとは違って
やけに険しいような……。


「…何を根拠に?お前は以前にも似たようなことを言っていたな?
 その時は適当にはぐらかしていたが、気にはなっていた。
 何の根拠もなしに思いつく発想ではないからな」

「…明確な証拠は、何も。
 ただボーデヴィッヒの話を聞いて、それとよく似た状況に陥っている
 人間を、俺は一人知っている。それじゃ、駄目ですかね」

「…誰なのだそれは?ラウラがあそこまで憔悴した理由は私も聞いている。
 もし他にもそれと同じ境遇の者がいるのなら、その者も相当に追い詰められて……」


そこまで話していた先生はハッと目を見開いてシンを見つめている。
その目には今まで見たことのないほどの驚愕が見てとれて。
僕も篠ノ之さんも訳が分からずに彼女を見つめるだけ。


「…アスカ、お前確か私に尋ねたことがあったな。
 『傷痕』に深刻な異常があった場合に、学園でそれを調べることができるのか、と。
 まさか、お前………」


シンは答えない。
でも、何がおかしかったんだろう?
シンは自嘲気味に笑みを浮かべて見せた。
…それは笑みと呼ぶには、あまりにも歪んでいたけど。
それを見た先生は一瞬顔を曇らせるが、すぐに毅然としたいつもの表情に戻っていた。


「アスカ、お前の話が正しいと、仮定するとしよう。
 私はラウラが『黒い雨』を受領し、それを駆って初めて空へと飛び出した瞬間を見ている。
 その後何度も定期的なメンテナンスを受けているし、もしISに何か異常があれば
 そこで発見されているはずだ。であれば『黒い雨』に何か仕掛けられたのだとしたら、
 ごく最近のことになるはずだが……………っ!そうか………」


顎に手を当てながら考え込んでいた織斑先生はハッと急に顔を上げる。
…何かに気付いたみたいだけど、僕らにはサッパリだ。
その相貌はキツく細められていて、その表情には鬼の如き憤怒が見て取れた。


「…気付きました?アイツ……ボーデヴィッヒは言っていたじゃないですか。 
 「IS学園に来る一週間くらい前から『ソイツ』が出てくるようになった」って。
 つまりボーデヴィッヒのISに何かがあったんだとしたら、その時しかないってことです」

「入学の一週間前、当然『黒い雨』はドイツ軍施設内で最終調整を受けていたはず。
 ラウラの話を聞いて以降、幾度かそれとなく軍関係者に探りを入れてはいたが…。
 やはり何か隠していたということか。
 妙にはぐらかされているから臭いとは思っていたが、一週間前…そんな短い時間で…」

「可能だと俺は思ってました。
 だって俺がセシリアとクラス代表を賭けて戦った時、あの人は打鉄を一晩かけずに
 調整して、誤作動を起こしてみせたじゃないですか」


あの人?誰のことだろう?
シンとセシリアさんの戦いについて知らない僕は首を傾げることしかできなかったけど、
篠ノ之さんは口をキュッと結び、体を強張らせている。
シンは横目でそれを見て、小さく「ごめん」と呟いてから、先生を仰ぐ。
しかし先生は未だ仏頂面のまま、むしろさっきよりも眉間に皺を寄せて唸っている。


「…だがな、アスカ。今までの話は全て憶測だ。
 証拠等何もない。アラスカ条約ではISに違法なシステムを搭載するのは重罪だ。
 しかし確たる証拠がなければ国際警察であっても強制捜査はできない。
 …そうか、そうだな。だからこそ……」

「一週間後に開かれる学年別トーナメント。
 そこでラウラと戦ってISを部分的にでも破壊し、規格外の装置があれば、
 それを記録して原因究明に乗り出せる。
 そういうことだよな、シン?」


出入り口の方から清明な声が、まるで波のように力強く響き渡る。
そこに立っていたのは一夏。
軽く手を挙げて微笑んでいるけど、その目は真剣そのもの。何か決意に満ちた光があった。
一夏は一直線にシンの前までやってきて、手を差し伸べる。
シンはその手をじっと見つめていたけど、一夏から声をかけられて、ようやっと顔を上げる。


「一夏、お前何でここに…?それに今の話、もしかしなくても聞いて……」

「悪い、立ち聞きするつもりはなかったんだ。
 昼休みになった途端、お前わき目も振らずに教室を出て行っただろ?
 今朝のラウラとのこともあったし、気になって追いかけたんだ。
 そしたら職員室で千冬姉と口論を始めちまってさ。
 何か事情があるような会話だったから、最初は入れなかったんだけど…。
 …そういうことなら、全く話は別だ」


一夏はそこで一度言葉を切ると、シンを真正面から見据える。
普段の温厚な彼からは想像もつかないほどの力強い視線。
僕も篠ノ之さんも思わず息を呑むけど、先生は口の端をつり上げ、笑みを深くする。
シンはその熱い眼差しを物怖じせずに受け止める。
ただ光彩の失せた瞳を交わらせるのみ。


「お前はラウラのことは自分で何とかしないとって思ってるみたいだけど、ふざけるな。
 ラウラはお前にとっても…俺にとっても友達だ。
 友達が突然あそこまで変わっちまって、しかもそれが誰かの仕業かも、なんて。
 黙ってられるはずないだろ。
 他の奴の思惑なんて知らない。知ったこっちゃない。
 俺自身が、ラウラを助けたいと思ってる。だから、手伝う」

「…………………………」

「俺はまだ弱いけど、分かるぜ。
 今のお前が試合に出るなんて無茶もいいところだってことがさ。
 何をそこまで焦ってるのかは知らないけど、仮にお前が出ても相棒の足を
 引っ張るだけだ、違うか?
 それをお前は十分に分かってるはずだ。間違ってるか?」


ぐっ……、とシンが喉を詰まらせる。
一夏の言い方は確かにキツいけど、代表候補生として言わせてもらえば、その意見は
全くの正論だと言わざるおえない。
今のシンはこと戦闘においてはパートナーにとっては足枷にしかならないことは
想像に難くないから。
それに…個人的なことを言えば、今の彼に無茶はしてほしくなかった。
今朝ラウラさんとのやり取りが終わった後のシンは燃えるような怒気を放っていたけど。
僕は彼が目の前でその業火に焼き尽くされて、燃え尽きてしまうんじゃないかって
錯覚さえしてしまった。
それ程に今のシンは危うく、また悲しく思えた。


「俺さ、どうもお前は一人で突っ走りすぎだと思うんだよ。
 だからさ、こんな時くらい誰かの手を掴んでみてもいいんじゃないか?
 まずは目の前のを、さ。第一歩だよ、それがさ」


一夏はそう言って、さらに右手を顔の前まで差し出してニカッと笑う。
その子どものような無邪気なそれは異様な魔力を持っていて、女の子ならその一撃で
膝を折ってしまうかもしれないくらい。
でも何故か僕はそれに動かされることはなかった。
ひたすら俯く彼の背中をさすってあげていたからかもしれないね。
シンはずっと顔を伏せていたけど、ゆっくりと右手を伸ばして、差し出されたそれをとったのだった。































「アスカはどうだ?」

「うん、今本格的に眠ったよ。大分落ち着いてる。
 ただやっぱり少し熱があるね。汗がすごいよ。
 手持ちのタオルだけじゃ足りなくなるかも」

「分かっている。もう乾燥機が止まるだろうから、取りに行ってくる。
 ほら、追加の氷水だ」


僕は篠ノ之さんから氷水の入った容器を受け取って、そっと脇に置く。
もう日常の一場面になったシンの看病。
時刻は九時を回ろうとしているけど、全く眠くならない。
当然だよね、だってシンはこうしてる間にも悪夢を見続けているんだから。
…その内容までは知らないけどさ。
タオルを濡らしてシンの顔を拭いてあげる。
これも日課になったせいか、随分手馴れてしまった。

だけどこれも悪いことばかりじゃないというか…。
彼の顔を拭く度に、その…男の人の匂いがプンプン漂ってくるんだよ、ね。
考えてみればシン、お医者さんからお風呂に入るのを止められているらしいんだよ。
体は流石に僕らに隠れてお湯で拭いてるらしいけど、だからいつもよりも体臭がキツいんだろうね。
べ、別にそれが苦痛だとかじゃないんだけどさ。
ぼ、僕が拭いてあげてもいいんだよ?恥ずかしいけどさ……。


「な、何を顔を赤くしているのだシャルル。こんな時に、不謹慎な…」

「し、篠ノ之さんだって顔、上気してるじゃないか!僕が気付いてないと思ってるの?」

「ぶっ!!な、冗談も程度を超えると…!というかお前は男?なのだろう!?
 何故顔を真っ赤にする必要があるのだ!?
 ソッチか!?もしかしてお前、ソッチ系なのか!?」


ゴフォ!?
な、何てこと言うのかな彼女は!?
それこそ誤解の極みだ!僕は至ってノーマルだよ!
もちろん僕の性別含め言うことはできないけれども!
ていうか!


「何で男の後に『?』がつくのさ!?僕は男だよ、見れば分かるじゃないか!」

「あ……。あ、その…すまない。ちょっと口が滑ったというか何と言うか…。
 …ああ、そうだな!確かに今のは失礼だったな。すまなかったシャルル」


彼女はハッと口を押さえ、目を泳がせる。
かと思ったらワタワタし出してこちらに謝罪してきた。
でもそれはむしろ話題を強引にすり替えようとしている風に感じる。
…この感覚、初めてシンと話した時に感じたそれと似ている。
あの時はいきなり性別がバレそうになって背筋が冷たくなったっけ。
今、それと同じ冷や汗が頬を伝っていく。
冷静さが戻ると同時、嫌な予感が沸いてきて、僕は本能でそこから一旦離れようと腰を
上げようとするが……。


「あ、えっと……その……。べ、別にいいよ気にしてないし!
 あ、そうだ!もう洗濯物乾いてるよね!僕が取りに行ってき……?」

「……クゥ………スゥ…………(ギュッ)」


服の裾が引っ張られるので何事かと見ると、シンの手がそれを掴んで、離さない。
シンの寝顔は若干なりとも解れていて、歳相応の幼さが見てとれる。
彼の看病をしてきて分かったけど、彼が一晩中で多少なりとも心穏やかに眠れるのって、
ほんの数分のみなので、とても貴重なんだ。
そんな時にまるで子どものように僕を求めてくるその姿を見ると、お腹の下辺りが
妙に熱くなってくる。
この眩暈のような陶酔感、まるでお酒を飲んで脳が麻痺したかのような酩酊感が
母性本能だと知ったのは、つい最近のこと。


「むぐぐ……」


篠ノ之さんが頬を膨らませるその姿に、優越感すら覚える。
…うわ、今の僕ってすごく嫌な子だ。
と、しばらくそのままシンの頭を撫でてあげていると、ふいに服に加わっていた力が抜ける。
あ…手、離したのかな?ちょっと寂しいけど……うひゃあ!?


「へ…………………!?」

「な……ななぁ!!??」


胸をいきなり熱く火照った何かが鷲掴みにする。
何が起きたのか分からず目線だけ下に向けると、服を掴んでいたシンの手が、まるで粘土の
ように僕の胸をこねくりまわしていた。
もちろん当人は夢の中。悪夢を見ているのだろうけど、その表情は若干なりとも和らいでいて
……うあっ!?


「きゃあああ!!な、何……今ビリッって……うくっ!?
 く、あ、あぁぁぁ……。し、シン、止め………おぅ!!?」


あっ……かっ……!
な、何で!?
シンの手はただ乱暴に胸を揉みしだいているだけなのに、体が熱くなってる…!?
今まで経験したことのない刺激が体をトロトロに溶かしていく。
それを与えてくれているのがシンだと思うと…何で?こんな幸せな気持ちに……?
だってこれ、セクハラなのに……。


「だああっ!!いつまで微動だにしないつもりだシャルル!!
 アスカっ!!このっ……馬鹿者!痴れ者ぉ!
 何で『彼女』のことばかり……!このっ……もぉ!!」


錯乱した彼女はシンの頭にチョップを喰らわせ、その衝撃で胸から手が離れる。
燃えるような熱が離れていくのは無性に寂しかったけど、それよりも衝撃的なことが。
あの篠ノ之さんが、シンをぶった。「あの」篠ノ之さんが。


「ハッ!あ、アスカ!?ああ、私、何てこと……。すまな……ごめんなさい!大丈夫……」


次の瞬間には我に返った彼女は半泣きになりながらシンの顔を覗き込むけど。
シンは目をぐるぐるに回しながら、意識を失っていた。
…何だろう、僕が見た中で一番穏やかな寝顔なんだけど。
シンが大丈夫だと分かると彼女はホッと胸を撫で下ろす。
もちろん僕も同様で、ようやく頭と心が平静になってくる。
僕はさっきの事を思い返し、小さく噴き出してしまう。
いつもの端然とした彼女からは想像できないあの狼狽ぶり。
特にシンをチョップする時のあの感情的になった姿はとても可愛らしくて……。
……………………………………………っ!!!!!!??????????


「あ……し、篠ノ之さん?今、何て……?
 か、『彼女』って……?」

「ん?……あっ!?い、いやシャルル、私は別に何も……。
 私は別に何も気づいてないというか………あ」


嫌な予感が確信にその姿を変えていく。
今篠ノ之さんは取り乱した際に『彼女』と漏らした。
それは咄嗟に出た本音と見ることができるわけで。

心臓が破裂しそうになりながらも、大きく深呼吸する。
いつもより胸が解放されている感じがして、深く、深く息を整える。
そしてようやっと落ち着いてきたので、篠ノ之さんに向き直る。

さあ、気合を入れないと。
僕はこんな所で正体を知られるわけにはいかないんだ。
…例え友達にだって、それは隠し通さないといけないから。
だって、そうしないと……。
だから決意も新たに前を向くけど。
……?
篠ノ之さんどうしたんだろう?
どうして僕から気まずそうに目を逸らして……?


「あの、篠ノ之さん?僕の話を聞いてほしいんだけど……。
 どうして僕から目を背けるんだい?」

「いや、その……気づいてないのか?
 胸、はだけてしまっているんだが……」


……………………………。
僕は呆然としながら目だけを下に向ける。
見ると部屋着のジャージのジッパーが下がっていて、サラシが乱れて乳房が
ポロンと露出していた。
シンがチョップを受けてベッドに沈んだ時だよね。
胸に手がかかっていたから、その衝撃で……。
言い逃れもできない状況を悟って、僕はただ静かに頭を垂れた。
僕の中にあったのは、ただただ、諦観のみだった。






           ・





           ・





           ・





           ・





           ・





……沈黙が痛い。でも僕にとっては、それすら大したことじゃない。
バレた…。僕が女だってこと。
ルームメイトの篠ノ之さんには特に注意していたのに、僕のミスから露見してしまった。
…もう、諦めるしかないよね。
いくら篠ノ之さんでも、性別なんて偽っていた僕のことを容易く許してくれるはずないし。
だって僕に騙されていたわけだし、友達だからこそ、許せないよね…。


「…ごめんね、篠ノ之さん。びっくりしたでしょ?
 僕が本当は女だったって。
 …言い訳はしないよ。どんな理由があるにせよ、僕は嘘をついていたんだから。
 許されることじゃ、ないんだから。
 …先生に報告してよ。僕も、覚悟を決めたからさ」


嘘。本当は覚悟なんかちっとも決められてない。
でも、僕はずっと罪悪感を抱いていたんだ。
僕の周りにいる人たちは良い人ばかり。
なのに僕は『シンのISデータを盗む』なんてふざけた理由で自身を偽っていた。

歓迎会の時だって、シンがゴミ箱に捨てたメモ書きを見てその計画を知ってからも、
良心の呵責に苛まれていた。
何知らぬ素振りを取る自分に嫌悪していたんだ。
ラウラさんは自分の本当の姿を皆に曝け出したっていうのに、僕は歓迎会の中でさえも、
それを遠巻きに見つめていた。
僕は未だ嘘という名の殻で、自分を覆っているんだ。

…もう、いいよね。
元より僕はあの男の命令なんて聞く気はなかった。
すぐに秘密を明かしてもよかったんだけど、できなかった。
あの男のいるフランスには戻りたくなかったし、何より皆に嫌われたくなかった。
日を追うほどに皆の優しさは凍てついた僕の心を溶かしていって、僕は知らないうちに
それに依存していたんだ。
だから勇気も出せずに性別の事も打ち明けることができなかった卑怯な女。
でも、だからこそ最後は潔くしなくちゃ、ね………。


「あ〜、その、シャルル。
 思い詰めているところ悪いが、私はかなり早い段階でお前が女なのではと
 睨んでいたぞ。多分教室の連中も、多かれ少なかれ気づいていたと思う」

「はい?」


え?そんな馬鹿な。
だって僕、そんな素振り一回たりとも………。


「…シャルル、お前は一動作一動作が女っぽすぎるのだ。
 サラシで隠していたつもりだろうが胸元もかなりもっこりしていたし。
 何故か腰が程よくくびれているし、ヒップも下品すぎない程度に大きいし。
 私でさえ羨むほどの理想的な体型だ。
 …それにお前、アスカのことをよく目で追っていただろう?
 アスカがラウラとお前の歓迎会のために走り回っている時からは特に。
 看病している時もお前の献身ぶりは私すら危惧するものだった。
 悪いが私に至っては同室になって三日目くらいから勘づいていた」


早っ!?早すぎるよそれは!?
え、ということは何!?
僕は皆に女だとバレているにも関わらず男のように振る舞って道化を演じていたというのかい!?
間抜けにも程があるだろうそれは!
じゃあ僕はずっと無駄に悩んで、自分を偽り続けてきたわけかい!?
救いが全くないじゃないかそれは!
死ぬの!?もう死ぬしかないの僕!?


「って、じゃあどうして皆気付いてるって言わないのさ!?
 僕が女だって分かってたんでしょ!?だったら……!」

「言えるわけがないだろう。
 常に思い詰めたように沈むお前が必死に笑っているのに、それを無にするなんて…。 
 …よほどの事情があるのだろう?でなければ性別を偽るなどしないだろうし。
 皆もそれが分かっているからあえて何も言わなかったんだ。許してやってくれ」


ぼ、僕のために……?
黙っていたっていうの、皆……?
そんな、許すも何も。許してもらうのは僕の方じゃないか。
なのに、そんな言葉を掛けられたら……。


「まあ一夏とアスカは気づいてなかったようだが。
 …もしその事を重荷に感じているのなら、いつか自分で言った方がいいと思う。
 一夏もアスカも、きっと笑って許してくれるはずだ。
 分かるだろう?あの二人と一度でも接すれば、そのくらいはさ。
 だが、それは私の意見で…。もしお前が今のままがいいと言うのなら、
 私たちは特に何も言うつもりは……」

「……ううん。分かってるんだ、このままじゃいけないってことくらい。
 僕、怖かったんだ。本当のことを言ったら、きっと嫌われるって。
 ふふっ、そんな事なかったのにね……。
 でも、ずっと思ってた。歓迎会の時素直に本当の自分を見せたラウラさんみたいに、
 僕も本当の自分で、本当の姿で、皆と一緒に過ごしたいって…」

「…………………………」


最初はショックだったけど、これってきっとチャンスなんだよね。
ありのままの僕を知ってもらうための、神様が用意してくれた、最後のチャンス。
皆に、許してもらうための……。
でも、今は………。


「でも、ごめんね。今はまだ、言えない。
 ラウラさんの事が決着するまでは、まだ…。
 まずは僕の友達をこの苦境から助け出してから。
 でないと、僕の気が治まらない。我儘だって分かってるけど…」

「……ぷっ。やはりシャルルは男だろうが女だろうが変わらんな。
 お前がそう言うだろうことは分かっていた。
 もうルームメイトになってしばらく経つからな、当然だ。
 私だって、ラウラの事を何とかしたい。
 あんな良い娘が苦しんでいるなど耐えられないし、…アスカが、また
 傷ついてしまう気がするから。
 今回は一夏がアスカの代わりに試合に出てくれるから、心配はないだろうが…」


篠ノ之さんはそう言って、再び低く唸りだしたシンの頭を撫でている。
…うん、そうだよね。
今は自分のことより友達のこと、そしてシンのこと、だよね。

…シン、僕、一週間後の試合が終わったら、見せるよ。
僕の本当の姿を、名前を。
だって君は偽りだらけの僕をずっと優しげな目で見守ってくれていたんだから。
僕が自分の事で悩んでいる時、君はさりげなく傍に居てくれて。
そんな事をしてくれた男の子は君が初めてだったから。
だから僕はきっと、君のことを……っと!
何変な気分になってるんだか!
気持ちを切り替えていかないと駄目だよね!
…でも、その前に一つだけ、いいよね?


「さあ、シャルル。アスカがまた苦しみだした。
 私はタオルを取ってくるから、お前は新しい氷水と替えのパジャマを頼む」

「うん、分かった。あ…それとさ篠ノ之さん」

「ん?どうしたシャルル?」

「…シャルロットって、呼んでくれないかな?
 僕の、女の子としての、本当の名前なんだ。だから…」

「ふっ……ああ、分かったよシャルロット。
 ならば私も、箒でいい。それでこそ、友達だ」

「…うん、ありがとう。改めて、よろしくね箒」


とりあえず、第一歩ってことで。
見ててね、お母さん。
僕、この学園で変わってみせるよ。
ありのままの自分を、誇れるようにさ。
とりあえずは一週間後の試合で、どうなるかは分からないけど、僕の友達を救ってみせる。
…戦えずに意気消沈しているシンの分までさ。








そして、次回の学年別トーナメントで。
僕はシンが、ボロボロになりながらもラウラさんのために戦う姿を、目に焼き付けることになる。
これはシンが「傷だらけの英雄」と呼ばれるようになる、ずっと前のお話。



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